《旧著探訪》 ゲオルギウ『二十五時』
 
 
 ルーマニアの作家コンスタンチン・ゲオルギウの小説『二十五時』は、先ずフランス語で一九四九年に刊行され、直ちに大評判をとったらしく、翌五〇年には筑摩書房から邦訳初版が出ている。最初の文庫化は一九六〇年とのことだが、私の持っている角川文庫版は初版一九六七年となっている。私が実際に読んだのは随分と遅く、つい最近のことだが、こういう作品があること自体は大分以前から知っていて、頭の片隅にはあった。購入したのはおそらく一九七〇年代半ばのことで、それ以来、「いつか暇ができたら読んでみたい」と思いつつ、敢えて急ぐ必要も感じないまま、四〇年近く「積ん読」状態にしていた。そういう古い本を引っ張り出して読む気になったのは、定年退職後に多少は暇ができたのと、たまたま風邪をこじらせてしまって、あまり「固い」研究書を読む元気が出なかったため、病床に寝転がりながら読むことになった。
 読む前に抱いていた漠然たる先入観を記しておくと、多分、共産主義もしくはスターリニズムを批判した本なのだろうという想定があり、その内容は元来出版された戦後初期の情勢では強烈な衝撃を人々に与えただろうが、それから時間が経つにつれて、その衝撃力は衰えてきたのだろう、というものだった。とすれば、かつてセンセーションを呼んだ作品がどういう意味でショッキングだったのかを確認するという意味で、一応読んでみる価値はあるだろうが、どうしても読まねばならないというほどのものではないのではないか、といった気がしていた。実際に読んでみて、この予感は大きくは外れていなかったように思われる。つまり、いま読んで強い衝撃を呼び起こすようなものではないが、「数十年前の読者たちにとっては衝撃だったろうなあ」という感覚を呼び覚ますという意味では、冷戦期の思想状況を知るための素材としてそれなりに有用と思われる。大まかな感想はこの程度だが、ともかく思い浮かんだいくつかの点について考えてみることは全く無意味ではないかもしれないという気がするので、若干の感想を手短かに書き連ねてみたい。
 
 哲学者マルセルによる序文や訳者河盛好蔵のあとがきでは、この小説はナチ・ドイツの残虐とソ連の残虐を等しく描いているのみならず、それは西欧文明自体の危機を反映しており、アメリカや西欧にとっても無縁のものではないという観点が重要だとされている。こうしたまとめ方はあながち間違っていないが、そうした図式にすべてが綺麗におさまるかというと、そうでもないような気がする。
 そもそも評論や研究ではなく小説なのだから、著者の考えが明瞭な形で表出されていないのは当然のことである。もっとも、主要登場人物の一人トライアロン・コルガはフランス帰りのルーマニア知識人であり、その思索の内容をあちこちで披瀝しているから、彼の思想を著者自身のものと同一視できるなら、そこに著者の歴史観のようなものを読み取ることは可能だということになるだろう。それはそうなのだが、このトライアロンは主要登場人物の一人であるとはいえ、本書の全体が彼の観点から書かれているわけではなく、トライアロンの目の届かないところで起きている出来事も詳しく書き込まれている。そうした出来事とトライアロンの思想的考察がどう関連するのかは、あまり明確でない。
 とりあえずトライアロンの思考の概要を簡単に確認するなら、西欧文明の危機、とりわけ技術社会化の自己目的的な進行――「技術奴隷」という印象的な言葉が使われている――により、人間が技術に隷属し、精神が失われていく趨勢が極点にまで達しようとしているというのが彼の現状認識である。『二十五時』というタイトルは、このトライアンが執筆しつつある小説のタイトルでもあるが、それは、「あらゆる救済の試みが無効になる時間」であり、メシアの降臨をもってしても何も解決されず、「最後の時間ではなく、最後の時間の一時間後」だという(七五頁)。
 近代西欧文明がその高度な発展の末に一種の危機に立ち至っているのではないかとする感覚は二〇世紀を通じて各種の思想家によって表明されており、それだけとってみれば特にユニークなものではない。ただこの小説の発表されたのが大戦後間もない時期であり、大量残虐行為を多くの人が目撃した記憶のさめやらない時代だったこと、さらに冷戦胎動の中で核兵器の大量使用で人類絶滅さえも起きかねないと受け止められる状況があったことを思えば、この危機感にはそれなりに切迫したものがあったと考えられる。本書が刊行後しばらくのあいだ、世界中で話題の書となったのは、そうした時代状況のせいだったと考えられる。
 トライアロンは詩人を自認しており、彼の思想は分析的というよりも直観的なものである。そして、そこにおいて主として問題になっているのは、フランス帰りの知識人という彼のバックグラウンドからして、主として西欧諸国の趨勢である。もっとも、彼自身はルーマニアで生まれ育ち、フランス留学後は故国に戻ってきているのだから、ルーマニアのことも念頭にはあるだろうが、そのことはあまり具体的に明示されていない。なお、彼が自分の思想を開陳した個所には、「機械的逮捕」「機械的な刑の執行」「強制収容所」「みな殺し」「五年計画」「民族絶滅」などといった言葉も出てきて(七一‐七三頁)、これらの語はナチ・ドイツやソ連のことを念頭に置いているようにも見える。だが、これらはあくまでもごく断片的な言及にとどまり、西ヨーロッパを主たる発生源として進行してきた技術社会化の趨勢とナチズムなり共産主義なりがどう関係するのかについては何も語られていない。もちろん、小説としてはそれでよいのだが、読者がここに過度の含意を読み込むと、本来書かれていないことまで読み込まれてしまうような気がする。
 こうしてトライアロンの思考の枠内にとどまる限り、ルーマニアなり、ドイツなり、ソ連なりの動向についての考えはほとんど読み取れないのだが、この長編小説は、彼以外の多くの登場人物をあちこちに配置して、それらの人々の過酷な運命を詳細に描いている。そうした個所の迫真の描写が本書の評判を高いものとした一因だと思われる。ただ、トライアロン以外の登場人物――代表的にはヨハン・モリッツという農夫および彼を取り巻く人々――の多くは知識人ではなく、哲学的思索にふけることもないため、彼らが自らの苦難をどう受け止めていたのかについては、立ち入った叙述がない。耐え難い苦難を経験しつつも、それを一種の運命のように受け止めて、諦観しているのではないかと感じさせられる個所もある。ともかく、トライアロンの歴史観が他の登場人物の苦難の経験を説明するという関係が全体を貫いているとは思われない。
 
 この小説の主要な舞台は、初めのうちはルーマニアであり、それから登場人物の地理的移動に伴ってハンガリー、さらにはドイツへと移っている。ルーマニアもハンガリーも、当時の国際関係史の大枠の中ではいわゆる枢軸陣営に属していたが、ナチ・ドイツと完全に一体であったわけではなく、各国間に複雑な駆け引きや対立の要素もあった。そのことは本書にもある程度影を落としており、それは本書の興味深い点の一要素だが、そうした局面で登場する人々の大半は知識人ではなく、複雑な国際関係を分析の対象としているわけではない。
 ルーマニアおよびハンガリーでのユダヤ人迫害は本書の中心テーマの一つだが、それはナチ・イデオロギーの影響によるものなのか、それともこれらの国にもとからあった反ユダヤ主義が戦時情勢下で強烈に噴出したものかという問いが読書の頭に浮かぶ。また、ユダヤ人に限らず各種の迫害に遭った人たちに対する下級権力者の横柄で残忍な態度は、ナチズムその他のイデオロギーや体制に由来するところが大きいのか、それとも貧困な国々における末端権力者がしばしば陥りがちな一般的傾向なのかといった問いも思い浮かぶ。小説である以上、そうした問いに関する考察がないのは驚くに値しないが、読んでいて感じるのは、ここで描かれている暴虐の大半は、殊更に「高度に発達した西欧文明の危機」と関連付けられる必然性はあまりないのではないかという印象である。むしろ、「西欧よりもずっと遅れた東欧ならではの非文明性のあらわれ」といったステレオタイプを読者に植え付けてもおかしくはない。
 小説の舞台についてはいま述べたとおりであり、ソ連はそこに含まれていない。だが、大戦末期以降になると、ソ連軍の進撃というテーマが大きく取り上げられることになる。そこで描かれているのは、東から押し寄せてきた蛮族としてのロシア人の野獣的性格――ひたすら女性たちをレイプし、暴力をほしいままに振るい続ける――というイメージである。この時期のソ連軍が東ヨーロッパ諸国やドイツなどでそうした行為を大量に繰り広げたことについては、他に多くの証言があり、それ自体としては、おそらく事実なのだろう。ただ、いうまでもないことだが、ある民族を丸ごと「ひたすら野獣的欲望に駆り立てられた野蛮人」という風にだけ描き出す叙述は――知識人でない登場人物が素朴にいだいたステレオタイプという意味では自然なものであり、読者がそれを批判しても始まらないのだが――、読んでいて辟易させられる。敢えて蛇足的コメントを付け加えるなら、長きにわたった総力戦争の末期、つまり大量暴力の発動が日常と化した時期を経た後に、初期の負け戦で国土の蹂躙を堪え忍んできた人たちが、ついにやってきた勝利の局面で、それまでの鬱憤を一挙に爆発させるなかで、勝者の驕り――それはつい昨日まで敗者・劣等者として見下されていたことの裏返しでもある――が最悪の形で露呈したということだろう。
 とにかく、ここでは「ロシア人」の野蛮性が強調されているわけだが、共産主義イデオロギーにはほとんど触れられていない。本書は共産主義批判の書として長らく読まれてきたはずだが、実は共産主義について触れるところはあまりない。そもそもソ連という国自体については何も述べられていない。わずかに、トライアロンの妻エレオノーラの言葉として、ロシアは人間社会を機械と化したが、それは西欧から学び、西欧を真似たものだ、ロシアが共産主義にもたらしたのは狂信と野蛮だけであり、それ以外はすべて西欧由来だというくだりがある(五二四‐五二五頁)。これは欧米で相当程度に広まっている見解を極端化して言い表したもので、そういう見方があること自体は驚くに値しないが、とにかくこれは共産主義批判という観点からしても浅い理解にとどまるというほかない。
 戦後期になると、占領軍の中心としてのアメリカも重要な位置を占めるようになる。ここでは、「西欧文明の危機」「技術社会化」という観点が再び出てきている(その一つの理由は、トライアロンおよび彼の妻エレオノーラが関わるからである)。占領軍の管轄下に入った人々に対する機械的な対応が人間性を欠いたものとして批判的に描かれたりしている。しかし、そうした批判とロシア人の「狂信と野蛮」への憎悪とが同一次元におかれているのかといえば、そうは言えないのではないかという気がする。末尾のあたりで、ヨハン・モリッツとエレオノーラが思いがけない形で出会う個所の描写は両義的で、真意をつかみにくいが、アメリカに対して批判的に距離をとる知識人エレオノーラと、野蛮なロシアと戦うために米軍に外人義勇兵として志願する農夫ヨハンの乖離を象徴しているように見える。
 
 全体として、本書が何を言おうとしているのかは、よく分からないとしか言いようがない。小説である以上、ある特定の主張を示す必要はなく、いろんな出来事を描き、いろんな登場人物の感覚や思考を描けばそれでよいのかもしれない。以下は単なる蛇足である。
 冷戦期の知識人、といってもいろんな人がいるが、その中で小さくない位置を占めていた「進歩派」の人々の思考の一般的傾向として、ソ連に与する気にはなれず、ソ連社会の負の側面も知りながら、だからといって「アメリカ万歳」という気にもなれず、双方に対して批判の眼差しを向ける――またそこに共通の背景として「現代西欧文明の危機」を見る――という発想があったように思える。先に触れたマルセルの序文や河盛好蔵のあとがきなどにも、そうした感覚を見て取ることができる。ソ連解体後に急増した言説として「かつての進歩派は親ソであり、ソ連を美化していた」というものがあるが、それは誤りであり、むしろ米ソ双方から距離を取ろうとする人たちの方が「進歩派」の多数派だったはずである。だが、ソ連最末期以降に急激に強まった感覚は、「いくらどちらも問題があるとはいっても、ソ連側の方がはるかにひどく、いわば絶対悪だったのだから、やはり西側が勝つべくして勝ったのだ」というものだった。この小説の末尾でヨハンと会ったエレオノーラの感覚は、ひょっとしたらこれに近いものだったのかもしれない。
 
(二〇一四年五月)