『現代思想』2014年8月臨時増刊号(丸山眞男生誕100年)を読んで
 
 
 1996年に丸山眞男が死去してから20年近くが経つが、「棺を蓋いて事定まる」という言い回しとは裏腹に、丸山への毀誉褒貶を含む多様な論評や研究が続出し、「丸山産業」花盛りともいうべき状況が現出しているようである。私はそうした動向の全容に通じているわけではなく、横目で見て「食傷気味」の感に襲われることもなくはないが、それでもどことなく気になる面もあり、一種アンビヴァレントな気持ちに引き裂かれてきた。今回の『現代思想』の特集にしても、刊行後すぐに手に取ることはせず、しばらく放置していたのだが、やはり無視できないという気になって、刊行から数ヶ月後に読むことになった。
 全体を通読してみたところ、相当異なった性格の文章――エッセイ、インタビュー、対談、論文、資料等々――がやや雑然と収録されており、観点や内容も多様だが、それでも、どれもある程度以上の関心や刺激を呼び起こすところがあるという気がした。それはやはり、素材としての丸山の作品が読む人に知的反応を強く喚起する性格を持っていることの反映だろう。一つ一つの文章はそれほど長大なものではなく、明確な結論に至る手前で終わっている感じのものも少なくないため、それらを読んで丸山像が大きく更新されるとか、強烈なインパクトを受けるとかいうことにはなりにくいが、それでも、それぞれにどこかしら面白い要素があると感じた。
 そうした中で、あくまでも私の個人的感想だが、特に関心を引く論文が3つあった。あらかじめ筆者名を挙げると、酒井哲哉、清水靖久、木村直恵の3者である。以下、それぞれについて簡単な感想を書き留めてみたい。
 
《酒井哲哉「未完の新左翼政治学?――丸山眞男と永井陽之助」》
 永井陽之助という人は、ごく大まかなイメージとしては、いわゆる現実主義の立場の国際政治学者として知られている。現実主義イコール保守と決まっているわけではないが、論壇地図の一般論としては「保守」に位置づけられることが多い。これに対し、丸山は常識的レッテルとしては、いわゆる「進歩的知識人」の代表者とみなされている。そうした通念からいえば、丸山特集のなかで永井を取りあげたり、タイトルに「新左翼」という言葉――再び常識的通念でいえば、丸山とも永井とも結びつきにくい――を使ったりするのは、相当特異な印象を与える。
 とはいえ、この論文を読んでみると、酒井は鬼面人を驚かすといった類の突飛な主張をしているわけではなく、どちらかといえば淡々としたスタイルで日本政治学史の一コマを堅実に描いている。これが突飛であるかの印象があるとしたら、むしろ常識的通念の方が歪んでいたのではないかと考えさせられる。そのような反省を呼びかけるのがこの論文の狙いだったのではないかという気がする。
 この論文自体の主題を離れて、より広くいうなら、戦後日本社会思想史、その一環としての社会科学史というジャンルがもっと盛んになってほしいという願望を私はかねてからいだいていた。それはわれわれ自身やその先生・先輩たちの知的背景や経歴をたどるという意味をもつ。社会科学というものが自己と無縁の対象を顕微鏡で観察するような作業ではなく、努めて客観的であろうとしつつも最終的には自己認識にはねかえってくる営為だとしたら、自分(たち)の知的営みおよびその来歴というものも反省的な研究対象とすることが必要ではないかと考えるからである。
 もちろん、様々な分野ごとに、あれこれの先駆者や業績について振り返った学説史的な文章はたくさん存在している。しかし、私の感覚では、そうした学説史と社会思想史の間には、いくつかの差異があるように思われる。ごく大まかな言い方だが、通常の学説史においては、過去の多数の研究のうちの頂点部だけを取り出して、それを現在とつなげる、あるいは過去の研究の限界を指摘して、いまではそれは克服されたとして片付ける、といった感じのものが多いように思われる。これに対し、思想史という場合には、頂点に立つものだけでなく、より広く様々な例を相互関連のもとに取りあげ、あるいはまた特定の学問分野だけでなく、他の分野や時代潮流との関連をも念頭において、その時代の精神構造を幅広く明らかにすることが目指される。現在から見ると「古くさい」とか、「間違っている」とみなされるような研究であっても、それがある時期にかなりの範囲の人たちに影響を及ぼしたとするなら、その影響の内実を明らかにすることも重要な課題となるはずである。このような意味での思想史として社会科学史を論じたものは、管見の限りごく少数にとどまっているように思われる(1)
 戦後という時代が約70年にも及ぶ幅をもつなかで、その中での様々な節目を経た複雑な変化を見通すのは容易なことではない。今日の研究者の地点から見るなら、過去の同業者の仕事というものは、「克服すべきもの」「不十分だったもの」という意識が先立つために、それがどういう内容のものだったのかとか、どういう経緯を経てある時期の権威が失墜したり、流行が廃れたりしたのかということをきちんと詰めて考えることをしないまま、安易に「克服済み」というレッテルを貼ってしまう傾向も少なくない。特に、冷戦終焉という大きな区切りがあり、それとある程度平行しつつ、しかし見方によっては独立の事情によって、マルクス主義の影響力が大きく凋落したという経緯があることは、その事実が明白であるだけに、結論を急がせてしまい、立ち入った歴史的探求の必要を感じさせにくくさせているのではないだろうか。
 酒井論文とは別のジャンルの話になるが、歴史学の一部である社会運動史の分野で、自分たちの過去の営為を振り返った論集として『歴史として、記憶として』という本が2013年に出た(2)。この論集には多様な論文が収められていて、全体として一つの明確なメッセージを出しているわけではないが、とにかく戦後日本社会科学史への一つの試みとして興味深いものとなっている。私はこの本への感想として、「史学史」という枠にこだわるのではなく、経済学なり法学なり社会学なり政治学なりその他いろんな分野の研究の歴史にまで視野を広げて、いわば戦後日本社会思想史の一環として、「諸学の歴史」ともいうべき作業を試みてよいのではないかと述べたことがある(3)。酒井論文は戦後日本政治学史のうちの一コマであり、これだけで完結した結論を導くわけではないにしても、こうした試みを積み上げていくうちに、戦後日本に関する「知の社会史」を描き出すことができるようになるのではないかとの期待がいだかれる。
 酒井論文の内容に戻るなら、その独自な着眼の一つは、丸山も永井も広い意味での「新左翼」ないし「ニューレフト」との親近性をもっていたとの指摘である。いうまでもなく、これはやや意表を突く指摘である。もっとも、酒井自身が、「勿論、ここでいう『新しい左翼』と六八年の『新左翼』の間には隔たりがある」というように(131頁)、「新しい左翼」「新左翼」「ニューレフト」といった言葉は、時期および国によって相当大きく異なる多様な勢力を指して使われてきたから、それらを十把一絡げに同一視するわけにはいかない。それでも、現存の社会体制に対して批判的姿勢をもち、同時に、いわゆる正統左翼――各国共産党の主流派に代表される――にも批判的という程度のごく緩やかな共通性を広義の「新左翼」の指標とするなら、それは一時期かなりの広がりをもっていたと言えるだろう。酒井論文では、永井陽之助との関わりでアメリカのリースマンやフロムの名が挙げられ、丸山との関わりでイギリスの『ニュー・レフト・レヴュー』への関心が言及され、その一例として、福田歓一・河合秀和・前田康博訳『新しい左翼』(岩波書店、1963年)が挙げられている。これに類する例は、いくらでも追加することができるだろう。
 1960年代前半には緩やかな共通性をもっていたこれらの諸潮流は、その後、次第に大きく分岐していく。ある部分は「保守」とみなされる方向に進み、ある部分は急進化を強めて、丸山をはじめとする「進歩的知識人」を激しく論難する――これはすぐ次に取りあげる清水靖久論文のテーマ――ことになる。そういった分解を経た後の地点からは、かつてこれらが緩やかな共通性をもっていたこと自体が見失われやすい。だが、かつてあった緩やかな共通性が後に大きな分解を遂げるというプロセス自体が――評価については議論が分かれるだろうが――歴史研究の一つの重要なテーマととなるのではないだろうか。そして、それは戦後日本社会思想史においてそれなりの位置を占める主題ではないかと思う。
 
《清水靖久「銀杏並木の向こうのジャングル」》
 1960年代末の大学闘争時の丸山眞男と全共闘運動の対立関係については、真偽不確定な噂を含めて、いろいろな情報が流布されている。最も有名なのは、学生たちの研究室封鎖を念頭において丸山が「ナチも軍国主義もやらなかった」と非難したというエピソードだろう。全共闘派の学生によって丸山が殴られたという説もかなりの程度流布している。清水靖久によれば、こうした風説には疑問符がつくらしいが(4)、とにかくそういった風説によって丸山像のある部分が構築されてきたことは確かである。この論文は、これまであやふやなままにとどまっていた事実関係を問い直し、歴史の復元を図ろうとする試みととることができる。
 清水は日本政治思想史を専攻する研究者であり、そのような専門上の理由から丸山に関心をいだくのは自然である。と同時に、彼がこのテーマに取り組む理由はそれだけにはとどまらないことを清水自身が明らかにしている。彼は東大闘争の時点では中学生だったとのことで、リアルタイムの知識はほとんどないようだが、数年後に東大に入学して折原浩の演習に参加し、東大闘争への関心をいだいたという。その間の事情は、『東大闘争と原発事故』という共著(前注4参照)に窺うことができる。こういうわけで、一方では丸山と同じ分野の研究者としてこの大先達に深い関心を懐き、他方では、「東大闘争後」という情勢の中で、それが何だったのか、とりわけ学問と政治、学者とその社会的役割といった問題を考え続けている清水にとって、このテーマは個別研究の域を超えた「研究者はいかにあるべきか」といった、内面にまで関わる主題なのだろうと推察される。
 筆者の事情について推測めいたことを書いてしまった以上、自分自身のことについて黙っているのはフェアでないだろう。私は当時の学生運動に関与していた経験があり、その意味では、「当事者」の一人ということになる。もっとも、まだ大学に入って2年目で、教養前期課程にいたから、当時の法学部の事情を直接知っているわけではない。その上、これは自己批判を込めて書くのだが、当時の運動の中で、学内問題よりも学外の政治闘争の方にウェイトを置く潮流に属していたため、学内事情についての理解は浅かった。その後、年月を経る中で、当時のことについて各種文献を読んだり、考えたりする作業を断続的に続けてきたが、それは私にとって単なる懐メロではなく、「すぐそばで起きていたにもかかわらず、十分きちんと観察することのできていなかった事柄を改めて再認識する」という意味をもっている(5)
 私自身のことはさておき、清水論文に戻るなら、この論文の直接の課題は、1969年1月の安田講堂攻防戦の後、2月に授業が再開されたときに丸山と法学部闘争委員会の間でどういうことがあったのかの事実関係究明である。論文の最初の方では、坂本義和『人間と国家』(岩波新書)における授業再開時に関する記述は、当時東大広報委員会が発行していた資料との間に齟齬があり、信頼性が低いというようなことが記されている。そうした一種の「資料批判」から始まり、一方では丸山の当時未公刊だった文書(6)、他方では何人かの関係者への聞き取りによって、2月21日から3月7日までの5回の授業――その直後に丸山は入院して授業不能となった――の模様を復元しようとする努力が、論文の中心部分をなしている。約2週間ほどの短い期間に東大法学部の教室付近で何が起きたのかというミクロな主題を設定して、未公刊文書や当事者への聞き取りなどを通じて過去の事実の復元に努めるという手法は、いかにも歴史研究者らしいもので、そこに払われた努力の大きさや、そうした努力を支える知的誠実さには深い敬意を覚える。
 と同時に、特定の個人が特定の時点で何をどのように感じたり、考えたりしていたのかという問いには、究極的な答えはないのではないのかという疑問にも襲われる。急激に変化する状況の中で熟考するいとまのないうちに突発事態への応答を余儀なくされるような場合を念頭におくなら、なおさらである。もっとも、そういう場合であっても――あるいは、そういう場合にはより一層――その人の発想の型のようなものが、いわば生地のままで露呈するということもあるかもしれないが、そうだとしても、その「型」や「生地」は目に見える形でつかめるわけではなく、資料に基づいた実証史学でどこまで迫れるのかというのは巨大な難問である。また、この事例の場合、丸山自身が書き残したメモ類は、ある種のことについては詳しい代わり、ある種のことについては沈黙を守るという姿勢が感じられ、他方、全共闘学生の方は、ある人は所在不明(場合によっては既に逝去)、ある人は過去について語りたがらない、あるいは今の地点で脚色された記憶しか語ろうとしないといった事情があることを思うなら、いくら未公刊文書をひっくり返したり、オーラル・ヒストリーの努力を積み重ねても、それでもって分かることにはどうしても限界があるだろう。こう考えるなら、清水が払った膨大な努力にもかかわらず、過去のミクロな事実が十分に復元された感じがしないのは、やむを得ないことなのかもしれない。
 この論文自体は何らかの明確な結論を出してはいない。といっても、どっちつかずののらりくらりした姿勢ということでは全くない。清水の共感は明らかに全共闘側にあり、丸山に対しては――ある時点までのその知的営為に大いなる敬意を払うからこそ――批判的である。だが、だからといって、前者が正しかったとか、後者の言動は糾弾されるべきだといった図式的な結論を出すのではなく、今なお不明なところを多く残すテーマについて、さらに考え続けていきたいという姿勢が基調をなしている。そこから何が出てくるのか、この論文だけでは分からないとしか言いようがないが、これから先どのような議論が展開されるのか、興味をひかれる。
 
《木村直恵「『開国』と『開かれた社会』」》
 この論文の筆者は私にとって全く未知の人である。素材として取りあげられた丸山の「開国」という論文も、大分以前に読んだことがあるとはいえ、それほど鮮明な記憶を残していたわけではない。にもかかわらず、この木村論文は今回の特集の中で特に光るものがあるように感じた。
 筆者にもテーマにも馴染みがない以上、これがどこまで的確な感想なのか覚束ないが、とにかく私がそのように感じた理由は、何よりも、丸山に寄りかかるのではなく、自分の頭で考え抜こうとする姿勢が感じられた点にある。「開国」について丸山自身が後年に自ら語ったナラティヴを疑い、徹底してテクストに即そうとする姿勢、そして一面でその意義を高く評価しながらも、他面で、「ここで書き手は『非歴史的‐超歴史的』カテゴリーに屈した」、「その思想的敗北の自覚が、彼のその後の思想的展開と生産性を乏しいものとした一因であった」(270, 271頁)とまでいう厳しい批判にそれがあらわれているように思われる。特定の立場から丸山を裁断して批判する議論は少なくないが、丸山自身の知的営為に内在しつつ、その限界ないし「敗北」をここまで追求しようとする議論は珍しいもののように思う。もっとも、木村論文では丸山の「開国」と似たタイトルをもつポパーの著作『開かれた社会とその敵』が何度も引照されており、その点を捉えて外観的にいえば、ポパーに寄りかかって丸山を批判しているととることもできなくはない。だが、むしろ丸山の最良の側面に学ぶことを通して彼自身の限界を指摘しようとする試みととった方が、この論文の味わいを深くしてくれるのではないかというのが私の感想である。
 木村論文の一つのキーワードは「ダブル・イメージによる理解」というものである。丸山自身が後に語ったところによれば、戦時中に神皇正統記を論じたときも、敗戦直後に明治維新直後の新聞を読み漁ったときも、分析対象である古典テクストと分析者が置かれている現実状況が重ね合わさる形で迫ってくる体験をしたという。過去に書かれたテクストを読むときに、それを自分自身の眼前の状況と重ね合わせる――ダブル・イメージで理解する――というのは「歴史家としては本来乱用を厳しく慎まなければならなぬ」と丸山は考えていたが、にもかかわらず、このダブル・イメージが圧倒的な経験として迫ってきたとき、敢えてそれを拒まない態度をとった。それは「乱用」ではなく、「恣意性を超えた到来物」、「必然的な方法」と丸山に受け取られた、と木村は記している(258−259頁)。
 過去を理解しようとする歴史学の営みにおいて、研究者の現在の感覚を投影するのは邪道だというのが常識だろうが、にもかかわらず、それが「恣意性を超えた到来物」として「必然的な方法」となるとは一体どういうことだろうか。木村の論の立て方にはやや分かりにくいところもあるが、私なりの解釈を含めて考えるなら、次のようなことがいえるのではないかと思われる。
 歴史的事件というものは、厳密に考えるなら、どれも一回限りのものである。どんなに似たような事柄でも、厳密にいえば個々に異なり、完全に同じということはない。木村の言葉を書き写すなら、「過去に属するあらゆる事柄は、どんなに些細なことであれ、未曾有であり空前絶後である。……それは反復しえないものであり、ごく厳密な意味で取り換えが利かず、取り返しもつかないものである。こうした歴史的過去の性質は、後になってそれに向き合う人にとっては新しいもの・他なるものとの出会いとして経験される。……われわれは日常的にはこうした過去の厳格な一回性と非同一性の無限の生滅を直視しないためのやり方を、それと気づかぬうちにいくらも編み出している。//こうした意味をめぐる困難は、専門的に歴史を探究しようとする者ひとりひとりにとっても切実な問題である。……歴史から意味を汲みとる試みは究極的には類比的なものたらざるをえない」(267頁)。
 完全に同じものなどないにもかかわらず、何かを何かに類比することで、そこにある種の意味を見出し、今まで知らなかったものを理解できたと思う――これは他者理解・異文化理解・過去理解の基本にある発想だといえるのではないか。歴史学とは別の分野の例だが――このように異なった分野を引き合いに出すこと自体が、異なるものを類比し、ダブル・イメージで理解することのもう一つの例である――文化人類学において、異文化理解・他者理解とは比喩的な等置のプロセス――何かと何かが違っていることをわきまえつつ、それでも「なぞらえられる」として把握する――とされているのを思い起こさせる(7)
 類比、比喩、「なぞらえる」ことによる理解は、見当違いなものになることも多いが、まさにこれこそがそうなのだという圧倒的確信をもって迫ってくることもある。再び木村の文章に戻るなら、「未知のものと既知のもの、歴史と実存がぴったりと重なり合う。それは、それ自体として一回的な、一つの奇跡の瞬間なのだ」。問題は、その「奇跡の瞬間」がその後、どのように位置づけられるかにある。「たしかに未知の他なるものを理解しようとするときに、既知のものによる類比は不可欠の手段ではある。だが、未知の他なるものは、既知のものに回収しきれるものなのだろうか。どれほどの類比がそこに成立しようとも、新しいということ・他であるということには、本質的に未知のものが含まれているということなのではないだろうか」(268頁)。
 私なりに補っていうなら、未知なる対象を前にしたときに、あるダブル・イメージが迫ってきて、それを通して対象を理解できたと感じることは確かにあるが、それは対象の未知性を完全に解消するものではない。そして、未知なるものと既知なるもののダブル・イメージによる理解が対象の未知性を忘却していないなら、「既知」と思い込んでいたもの自体を問い直す――異文化や他者への接触を通して、自己への理解が変容する――経験を伴うだろう。これに対し、ダブル・イメージによる理解が「方法」として位置づけられると、未知だったはずのものが既知なるものに還元され、「未知との遭遇がもたらす震撼」が失われていく。木村によれば、丸山は「到来するものとしてのダブル・イメージ」体験を「歴史の探究のための方法」へと転化したのだが、それは「歴史的現実の本質である未曾有性・一回性・他者性を飼い慣らすための方法の自由な開発」と化してしまったのではないか、という疑問が提起されている(268−269頁)。
 ここでは深刻な問題が提起されているように思う。歴史家といえども、個別の事実の復元のみに関心を局限しているわけではなく、何らかの意味での一般性や法則性――「法則」という言葉が強すぎるなら、「傾向性」といってもよい――に無関心ではありえない。社会科学的傾斜をもつ歴史家の場合には、その傾向は一層強くなるだろう。理論とか図式というものは、歴史研究に生の形で適用されるなら、「頭でっかちで、非歴史的だ」という印象を呼び起こすが、逆に理論性や図式的整理の要素を欠いた歴史記述は単調すぎて、無味乾燥な印象を与える。歴史研究において一般性や法則性の要素を考えることは、それでもって歴史を裁断するという形でなされるなら、いわゆる「プロクルステスのベッド」の愚を犯すことになるが、歴史記述自体を筋道だったものにするためには不可欠でもある(8)。やや木村論文から離れて私自身の考えを書いてしまったが、そうした問題を考えさせるという点で、この論文は豊かな思考刺激力をもっているように感じた。
 
(2014年12月)

(1)社会科学史よりも広い戦後社会思想史として、私の知る範囲内で優れた業績と感じたのは、小熊英二『〈民主〉と〈愛国〉――戦後日本のナショナリズムと公共性』(新曜社、2002年)である。この本については、私はかつて読書ノート(ホームページ内の「読書ノート」欄に収録)を書いたことがある。
(2)喜安朗・北原敦・岡本充弘・谷川稔編『歴史として、記憶として――「社会運動史」1970-1985』(御茶の水書房、2013年)。
(3)私のホームページ内の「新しいノート」の欄に収録。
(4)このうちの後者については、清水ははっきりと間違いだと指摘している(207頁および219頁の注5)。前者については、『毎日新聞』にそのような報道があったのを取りあげた学生に対し、丸山は「都合のいいときだけ、ジャーナリズムの記事を信用するのか」と答えたとあるが(203頁)、その記事が誤報だったのかどうかは述べられていない。同じ清水の別稿では、「事実はどうだったのか〔丸山に〕書いてほしかった」とあり、丸山自身がこの点を不明確なままにしていたということのようである。清水靖久「さまざまな不服従」(折原浩・熊本一規・三宅弘・清水靖久『東大闘争と原発事故――廃墟からの問い』緑風出版、2013年)、134頁。
(5)1960年代末‐70年代初頭の運動のことについて、私はまだ十分論じることができていないが、ホームページ上のいくつかの文章でときおり触れてきた。それらのうち最も長いものは、小熊英二『1968』への読書ノートである。
(6)その主要部分は、死後に『自己内対話』としてみすず書房から刊行されたほか、そこに含まれていない個所を含む原文も東京女子大学の丸山文庫で閲覧可能であり、もう一つの重要未公刊資料として加藤一郎宛ての書簡も東京大学近代日本法政資料センター原資料部に保管されているとのこと。
(7)浜本満「対比する語りの誤謬」杉島敬志編『人類学的実践の再構築――ポストコロニアル転回以後』(世界思想社、2001年)、207-208頁。この点に関し、近刊予定の拙著『ナショナリズムの受け止め方――言語・エスニシティ・ネイション』(三元社)の第3章参照。
(8)本論からの逸脱になるが、小熊英二の『〈民主〉と〈愛国〉』およびそれまでの二著と『1968』の間にある微妙な断層も、これと似た問題に関わるように思われる。というのも、前者においては未知との遭遇に著者自身が震撼されつつ、既知と思っていたものへの問い直しが模索されているのに対し、後者においては、その色彩は皆無とはいえないまでもかなり薄くなり、定型化された図式で対象を裁断する傾向が濃くなっているように感じられるからである。これは丸山「開国」における発見の側面と後退の側面の関係に対応するのではないだろうか。前注1と5に挙げた二つの読書ノートを参照。