藤田勇『ロシア革命とソ連型社会=政治体制の成型*1』を読む
 
 
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 藤田勇(1925年生まれだから、今年で96歳になる)は、周知の通り、ソヴェト法研究の大家であるばかりか、社会科学原理論のような領域でも業績があり、数十年にわたって数多くの著作を書き続けてきた。基本的にはいわゆる正統マルクス主義の立場に立ちながら、それを単純に擁護するというのではなく、むしろそれが厳しい批判と試練にさらされていることを意識して、それを鍛え直そうとする姿勢が多くの仕事を貫いている。高齢になってからも何冊もの著作を出し続けてきたが、その一つである『自由・民主主義と社会主義1917-1991』(桜井書店、2007年)について、私は大先輩の胸を借りるようなつもりで、批判的要素を含む長文の書評を書いたことがある*2
 その藤田が2017年のロシア革命100周年を期してロシア革命とソ連史に関する新著を準備しているらしいという噂は、かねてより私にも届いていた。100周年の時期を過ぎてしばらく経った頃、原稿はほぼ完成に近づいているのだが、なお最後の仕上げが必要であり、他面、著者の高齢と健康状態によりその作業が滞っているらしいとの噂も聞いた。ひょっとして刊行されないままになってしまうのではないかと危ぶんでいたところ、今年になって、このように書物の形をとって無事刊行された。小森田秋夫の「あとがき」によれば、2020年6月に著者から小森田に原稿が送られてきて、出版を託されたとのこと。その時点での原稿の完成度は知るよしもないが、ほぼ構想が固まっているにもかかわらず細部が仕上がっていない原稿を他人が完成稿にするのは大変な作業だったろうと想像される。ときあたかも新型コロナ・ウィルス感染症のせいで往来が不自由になっている状況で、直接会うことができないまま、何度か手紙を交わしたとのこと(おそらく、高齢の藤田は電子メールとかオンラインでの対話をすることはせず、手紙が唯一の通信手段だったものと推察される)。読んでみると、叙述の重複、注記に関わる遺漏、スペルミスなどといったケアレスミスがいくつか目に入ったが、上記のような事情のもとではやむを得なかったのだろう。
 
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 本書が扱っているのは1905年から37年までの約30年間である(もっとも、書物の副題には1917-1937年とあり、これに従うなら20年間となるが、内容の実質からいうと1905年から始まっている)。これはソ連史全体からすれば一部に過ぎないが、個別歴史研究にしてはわりと長いという意味で、やや中途半端な感じがある。おそらくソ連史全体を書き切りたいという願望がありながら、とりあえず前の方を書いたという位置づけなのだろう。内容をどう読み取るかは悩ましい。かなり多くの部分は、あまり明確な結論を出さず、わりと淡々とした叙述をしているから、外観的にいえば概説的な通史であるかにも見える。しかし、実はその背後に独自な解釈への志向が込められているのではないかと思われるところがあり、それでいて、その独自な解釈の内実が明確に提示されていないために、何を狙った書物なのかの判断に迷う。
 使われている材料としては、一次資料もあれば、かつてのソ連における公式史観を示す文献もあり、さらにソ連解体後のロシアで出た新しい作品や、英語・ドイツ語や日本語で書かれたソ連外の研究者の作品などもあるが、そういった異質かつ雑多な文献を相互に対置したり比較したりする作業はあまりなされておらず、むしろ並列的に扱われているように見える(第4章はやや例外)。こうした書き方も、著者の狙いを分かりにくいものとしている。一見淡々とした叙述の背後には独自の思考が込められているはずなのだが、それがどのようなものであるかを突き止めるのは容易ではない。
 全4章のうち、第1章は1905年革命期を中心としており、第2章は1917年十月革命期を中心としている。どちらもレーニン存命中の時期であり、レーニンとその多様な論争相手たちの議論が相当詳しく丁寧に紹介されている。著者の判断を明示する文章はあまり多くないが、推測するなら、かつてのようにレーニンの正しさを絶対視することはできないが、かといってあっさりとレーニンを否定して、逆方向に走ることもしたくないという考えが込められているのではないかという気がする。
 著者の独自な思考を明示する文章があまり多くない中で、いくつかそれを示唆する個所がちりばめられていることが目を引きつける。先ず、第1章の末尾に、「自由権の拡大のための合法的権利闘争の積み重ねの中で人民の政治意識が高まり、それが民主主義体制変革の総体的力量を高めていくという道そのものが、この段階においては、きわめて狭隘であった」という文章がある(44頁)。この文章の背後にある前提は、「自由権の拡大」「民主主義的体制変革」が社会主義に通じるという考えだが、今日ではこうした見解に賛同する人はあまり多くないだろう。藤田はそうした、今や少数派となった見解を固持しているが、しかし現実の歴史の道筋がそれから遠かったという事実を見据えてもいる。そのことが「この段階においては、きわめて狭隘」という個所に表現されていると考えられる。では、「この段階」以後においてはどうなのかということが、この後の問題となる。
 第2章では1917年十月革命期の諸問題が長々と論じられているが、特に目を引くのは、出版の自由をはじめとする政治的自由の抑圧に関する議論である。ここでは、対立しあう各論者の言説が相当詳しく紹介されているが、この個所は屈折と悩みに満ちているように感じられる。社会主義を自由と民主主義の上に成り立つものと考える藤田にとって、出版の自由をはじめとする自由権の抑圧はアキレス腱であり、その問題に正面から立ち向かって格闘しているという印象を受ける。「「革命戦争」の論理はおそらく無数の歪曲をともなっていたであろう」ということを認め、「ロシアの諸条件のもとでの社会主義革命への移行そのものにディレンマがあった」として、ローザ・ルクセンブルグのボリシェヴィズム批判には「重要な指摘」があったと論じている(177-179頁)。ここに示されているのは、いわばやむを得ざる諸要因によって生じた否定的要素がその後に修復されるかどうかが問題だという発想であるように思われる。
 第3章ではネップ期の諸側面が論じられているが、特に目を引く点として、一党支配体制――これはもともと想定されていなかったものだとされる――の確立過程において「罪刑法定主義を否認する立場が持ち込まれた」という指摘があり(212頁)、また自由権制約について詳しい記述があって、第1章における同種の論述を引き継いでいる点が挙げられる。この章の結びには、「敵対勢力に対する政治的権利の制限・剥奪や、それに対応する権力の集中化と官僚主義化が、一時的なものにとどまらず、固定化し、一般化されることについての危惧が解消される状況ではなかった」(253-254頁)とある。
 
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 1930年代を扱った第4章は、いくつかのアルヒーフ資料を使ったり、最新の研究成果を取り込んだりしていて、全体の中で最もオリジナリティが高い。先行研究の扱い方も、これ以前の章よりも細やかであるように感じられる。
 この章でもさまざまな事柄が取り上げられているが、特に注目に値するのは、1936年憲法(スターリン憲法)とテロルの関係を論じた第2節である。その第1項と第2項では、憲法制定への国際および国内背景として、ヨーロッパ諸国におけるファシズムの台頭に対抗するための人民戦線運動、および国内での体制安定化=緊張「緩和」政策が確認されている(但し、いずれも単線的に進行したとされているわけではなく、それと矛盾する側面にも言及されている)。その上で、第3項では憲法草案起草の具体的過程が原資料に基づいて詳しく検討されている(ここではブハーリンが一定の役割を果たしたことが示されているが、一部に見られる過大評価とは距離をおいている)。第4項の全人民討議、第5項の憲法成立もそれぞれに興味深い個所を含むが、何といっても最も重要なのは、新憲法およびそれに基づく新選挙制度と「大テロル」作戦の関係を論じた第6項である。なお、ここで「大テロル」作戦とは、キーロフ暗殺事件を契機とする一連の政治裁判(1935-38年)とは区別されており、1937年7月の「命令00447*3」に端を発した1937-38年の大量弾圧を指している。
 この個所の叙述はかなり入り組んでいるが、敢えて簡略化して筋を示すなら次のようになる。1936年憲法下の選挙は複数候補での競争選挙を予定していた。また、それに先だって、体制安定化=緊張「緩和」政策の一環として、かつて「クラーク」として追放された農民の追放地からの帰還および選挙権回復が予定されており、彼らも新憲法下での選挙に参加することが想定された。そうした人たちを含む競争選挙が実施されるなら地方指導者たちの一部は地位も権力も失いかねないという不安が高まった。おそらく彼らの要求を受けて出されたのが7月の「命令00447」であり、これはまさしく選挙キャンペーンの時期に当たる8月から12月の間に弾圧作戦を展開するよう指示した(「大テロル」作戦は選挙後も続き、1938年末にようやく収束に向かった)。選挙実施を目前に控えた10月には、複数候補での選挙から単一候補(共産党員と無党派の「共同候補」)への方針転換があった。こうして、「民主的」選挙の実施と「大テロル」とは密接な相互関係にあったとされる。なお、当初は複数候補を予定し、それが単一候補に転換したのだという解釈は主にアーチー・ゲッティ説に依拠しているが、この過程の全体的な特徴づけに関しては、「カオス」的性格を重視するゲッティやリッテルスポルンと「計画化された目的指向的作戦」という側面を重視するフレヴニュークの間に論争があることも触れられている。この論争はナチズム研究における「意図派」と「機能派」の論争を思い起こさせるが、著者自身がどういう解釈に立つのかはあまり明確でない(両説が完全に相容れないものではなく、両立しうる面もあることを重視しているように見えるが、定かではない)。
 以上に見た第2節が「ファサード」としての憲法を論じてきたのをうけて、第3節では「社会的リアリティ」の諸側面が論じられている。ここでは、「党・国家癒着体制」、社会団体の一元化、表現の自由の規制などが論じられ、その一環として「マルクス=レーニン主義」の内容確定ルートの唯一化やスターリンの「個人崇拝」拡大などいった現象が指摘されている。
 最後の第4節は第4章の総括というよりは、むしろ本書全体の暫定的総括であり、さらにいえば本書の対象時期を超えたソ連史全体への展望を拓くための暫定的な試論という観がある。先にも書いたように、おそらく著者の本来の目標はソ連時代の全史であり、本書はその前半部を取り扱うにとどまっているが、ここまでたどった上でその後をどのように見通すことができるかを考えてみようというのがこの節の狙いではないかと思われる。ここでの議論も屈曲していて、論旨をたどるのは容易でないが、いくつかの個所に目をとめながら我流に紹介してみる。先ずロシア革命は「早期社会主義革命」だったという言葉がある(374頁)。「社会主義」の条件がないにもかかわらず「早期」に起きてしまった革命という趣旨だろうか。その後の変転の記述の中では、「再版」階級戦争とか「原蓄独裁」的政治レジームといった言葉が出てくる(376頁)。困難な条件の中で大きな犠牲が払われたことに関しては、「摩擦・犠牲の少ない社会主義建設のテンポを主張したもの」としてブハーリン路線を「有意義なオールタナティブ」とする評価があることが紹介されているが、それにそのまま同調しているわけではなく、「歴史上のコースの選択肢というものも歴史的にその幅を規定されている」と指摘されている(377-378頁)。
 とにかく曲折を経て1930年代半ばに至ってある独特の社会=政治体制が造型されたというのが本書のこれまでの部分のまとめだが、そのことの歴史的意味を考えるために提示されているのが「第1次的構造」と「第2次的形成物」という一対の概念である。この考えは1987年の論文で最初に提示され、2007年の著作に受け継がれたものだが*4、今回、それをさらに練り直すことがここでの課題となっている。藤田のいう「第2次的形成物」とは、個人独裁、歯止めない政治弾圧、テロル等々を指すが、スターリン死後にそれが除去された後も、「第1次的構造」そのものの改革が必要とされた。敢えて俗っぽい表現をするなら、スターリン批判によって「トカゲの尻尾切り」が行なわれた後もトカゲ本体の改革が必要だったという趣旨にとることができる。この認識は、本書のキーワードが――書物のタイトルを含めて――「ソ連型社会=政治体制」となっていることの大きな理由であるように思われる。他の多くの論者が「スターリン体制」「スターリン主義」その他類似の言葉を使う傾向があるのに対し、それはスターリン後の時代――「第2次的形成物」(尻尾)が除去された後も「第1次的構造」(トカゲ本体)が持続している――を捉える上で適切でないということで、あまり馴染みのない「ソ連型社会=政治体制」という言葉が選ばれたのではないだろうか。
 最後に問題にされているのは、この「ソ連型社会=政治体制」を「社会主義体制」と見なしてよいかという問いである。従来、藤田はソ連型の体制を社会主義の「世界史的生成・展開の初期段階」という歴史段階に制約された「初期的性格」を帯び、「社会主義としての固有の属性の全面的な発現を阻む構造的矛盾をかかえて」いたとしながらも、それでもなおかつ「社会主義体制」として位置づけていた。しかし、ソ連が消滅し、資本主義への移行が進むのを見るに及んで、これを見直す必要に迫られたという(385頁)。では、「社会主義体制」であることを否定しようというのかというと、話はそう簡単でない。
 まず、「社会構成体史的尺度」でいうと「数世紀単位」で考えることが必要だから、たかだか数十年という歴史は短すぎる上、「ロシア革命の後進国・局地革命としての特殊性」ゆえに「認識対象としての未成熟性」が大きく、また「高度に発達した資本主義国での社会主義革命の所産との比較分析が不可能であること」といった事情から、結論を出すのは容易でないということが前提的に指摘される(388頁)。その上での仮説的展望は、「ソ連型社会=政治体制」はマルクス主義の古典が展望した共産主義の第1段階(=社会主義)とは異なっているが、それでも、「後進国ロシアで、先進資本主義諸国に先行して、一国で実現された世界史的に「早期の」社会主義革命の特殊の歴史的所産であることも確か」だという。特に重視されているのは、特殊な形で進行した「形式的社会化」が「実質的社会化」へと発展するかどうかという問題であり、現実にはその発展が停滞し、「非社会主義的な要素の、反社会主義的な要素さえもの、成長」がもたらされたという。「第2次的形成物」が除去された後も、「長期にわたって社会主義理念への深い損傷を残し、それによって反社会主義的意識を育成する効果をもった」ともされる(389-391頁)。ここまで読む限りでは、「社会主義体制」ではないという結論が出そうにも思えるが、そうではなくて、「本質的な限界をもちつつも、いまだ資本主義への逆転の方向を主たる性格とするものではない」と説かれる。「逆行の可能性一般は否定されえないとはいえ、その当面位置する歴史的方位という観点からすれば、「社会主義指向」的方位の社会体制、その一つの特殊な形態」であった、というのが著者の結論である。この体制は、「その原「型」からの蝉脱によってのみ、社会主義へと漸進的に運動しうるものであった」というのが最後の言葉となっている(391-392頁)。
 なお、この個所には注がついていて、トロツキーの『裏切られた革命』(1936年)における議論が紹介されている。トロツキーは同書で、当時のソ連が完全に社会主義の道から外れた「国家資本主義」だと規定する議論に反論して、ソ連には「プロレタリア国家としての本質」がなお残っており、官僚は「プロレタリアートの独裁の道具」にとどまっているとした*5。藤田の筆致は慎重なもので、トロツキーに賛成と明示されているわけではないが、実質上これと非常に近いものになっている。単純化していえば、もともと「早期社会主義革命」の産物として生まれ、社会主義の「世界史的生成・展開の初期段階」という歴史段階に制約され、多くの「非社会主義、反社会主義」的要素をかかえながらも、まだ完全に社会主義への道から外れたわけではない――完全に外れるのはソ連消滅後の資本主義化によってだ――というのが、本書から示唆される歴史像のようである。
 
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 以上、読み取りの難しい著作を我流に読んできた。この本を全体として評価するとどうなるだろうか。特に気にかかるのは、藤田のことを直接には知らない次世代の研究者たちが本書をどのように読むだろうかということである。勝手な偏見だが、そもそも読もうとする人があまり多くないかもしれないし、読んで強い印象を受ける人も多くないのではないかという気がする。外観的には淡々たる記述が大部分を占め、概説書風に見えるところがある一方、概説書としてもそれほど読みやすいわけではない。歴史的事実関係についてオリジナリティのある部分は、第4章を除けばそれほど多くない。もっとも、丁寧に見ていくと、単なる概説ではない独自な思考を示唆する文章があちこちにあることに気づくが、そうした個所も、明確な結論や仮説を打ち出しているわけではない。その意味では、苦労して読む甲斐のある本ではないという感想を持つ人が多くても仕方ないという気がする。にもかかわらず、そういって片付けるだけでは済まない何かがあると、私には感じられる。それが何であるかを明示するのは難しいが、とりあえず思いつくのは次のようなことである。
 ある年齢以上に達した研究者が新たな本を書くときに通常とられやすい道は、これまでに自分が積み重ねてきた研究に基づいて、それを分かりやすくとりまとめた概説書とか研究歴回顧風の文章とかである。本書にもそのように見える個所がないわけではない。だが、本書で著者はそれにとどまらず、あたかも若手や中堅と伍するようなつもりで、新たに困難な課題に挑戦しているように見える。しかも、その困難性は、単に研究課題として難しいというだけではなく、思想的な困難にも関わる。
 今日、社会主義とか共産主義といえば、自由とも民主主義ともおよそ縁遠い、むしろその対極にあるものというイメージが優勢である。一部には、「民主的な社会主義」を考える立場もなくはないが、そうした立場に立つ人の大半は、ソ連の事例は非民主主義的あるいは反民主主義的だったので何の参考にもならず、それとは全く別の地平で「民主的な社会主義」を考えるほかないという発想をとっている。ところが、藤田は他ならぬソ連を研究対象として、生涯をその研究に捧げてきた。その際の視点は、ロシア革命とソ連はもともと自由と民主主義を目指す思想と運動の延長上に、その更なる完成としての社会主義を目指して出発したものだというところに起点をおきつつ、現実の歴史はそれとは大きく乖離し、逸脱した経路をたどったという事実をも踏まえている。いわば自己の立論にとって不利な事実から目を逸らすことなく、むしろそれを正面から見据えながら、何とかしてその意味を究明しようという知的格闘が、藤田の研究活動を貫いている。そのような姿勢は以前からも見られたものだが、「自由と民主主義」と「社会主義」の不可分一体性というテーゼにとって不利な事実はますます増大し、その格闘はますます困難を極めるものになってきた。それでもなおかつ、困難な課題から逃げようとせず、高齢の身でありながらわざわざアルヒーフ資料を含む原資料を新たに探索して試行錯誤と知的格闘を重ねている様は壮絶とさえ言える。その産物としての本書は、何らかの明快な結論に到達してはいないという意味では成功作と言いがたいかもしれない。それでも、このような姿勢を最晩年に至るまで貫いて、必死の格闘を続けてきた著者の営為には、立場を超えて胸を打つものがある。
 
(2021年11月)

*1藤田勇『ロシア革命とソ連型社会=政治体制の成型――ソビエト社会主義共和国連邦史研究1917-1937』(日本評論社、2021年)。
*2塩川伸明「藤田「社会主義史」論との対話――藤田勇『自由・民主主義と社会主義1917-1997』を読む」『社会体制と法』第10号、2009年。この文章は塩川伸明ホームページの「これまでの業績(2012年まで)」欄の該当個所に全文のpdfのリンクを貼ってある。
*3「命令00447」とは、1937年7月3日の党政治局決定に基づく7月30日の内務人民委員部命令を指す。そこでは、「旧クラーク」のうち刑期満了で帰還した者、かつて反ソ政党に属した者、旧白衛軍の参加者たちなどが標的とされ、各地域ごとの摘発予定数が指示された。この命令に基づく弾圧作戦は、それまでの政治弾圧――共産党エリートでありながら「不忠」の嫌疑をかけられた人たちを主要な対象としていた――よりもはるかに大きな規模の人々を巻き込んだ。元来秘密指令だったが、1992年に公表され、広く歴史家たちの注目を集めた。日本語では、アーチ・ゲッティ、オレグ・V・ナウーモフ編『ソ連極秘資料集 大粛清への道――スターリンとボリシェヴィキの自壊1932−1939年』(大月書店、2001年)に資料169および170として収録されている(同書、497−507頁)。
*4藤田勇「現存社会主義体制の歴史的位置――『初期社会主義論』的視角からの一考察」藤田編『権威的秩序と国家』(東京大学出版会、1987年)、藤田勇『自由・民主主義と社会主義1917-1997――社会主義史の第二段階とその第三段階への移行』(桜井書店、2007年)。
*5トロツキー『裏切られた革命』(岩波文庫、1992年)。