シヴィック/エスニック・ナショナリズム論再考
 
 
 ナショナリズムの類型としてシヴィック・ナショナリズムとエスニック・ナショナリズムを対比する議論はごくありふれている。その際、前者は民主主義と馴染みやすく、後者は排外主義や紛争をもたらしやすいという判断が伴うこともよくある。これはそれなりに説得力のある議論であり、相当多くの人によって共有されている。だが、様々な事例に即して突っ込んで考えてみると、この図式にはいくつかの疑念が生じる。私は拙著『民族とネイション――ナショナリズムという難問』(岩波新書)の第X章で、この問題に関する解説とともにいくつかの疑問を述べた。
 さて、近年の新しい動向として、2014年のマイダン革命以降のウクライナで全国民的団結が生まれ、それはエスニックではなくシヴィックなナショナリズムを特徴とするという議論が提起されている。これは注目に値する議論だが、それだけに反論や疑問も出されていて、論争を呼んでいる。この問題に正面から取り組んだ論文として下記のものがある。
Oleg Zhuravlev and Volodymyr Ishchenko, "Exclusiveness of civic nationalism: Euromaidan eventful nationalism in Ukraine," Post-Soviet Affairs, vol. 36, no. 3, 2020.
これは社会学的調査のデータに基づきつつ、その解釈をめぐって理論的な考察を行なった論文で、やや読み取りの難しいところがあるが、私の理解した限りで趣旨を紹介してみたい(読み取りにくい個所については我流の解釈を施してあるので、原文の忠実な紹介ではないことを断わっておく)。
 まず論文の冒頭で、ユーロマイダン参加者たちへのインタヴューを行なったところ、奇妙な現象に気づいたことが記されている。同じ人が、一方でウクライナ人は一体となった、東西分岐は超えられたと語りながら、他方で、ドンバスの人たちはまるでウクライナ人とは違う、彼らは余所者だと語っていた。前段はシヴィック・ナショナリズムの語りであり、後段はエスニック・ナショナリズムの語りだが、多くのインフォーマントがこういう二重性を示したという。このことをまえおきとして、以下、本論に入っていく。
 マイダン後のウクライナ・ナショナリズムに関しては2通りの異なった言説が提出されている。一方には、エスニック・ナショナリズムが強まってロシア語系住民にとっての脅威が増大したという主張があり、他方には、マイダン後のウクライナで高まったのはエスニックではなくシヴィック・ナショナリズムであり、ウクライナ人は分断ではなく団結を強めたという主張がある。そのどちらが正しいのか、あるいはそれぞれに正しい面があるとしたらその相互関係をどう考えたらよいのかという問題が出される。
 この問題を考えるには、世論調査で「市民」意識がどのような変化を示しているかを捉える必要があるが、この点に関わるデータは多義的で、明快な結論を出すのは難しい。たとえば科学アカデミー社会学研究所の長期調査によれば、自己を第一義的に「ウクライナ市民」と見なす人の比率は、2013年の51%から2014年の65%に上昇した後、2017年には57%に下がった。ラズムコフ・センターの調査によれば、民族・言語・伝統に関わりなくすべてのウクライナ市民はウクライナ・ネイションに属するのだという考えは2015年12月に55.7%を占めた。しかし、キーウ国際社会学研究所の調査では、その考えに賛成する人は2014年9月時点で相対多数ではあっても過半数ではなかった。これらのデータは、シヴィック・ナショナリズムがある程度普及しつつあるとはいえ、それは全面的なものではなく、条件的なものだということを物語っているように見える。他方では、エスニック・ナショナリズムの高まりを示す兆候もある。バンデラ、OUN(ウクライナ民族主義者)、UPA(ウクライナ・パルチザン軍)への肯定的評価の増大、また公共圏でのロシア語使用の縮小とウクライナ語使用の拡大といった動向がそれを物語る。
 ここでもう一歩踏み込んで、ナショナリズム意識の内容を検討する必要が出てくる。この点で興味深いのは、アメリカの社会学者・政治学者シドニー・タロウの提唱するeventful nationalismの概念である。これは「われわれはここにいる」という感覚に基づくアイデンティティのことであり、具体例としてアメリカのオキュパイ運動(2011-12年)が挙げられている。特定の社会集団や政治的陣営に属するわけではなく、ある集団行動に加わり、それをともに経験したという感覚に基づく団結ということである。マイダン運動参加者たちの語りも同様の感覚を表出している。そこでは、「われわれはともに運動に参加した」という感覚が重視され、それが国民的団結の基礎と感じられている。この団結は、特定の社会層と排他的に結びついているわけではなく、その意味では包括性の高いものだが、「市民とはなにか」に関する意識が以前から共有されていたわけではないため、曖昧さや揺れを含む。ウクライナでマイダン運動に参加したのは西部・中部のウクライナ語話者だけではなく、東部・南部のロシア語話者も含まれており、そのことを重視すると「東西分岐は超えられた」という意識になる。だが、「多様な人々が含まれていた」ということは、「多様な人々がみな同じように参加していた」ということを意味するわけではない。東部・南部のロシア語話者の中にマイダン運動参加者がいたというのは確かな事実だが、どちらかといえば彼らの参加度は西部・中部のウクライナ語話者よりも低かったというのもまた反面の事実である。そのため、そうした人たちのことをどう思うかと問うと、「意識の低い」「市民性に欠ける」人たちだという返答が返ってきて、彼らは「市民的団結」の埒外におかれる。そして、東部に「意識の低い」人が多いのは、東部にはロシア人が多いということと結びつけられ、エスニックなステレオタイプが再生産される。こうして、マイダン・ナショナリズムはシヴィックかつ包括的である(と自ら意識している)と同時に、エスニックな他者化を正当化する。
 逆に、「反マイダン」派の人たち――但し、信念を持った親露派ではなく、マイダンに素朴な疑念をいだく平凡な人々を調査対象として選定――にインタヴューすると、自分たちはウクライナ人であり、分離主義者ではないが、にもかかわらず、意に反してウクライナ・ネイションから排除されたという語りが聞かれる。ここに示されているのは、eventful nationalismは特定の共通経験に基礎をおくものであるため、参加した者とそうでない者の間に境界線が引かれ、それが想像の共同体に包摂されるか排除されるかの基準になるという事情である。こうして、ポスト・マイダンのウクライナで「新しいシヴィックな団結」が生まれたという観念は、「古い」エスニック・地域亀裂の残存を隠すイデオロギー的神話として機能する。イデオロギーのヘゲモニー争いにおいて、シヴィック・ナショナリズムはエスニック・ナショナリズムの言説を正当化することがある、というのが論文の結論である。
 この論文は2020年に発表されたものだが、2022年以降の本格戦争の中で、この状況は一段と深刻化しているものと想定される。ロシアによる侵攻への抵抗・抗戦という経験の共有による団結はまさしくeventful nationalismであり、それまでの地域や文化・言語による分断を超えたシヴィックな団結が生じたかのようだが、その経験を共有しない人々は「裏切り者」「敵」とされることで新しい分裂線が走っているのではないか。なお、開戦後の世論調査もいくつか伝えられているが、親露派制圧地域の住民や国外脱出した人たちが調査の対象に入っていないということにも注意しなくてはならない。
(フェイスブックに2024年5月31日に投稿したもの)