ワイダの映画『残像』を見て
 
 
 アンジェイ・ワイダの遺作となった映画『残像』(2016年)を岩波ホールで見てきた。
 表層的な筋書きをいうなら、実在した大画家(映画パンフレットではストゥシェミンスキと書かれているが、発音しにくいし、この仮名書きが最適なのかも確信が持てないので、ここでは「主人公」と書くことにする)が、スターリン時代のポーランド(中心となっているのは1949-52年)でものすごい迫害に遭い、遂には野垂れ死に同然の最期を迎えるという、およそ救いのない、「勧善懲悪」の正反対のような話である。このこと自体は一目瞭然なのだが、それだけではあまりにも分かりやす過ぎて、長らくスターリン批判的な作品を撮り続けてきたワイダが、わざわざ晩年にこの作品を製作せねばならなかった意図が十分飲み込めないという気がする。毎日新聞で映画評論を連載している藤原帰一は、「共産主義に自由を奪われた時代を忘れてはならない」というメッセージをこの作品の狙いとしているが、そんな単純な話を再確認するためだけに晩年のワイダがわざわざこの作品を撮ったと考えるのは、彼に対して失礼ではないだろうか。
 そうした表層的批評に反撥してか、一種の「深読み」として、この作品は実は現代ポーランドの「法と公正(法と正義)」政権に対する批判を秘めたものだという解釈もあるようだ。それはそれで成り立つ解釈かもしれない。もっとも、私が見た限り、そういう解釈を特に裏付けるようなシーンがあるようには感じなかった。全体としての基調は冒頭にまとめたようなものであり、その与える印象は圧倒的である。
 他方、個々の細部に注目するなら、政治主義的な図式だけにはおさまりきらないものもいくつかあるように感じられる。だが、そうした個所のほとんどは断片的かつ暗示的で、全体としての基調と微妙に異なる副次的メッセージ(そのようなものが仮にあるとして)を読み取るのは難しい。前作『カティンの森』(2007年)の場合は、ソ連内務機関の暴虐非道への強い糾弾という基調と並んで、個々のロシア人の中には善意の人もいたことを描いていて、この悲劇を反ロシア宣伝の具として利用してはならないという副次的メッセージを読み取ることができたが、本作におけるあれこれの細部は、もっとずっと黙示的である。
 たまたま私の目にとまった個別的なシーンの一例として、主人公の別れた妻が死んだときの葬儀の場面がある。ポーランドだから当然カトリックだろうと思っていたら、どうも東方正教の儀式のようだった。その少し後で、娘が母親の遺品のイコンを取り出して、それまで別居していた父のところに持っていく。それを見た父(=主人公)が「そうか、お前は正教だったな」と言うと、娘は「私のせいじゃないわ〔おそらく生まれてすぐに母親によってそうされたという意だろう〕。でも、後でパパが私をカトリックにしたじゃないの。私の宗教はいったい何なの?」と言って、父親に食って掛かる。この応酬にどういう意味が込められているのかは判然としないが、とにかく印象的な場面だった。実在の主人公は1893年ミンスク生まれということで、元の妻(カタジーナ・コブロという有名な彫刻家)はベラルーシ人かロシア人の正教徒だったのだろう。子供をどの宗教で育てるかをめぐって両親の間でどういうやりとりがあったのか、そしてどうして離婚したのかについては何も語られていない。
 もう一つ、主人公は片手と片足のない重度の障害者だが、どうしてそうなったかについては、冒頭あたりで、「本人が語りたがらないんだ。尋ねない方がいいよ」という台詞があり、ずっと後の方になって、第一次大戦中の負傷だったことが分かる。これが第二次大戦中の負傷だったなら、どの側で戦ったかによって意味づけは大きく異なるにせよ、少なくともある角度から意味づけをしたり、(秘かにもせよ)誇ったりすることができたかもしれない。だが、第一次大戦となると、帝政ロシア軍に従軍したのか、ドイツ・オーストリア側で従軍したのか、そのどちらにしても(実際には帝政ロシアの方だったらしい)、後のポーランドで意味づけたり誇ったりするのは難しかったということなのだろうか。
 また、1934年に主人公がピウスツキのサナツィア体制を批判する文章を書いたというエピソードが出てくる。この文章はかなり長く読み上げられるのだが、その時点では筆者が明かされず、後になってから実は彼の書いたものだということが明かされるので、その内容がどういうものだったかを思い出すのは難しい。戦後のポーランドで共産党体制に同調しない人々の間でピウスツキの評判は非常に高かったという話をよく聞くが、主人公が反ピウスツキだったというのは何を意味するのか。説明はない。ワイダ自身は1926年の生まれで、「全体主義体制と同い年だ」と語ったと伝えられるが、ひょっとしてピウスツキ体制を全体主義の一種と見ていたのだろうか。そういう見方はあまり一般的ではないはずだが(全体主義と区別される権威主義体制だとするのが通説)、この点も一種の謎である。
 はじめに書いたことの繰り返しになるが、全体としての基調はこの上ないほど鮮明で、強烈な印象を残す。その一方、それだけにはおさまらないかもしれないことを示唆する細部もいくつかあるが、それらはいずれも断片的かつ暗示的で、副次的メッセージのようなものがあるのかどうかも分からない。とりあえず前者を徹底して前面に押し出しつつ、後者については見る人の想像に委ねているということなのかもしれない。
 ここから先は純然たる想像になるが、映画撮影時(2014-16年)のワイダは高齢と政治情勢の双方から陰鬱な気分になっていたのではないか、作品の意図が読み取りにくいのはそうした陰鬱な気分と関係するのではないか、という風にも考えたくなる。もしそうだとするなら、冒頭に紹介した「深読み」も完全に的外れではないのかもしれない。
 
(付記)この小文は2017年6月28日にフェイスブックに投稿した文章に最小限度の微修正を施したものである。フェイスブック上では、伊東孝之、小森田秋夫両氏から補足情報に関する丁寧な書き込みがあったので、記して謝意を表する。
 もう少しだけ補足しておくなら、主人公の経歴にはロシア・ソ連と関わりあう部分がかなりある。もともと当時ロシア帝国領だった地域で生まれ、第一次大戦時にはロシア側で戦い、ロシア人あるいはベラルーシ人の妻と結婚した。ロシア革命後しばらくはソ連に在住して、当時のソ連美術界の大物マレーヴィチらと知り合い、その影響を受けた。やがてポーランドに移住したが、戦間期のピウスツキ体制には批判的だった。映画に出てくるピウスツキ批判の文章をどういう状況下で書いたのか詳しいことは分からないが、どうも左翼の立場からの批判だったようである。そして、ポーランドに社会主義政権ができた最初の時期には、国際的名声もあって、かなり高い地位を国内でも占めていた(風向きが変わるのは1949年から)。これらの事実は、主人公にとってロシアおよびソ連は単純に外から突然やってきた災厄のようなものではなく、深く内面に食い入ったものだということを物語る。だからこそ、悲劇性が際立つということなのかもしれない。だが、そうしたことは映画ではごく微かに暗示されるにとどまり、事情に通じていない観客にはほとんど分からないような描き方になっている。
 そのことと関係するのかどうかは定かでないが、ワイダの前作『カティンの森』(2007年)から本作(2016年)の間の時期にポーランド政治およびポーランド=ロシア関係は大きく揺れ動いた。前作は上述のように、反ロシア宣伝と受け取られまいという意図を明らかにさせていたし、そのことを認識したロシア政府は2010年にはカティン事件70周年の式典に彼を招き、その年のうちに友好勲章を授与した。これはポーランドとロシアの間の和解と友好を象徴する出来事だったかにも見える。だが、まさにその頃から、ポーランドの右翼ナショナリスト政党「法と公正」は、「スモレンスクの惨事」(飛行機墜落事故でカチンスキ大統領を含む多数の要人が死亡)はロシアのプーチン(当時首相、その後大統領に復帰)とポーランドの保守リベラル政党「市民政綱」のトゥスク(当時首相、その後、欧州理事会議長)の合作による陰謀だという説を強烈に唱えはじめた。この「陰謀」説は、それを信じる人と信じない人にポーランド社会を引き裂き、また一時改善されかけていたポーランド=ロシア関係を険悪化させた。そして2015年になると、「法と公正」は大統領選挙と議会選挙の双方で勝利を収め、立憲主義を軽視した権威主義的支配に向かおうとしているとの懸念が広まっている。そうした情勢がこの映画にどのように影を落としているのかは不明であり、ただ推測するほかない。
 なお、この小文と関連して、近く「ワイダとカティン」という覚書を書いてアップロードする予定。
(2017年6-7月)