宇山智彦「書評:松里公孝著『ウクライナ動乱――ソ連解体から露ウ戦争まで』(ちくま新書、2023年)」(『スラヴ研究」72号、2025年)を読んで
塩川伸明
松里公孝『ウクライナ動乱』は、日本で出た現代ウクライナ政治(史)の本として類例のないほど豊富な情報を満載した書物であり、第1級の研究書である。他面、「あとがき」で説明されているように、やや論文集的な性格があり、緊密なまとまりには欠けるところがある。多くの部分は2022年の戦争開始以前のフィールドワークに基づいて書かれているが、開戦後にまとめられたため、それを結びつけようとしているものの、多少の無理があるように感じられる。こういう特徴を持ったユニークな書物を論評するのは容易ではない*1。
そうした中で、宇山智彦による長大な書評が発表されたのは大いに歓迎される。これは松里著を細部にわたって丁寧に検討する真っ向勝負の書評であり、この主題に関心をいだく多くの人の関心を引くだろう。著者本人による応答が期待されるが、私が第3者として発言するのは、この論争に大きな意義を認めるからである。私は当該テーマについて本格的に研究しているわけではなく、どれほど適切な発言ができるかは覚束ないが、とにかく第3者としての感想を述べてみたい*2。
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この書評にはいくつかの特徴があるが、先ず注目したいのは、「本書の最も優れた部分は地方情勢、特にロシアによる併合までのクリミア政治や、ドネツク人民共和国内政の描写にある」(155頁)、「本書の最大の魅力は、現地調査で著者が出会った政治家などの人物像や人間関係についての生き生きとした描写にある」(156頁)という風に松里著に大きな長所があることを認めつつ、それにはあまり立ち入らず、むしろ不満な点に大きな紙幅を割いている点である。どのような本にも長所と欠点があるのは当然だが、宇山は長所には一言触れるにとどめ、短所について延々と論じている。これはおそらく何を重視するかによるのではないかと思われる。松里にとって重要なことが宇山にはあまり重要でなく、宇山が最も重要と考えることを松里は比較的軽く扱うといった差異が両者の間にあるのではないだろうか。
それはともかく、以下では、個々の論点について考えてみたい。宇山の松里批判には、当たっていると思われるもの、誤解ではないかという気のするもの、もっと丁寧に論じるべきではないかと感じられるもの等々が入り混じっている。すべての論点に立ち入ってはいられないが、主なものを取り上げてみよう。
「1.「ウクライナ動乱」が起きたのはソ連解体の過程に問題があったからなのか」では、主に3つの点が挙げられている(155-156頁)。
先ず、ソ連解体についてuti possidetis juris(旧国家内の行政境界線が国境に転化する原則」が適用されたことに無理があったというのが松里説だとした上で、この原則が論じられるようになったのはもっと後だとして、松里説を批判している。私見では、松里がこの原則を過大評価しているのに対し、宇山は過小評価しているのではないかという気がする。この原則は普遍的なものとして広く受けられているわけではないが、ソ連末期には連邦構成共和国間の交渉でこの原則をとることが合意されていた(連邦構成共和国よりも下の単位についてはそうでなかった)。宇山は「当然視されていた」と書いているが、単純に「当然」だったわけではなく、ある程度の論争があった上で、交渉を通じてこの原則がとられたのだから、この点はもう少し重視してもよいだろう。
続いて、コーカサスとウクライナを「紛争の再燃」として同列に並べるのは適切でないという指摘がある。これはその通りである。おそらく松里もこれを認めるのではないかという気がする。
その後に、「ポピュリズム」概念の定義が甘いという批判がある。この批判は当たっていると思われる。もっとも、松里はそもそも概念定義をそれほど重視していなかったのではないかという気もする。
「2.出来事の記述の偏りと「連鎖」の欠如、肝心な事件の欠落」では多くの論点が取り上げられているが、そのうち2014年2月20日の「スナイパー虐殺」は立ち入った検討を要するので、本稿の後半で別途論じることにしたい。
続いて、「出来事の連鎖」に関する批判がある。松里は「一つ一つの暴力事件を事実解明せず、司法的な決着をつけないから暴力規模が等比数列的に大きくなってきた」(松里、174頁)と述べるが、何も証明してはいない、というのが宇山の批判である(157頁)。それはその通りである。だが、松里はそもそもそれほど厳密な意味で「証明」しようとは考えていなかったのではないだろうか。「等比数列」という言葉があるが、これは単なる比喩であり、ただそういう風に見えるというのが松里の主張ではないだろうか。実際、いま引用された箇所のすぐ後で松里は、「他方では」として、逆の傾向(イデオロギー化を避ける穏健化)に着目している。ゼレンスキー政権の初期にそうした傾向が見られた――残念ながら長続きしなかった――とあるのは特に重要であり、宇山がこの個所に注目しなかったのは残念である。
宇山は続いてドンバス戦争と2022年の全面侵攻を取り上げて、前者は1年ほどで比較的低強度の紛争になったので両者は直接つながっていないという。これもその通りだが、松里は直接のつながりを主張しているわけではないから、この批判は空回りであるように思われる。
続く箇所で宇山はプーチンの「ノヴォロシア」発言に触れている(157-158頁)。これは確かに重要な論点である。しかし、「ノヴォロシア」論は2014年春に打ち出された後、いったん背後に退き、プーチンも繰り返さなくなった(2022年に再登場するが、その意味合いは変わっていた)。松里著332-334はこうした経緯を述べているが、宇山はその点に触れていない。
その次の箇所で宇山はドンバス戦争の開始期について論じ、松里を批判している。松里の記述はインフォーマントに影響されすぎて客観性を欠いているというのが主たる批判点である(158頁)。これはある程度当たっているように見える。もっとも、戦争の開始には様々な要因が複雑に交錯しているので、どの見方が正しくてどの見方が間違っているということを一義的に割り切るわけにはいかないのではないだろうか。
「3.単純化された、あるいは揺れのある政治観」に進んでみよう。先ずポピュリズム概念の定義の甘さが批判されているが、この問題は前述したので繰り返さない。
続いてNATO加盟問題が取り上げられ、注で「ウクライナの世論調査では2014年から2021年まで、NATO加盟支持は半数に達したことは少ないが常に反対を上回っており、2019年に著しく変化したということはない」と書かれている(158頁、注9)。これはその通りである。但し、注意しなくてはならないのは、2014年よりも前の時期には常にNATO支持率がずっと低く、転機は2019年ではなく2014年前後にあったということである。宇山の松里批判はその限りで正しいが、この問題に関して全面的に妥当とは言えない。
続く箇所で宇山は極右の問題に触れて、松里は極右の役割を過大評価していると批判している(159頁)。これは簡単は結論を出しにくい厄介な問題である。極右は人数としては少数だが、特定の局面で大きな役割を演じることがある。宇山はその後の選挙で右翼はわずかな票数しか得ていないと指摘していて、これは正しいが、選挙というのは極右の苦手領域であり、だからといって彼らが影響力を失ったということになるわけではない。マイダン革命後も、あれこれの集会に極右が乱入して暴力を振るい、人々の心胆を寒からしめたことがある。それを完全に無視するのはバランスを欠くように思われる。
続いて宇山は松里が欧米政治家の影響力を過大評価していると批判し、いくつかの例を挙げている(159頁)。これはそれぞれの例によって、当たっていたりいなかったりするだろう。松里の書き方もあいまいで、欧米政治家の影響力をどこまで重視しているのかを判定しにくいところがある。松里のそういう書き方を批判することもできるが、宇山の批判も勇み足めいたところがあるような気がする。一連の事例で最も重要なのは、イスタンブル交渉(2022年3-4月)の破綻だが、これをめぐっては種々の議論がある。松里が「欧米諸国の反対で流産した」と書いたのは確かに性急で、批判に値するが、「再侵略を可能にする条項にロシアが固執したのが主因だった」と宇山が書くのも性急ではないかという気がする。宇山は注11に挙げた論文を典拠としているが、
Samuel Charap and Sergey Radchenko, “The Talks That Could Have Ended the War in Ukraine: A Hidden History of Diplomacy That Came Up Short-but Holds Lessons for Future Negotiations,” Foregin Affairs, 16 April, 2024はこの問題について丁寧な検討を行なっており、それによれば、交渉決裂には多面的な要素が関与していたので、どれか一つが「主因」だったと決めることはできないように思われる。
「4.論のまとめから消えるロシア」の冒頭を見ると、松里は「随所でロシアに批判的なことを書いてはいるが、仔細に検討するとウクライナの情勢へのロシアの影響を小さく見積もる傾向が見て取れる」とある(159頁)。松里がロシアに全く批判的でないというなら話は単純明快だが、一応は批判的だが、それでは足りないということのようである。ではどこまで批判的でなくてはいけないのかという問題になるが、これはそう簡単ではない。
具体例として、先ずクリミア併合が取り上げられている。宇山は松里が「さまざまな可能性の一つ」として併合があったのを見落としていると批判している。しかし、松里著の第三章はクリミアに関するさまざまな思惑の交錯を詳しく描いている。その上で、「後に実行されたシナリオ」があらかじめあったとは言えないというのが松里の主張である。やや書き方に不鮮明な点があるが、事前に種々の思惑があったからといって、「後に実行されたシナリオ」が確定していたとは言えないというのはそれなりに理解しうる主張であり、宇山の批判はやや勇み足であるように感じられる。
続いてドンバス戦争に関する長めの記述がある。宇山の認識は松里の議論と全面的に衝突するものではなく、ドンバス戦争には「内戦」と「国家間戦争」の双方の要素があり、地元の活動家の役割を強調する松里の姿勢はドネツク人民共和国の研究としては不自然ではないという(160頁)。しかし、「散発的な対立がなぜ大規模な武力紛争になって長年継続したのかについては、ロシアの介入が決定的に重要だったはずである」と宇山はいう。それはその通りである。但し、松里著のうち第四章と第五章はそもそも宇山が立てたような問いを取り扱ってはいない(第六章では取り扱っているが、この章は本書全体の中でやや浮いているような印象を受ける)。節のタイトルにも示されるように、宇山は松里がロシアのことをあまり詳しく論じていないことに不満なようである。それは分からないではない。ただ、松里自身はそもそもその問題に立ち入る気があまりないのではないかという気がする。この問題についてはまた後で立ち戻ることにしたい。
最後の節は「5.露ウ戦争は「ドンバス紛争管理の失敗」?領土を放棄すれば解決するのか?」となっている。宇山は先ずプーチンの開戦演説に「自家撞着」があり、開戦目的が「ウクライナの破壊」だったという松里の指摘には同意すると書いている(161頁)。但し、「ドンバス紛争を解決できなくなったから」というのは松里自身の言葉ではないし、「ウクライナの破壊」は当初からの目的ではなく、論争を経てからの選択だったというのが松里説だから、宇山の解釈は完全に松里と一致しているわけではない。ともかく宇山が松里の見解に全面反対ではなく、部分的同意を示している点は注目に値する。
その上で、宇山は松里著の終章が列挙する紛争解決法はどれも現実性がないと論じる。そして、独立後のウクライナが多くの問題をかかえてきたのは事実だが、だからといって隣国からの侵略を必然化するわけでもなければ、正当化するわけでもないという。これは全くその通りである。もっとも、松里がロシアの侵略を正当化されると考えているかどうかは別問題である。
前にも触れたように、松里はロシアに批判的なことを書いていないわけではなく、そのことは宇山も認めるとおりである。では、何が問題なのか。私見では、これは松里の研究スタイルおよび関連する関心の置き所によるのではないかと思われる。松里は長らく世界各地であれこれのフィールドワークを精力的に行ない、種々の仕事を公けにしてきた。その対象は多岐にわたるが、中でもウクライナ各地でのフィールドワークは特に大きな位置を占めてきた。そのことと関係して、松里はあれこれのウクライナ人に対して、あるときは強い好感を示し、あるときは辛辣な批判をしてきた。ゼレンスキーに対しては、概して批判的だが、政権最初期については意外に好意的だということは前述したとおりである。彼と対立する立場にあったヤヌコヴィチについては、2月21日の逃亡を強く批判していて、決して擁護論ではない。2022年の開戦については、「ロシア軍が最初に襲ったチェルニヒウに義母が住んでいること、かつて自分が楽しく仕事をしたマリウポリ、イズュム、バフムトなどの都市が次々に灰燼に帰していったことから、個人的にも本当に嫌な思いをした」と述懐している(松里著「はじめに」11頁)。このように、松里にとってウクライナは「ウクライナ人一般」を気軽に論じられる対象ではなく、それぞれの例に即して好悪取り混ぜた複雑な感情を引き起こす対象である。
では、ロシアについてはどうか。やや意外なことに、松里は現代ロシアでのフィールドワークをあまり行なっていない。彼は2023年度にサバティカルをとって、サンクトペテルブルク(およびリガとヴィリニュス)に長期滞在したが、その目的は現代ロシアに関するフィールドワークではなくて、帝政ロシア史に関するアルヒーフ調査だった。このように松里はロシアでのフィールドワークを行なっていないため。現代ロシア政治についてあまり発言する意欲を持てないのではないかと思われる。2022年以降の戦争については、ことの性質上、ロシアに全く触れないわけにはいかず、ある程度論じているが、それはやむを得ず一応触れるということであって、あまり本格的に論じるということではないように見える。このような研究スタイルおよび関連する重点の置き方については、あまり同感することができないとして批判する人も少なくないだろう。それはそれで理解できることである。ただ、これはともかく良かれ悪しかれ独自なスタイルだということは認めないわけにはいかない。そして、松里がウクライナのあれこれの政治家について批判的な叙述をする一方、ロシアについてはあまり詳しく述べない――全然批判しないわけではない――のは、彼独自の研究スタイルのあらわれであって、彼が「親露的」だというわけでないことは確認しておいてよいと思われる。
宇山はその書評の冒頭で、松里は侵略への支持を表明してはいないが、親露的な人々は松里著に喝采し、親ウクライナ的な人々はこの本を敬遠しているように見えると書いている(155頁)。ひょっとしたら、そうなのかもしれない。だが、本書のような重厚な学術書を相手にする場合、読者を「親露的な人々」と「親ウクライナ的な人々」に二分してしまうのではなく、どのような立場に立とうと、吸収すべき点もあれば、批判すべき点もあると考えるのが有意義ではないだろうか。宇山自身、松里の議論を全否定しているわけではなく、多くの長所もあると認めているが、この書評では長所にはほんのわずかに触れるにとどまり、短所の批判に圧倒的な紙幅を割いている。その気持ちは分からないではない。だが、せっかく大著を丁寧に読んだ上での感想がこのようにまとめられるのはもったいないという気がする。
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本稿1で後回しにした論点として、2014年2月20日のスナイパー事件がある。この問題は相当入り組んでおり、松里・宇山論争をはみ出す要素もあるので、ここでやや丁寧に論じてみたい。
2013年11月に始まったマイダン運動は最初は非暴力的だったが、まもなく暴力的対決の色彩を帯びた。その後の暴力の規模には上下動があり、2014年1月下旬には何人かの死者が出はじめたが、この段階での死者数はそれほど多くはなかった。これに対し、2月20日にはスナイパーの射撃によっておよそ100人前後の死者が出た。つまり、この事件は暴力の規模を一挙に高め、大衆的憤激は頂点に達した。そういう事件であったため、射撃が何者によるものだったかが大きな論争点となったのは当然である。その後のウクライナ政権を支持する人々や欧米のジャーナルズムでは、射撃はヤヌコヴィチ政権の政治警察(ベルクート)によるものだったという説が、十分な論証のないままにほぼ定説化している。これに真っ向から挑戦して、スナイパーはマイダン運動に参加していた極右活動家だったという説を提出しているのがオタワ大学のカチャノフスキである。
このカチャノフスキは、元来ウクライナ西部出身の政治学者で、1990年代に出国して、オタワ大学で職を得た。彼は幅広く現代ウクライナ政治について論じており、現在もSNSで盛んに発信している。その内容をごく大まかに言うなら、現ウクライナ政権とは異なる角度からロシアとの対決を解説するものが多い。決して「親ロシア的」というわけではないが、分析の角度が現ウクライナ政権の主流とは異なるということである。在外ウクライナ人社会科学者のうちには、そうした言論を発している人が少なくない*3。
2月20日射撃事件の張本人がヤヌコヴィチ政権の政治警察(ベルクート)ではなく、マイダン運動に参加していた極右活動家だったという主張は、いうまでもなく非常に論争的である。それだけでなく、この問題を取り上げたカチャノフスキの初期の発言にはやや厳密を欠くところがあり、それが彼の主張の弱点となっていた。この点はカナダの研究者デイヴィッド・マープルズが指摘するとおりであり、松里著もこのマープルズ論文を紹介している(松里112頁)。カチャノフスキ本人はこのマープルズの指摘を気にしたのか、その後長きにわたって自己の説の精緻化に努めて、いくつかの新しい論文や著書を発表している*4(これらの新しい仕事は松里著が書きあげられた後に出たので、松里著では触れられていない)。新しい仕事におけるカチャノフスキの主な主張をまとめるなら、法医学的調査によれば被害者は後ろあるいは横ないし上から撃たれた(ベルクートによる射撃なら前方から撃たれるはず)、遺体から取り出された弾丸はベルクートの所持していたカラシニコフのデータベースとは一致しない、そして2023年10月18日、キーウのスヴャトシン地区裁判所は100万語に及ぶ判決文を公表したが、それは2014年2月20日の大量殺戮はベルクートではなくマイダン派の制圧していた建物に立てこもっていた極右活動家によるものだということを明らかにした(ところが、この判決は西側の主流メディアによって無視されている)、等である。これは完全な証明とまでは言えないにしても、相当丁寧な立論であり、カチャノフスキ説の信憑性を高めているように思われる。
宇山の書評は松里著よりも後に出たので、カチャノフスキの最新の著作にも言及しているが、以前の発言と最近の仕事の関係は、単に「さらに詳しく述べる」とするにとどまっている(157頁)。また、宇山はマープルズがカチャノフスキ説を否定したかに紹介しているが、マープルズ論文を読むと、カチャノフスキの発言はアカデミックに十分ではないと指摘する一方、その発見を全面的に無視すべきではないとも書いていて、今後に期待するかにもとれるニュアンスがある*5。
宇山は更にウィリアム・リッシュの論文を挙げて、これがカチャノフスキ説を論駁するものであるかに紹介している。そこでリッシュ論文を読んでみると、確かにいくつかの点でカチャノフスキを批判しているものの、正面からの否定ではなく、むしろカチャノフスキ説に自らも近寄っている印象がある。リッシュによれば、多くの目撃者が射撃は極右活動家の制圧するウクライナ・ホテルから行なわれたという点で一致しており、ベルクートによる射撃説は疑わしい。ところが、検察はウクライナ・ホテルからの射撃についてある程度捜査しかけたが、その後に妨害が入り、焦点はベルクートによる射撃に移された。マイダンの政治家たちが射撃を指令したという証拠はないが、スナイパーとの接触を疑わせる痕跡はある、等々とリッシュは述べている*6。宇山は「治安部隊がマイダン派を銃撃していたことは間違いないと指摘している」というが、リッシュ論文からそのような主張を読み取ることは難しい。
2月20日の出来事について考える上で重要なのは、その少し前からの動きとの関連である。ヤヌコヴィチはマイダン運動高揚の中で、徐々に後退ないし譲歩の姿勢を示すようになっていた。1月下旬には首相・副首相のポストを野党指導者に譲る提案をしたし、1月28日にはアザロフ首相が更迭され、大衆運動を弾圧する法律の一部も撤回された。マイダン広場に集まった大衆はこれを喝采で迎えたが、ヤヌコヴィチの辞職や2004年憲法復帰*7などを求めて運動を続けた。2月19日から21日にかけて、フランス、ドイツ、ポーランドの外相が加わって、野党指導者たちとヤヌコヴィチの長時間の会談が行なわれ、妥協策が探られた。それまで辞任を拒否していたヤヌコヴィチは、21日にとうとう辞任を認めた。2004年憲法復帰も認められた。これを勝利と見なした野党指導者たちおよび独仏ポ外相は合意文書に調印し、ヤヌコヴィチと握手をかわした。ところが、まさにその前夜の20日にスナイパーの射撃によって大量の死者が出ていたことは広場の大衆を激高させた。21日に野党指導者およびポーランドのシコルスキ外相が群衆に合意の内容を発表し、それを受け入れるよう呼びかけたところ、群衆から激しい抗議の声が上がり、合意は拒否された。ヤヌコヴィチは逃亡し、群衆は彼の邸宅を占拠した。こうして、成り立つかに見えた合意は流産し、政権は暴力的に打倒された*8。
このように見るなら、20日のスナイパー射撃は成り立ちかけた合意を吹き飛ばす意味を持ったことが明らかである。だからといって、スナイパーに関するカチャノフスキ説が完全に証明されたとまで言えるわけではないが、彼の議論はそれなりの説得力を持つもののように思われる。宇山は松里がカチャノフスキ説を詳しく紹介したことを批判しているが、松里の記述はそれなりに丁寧なものであり、宇山がいうような「偏った印象操作」とは思われない。
宇山がこのように強くカチャノフスキに反撥するのは、ひょっとしたらカチャノフスキを「親露派」と見なすからかもしれない。しかし、彼は、2022年2月の開戦をネオナチの存在で正当化するプーチンの主張は明らかな誇張であり、ロシアの侵略は国際法違反である、マイダン殺戮(2014年)はロシアの不法な侵略を正当化するものではない、と書いている。他面、ロシアの侵略はマイダン殺戮を正当化しないとも彼はいう。マイダン殺戮、オリガルヒや極右の関与、裁きの欠如は、その後のウクライナ政治にネガティヴな影響を及ぼした。そのことは、親ロシア的なクリミヤがロシアに併合されたり、ドンバスで分離主義者が台頭することに間接的に貢献した。マイダン殺戮を理解し、下手人たちを裁くことができたなら、ウクライナにおける紛争の平和的解決に貢献し、ウクライナ・ロシア戦争を予防することができただろう、というのがカチャノフスキの主張である*9。これに対してさらに反論しようと思えばできるかもしれない。ただとにかく、これはロシア政権の側に立つという意味での「親露派」の議論ではない。先にも触れたように、在外ウクライナ知識人たちの間には、決して「親露的」ではないが現ウクライナ政権にもあれこれの点で批判的な人が少なくない。カチャノフスキもその一人であって、そのような人の発言に耳を傾けるのも意味のあることではないかと思われる。
*1私の目に触れた充実した書評として、大串敦「松里公孝『ウクライナ動乱――ソ連解体から露ウ戦争まで』(ちくま新書、2023年)を読んで」がある。これは2024年1月21日に行なわれたオンライン合評会に提出されたペーパーで、私は同年1月24日のフェイスブック投稿でこれを紹介した。http://www7b.biglobe.ne.jp/~shiokawa/facebook/2024.1-3.pdf参照。
*2本稿ではいくつかの箇所で現代ウクライナ政治(史)の諸局面に触れるが、その都度典拠を明示するのは煩瑣に堪えないので省略する。とりあえず、拙稿「ウクライナ戦争の序幕――2014年前後/2010年代後半/2020-21年」(http://www7b.biglobe.ne.jp/~shiokawa/notes2013-/IntroductionUkrainianWar.pdf)参照。
*3社会学者イシチェンコ(在ベルリン)、政治学者クデリア(在米)、歴史家カシヤノフ(在ポーランド)が代表的である。拙稿「「ウクライナの声」の多様性」(http://www7b.biglobe.ne.jp/~shiokawa/notes2013-/varietyOfUkrainianvoices.pdf)参照。
*4Ivan Katchanovski, "The Maidan Massacre Trial and Investigation Revelations: Implications for the Ukraine-Russia War and Relations," Russian Politics, vol. 8, 2023; id., "Buried trial verdict confirms false-flag Maidan massacre in Ukraine," Canadian Dimension, 20 February, 2024; id., The Maidan Killing That Changed the World, Palgrave/ Macmillan, 2024.
*5David Marples, "The Snipers' massacre in Kyiv," Euromaidan Press, 23 October, 2014.
*6William Risch, “The Maidan Shooting: Conspiracy Theories and Unanswered Questions,” Commons, 20 February, 2024.
*7憲法問題は複雑な要素を含み、ここで立ち入ることはできない。さしあたり、松里公孝『ポスト社会主義の政治――ポーランド、リトアニア、アルメニア、ウクライナ、モルドヴァの準大統領制』(ちくま新書、2021年)、第五章参照。
*8松嵜英也「ウクライナにとって「西欧」とは何か――独立後の外交政策の変遷を手がかりに」『外交』72号(2022年3/4月)66頁は、2022年開戦時から振り返って2014年政変の意味を考える中で、いったん成り立った合意が過激勢力に拒否されて、武装闘争に展開したことを指摘している。
*9Ivan Katchanovski, "The Maidan Massacre Trial and Investigation Revelations: Implications for the Ukraine-Russia War and Relations," Russian Politics, vol. 8, 2023, pp. 203-204.