ウクライナ戦争をめぐって
塩川伸明
 
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 2月下旬に火を噴いたウクライナ戦争(ロシア軍によるウクライナへの攻撃)は世界中の人々の耳目を引きつけており、様々な人たちがそれぞれに態度や意見を表明している。私のように社会的影響力を持たない人間がどういう態度や意見を表明してもさしたる意義はないだろうが、痛ましい報道に接するたびに、居ても立ってもいられない気持ちに駆り立てられる。
 先ずもって最も重要な点として確認しておかなくてはならないのは、当然のことではあるが、ロシア軍によるウクライナへの攻撃は正当化する余地のない蛮行であり、これが(ロシア国内を含む)世界の多くの人たちの強い批判を浴びているのは当然だということである。これ以外にも考えるべき点が多々あるとはいえ、それらはすべてこの最重要の点を確認した上で,その後に考えるべきことだという順序関係は明確にしておかなくてはならない。
 最重要の点を確認した次に頭を離れないのは、われわれ――現地から遠く離れた地に住み、現実政治に働きかける術もごく限られている人間――はどういう位置にあるのかという問題である。というのも、現地の当事者とわれわれの間には容易には超えられない懸隔があると思われてならないからである。もっとも、遠くにいるからといって何もできないわけではなく、ウクライナでロシア軍に抵抗している人たちやロシアで自国政権を批判している人たちに連帯を表明したり、応援の声を上げることはできる。現に、様々な人たちそれぞれにそのような試みを行なっている。そのことに水を差すつもりは毛頭ないが、とにかくわれわれと当事者とは切迫性において大きな差があるということは厳然たる事実として見つめないわけにはいかない。
 当事者たちは、たとえどんなに情報が乏しかろうと、熟考するための時間が限られていようと、現に目の前で起きている事態に対して直ちに判断し、選択し、行動しなくてはならない。ひょっとしたらその判断は間違っているかもしれないが、その場合には、最悪の場合、その人は自らの命でもって判断の帰結を引き受けることになる。これに対して、遠くにいる人々にはそのような切迫性はない。自ら「気楽だ」と思ってはいないだろうが、「お気楽なものだ」と言われても仕方ない、そういう位置に否応なしにおかれている。自分が傷つく可能性のないところでの発言は、「自分は犠牲者たちに連帯し、不正義を糾弾する正義の味方だ」という自己満足や「余計なお世話」に終わる可能性もないではない。とはいえ、そういうことばかりを考えていても切りがない。とにかく各人がそれぞれにふさわしい形で連帯や支援の声を上げればよいと思うが、では私自身にとってふさわしい形とはどういうものだろうかと自問自答する日々が続いている。
 私は長年にわたってロシア帝国/ソ連/その継承諸国(ウクライナを含む)の近現代史と現状に深い関心をいだき、ある程度まで研究もしてきた。だが、ここ十数年ほどは歴史研究に専念するようになり、現状分析から基本的に撤退したので、専門的知見をもっているわけではない。現状分析から撤退した後も、断片的に種々の情報に接したり、思いをめぐらせたりといったことを続けてはいるが、それは研究者としてよりも素人的な関心の域を出ない。つまり、私は今日に至る背景としての近現代史についてはある程度通じているが、現状に関しては素人だという中途半端な位置にある。そういう人間ができることは何かと考えてみると、現状そのものの分析ではないが、それと密接に関わる中長期的文脈を振り返り、それと最近の情勢の間にどの程度のつながりあるいは飛躍があるかを考えることではないかという気がしてきた。まだ自分の見方が固まっているわけではないが、ともかくここ数日の間に考えたことを、あくまでも試論としてまとめてみたい。この試論を準備し始めてからも、次々と新しい展開があり、雑多な情報が飛び交っているが、それらについて詳しく検討するよりも、「中長期と短期的動向の間」という点に照準を当てて考えてみたい。文章の性格上、日頃の私にも似ず、価値判断をかなり前面に押し出し、相当思い切った仮説的主張を記すことになるが、こういう時期においては敢えてそういう書き方をするしかないと考えてのことである。もちろん、仮説的問題提起である以上、後日、その誤りや不十分性に気づいて修正する余地は大いにありうることを断わっておく。
 
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 さて、中長期的な文脈と短期的動向は当然ながら無縁ではありえず、後者は前者の上にある。と同時に、そこには連続性だけでなく一定の飛躍の要素もある。それは、ウクライナ=ロシア関係についてもNATOとロシアの関係についても言える。先ずウクライナとロシアの関係を中長期的に見るなら、元来あった「愛憎両面感情」のうちの「愛」の側面が背後に退き、「憎」の側面が前面に出るという流れがここしばらくずっと続いてきた。また、アメリカ・NATOとロシアの関係は時とともに緊張の度合いを高め続け、そこからの脱却の展望もなかなか見えない情勢になってきていた。しかし、だからといって本格戦争がそこからの必然的帰結だったとまでは言えない。では、そうした連続の上での飛躍をどう捉えたらよいだろうか(ここに書いたことには多くの補足を付け加える必要があるが、それらを詳述していると話が長くなってしまう。そこで、そうした点については末尾の補論に委ね、ここでは先を急ぐこととする*)。
*補論は「1 ウクライナとロシア」、「2 クリミヤについて」、「3 アメリカ・NATOとロシア」、「4 ウクライナとNATO」の4つからなり、全部あわせると本論よりやや長い分量になる。
 責任論との関係でいえば、かねてよりの緊張激化については、NATOとロシア双方の側にそれぞれの言い分があり、またそれぞれに一定の責任がある。これに対し、2月24日に始まる戦争については、ロシアが一方的に始めたものである以上、もっぱらロシアに責任があると言わないわけにはいかない。そこに至る背景として、アメリカがロシアをそのような状況に追い込んだとか、アメリカのウクライナ政策が中途半端で無責任だった等々の指摘も可能だが、とにかくこの戦争そのものについていう限り、ロシアに一方的な責任があることは否定できない。
 「中長期」と「短期」に分けるといっても、どこから「短期」が始まるかの判断も難しいが、とにかく外観からいう限り、2月下旬に始まる一連の事態はそれまでの緊張激化の域を大幅に超えるものだった。ここ数週間の事態は、私のような素人が予測できなかっただけでなく、多くの専門家や関係者たちも「まさかここまでは行くまい」と考えていたことが次々と現実化し、予感が覆された。
 主なステップを確認するなら、次の通り。
 @2月21日、ドネツクとルハンスクの両「人民共和国」の国家承認。従来、これら「人民共和国」は、「親露派」とはいうものの、モスクワが完全に意のままに操れるような自主性のない存在ではなく、モスクワにとって厄介な存在でもあった。それを正式に国家承認するということは、少し前までの常識では考えにくかった。ロシア議会の両院が承認を要求したのも、野党主導での政府への圧力であると解釈する余地があった。しかし、実際には、あっさりと国家承認に至った。
 A24日、軍事行動の開始。「人民共和国」承認の時点では、それら地域へのロシア軍進駐は不可避としても、それがある程度以上の軍事行動を伴うとまでは予期されていなかった。「人民共和国」がもとから実効統治していた地域を固め、ウクライナの統治領域との対峙が強まるにしても、それは散発的な小競り合い程度にとどまり、力の誇示が続く中で外交交渉に至るというシナリオも想定された。しかし、実際には、小競り合いの域を超えた軍事行動が直ちに開始された。
 B25日、地上戦を含む本格戦闘へ。最初の軍事行動はウクライナ軍の基地に対するミサイル空爆であり、これだけであれば、犠牲の規模は限定的――空爆が周辺の民間施設や一般住民を巻き込むことが不可避としても――と考えることもできた。雪融けで道がぬかるんでいるので、戦車の移動は難しく、非現実的だという観測もあった。しかし、実際には、複数の方向からの地上軍侵攻がすぐに続いた。この後も、次々と軍事作戦はエスカレートし続けている――停戦交渉も一応行なわれているとはいえ、それが実を結ぶ展望はまだ見えていない――が、そうしたエスカレートは、この段階で決定的な一歩を踏み出したと考えられる。
 いま見たように、これら三つのステップは論理的には必ずしも直結するとは限らず、@がAには至らないとか、AがBにまでは進まないというシナリオが、その時点では想定可能だった(実際、その当時には、そうした観察も、アメリカその他の国で諸方面から出されていた)。ところが、実際には3段階のエスカレートが、ほとんど時日をおかずに現実化した。ということは、おそらくロシア政権中枢部では事前にそのようなプランが固まっていたものと思われる。ただ、そのように決意していたのは政権中枢の少数の人たちだけであり、それ以外の人たちは、ロシアであれそれ以外の諸国であれ、必ずこうなるとまで考えてはいなかったはずである。このことは今ではほとんど忘れられているが、当時の短期的情勢を思い出す上では重要な点である。
 本格戦争の決断がどこまでさかのぼるかを明確に定めるのは至難である。昨年末あたりから、「ロシアが攻撃を準備している」という情報がアメリカから流されていた(その後、実はもっと前から準備があったらしいという情報も出てきた)。結果から見ると、それが当たっていたということになりそうだが、そう簡単には断定できない。アメリカその他の諸国の得ていた情報がどのような性格のものだったのか、その発表の仕方には一定の思惑が含まれていたのではないか(一種の宣伝戦)という問題があるからである。数ヶ月前からある種の軍事行動へ向けた準備が進んでいたこと自体は確かだろうが、その性格としては、「あり得べきシナリオの一つとしての検討」、「実行に移す可能性を意識しつつ、それを脅しとして利用しようとする段階」、「実行に移す決断」という幾通りかのものがありうる。おそらく、ここに挙げたいくつかのものが順次展開したのではないかと思われるが、現段階でこれ以上踏み込むことはできない。
 とにかく、こうしてあっという間に本格的戦争が始まってしまった。かねてから、緊張増大の中で「何が起きるか分からない」という予感はあったが、そうした予感のうちでも最も深刻なもの――「ひょっとしてそうなるかもしれない」という見方はあっても、「こうなるのが必至だ」とまでは思われていなかった――が現実化してしまった。これはそれまでの延長にあると言えばあるが、大きな飛躍でもある。
 関連するもう一つの飛躍は、ロシア政権にとっての「主要敵」が何であり、獲得目標が何かという点に関わる。開戦直前まで、最大の「脅威」はNATOだと考えられており、そのような脅威感は政権中枢だけでなく、かなり多くのロシア国民に共有されていた。これに対し、ウクライナはNATOに追随する可能性が懸念され,ある種の苛立ちを引き起こしていたとはいえ、それ自体が「敵」だとは考えられていなかった。多くのロシア国民は、「NATOの攻勢に対してわが国を守らなければならない」という呼びかけには肯定的に反応しただろうが、「ウクライナをやっつけなくてはならない」などとは、およそ考えつきもしなかっただろう。ウクライナのゼレンスキー政権を「ネオナチ」呼ばわりするのは、敵はネオナチであってウクライナではないというレトリックだが、あまりにも無理筋の宣伝だということは明らかである。ウクライナにネオナチが全然いないわけではなく、「ファシスト」と呼ばれるような勢力が皆無というわけでもないが、政権全体をネオナチと呼ぶのはどう見ても無理であり、ほとんど誰をも説得することができない。このように無理であることがあからさまなレトリックを持ち出すことも、従来の緊張激化の趨勢だけでは説明しきれない大きな飛躍である。
 中長期的文脈での緊張激化という趨勢を踏まえた上での飛躍ということを縷々述べてきたが、これは評価の問題にも関わる。少し前までの情勢に関していえば、プーチン政権にはいろいろと批判すべき点があるとしても、ある程度の言い分がないわけではなく、是認はしないまでもある程度理解できないわけではないという評価があり得た(アメリカのリアリズム学派のなかでもそのような見解があった)。しかし、開戦後となると、もはや一片の理もなく、どのように考えても弁護の余地がないという状況になった。
 
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 さて、このような飛躍があったため、その後の結果に関しても、いくつか予想外の事態が生じた。数え上げれば切りがないが、さしあたり私の目にとまったのは次の2点である。
 第1に、ウクライナの応戦能力と抗戦意欲が予想外に高いことが示された。ロシアの本格攻勢が始まった直後の予感(私だけでなく、多くの観察者の評論を含む)としては、ウクライナにはさしたる応戦能力はなく、ロシアが本気で攻め込んだらひとたまりもないだろうという見方が優勢だった。短期にキエフが制圧され、親露派による傀儡政権樹立というシナリオも予期された。ウクライナ軍がどの程度の交戦能力を持つかは未知数だったし、ウクライナ国民はもともとロシアに対する愛憎半ばする両義感情を持ち、2014年以降に反露的団結が強まったにしても、徹底的に武力抵抗を繰り広げるとまで予期されてはいなかった。しかし、現実には意外なほど頑強な抵抗を見せ、ロシア軍による電撃的勝利という目論見を打ち砕いた。ゼレンスキー大統領はもともとウクライナ国内で盤石の基盤を築いていたわけではなく、むしろ少し前までその支持率は漸減傾向を見せていたが、開戦とともに支持率が急上昇し、今や全国民的統合の象徴のような位置に押し上げられている。ウクライナ内における種々の内部分岐は一挙に埋められ、あたかも強固な国民意識があるかの様相を呈するに至ったが、これは少し前までの予測を大きく覆す事態である。
 第2に、ロシアにおける反戦ないし厭戦気分および政府批判行動の広がりが明らかになった。これは決して当然のことではない。一般論として、どのような国のどのような戦争であれ、開戦直後の時点では挙国一致的な戦争支持の雰囲気が広がり、「意識高い系」の人たちの戦争反対論は孤立する――そして、かなり時間が経って戦争の犠牲の大きさが感じられるようになってから、徐々に厭戦気分が広がる――のが通常のパターンである。ところが、今回はどうも最初から熱狂的な戦争支持はあまり感じられず、早くも厭戦気分が広がりだしているように見える(世論調査ではプーチン政権支持率がむしろ上昇しているとも伝えられるが、その解釈については種々の議論があり、少なくとも圧倒的な急上昇とは言えない)。それは2月24日以降の戦争が多くのロシア国民の予想を超えたことに由来するだろう。2月半ば頃までであれば、「西からの挑発」への反撥に基づく政府支持の気分がかなりあったろうし、その少し後も、「人民共和国」承認を支持する、また限定的軍事行動は「やむなし」と考える雰囲気があったかもしれない。だが、全面攻勢となったことで、「いくら何でもあんまりだ」という考えが広まったのではないか。ロシア軍がかなりの規模の犠牲を出していることもそれに拍車をかけているだろう。反戦運動の意外な高まりに直面したロシア政府は、その後、言論統制を強めているが、いくら統制を強めても、多数のロシア兵士の死体が戻ってくるなら、泥沼化の現実は否応なしに感じ取られることだろう。
 ロシアにおける反戦/厭戦の態度は多様な形で表出されており、そこには種々の要素が流れ込んでいる。われわれに比較的届きやすいのは知識人たちのアピールであり、その多くは大変格調の高いもので、読んでいて思わず目頭が熱くなったりする。市民の集会・デモも相当大きな規模になっているようであり、その参加者たちの声を聴くと、「ロシアにも政権とは異なる態度を表明する勇気ある人々がいるのだ」と感じさせられて、胸を打たれる。
 とはいえ、反戦/厭戦の動きはそういうものだけに限られるわけではなく、もっと多様な要素からなる。政治的立場についていえば、もとから政権の豪腕な統治手法に批判的だったリベラル寄りの人たち――こういう人たちは住民全体からいえば少数派――だけではなく、元来は政権を支持していたような人たちの間からも、種々の戦争批判の声が出てきている。ある意味では、そうした部分の登場こそは政権の安定度を左右するかもしれない。
 一つには、いわゆる「オリガルヒ」(財閥の頭目たち)の動向が注目される。ロシアの資本主義化のなかで一種の「成り金」「政商」のような形で台頭したオリガルヒたちは、一面では政権と癒着しているが、他面では、政治権力と対抗することもある。プーチン政権のもとで政権からにらまれた何人かのオリガルヒは海外に逃亡した。その後も国内にとどまっているオリガルヒは基本的に政権に近い立場だが、そうした人たちの間でも動揺が始まっていると報じられている。代表例として、「アルミ王」と呼ばれるデリパスカ、アルファ・バンクのフリードマン、ノリリスク・ニッケルのポターニンらが政権批判的態度を示したとのことであり、他にも何人かが続く可能性が取り沙汰されている。これは人道的な考慮からの反戦論というわけではなく、経済制裁が彼らを直撃することから、「こんな損なことはやめてくれ」ということと解釈すべきだろうが、財閥が政権を支える支柱の一つだった以上、無視できない役割を果たす可能性がある。
 軍のなかでも動揺が始まっている可能性が取り沙汰されている。早い時期にセンセーションを呼び起こしたのは、退役将校のイヴァショフが1月末にウクライナへの侵攻に反対する声明を発表したことである。その時点ではまだ戦争が始まっていなかったが、ひょっとして彼は事前に特別な情報をもっていたのかどうかは不明である。イヴァショフの軍内での影響力がどの程度なのかもよく分からず、これを直ちに軍全体の動向とみるのは性急かもしれない。いずれにせよ、これは愛国主義的な立場からの戦争批判であり、いわゆるリベラルな立場のものではない。軍のなかの動揺が現時点でどの程度のものかを判断することはできないが、「早期の勝利」という展望を裏切って泥沼化が進行するなら、軍事的リアリズムからの批判が増大しておかしくない。さらに、最近ではFSB(連邦保安庁=政治警察)の中でも不穏な動向があるとの報道も出た。その真偽は定めがたいが、とにかく気になる動きではある。
 ロシア共産党の国会議員の中からも反戦論が出てきた。彼らは同党が「人民共和国」承認のイニシャチヴをとったのは平和のためであって戦争のためではなかったと主張しているようだ。日本では、共産党は野党ではなくむしろ与党だという解説が盛んである。そういう風にだけいうのは性急であり、政権とときおり馴れ合う中途半端な野党(そういう野党は日本でも少なくない)と見るべきだろうが、とにかくそういう勢力の中からこのような声が出てきたというのは注目に値する事実である。これも、もとからの政権批判派だった人たちだけでなく、むしろどちらかといえば政権を支えてきたような勢力の間での動揺を物語る。
 このように見てくると、プーチンは大きな誤算をしたと考えないわけにはいかない。ウクライナの反応も自国内での反応も、ともに予想を大きく超えるものだった。
 では、どうしてプーチンはそのような誤算を犯したのかというのが次の問題となる。彼はもともと独裁者で、好戦的・侵略的な人間なのだから、その当然の帰結だというような評論もよく見かけるが、過去の経緯を振り返るなら、そう見るのは性急だろう。彼のことをヒューマニスティックな人間だと考える人はいないが、冷酷である分、冷徹な打算には長けており、いわば非情な合理主義と軍事的リアリズムを特徴とするという見方の方が説得力がある。ところが、ここへきて、とうとうその合理主義とリアリズムを失ったのではないか。
 その理由がどこにあるかは大きな問題である。いくつかの要因を挙げることはできる。長期政権化と加齢による判断力の弱まり、国内的な困難と支持率低下に対する焦りなどといった要因が容易に思い浮かぶ。それだけですべてかどうかは何とも言えない。一部で精神錯乱説が出ているのは、それ自体としては「ガセネタ」の類いかもしれないが、そういう憶測が出てくること自体が象徴的ではある。
 
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 ロシアにおける戦争反対の動きの高まりがどの程度のものになり、政権を揺るがすところにまで至るかどうかはにわかに判断できない。反戦論の登場に脅かされた政権は言論統制を一層強めているが、それがどこまで異論を封じ込めるか、それとも統制をはみ出す情報や行動が増大し続けるか、すべては今後にかかっている。
 では、これから先どうなっていくのだろうか。国際情勢全体ともかかわるが、とりあえずロシア国内の情勢に即していうなら、次のようなシナリオが考えられる(現状に比べて変化の度合いの小さい方から大きい方の順に並べた)。
 @政権による情報統制および反戦運動押さえ込みの一層の強まり。高姿勢での戦争継続と拡大(核の使用を含む)。
 A政権自身による政策再考と一歩後退。
 Bプーチン以外の政治家たちによるプーチン引き下ろしと政権交代を通した停戦と和平。
 C各地での争乱と暴動、内戦。
 これらのうちAとBは、ともかくも戦争の停止を意味するから、万事めでたしとまでは行かないまでも相対的に歓迎できるシナリオである。だが、これが現実化するという保証があるわけではない。@とABは相互排斥的だから、さしあたってはここに大きな分岐線があるが、仮にABが実現した場合にそれがCに滑り落ちる可能性もないとは言えない。
 現時点ではCの兆しが見えているわけではないから、このシナリオを想定するのは取り越し苦労といわれるかもしれない。しかし、成り行き次第ではそのようになる可能性を度外視することはできないのではないかという気がしてならない。世界の他の地域でも、元来は平和的で理性的だった政権批判運動が高まるうちに、そこに種々の要素がなだれ込んで、暴動・騒乱・暴力革命に転化するという例がいくつかあり、ロシアもその轍を踏むおそれなしとしない。背景を考えるなら、経済社会状況の悪化と格差拡大、コロナ禍に伴う不満と不安の鬱積、世界的なポピュリズム・ナショナリズムの相互応酬などの中で蓄積された不満が何らかのきっかけで爆発する可能性が考えられる。これは歴史的アナロジーとしては、17世紀初頭のロシアで生じた「スムータ(騒乱)」の再来のようなことになる。現状はすでに十分以上に暗いが、その後に明るい未来がやってくるとは限らず、もっとひどいことにならない保証はない。これは一種の悪夢であり、この悪夢が現実のものとならないことを切に祈る。
 これらのシナリオのうち@とCは最悪であり、AとBはそれよりはマシだが、それぞれに限界もあり、またそれがCに転化する可能性も否定しきれない。暗い予想ばかりしていても仕方ないが、少しでもマシな方向への動きが強まることをただ祈るほかない。
 
 
(補論1)ウクライナとロシア
 今日優勢な言説は、ウクライナ人とロシア人は一定の近接性をもつとはいえ明確に異なる民族であり、歴史を通じてロシアがウクライナを支配し抑圧してきたというものである。これに対し、現代ロシアでは、プーチン自身を含む一連の人たちによって、ウクライナとロシア(およびベラルーシ)はもともと一体だったのだということを強調して、いまやその本来的な全一性に戻ろうとしているのだという観点が提出されている(前者を「抑圧民族・被抑圧民族」論、後者を「全一性」論と呼ぶことにする)。多くの日本人の目から見れば、この「全一性」論は途方もない暴論と映るだろう。確かに、これは相当強引な極論であり、そのまま同感することはできない。しかし、こうした発想にはそれなりの背景がないわけではなく、たとえばドストエフスキーとかソルジェニツィンのような人たちにもこれと類似した発想があった。他方、「抑圧民族・被抑圧民族」論――ついでながら、この図式の元祖はレーニンである――は正当な面をもつと同時に、いくつか注意しなくてはならない面がある。認識に関していえば、これは民族に関する本質主義的発想を暗に前提しており、流動的・可変的な関係を過度に固定化して捉えることになりやすい。また実践面からいえば、「抑圧民族・被抑圧民族」論は善玉・悪玉論になりやすく、善玉に対しては「ひいきの引き倒し」、悪玉に対しては過剰な悪魔化につながる可能性がある。では、極端な「全一性」論に与することなく、かといって安易な「抑圧民族・被抑圧民族」の図式で満足するのでもない見方を打ち出すことができるだろうか。これは非常に大きな課題であって、私に十分な資格があるわけではないが、とりあえずの大まかな試論を出してみたい。
 先ず長期的な背景を考えるなら、後に「ロシア人」「ウクライナ人」「ベラルーシ人」と見なされるようになる人々の先祖は東スラヴ系の言語を話し、東方正教を奉じるという点で緩やかな共通性を持っていた。東スラヴ最初の国家キエフ・ルーシがモンゴル=タタール勢力によって滅ぼされた後、東ルーシ(後のロシア)は多数の公国分立状態となり、西ルーシ(後のウクライナとベラルーシ)はポーランド=リトアニア連合王国の勢力圏となった(その関係で、カトリックの影響も広がった)。16世紀に台頭したモスクワ大公国(後のロシア帝国)は17-19世紀を通じて領土を拡大し、東スラヴ系住民の住む地域の大半を包括するようになった(但し、西端はその外にとどまった)。
 一般論となるが、帝国というものは近代国民国家と違って国内住民の均質化を必ずしも目指さない。その統治下には多様な宗教や多様な言語をもつ雑多な人々が住んでいるが、そのうちのいずれかだけを唯一絶対として、それ以外を根絶して住民全体を均質化するなどということは不可能だし、統治の密度の低い前近代にあってはその必要性もなかった。もちろん民主主義とか平等とかいった観念が普及する以前の時代であるため、平等で民主的な統合が目指されたわけではないが、不平等を前提した上での多民族・多宗教・多言語の包摂メカニズムがつくられた。ハプスブルク帝国はドイツ人だけの帝国ではなかったし、オスマン帝国はトルコ人だけの帝国でもムスリムだけの帝国でもなかった。ロシア帝国も同様であり、そこにおける「ロシア」を指す形容詞「ロシースカヤ」は、民族的ロシア人を意味する「ルスカヤ」よりも広く、その領土内のすべての人々を指していた。
 以上は一般論だが、ウクライナの場合、ロシアと異なる歴史的経路で帝国に包摂されたとはいえ、言語・宗教・風俗習慣などにおいて高度の親近性があったから、「他者」なのかどうかをにわかに確定することのできない微妙な関係があった。ロシア人とウクライナ人はよく兄弟になぞらえられるが、「兄」が「弟」に「上から目線」で接することに対して、「弟」が「ウザい」と感じて反撥することがあるのは当然である。と同時に、「兄」を打倒してしまおうというほどの敵対関係に至ることもあまりなく、仲良い関係と喧嘩する関係の両面が交互にやってきたり、あるいは同時共存したりする。混合結婚も多く、双方の血を引く人たちも多いので、ある人がウクライナ人なのかロシア人なのかを区別すること自体が必ずしも容易でない(中央アジアなどでは、ロシア人とウクライナ人はともに「スラヴ系」として一括され、同一視されやすい)。こういうわけで、「全一性」テーゼでも「抑圧民族・被抑圧民族」テーゼでも説明しきれない複雑な関係が生じていた。
 ロシア革命後のソ連では、この状況が継続すると同時に、一定の変化がもたらされた。帝政期においては「民族」というカテゴリーはあまり重視されず、人口調査において「民族」が記録されることもなかった。調査では「民族」の代わりに「母語」が問われ、そのためウクライナ住民のかなりの部分が「ロシア語話者」として記録された(そもそも「ウクライナ」という行政単位はなかった)。これに対して、ソヴェト政権は「ウクライナ民族」というものが存在するという前提で「ウクライナ共和国」という領域的単位をつくりだした。帝政期の人口調査と違ってソヴェト期の人口調査は「母語」とは別に「民族」の項目を立て、その結果、「母語はロシア語だが、民族としてはウクライナ人」というカテゴリーが新たに登場することになった。このカテゴリーの創出は、統計上「ウクライナ人」の数を多くする効果をもった。
 ソヴェト政権、とりわけ初期の民族政策の基本は「現地化」政策と称される。特定地域に「基幹民族」を定め、その民族言語や民族文化を振興し、また基幹民族エリートを養成して、大学に優先的に入学させたり、行政職に優先的につけるといった、一種のアファーマティヴ・アクションである(この比喩はアメリカの研究者テリー・マーチンによる)。アメリカにおけるアファーマティヴ・アクション同様、この政策は差別克服を目指しつつも、むしろ意図せざる結果として、諸民族間の対抗と秘かな差別を再生産した。というのも、「基幹民族」概念の設定自体が「民族」帰属を固定化する効果をもったし、特恵政策の対象となるのは誰かということをめぐる争いが「民族紛争」という形をとるようになったからである。そのためもあって、ある時期以降、「現地化」政策は後退したが、特定の地域と民族を対応させて「基幹民族」に特恵的条件を供与するという構造はその後も持続した。ソ連体制の中で「連邦構成共和国」という地位を与えられた地域では、それぞれの民族エリートが成長して、秘かな対中央自主性や隠れたナショナリズム発生のもととなり、ソ連末期の変動から独立に至る背景を形づくった。以上はソ連体制全般の一般論だが、ウクライナの場合、人口面でロシアに次ぐ第二位である上、経済力も大きく、言語その他の面でのロシア人との共通性も大きいため、相対的に多くのソヴェト・エリートを輩出し、「支配者」層のなかで大きな位置を占めていた。いわば「長兄」としてのロシアに比べれば相対的劣位だとしても、その他の諸民族に比べるなら相対上位の「次男」的な位置を占めていたことになる。
 こうした背景があったため、ペレストロイカのもとでソ連各地で多様な民族運動が始まってからもしばらくの間、ウクライナ情勢は相対的に穏和であり、最西部のガリツィヤ3州を除けば独立運動は有力ではなかった。1989年に登場した人民戦線運動「ルーフ」は、はじめのうち多くの共産党員を含んでおり、体制内改革路線をとっていた。それでもソ連全体の政治的活性化のなかでウクライナも1990年7月に主権宣言を採択したが、これはバルト3国やサカルトヴェロ(グルジア/ジョージア)に比べればそれほど尖鋭な性格を帯びてはいなかった。同年秋には学生たちの運動高揚を契機に、政治全体が急進化する傾向を見せ始めたが、その主導権をとったのは、「主権派共産党」と呼ばれたクラフチューク(元は共産党のイデオロギー官僚だったが、民族路線に乗り換え、後に初代大統領となる)であり、この時点では明確な独立を目標としてはいなかった。他方、ルーフは次第に急進化を強めて、独立を目標として明示し、当初提携していた共産党との対決を明らかにするようになったが、その中でも主流派=相対穏健派と最急進派(ルキヤネンコの率いる共和党)の分岐が生じた。
 1991年8月クーデタ時に、クラフチューク最高会議議長はそのクーデタへの態度が曖昧だったのではないかとの疑惑がかけられ、地位が揺らぎかけたが、彼は失地を回復すべく、一挙に独立論へと態度を変更した。直後に採択された独立宣言は、独立論に乗り換えた「主権派共産党」とルーフ内主流派=相対穏健派の妥協によって成り立ったもので、その後の方向性を不明確にしたままでの宣言だった。時を同じくして、エリツィン・ロシア大統領の報道官が「独立する共和国とは国境調整の必要がある」と発言し、これはウクライナ東部およびクリミヤに対する領土要求と解釈されてセンセーションを巻き起こした。これ自体はあまり紛糾させまいとする政治家間の合意によってとりあえず不問に付されたが、後のロシア=ウクライナ対抗の種がこの時期に蒔かれたことは記憶に値する。同年12月に行なわれた独立レファレンダムでは独立論が圧倒的に支持され、同日の大統領選挙ではクラフチュークが第1位で当選、ルーフ指導者のチョルノヴィルが第2位、急進派=共和党のルキヤネンコが第3位、ルーフから分かれてロシア語系住民に配慮する立場をとったグリニョフが第4位という結果になった(地理的にはクラフチュークが東部・南部・クリミヤで圧勝した他、各地でまんべんなく集票したのに対し、チョルノヴィルとルキヤネンコは西部でしか票を取れず、グリニョフは東部・南部・クリミヤで主に集票した)。
 独立後最初の十数年のウクライナは、内部にさまざまな分岐をかかえてはいたものの、それが激しい武力衝突とか内戦の形をとることはなく、緩やかな統合を維持した。この間に何回も行なわれた大統領選挙と議会選挙は、さまざまな混乱や対決を含みつつも、一応は自由で民主的な選挙として実施され、平和的な政権交代を繰り返していた。議会では国内の分岐を反映して穏健な多党制状況があり、複雑な連衡合従を通して連立政権がつくられた。大統領選挙とりわけ決選投票ではゼロサム的対決の構図がつくられたが、当選者は選挙時に支持基盤となった地域だけでなく全国を代表する大統領として振る舞おうと努めた。初代および第2代大統領のクラフチュークとクチマはどちらも元は共産党員であり、選挙時には東部・南部のロシア語系優勢地域の票を多く集めたが、当選後は西部のナショナリストをも統合するため西寄りの政策を取り入れて、東西のバランスをとろうと努めた。
 こうした情勢が変わるきっかけとなったのは、2004年の「オレンジ革命」とユシチェンコ政権の成立である。「オレンジ革命」は通常「民主化」革命としての側面だけが注目されているが、「革命」の主体となった「オレンジ連合」は異質な勢力の寄り合い所帯であり、勝利後に直ちに分解しはじめた。ユシチェンコ大統領を支える与党は議会少数派となり、経済不振もあって、ユシチェンコ政権は行き詰まり状況に追い込まれた。そうしたなかで、ユシチェンコはロシアとの対抗を前面に出したアイデンティティ政治をかき立てるようになった。1930年代の飢饉を「ホロドモル」と名付け、「ウクライナ人を標的としたジェノサイド」だとする宣伝を繰り広げたり*、独ソ戦中にウクライナ民族主義の立場から反ソ・パルチザン戦争を遂行したバンデラを「民族的英雄」と位置づけるなどである**。こうしたアイデンティティ政治はナショナリスト的団結を高揚させる反面、国全体としては亀裂を深めた。
*この飢饉はペレストロイカ期に多くの歴史家によって注目されるようになったが、当時はスターリン時代の諸民族共通の悲劇として捉えられていたものが、ユシチェンコ期にはウクライナ人だけの民族的悲劇と描かれるようになった。実際には、飢饉の犠牲者はウクライナ人だけではなく,多くのロシア人、カザフ人、ベラルーシ人などを含んでおり、ウクライナ人だけを標的とした民族的ジェノサイドとする見方には無理があることが欧米の研究者によっても指摘されている。
**バンデラ派はナチ・ドイツと一時的・便宜的にもせよ提携したのではないかとの疑惑がかけられており、ロシアでは「バンデラ派=ナチ」のイメージが一般的である。より明確にナチと協力したのはメリニク派であり、バンデラ派は親ナチとは言えないとの説もあるが、とにかくロシアではそのイメージが強い。そのことは、バンデラを「民族的英雄」と見なす現代ウクライナはファシスト支持者だというイメージが広がるもととなった。後に「マイダン革命」後に発足したポロシェンコ政権はバンデラ派の称揚を一層推し進めたが、そのことはロシアから見て、ウクライナでファシストが多いというイメージを強める結果となった。
 ともかく、ユシチェンコ政権末期には行き詰まりが明らかとなっており、その支持率は非常に低くなっていた。2010年の大統領選挙では、ユシチェンコは決選投票に残るのにほど遠い第5位(得票率5%)にとどまった。決選投票では、東部・南部を基盤とするヤヌコヴィチが西部を基盤とするティモシェンコを僅差で破って当選した。ヤヌコヴィチは2004年の「オレンジ革命」で敗北した政治家であり、しばしば「親ロシア派」とされるから、彼の当選は不可解な大逆転であるかに見える。敗北したティモシェンコは「不正選挙」があったと申し立てたが、調査の結果、不正の規模は選挙結果を左右するほどのものではなかったとされ、欧米諸国もこの結果を認めた(OSCEをはじめとする国際選挙監視団は全体として公正な選挙だったと認定した)。もともとウクライナの政治はそれほど極端に両極化していたわけではなく、東西の微妙なバランス――内政的にも外交的にも――の中での小刻みな揺れを特徴としてきたから、そのときどきの情勢でこうした揺れがあること自体は不思議ではない。
 このようにして発足したヤヌコヴィチ政権は、通常「親露的」と言われるが、全面的にロシアに依存する姿勢をとっていたわけではなく、むしろロシアと西欧の双方とのつながりをもとうとするのが元来の姿勢だった。しかし、世界的な経済不況を背景とした国際緊張激化のなかでそうした両天秤政策の維持が困難になり、末期にはロシア依存を濃くした。しかも、各種の腐敗が広く指摘されるようになり、政権全体として行き詰まりの様相を濃くした。その結果として2013年末から14年初頭にかけて反政府運動(キエフの中心にある広場にちなんで「マイダン運動」と呼ばれる)が高まったのは自然な流れだった。ところが、この運動は14年2月に突然、暴力革命の様相を帯びるに至り、ヤヌコヴィチを国外逃亡に追い込んだ。その背後の事情は明らかでないが、整然たる市民運動のなかに過激な暴力を持ち込む人たちが紛れ込んだようであり、その中には「ネオナチ」的傾向の人たちもいたと伝えられる。このような「マイダン運動」の暴力革命化は、ロシア語系住民の多いクリミヤおよびドンバス2州の住民を刺激し、前者のロシアへの移行、後者における「人民共和国」樹立を引き起こした。これはそれまでの国家秩序の非立憲的な変更であり、ウクライナのみならず諸外国から強く非難された。もっとも、当事者たちからすれば、その前にウクライナで非立憲的な暴力革命があったということが正当化根拠とされている。ロシア政権がこれにどのように関与したのかは不確定だが、少なくとも2つの「人民共和国」発足時には、どちらかといえば受身的に引きずり込まれたように見える。
 この後、ウクライナには「ネオナチ」分子と目される勢力――自らナチのシンボルを掲げる「アゾフ連隊」など――が諸外国から流れ込み、準軍隊的な行動を示威するようになった。それがどの程度の規模か、活動実態はどうか、政権はそれとどのような関係にあるのかをめぐっては諸説が乱れ飛んでいて、確定することが難しい。とにかく、そうした勢力のいることがロシアからの「ネオナチ」宣伝に一定のもっともらしさを付与することになった。「火のない所に煙は立たない」という言葉を借りて比喩的にいうなら、大きな火事があったわけではなく、小さな火種があった――皆無とは言えない――のを最大限に膨れ上がらせて、大きな煙に仕立て上げたということではないかと思われる。
 やや長々とウクライナの歴史を振り返ってきたが、この国には言語・文化・宗教・風俗習慣などにおいて大まかな共通性を基礎にした多様性と対抗関係が共存しており、一枚岩的均質性を獲得しにくい条件があった。そのことをもって、ウクライナは国民国家をつくることができなかったとする議論もあるが、均質性を基礎にした一体的団結をモデルとするのではなく、多様性と対抗関係を緩やかに包摂する統合が徐々に生まれつつあったという見方も可能ではないかと思われる。独立後十数年の間、穏健な多党制のもとで,選挙を通じた民主的政権交代が何度も繰り返されてきたこと、当選した大統領は選挙時の支持基盤だけにこだわることなく、東西バランスを重視する政策をとってきたことはそのことを物語る。このような内部分岐を緩やかに包摂した多元的統合はユシチェンコ期にアイデンティティ政治が強調されることで大きく揺さぶられ、分極化が強まった。これに続いた「マイダン革命」後には、クリミヤおよび東部2州を除いた部分における反ロシア的団結が強められた。そうした背景の上で、今回の戦争はウクライナを決定的に「反ロシア」的基盤で団結する方向に押しやった。今後、ウクライナがますます「反ロシア」的団結による一枚岩性を強めるのか、内部の多様性を認めた緩やかな包摂に向かうかは、これから先の成り行きを見なくてはならない。
 
(補論2)クリミヤについて
 15-18世紀に存在したクリミヤ=ハン国は、一時はクリミヤ半島のみならず黒海北岸および北カフカス一帯を支配する強国だったが、18世紀末にロシア帝国に併合された。以後、長期にわたってクリミヤ=タタール人は国外に流出し、20世紀初頭にはクリミヤ半島住民の4分の1程度にまで減っていた(クリミヤ人口中でタタールが少数派になったのはスターリンの強制追放によるとの解説がときおり見受けられるが、間違い)。そのように少数派になっていたとはいえ、先住民であることから、ソヴェト政権はクリミヤに「ロシア共和国内の自治共和国」という地位を付与し、クリミヤ=タタール語とロシア語を国家語と位置づけた。
 1944年にスターリンのもとでクリミヤ=タタール人が強制追放され、自治共和国も廃止されたことはよく知られている。1956年にいくつかの被追放民族が名誉回復されたときにクリミヤ=タタールはその対象に入らなかったが、1967年に遅ればせに名誉回復された。これに伴って移動の自由も原則的には回復したが、複雑な行政手続きの壁に阻まれて、実質上ほとんど帰還することができなかった。
 戦前のクリミヤ自治共和国も戦後のクリミヤ州もともにロシア共和国の行政管轄下にあったが、1954年にフルシチョフはロシア=ウクライナ友好の印として、クリミヤをロシア共和国からウクライナ共和国に「贈与」した。後に、この「贈与」決定が恣意的かつ不法だったとする見地から、その取り消し論(「ロシアへの復帰」論)が台頭することになる。
 ペレストロイカ期の1989年に行なわれた人口調査によれば、クリミヤ州の人口約243万人のうちロシア人が163万人(67%)、ウクライナ人が63万人(26%)、ベラルーシ人が5万人(2%)を占め、徐々に帰還しつつあったクリミヤ=タタール人はその時点で4万人弱(1.6%)にとどまっていた(その後、帰還が増大して、州人口の約10%に上昇した)。民族的ウクライナ人やベラルーシ人でもロシア語を母語とする者が多いため、住民全体のうちロシア語を母語とする者は83%に及んだ。つまり、人口構成からいえば、ロシア語系住民が圧倒的多数であり、ウクライナ民族主義はほとんど浸透していなかった。
 ペレストロイカ後期のクリミヤでは、住民の多数派をなすロシア語系住民の間で、自治共和国の地位復活を求める動きが高まり、1991年1月の住民投票で圧倒的賛成を得て承認された。このとき、クリミヤ=タタール人は自分たちを少数派の位置においたままでの自治共和国創設は認められないとして、住民投票をボイコットした(自治共和国最高会議はクリミヤ=タタール人に民族代表としての議席を提供したが、これもボイコットした)。もっとも、クリミヤ=タタール人の運動はいくつかの組織に分かれていたし、ウクライナ中央および諸政党のクリミヤへの態度も未確定かつ流動的で、ペレストロイカ末期のクリミヤをめぐる政治情勢はきわめて複雑な様相を呈していた。
 1991年初頭のクリミヤの自治共和国化は、とりあえずは「ウクライナ共和国内の自治共和国」というものだったが、その時点ではまだソ連が存在していたから、ロシア共和国内かウクライナ共和国内かということはそれほど大きな問題ではなかった。しかし、ウクライナが1991年8月に独立宣言を発すると、どの共和国に帰属するかという問題がにわかに重大な意味を帯びることになった。エリツィンの報道官が国境改定の必要性を示唆して騒然となったことは補論1で触れたが、これもそのあらわれである。1991年末にソ連が解体して、ウクライナが正式に独立国家となると、クリミヤでは「ロシアへの復帰」論が急激に高まり、これはロシアとウクライナの国家間対抗の重要な要因となった(なお、ウクライナ中央のクリミヤ=タタールへの態度は当初一義的でなかったが、ロシアとの対抗のなかで、クリミヤ=タタールの中のある部分と提携して、これを利用するようになった)。90年代前半を通じて複雑な交渉が重ねられたが、1997年にはロシアとウクライナが黒海艦隊分割協定および二国間友好協力条約を結んで、対抗はいったん収拾された。
 このようにクリミヤをめぐるロシアとウクライナおよびクリミヤ=タタールの関係は複雑な対抗と連衡合従を重ねたが、1990年代末にはいったんある種の安定を獲得した。その安定を一挙に突き崩したのは2014年のウクライナ「マイダン革命」の衝撃である。このときに行なわれたロシアへの移行への賛否を問う住民投票は、混乱状況の下で短期間に準備された以上、どこまで公正に行なわれたかには疑問の余地があるが、住民の大多数がロシア語系住民であり、ウクライナ民族主義急進化への懸念が広がっていたことを念頭におくなら、多数がロシア移行に賛成投票したこと自体を疑う理由はない。もちろん、ウクライナおよび諸外国の見地からすれば、これは非立憲的な行為であり、この後、クリミヤを編入したロシアは国際的孤立状況におかれることになった。
 
(補論3)アメリカ・NATOとロシア
 この問題については冷戦末期以来の長い歴史がある。その全容を論じることはあまりにも大きな課題となってしまい、ここではとても論じきれないが、とにかくいくつかの重要な節目について考えてみたい。
 やや古い話でありながら最近も論争が蒸し返されている論点として、1990年のドイツ統一交渉時にアメリカはNATO不拡大を約束したのかどうかという問題がある。現在の政治的論争の構図は、一方の側が「アメリカはNATO不拡大を約束したのに、それを破った」と主張し、他方の側が「それは嘘だ。そんな約束などなかった」と主張するという形になっている。しかし、過熱した政治的論争から離れて、これまでに積み上げられてきた研究者たちの議論を振り返るなら、およそ次のような点が――もちろん研究者ごとにいくらかのニュアンスの差異を含みながら――確認されてきた(日本では吉留公太『ドイツ統一とアメリカ外交』(晃洋書房、2021年)が詳しく検討しており、私も拙著『歴史の中のロシア革命とソ連』(有志舎、2020年)の第六章で論じた)。即ち、正式の約束があったかなかったかといえばなかったが、ある種の仄めかしはあった、そしてその仄めかしの意味をめぐっては種々の解釈があり、「約束があったはずだ」と思い込む人がいてもおかしくない、ということである。付け加えるなら、論争の的となっているベーカー米国務長官の「1インチも東方に進出しない」という発言は1990年2月時点のものであり、ゴルバチョフが統一ドイツのNATO帰属を認める7月までにはなおいくつかの曲折があったから、そうした経緯抜きでこの時点でのやりとりだけから何らかの結論を出すのは性急である。
 いま触れたのは1990年前半のドイツ統一をめぐる交渉過程だが、もう少しさかのぼるなら、1989年末のマルタ会談に至る米ソ交渉の中で、「冷戦終焉」をめぐってゴルバチョフとブッシュの間に微妙な食い違いがあった。通説的にはこのときに米ソが共同で冷戦終焉を宣言したとされるが、吉留の前掲書によれば、実は、マルタで「共同の冷戦終焉確認」を語ったのはゴルバチョフだけで、ブッシュはその点に触れなかった。共同記者会見でゴルバチョフがそう語ったときにブッシュが何も言わなかったのは、あたかもゴルバチョフ発言を黙認するかの印象をつくりだし、そのことが「マルタで米ソは共同で冷戦終焉を宣言した」という通説のもととなった。しかし、実際にはブッシュはゴルバチョフと異なる考えをもっていたことが、その直後から明らかとなった。ゴルバチョフがこの時期に重視していたのは、冷戦が終わったからにはNATOもワルシャワ条約機構もともに不要となり、双方の変容を通して新しい全欧機構がつくりだされるべきだということであり、ドイツ統一もそうした全欧的過程に位置づけられるべきだというのが彼の立場だった。これに対し、アメリカにとってはあくまでもNATOが最重要であり、統一ドイツはNATOに帰属する以外の結論はありえないという方針をブッシュ政権は押し通した。このような米ソの立場の違いが1990年前半におけるドイツ統一交渉の核心であり、2月のベーカー発言もその一コマだったが、力関係に劣るゴルバチョフは結果的にブッシュに押し切られた。
 ソ連解体後にも様々な変化があった。30年に及ぶその過程の全容に立ち入ることはできないが、一つの重要な節目は、1999年に始まる数次のNATO東方拡大である。これをめぐっても種々の議論があるが、私の記憶に残っているのは、アメリカのジョージ・ケナンが晩年の遺言的発言として、東方拡大はロシアを挑発する危険な選択だとして、これを強く批判したことである。それ以外にも、何人かのアメリカのリアリスト系政治学者や外交官たちが同様の見地を表明していたが、クリントン政権によって無視された。他方、あるロシアのリベラルな論者は、当時、NATOの東方拡大によって自分たちの国内基盤は極度に狭められてしまった、これはロシアのリベラルの息の根を止めるものだと述べていたが、この暗い予感が実現したというのがその後の流れであるように見える。
 同じ1999年にはコソヴォ問題を契機としてNATOのセルビア空爆があり、このとき米ロ関係は極度に緊張した。あまり知られていないことだが、このときエリツィンはテレビで「アメリカはロシアが核大国だということを忘れているのではないか」という恫喝発言をした。今日、プーチンが核の脅しをしているのを前代未聞のことと思いこむ人が多いが、実はエリツィンが20年以上前に先例を作っていたのである。
 そして、これまた今日では想像しがたいことだが、2000年に入るとプーチン新大統領のもとで、米ロ関係はエリツィン末期よりも緩和された。プーチンは大統領就任直前の発言で、「ロシアがNATOに入ってもいいではないか」と言ったこともある(およそまともに取り合われることなく、無視されたが)。2001年「9・11」直後にプーチンは逸早くアメリカの「対テロ作戦」に協力する態度を表明し、米軍がアフガニスタン攻撃に際して中央アジア諸国の領土を使用することに対しても異を唱えなかった。同年12月にアメリカがABM(弾道弾迎撃ミサイル)制限条約からの一方的脱退を通告したときも、プーチン政権は敢えて強く抗議することはせず、対米協調路線を続けた。
 このようにプーチン政権は、その滑り出しでは米ロ協調を重視していたが、その後、米ロ関係は次第に緊張に向かっていった。これも一直線ではなく、2003年のイラク戦争、2008年のグルジア戦争、そして2010年代に入ってからの一連の事態という風にいくつかの段階があった。私自身は新しい情勢にあまり通じていないため、きちんと論じることができないが、1990年2月の時点で「約束」があったかなかったかを争うよりも、1990年代末にアメリカ政権がケナンらの警告を無視したのはどうしてかとか、21世紀初頭時点のプーチンはむしろエリツィン末期よりもアメリカに歩み寄ろうとしていたのに、そのチャンスが失われたのはどうしてかといった点をもっときちんと論じてもよいのではないかと思われる。
 
(補論4)ウクライナとNATO
 ときおり見かける言説として、「ウクライナがNATO加盟を望んでいるのに、それを大国の都合で阻むのが許されるのか」というものがある。ここで考えなくてはならないのは、「ウクライナが」という主語で意味されているのは誰か――世論全般か政治家か、政治家だとしたらどのような勢力か――という問題、また願望や意向は時期と情勢によって変わりうるが、いつの、どのような情勢を念頭におくかという問題である。
 先ず世論についていえば、比較的最近まで、世論調査の示すところではNATO加盟論はあまり有力でなかった。ウクライナ世論はEUには好感情を持っており、できることなら加盟したいという考えに傾くのに対し、NATOについてはあまり肯定的でないというのが大まかな趨勢だった*。もっとも、時間とともに次第に加盟賛成論は上昇傾向を見せており、これはロシアの態度の強硬化に刺激されたところが大きいと思われる。つまり、ロシアはウクライナのNATO加盟を阻むつもりで、むしろNATOの方向に追いやっていたということである。とはいえ、今回の戦争開始まで、加盟賛成論が多数を占めるところに至ってはいなかった。
*ついでながら、ロシアでもある時期までは同様で、EUとは友好と協調を望むがNATOは脅威と感じるというのが一般的傾向だった。もっとも、2014年以降はEUから経済制裁を受ける中で、EUとの関係が弱まり、中国に活路を見出すほかない状況に追い込まれた。
 政治の動向としてはいろんな節目がある。先ず、独立時のウクライナは「中立」を掲げており、NATOにも入らず、ロシア中心の独立国家共同体集団安保体制にも入らないというのが基本方針だった。その後、あれこれの政治家がNATO加盟論を掲げたことがあるが、それは「そう唱える人もいる」ということであって、国家的な方針として確定されたことはなかった。この点で大きな転機となったのは2019年のウクライナ憲法改正であり、これによってNATO加盟を目指すことが憲法に盛り込まれた。その背後の事情は十分明らかでないが、アメリカからの強い働きかけがあったのではないかということが取り沙汰されている。具体的駆け引きの実態はともあれ、とにかくこれは政治の世界の動向であり、一般民衆の世論として、その時点で加盟論が高まっていたわけではない。
 ところが、今回の開戦後、世論としてもNATO加盟論が一気に高まった。ロシアは自ら起こした戦争によって、ウクライナをNATO側に決定的に追いやってしまったことになる。こう考えるなら、「ウクライナがNATO加盟を望んでいるのに、それを大国が阻んでいる」というよりも、アメリカがその方向に引っ張り(プル)、ロシアが意図に反してウクライナをその方向に追いやる(プッシュ)という関係があり、そうした関係が煮詰まった結果として、それまで加盟論が多数でなかった世論が急激に加盟論に傾いたということであるように思える。
 開戦後の新しい動向としては、3月8日にウクライナ与党の「公僕党」がNATO加盟に必ずしもこだわらないと表明し、政権自身もロシアとの交渉において「中立」というオプションを排除しないと表明したと報じられている。最近の短期的動向のなかでは「中立化」はロシア側の要求であり、それを受け入れるのはウクライナの大きな譲歩ということになるが、振り返っていうなら、独立後長いこと「中立」が基本方針だったのだから、2019年憲法改正以前に戻るのだと言って言えなくもない。もちろん、この間に情勢の大きな変化があるから、単純に昔に戻るわけにはいかないし、ウクライナ側のこうした態度表明にロシアがどう対応するかも不確定である。今後については、成り行きを見守るほかない。
 
(2022年3月13日アップロード、14日に微修正)。