高橋沙奈美『迷えるウクライナ――宗教をめぐるロシアとのもう一つの戦い』を読んで*1
 
 
はじめに
 
 ホットな争点にまつわる複雑なテーマに正面から取り組んだ力作である。類書として、一足先に角茂樹『ウクライナ侵攻とロシア正教会』が刊行されているが*2、これが非専門家によるウクライナ・ナショナリズム寄りの概説書だったのに対し、高橋著は正教史の専門家が真っ向からこの難問に挑んだ力作である。体裁は新書本という形をとっているが、実質的には啓蒙的概説書というよりは研究書的な性格の本だというのが第一印象である。
 研究書的な性格の本だということは、論争的な事項に関する独自の観点を出しているということでもあり、書かれていることを単純にそのまま受け取れば基本的な常識が得られるといった類いの本ではない。一般読者を念頭において、なるべく分かりやすく書こうとする努力も払われているが、実はそれほど分かりやすくない個所もかなりある(分かりやすくするための図解も多数あるが、この図解がなかなか読み取りにくかったりする)。
 私は本書のテーマにかねて関心だけはいだいてきたものの、きちんと取り組んだことはなく、本書を十分理解できたという自信はない。その意味で、本格的な論評をする立場にあるわけではないが、読んでいて多大の知的刺激を受けたので、いくつかの感想を述べてみたい。著者の論述を十分理解できていないおそれが大きいにもかかわらず、ところどころで無い物ねだり的な注文をつけたり、いわずもがなの補足を提案したり、あるいは重箱の隅をつつくような疑問を出したりするが*3、それというのも本書を全体として高く評価すればこそだということを断わっておきたい。
 
1 前半部(第1‐3章)
 
 本書は歴史を扱った最初の3章と、現在に近い時期を論じた第4章、5章、終章に大きく分かれるが、後者の方が前半よりもずっと長く、圧倒的な質感を持っている。もっとも、では前半は単に後半部への導入に過ぎないのかといえば、そうではない。今日における錯綜した論争が歴史解釈を大きな要素としている以上、歴史についても単純に常識をなぞったような概説的入門で片付けるわけにはいかず、これ自体が込み入った経緯に関わる論争的な解釈を要求する。
 私自身が十分通じていない事項なので、深入りは避けるが、第1章における「「シンフォニア」の夢」の説明は、西欧で通説的に広まっている「皇帝教皇主義」概念への批判を含んでおり、これは東方正教に関する一般通念を揺るがす意味を持っているように思われる。また、「独立教会」と「自治教会」の区別に関わる説明は、その後の歴史全体を理解する上で重要なポイントとなっている(この問題は第5章で大きな位置を占めるので、そこで立ち返ることにする)。
 第2章は9-17世紀の歴史を扱っている。著者は中世史の専門家ではないという断わり書きがあるが、それでもこの時期にかなりの重要性が付与されているのは、これが現代的な論争事項となっているからである。キーウがモンゴル軍の攻勢によって陥落した後の「キーウ府主教座」の歴史は本家争いを含んで極度に複雑であり、その解釈が非常に大きな問題となっている。なお、この間の経過については、最近出た宮野裕『「ロシア」は、いかにして生まれたか――タタールのくびき』(NHK出版、2023年)でも論じられており、近刊予定の松里公孝論文(私が編集して東京堂出版から刊行予定の論集に収録)でも詳しく扱われているので、それらをあわせ読むことで、この複雑な歴史に関わる理解を深めることができるのではないかと期待される。
 私のあまり通じていない時期のことなので、不用意に立ち入ることは避けるべきだが、一つだけ眼を引いた個所を取り上げて、我流に紹介してみたい。オスマン帝国の攻撃に苦しむビザンツ帝国はローマ教皇の勢力下にある西方からの援軍を要請したが、西方から派遣された十字軍は必ずしも東方のキリスト教徒を守ってくれたわけではなく、それどころか1204年に十字軍はコンスタンチノープルに壊滅的な打撃を与えさえした。存亡が危ぶまれる状況に追い込まれたコンスタンチノープルは、事実上カトリックに屈して、東西教会の合同に賛同した(1438-39年)。この屈服は東方正教会の中ではおおむね不評であり、中でもモスクワは猛反撥した。教会合同を拒絶するモスクワは、コンスタンチノープルの承認なしに「全ルーシ府主教」の任命を強行した(1448年)。コンスタンチノープルとモスクワの衝突は後の時代にも大きな問題となるが、これはその早い例である。もっとも、その後、コンスタンチノープルは教会合同を取り消し(1484年)、ロシア正教会の独立を承認した(1589年)。その約1世紀後には、モスクワ総主教座のキーウ府主教任命権をコンスタンチノープルが認めた(1686年)。こうして、いったん対立は解消されたが、この経緯は数百年後の今日、再び論争の的となっている。現代の論争については後で立ち返るとして、ここでは対立の発端が東西教会合同問題にあったという点が興味深い。コンスタンチノープルが教会合同を取り消した後、それとは別に、ルテニア(今日のウクライナ西部とポーランドの南東部にまたがる地域)のキーウ府主教座――ややこしいが、「キーウ府主教座」を称する主教座はモスクワとルテニアのそれぞれにあり、本家争いがあった――の高位聖職者たちはカトリックとの合同を進めた(1596年のブレスト合同)。この合同によって生まれた東方典礼カトリック(いわゆるユニエイト)がその後の歴史の中で重要な役割を果たしたことはよく知られているが、その発端がこのような経緯だったというのも興味深い指摘である。
 ソ連時代を扱った第3章のうち、ソ連全体(およびロシア)に関わる部分は比較的あっさりしている(この章の大きな部分は、ソ連全体よりもむしろウクライナおよびポーランドに充てられている)。そのため、ソヴェト時代の歴史を(宗教問題を含めて)専攻してきた私の観点からは、ややキメ細かさに欠けるのではないかとの印象がある。大筋に異論があるわけではないが、いくつか無い物ねだりを記しておきたい。本書ではソ連の宗教政策の変化としては独ソ戦期に始まる国家と教会の接近ないし癒着についてのみ触れている。これが最も顕著な変化――弾圧から懐柔=取り込みへの転換――なのはその通りだが、歴史に即してみるなら、これ以外にも様々な変化があった。ごく大まかにいって、内戦期、1920年代のいわゆるネップ期、農業集団化を柱とする20年代末から30年代にかけての「上からの革命」期などを分けて考える必要があり、戦後についても、宗教弾圧が強まったフルシチョフ期と懐柔=取り込み路線の強まったブレジネフ期の違いがある。
 ネップ期においても反宗教煽動は続いており、宗教的寛容の政策がとられたわけではないが、それでも、ネップが農民との妥協であり、農民の大半が宗教信者である以上、教会をむやみと弾圧するわけにはいかないという事情があった。この状況を変えた重要な契機は農業集団化である。集団化が農民との戦争であり、農民が教会に結集して抵抗したのに対応して、政権の宗教政策はこの時期に大きく変わった。1929年4月の宗教団体法が宗教団体の登録およびその活動に厳しい規制を課したのをうけて、同年5月のロシア共和国憲法改正では、それまでの「宗教宣伝および反宗教宣伝」を対等に自由としていた法制(1918年憲法第13条)を転換し、「宗教的信仰と反宗教宣伝の自由」と改められた。つまり、無神論の宣伝は自由だが宗教は「信仰」のみが許されて「宣伝」は許されないという非対称的な関係が明示された。1936年のソ連憲法第124条においても「宗教礼拝の挙行および反宗教宣伝の自由」という表現によってこの原則が確認された。こうした宗教法制はペレストロイカの中で批判にさらされ、1990年の新宗教団体法で改正されるまで維持された。
 ソ連宗教政策史があっさりしているのに対し、この章ではむしろウクライナにおける教会独立運動およびポーランド正教会に関する叙述が大きな位置を占めている。これはいずれも後につながる主題であり、第5章および終章で改めて振り返られるので、そこでまとめて検討することにしたい。
 
2 第4章(ロシア正教会と「ロシア世界」の文明観)
 
 後半に入って、第4章はロシア正教会、第5章はウクライナ正教会にあてられているが、どちらかというと後者の方が充実しているという印象を受ける。これまで日本ではウクライナのことが――教会のことであれ、それを取り巻く社会全体であれ――よく知られていなかった以上、この部分が充実しているのはもちろん大いに歓迎されるところだが、ロシアについては、もう少し深める余地があるのではないかという気がした。
 まず、2022年に始まるウクライナ戦争の話が冒頭に出てきて、その背景という形で、「ロシア世界(ルスキー・ミール)」というイデオロギーないし思想体系が取り上げられている。「ルスキー・ミール」論が拡張主義的性格を持ち、侵略正当化のイデオロギーとして機能しているということは多くの人によって指摘されている通りである。だが、それがすべてと考えるなら、やや一面的になるおそれがある。「ルスキー・ミール」とは曖昧な言葉で、そこにどういう含意を持たせるかは論者によって多様である。第一義的にはロシア語・ロシア文化の普及に関わり、いわば「ソフト・パワー」的な性格を帯びているが、「ソフトな」戦略が「ハードな」政治と軍事に裏付けを求めがちだという面も否定できない。後者に着目するなら、拡張主義と侵略のイデオロギーだという見方が正当化されるが、関係者がみなそのような観点に立っているわけではないという点に微妙さがある*4
 著者は自説の裏付けとして、何個所かでラリュエルの『ファシズムとロシア』に言及しているが、これもやや一面的な観がある。ラリュエルは確かに現代ロシアにおける正教会の影響力を重視しているが、それはクレムリンの支柱が複数存在するうちの一つということであって、それが国家の核心そのものだという書き方はしていない。むしろ、プーチン体制のハイブリッド性――一枚岩性ではなくて――の指摘がラリュエル著の主要テーマをなしている*5
 ラリュエルがハイブリッド性を重視するのに対し、本書はあくまでも正教会に焦点を据えているという視角の違いはあるが、本書も正教会以外の諸宗教を視野から排除しているわけではない。1997年の宗教法(良心の自由と宗教団体に関する法律)が 「伝統宗教」としてのキリスト教、イスラーム、仏教、ユダヤ教の4つを特別扱いし、それ以外に一応公認の位置を占める一連の宗教と、外来ないし「カルト」的存在として警戒の対象となる宗教という三層構造を規定したことは第1章で述べられており、それをうけて1998年に発足した宗教間評議会は正教会、ムスリム宗務局(これは複数ある)、ユダヤ共同体連合(これも複数)、仏教団体からなるということは第1章と第4章の両方で述べられている。また、ロシア正教会は国教の地位を求めているわけではないという指摘もある(プーチンの側からしても、正教会のみを国教化することは国内のムスリム・ユダヤ人・仏教徒の離反を招くおそれがあるから、主要各宗派をそれぞれに抱き込む必要がある)。
 この記述は大まかには正しいが、1997年宗教法についてはもう少し突っ込んだ記述があってもよいのではないかという気がする。この法案は同年6月に下院、7月に上院を通過したが、その段階では、「伝統的宗教」として、正教、イスラーム、ユダヤ教、仏教の4つを挙げていた。ところが、このままの案文ではカトリックもプロテスタントも「伝統的宗教」に含まれないことから、欧米諸国から激しい批判が現われた。米上院はこの法案が成立するならロシアへの援助を差し止めるという決議を採択した。このような外圧を受けて、法案は国会に差し戻され、修正された宗教法が9月に採択された。そこにおける最大の修正点は、「伝統的宗教」のリストにあった「正教」の語を「キリスト教」に置き変えた点にあった。こうして、正教以外のキリスト教も「伝統的宗教」に含まれることになったが、では正教は完全に特権性を失ったかというとそうでもなく、法律の前文に、「ロシアの歴史、その精神性および文化の形成と発展における正教の特別の役割」という文言が取り入れられ、「伝統的宗教」の中でも一段高い位置にあることが示唆された。ここには、ロシアの伝統を重視しようという志向と外圧をある程度尊重しなくてはならないという現実のせめぎ合いが反映されている*6。なお、1997年法から大分経った2020年の憲法改正では、伝統的価値観や愛国主義が強調され、「神への理念と信仰を伝えてきた祖先の記憶」といった語句が憲法に書き込まれたが、これは伝統の強調が最近になって一段と進行したことを物語る。
 どの国にも、その国で最も重視されている宗教、それほど圧倒的な位置を占めてはいないが一応尊重されている宗教、怪しげな新興宗教とかカルトとして警戒される宗教といった序列ないし重層構造がある。それが具体的にどのような形をとっているかの比較は興味深い課題となる。本書はあくまでもロシアとウクライナの正教を主題とした書物である以上、そうした問題に踏み込んでいないのは異とするに足りない。ただ、もっぱらロシアに限って階層構造を論じているため、読みようによってはロシア特殊性論に傾斜した印象を残しかねないという気がする。
 この章には、「性的マイノリティと正教会」という項目があり、性的マイノリティに対する不寛容が正教会およびその影響を受けた政権によって鼓吹されているということが、かなりの紙幅をとって詳しく述べられている。この記述はおおむね妥当だが、若干の補足があってもよい気がする。というのも、歴史を振り返るなら、キリスト教自体が性的マイノリティに不寛容だったはずであり、最近の欧米諸国でマイノリティへの寛容論が広がっているのは、古いキリスト教道徳からの離脱――伝統主義者からすれば「堕落」――とも見られるという問題があるからである。この「堕落」に反対しているのはプーチンのロシアだけでなく、欧米諸国にも宗教右派が存在するし、ハンガリーのオルバン政権も自分たちこそが本来的なヨーロッパの伝統を守っていると主張している。このような右派的主張は今日のリベラルな観点からは奇怪なものと映るが、とにかくこれを単純に「西側的価値観」に反対するロシアだけの特殊な主張とみるのはやや一面的であるように思われる*7
 なお、ある時期に同性愛が犯罪とされたのは軍内の規律と関係しており(この点は本書にも指摘がある)、ソ連時代の1934年法における同性愛禁止は男性同性愛だけを対象としていた。
 他方、今日のウクライナでは、欧米諸国への接近を掲げている関係上、性的マイノリティについても寛容が建前となっているが、一部の極右は性的マイノリティを敵視している*8。そうした極右は、それ自体としては少数であって、これがウクライナの主流だというわけではないが、ともかくもそういう例も一部にはあるというのもまた一面の事実である。
 この章の続く個所では、正教会による経済活動の実態が詳しく書かれている。これはこれまであまり広く知られてこなかったテーマで、大変興味深い個所となっている。
 個別的な話題として、映画『マチルダ』(2017年)――皇太子時代のニコライ2世とバレリーナの恋愛を描いて、スキャンダルを引き起こした――に触れた個所も面白い。現代ロシアでは皇帝崇拝が高まっており、特に正教会界隈では、殉教者として列聖されたニコライの恋愛と性を描くのは許しがたい?神行為だという憤慨の声があがり、上映禁止運動が広がった。これは興味深い話題だが、プーチン自身はこのとき正教会の上映ボイコット運動から距離を置いて、政治はこういう問題に関与すべきではないという中立の態度を表明したと伝えられる。背後の事情はよく分からないが、プーチン政権は一面において正教会を重要な支持基盤としつつ、他面ではそれとの過度の一体化とみられることも避けているあたりに、状況の微妙さがある。
 もう一つ個別的な話題だが、帝政末期に国会議長だったロジャンコの孫の話が出てくる。これは歴史と現代の意外なつながりを示唆していて面白い。
 
3 第5章(ウクライナの正教会――ロシアなきウクライナを目指して)
 
 第5章は本書の中で最も長大であり、いわば目玉をなしている。その内容は多岐にわたり、安易な要約を許さないが、とにかくいくつか眼にとまった個所を紹介してみたい。
 まず、20世紀以降のウクライナ正教会には、合意に基づきロシアとの連携を目指す人々と、ウクライナ独自のナショナルな教会を目指す人々の二つのベクトルが常に存在していたと記され、「ウクライナが独立を求めて飽くなき戦いを続け、それをロシアが抑圧してきたという単純な構図では、現在のウクライナにおける正教会を理解することはできない」と指摘されている(但し、開戦に伴い、これまで揺れ動いていた聖職者たちの態度が独立へと大きく傾いたともあり、この点は終章の主題となる)。これは本書の基本姿勢と関わる重要な指摘である。
 大前提として、ウクライナには複数の正教会が存在する。それらの登場の経緯は第3章で物語られているが、本章ではそれをうけて現代における諸派の複雑な関係が主題となっている。とりあえずざっくりと諸派を列挙するなら、20世紀前半に起源をもつ「独立正教会」、ソ連解体を機にロシア正教会から袂を分かった「ウクライナ正教会キーウ総主教座」、そしてロシア正教会の中で自治を認められた「ウクライナ正教会モスクワ総主教座」となる(前2者は合流して「新正教会」となった)。その他、正教というよりもカトリックの中の特異な勢力だが、「東方典礼カトリック」(通称ユニエイト)も西部では無視できない位置を占めている。なお、第1章で説明されたように、教会法上、「自治」と「独立」は明確に区別されており、「自治教会」は首座主教を自ら選出することはできないが、内部事項に関しては広汎な自己決定権を持つ。日本の正教会は元来ロシア正教会の宣教師によって開設されたが、1970年に自治教会の地位を認められた。ウクライナの場合、ペレストロイカ期の1990年に「自治」を付与され*9、それ以来「ロシア正教会」ではなく「ウクライナ正教会」を名乗っている(「ウクライナ正教会キーウ総主教座」と区別するため「ウクライナ正教会モスクワ総主教座」と呼ばれる)。
 このように複数の正教会がある中で、それぞれがどのような勢力をなしているかが次の問題となるが、これはいくつかの角度から接近することができる。まず、キャサリン・ワンナーという宗教人類学者の行なった社会調査によれば、「あなたはどの正教会に属していますか」という問いに対して、どの派に属するかを明示しない「ただの正教徒」が多数をなしているという。あまり熱心でない信者の場合には、「私は正教徒だ。しかし、どの教会を支持するかということには関心がない」という発想がとられやすいということのようである。これは興味深い指摘である。しかし、それがすべてではない。熱心でない信者の間では「ただの正教徒」が多いとしても、聖職者や熱心な信者は、どれが正統なのかということを問題にしないわけにはいかない。その際、重要なのは、正教の世界では、「母教会」の承認を得ずに独立を宣言した「娘教会」はいわば家出娘であり、他の地方教会から相手にしてもらえないという事情である。その点からいえば、勝手に「独立」を宣言した教会(上の3つのうちの前2者)は十分な正統性を主張しにくく、ウクライナ正教会モスクワ総主教座に理があるということになる。実際、後述するように、諸派のうちではこの部分が最大の勢力をなしている。
 これに対抗するため、「独立」を称する2派は世俗権力の後押しのもとで合同に向かい、さらにコンスタンチノープルの世界総主教座の公認を得ようと努めた。この努力は2019年に結実し、合同した独立ウクライナ正教会(「新正教会」)がコンスタンチノープルから「トモス」と呼ばれる詔勅を交付された。比喩的に言えば、「家出娘」に「母教会」以外の権威がお墨付きを与えたような形になった。
 ここには、コンスタンチノープルの世界総主教座とモスクワのロシア正教会総主教座の長年にわたる対抗関係が関与している。これは第3章でかなり詳しく取り上げられ、第5章はそれをうけた叙述となっている。かいつまんでいうなら、カトリックのような単一ヒエラルヒー制をとらない正教の世界では複数の独立正教会が存在しているが、それらのうちコンスタンチノープルは「同輩者中の首位」と見なされ、それゆえに「世界総主教座」を名乗っている。もっとも、この「同輩者中の首位」とはカトリックにおけるヴァティカンのような意味での頂点を意味せず、その「首位」性は相対的なものである。そして、ビザンツ帝国がオスマン帝国に滅ぼされた後、正教の君主をいただく唯一の帝国がロシア帝国となったため、実質的にはロシア正教会が正教世界の「第一人者」として振る舞うようになった(ロシア正教会は全世界の正教徒の約半数を包括している)。
 こうして、「首位」であるはずのコンスタンチノープルと、実質上の「第一人者」となったロシア正教会の間では、種々の対抗関係が展開されてきた。15-17世紀の経緯については先に触れたが、20世紀の例としては、第一次世界大戦後に独立したポーランドの領土内に、ウクライナ人・ベラルーシ人・ロシア人といった正教徒の居住する地域が含まれたことから、そうした正教徒たちの通う教会の地位が問題となった。そして、ポーランド正教会は1924年に、「母教会」たるロシア正教会の承認を得ないまま、コンスタンチノープルの承認を得て独立を宣言した。このことは、ロシア正教会とコンスタンチノープルの主導権争いをあからさまなものとした。もっとも、カトリックが多数をなすポーランド国家はこのポーランド正教会に対して抑圧的な政策をとったから、これが有力な勢力となることはなかった。これに比して、ソ連解体後のウクライナにおける正教会の位置づけは、非常に多くの聖職者・信者たちに関わる――ウクライナの正教徒の数は、ロシアに次いで世界第2位――だけに、それまでにない激しい攻防の場となった。
 コンスタンチノープルは2016年6月に独立教会の首座主教たちの全正教会公会議を開催したが、ロシアその他いくつかの首座主教座が欠席したため、この公会議は正教会世界全体に及ぶ効力を持つものとはならなかった。他方、同年2月にロシア正教会のキリル総主教がローマ教皇フランシスコと会見したことはカトリックとの関係で正教世界を代表するのがモスクワ総主教であることを見せつける効果をもち、コンスタンチノープルはますますモスクワとの対抗意識を強めた。そうした情勢の中で、ウクライナの世俗権力(当時のポロシェンコ大統領)は世界総主教座への働きかけを強め、「新正教会」の公認を獲得した。このとき、論争は古い過去の経緯にも及び、特に1686年にコンスタンチノープルがモスクワにキーウ府主教叙任の権限を認めたことの解釈が大論点となった。コンスタンチノープルおよびウクライナの独立派は中世にさかのぼって、ロシアの教会管轄のあり方を不法なものと糾弾し、ロシアはそれは歴史の歪曲だと反論するという形で、歴史・宗教・政治が絡み合った論争が展開された。
 とにかくこういう攻防を経て、「新正教会」はコンスタンチノープルのお墨付きを得て出発したが、こうした諸派並立状況の中でどの派がいくつの教区を掌握しているかは、ウクライナの宗教法が個々の教区ごとの登録を義務づけているおかげで、統計的に把握することができる。その統計によれば、2013年における登録教区数は「ウクライナ正教会モスクワ総主教座」が断然第1位であり、「キーウ総主教座」がそれに次ぎ、「独立正教会」は第3位だった。2019年に後2者が合同して「新正教会」が生まれると、当然ながら「新正教会」の登録教区数が増大したが、それでも「モスクワ総主教座」の教区数はそれほど減っておらず、依然として第1位の座を占め続けている。そればかりか、いくつかのフィールドワークによれば、「ウクライナ正教会モスクワ総主教座」系の教区に比べ、独立系の2派(まもなく「新正教会」に合流する)の教区は実地に活動している度合いが低く、紙上のみの組織にとどまっているものが多いという。
 注意しなくてはならないのは、世論一般と熱心な信者との間には意識のズレがあるということである。世論一般では、2014年の危機(マイダン革命・クリミヤ併合・ドンバス戦争)以降、独立派への支持が高まっており、新正教会に対しても支持率が上昇している。だが、それはあまり熱心でない信者――教会に定期的に通ってはいない――や、無神論者、ムスリム*10までをも含む国民全般の意識であり、聖職者や熱心な信者――定期的に教会に通い、礼拝を欠かさない――の意識とは異なる。後者にとっては伝統が重要だという事情もあるし、独立派の台頭や合同に露骨に世俗権力の関与があったことへの反撥もある。また、「モスクワ総主教座」といってもロシアに従属しているわけではなく内部自治を享受しているのに、あたかも「ロシアの手先」であるかのレッテルを貼られていることが、かえって彼らの結束を維持させているようである。
 2014年以後の情勢の中で、ウクライナの主流メディアはモスクワ総主教座をロシアのカイライ教会と断じる大々的なネガティヴ・キャンペーンを展開するようになった。それは西側や日本のメディアにも影響して、《キーウ総主教座は善、モスクワ総主教座は悪》とする二項対立図式がしばしば描かれている。しかし、著者によれば、ウクライナ正教会モスクワ総主教座の中に親露派勢力を支持した聖職者が一定数いたのは事実だとしても、その割合が他の社会集団に比して平均以上に高いとは言い難いという。
 2014年の政治危機は、ちょうどその年にウクライナ正教会モスクワ総主教座の府主教が死去したことともあいまって、ウクライナ正教会に試練をもたらした。もともとウクライナ正教会の中には、@ロシアからの完全独立志向派(これは西部で強い)、Aロシア正教会内で高度の自治を持つ現状に満足している部分(これは中部・北部・ザカルパッチャで強い)、Bロシア正教会との一体性追求派(これは東部・南部で強い)という分岐があったが、そうした内部分岐はマイダン革命以後の情勢の中で一段と深刻になった。
 著者はこうした複雑な情勢が展開している2019年秋の時点で、ウクライナ東南部諸州の各地でフィールドワークを行ない、聖職者、ジャーナリスト、歴史家、行政官たちへのインタヴュー調査を行なった。統計資料がないために定量的分析はできないが、とにかくウクライナ正教会モスクワ総主教座の聖職者たちは、過去には親ロシア的言動を見せていたにもせよ、危機的情勢の中で「ウクライナ愛国者」として振る舞い、教区民に高く評価されていた。その一方、新正教会とウクライナ正教会の対立は地方レヴェルでも激化しており、教会管轄が暴力的に変更されたり、ウクライナ正教会モスクワ総主教座の修道院や聖堂が民族派によって放火されるといった事例があったと報告されている。結局のところ、独立正教会を政治的に創設したことはウクライナ社会の安定化よりもむしろ不安定化に寄与するところが多かった、というのがこの章の結論である。
 
4 終章(割れた洗礼盤)
 
 第5章の紹介が長くなったが、「割れた洗礼盤」と題された終章は、2022年の開戦以後の情勢を扱っている。開戦直後の2月24日、ウクライナ正教会モスクワ総主教座のオヌフリー府主教は即座に反応し、ウクライナ正教会は祖国〔ウクライナ〕とともにあると宣言し、キリル総主教に対して戦争反対の声をあげるよう求め、プーチンに攻撃中止を呼びかけるメッセージを発した。そこでは、ロシアのウクライナ攻撃は「カインの罪」(兄弟殺し)と見なされた。府主教だけでなく、ウクライナ正教会の司祭たちの中には、祈祷の中でキリル総主教の名を出すことはできないと宣言する者が続出した。この動きは個別の教区から始まって、それらを管轄する主教区にも広がり、53の主教区のうち20以上がこの動きに連なった。キリル総主教を東方正教会全体の教会裁判にかけるべきだという公開アピールも発せられた。
 このようにウクライナ正教会モスクワ総主教座はキリルに反旗を翻し、ウクライナ愛国主義の立場を打ち出したが、にもかかわらず、ウクライナ正教会を「ロシアの手先」と見なす人々の影響力は開戦後に改めて高まった。著者によれば、ウクライナ正教会の一部に敵(ロシア)に内通する協力者が出たのは事実だが、それが過度に強調され、ウクライナ正教会に対するバッシングとなったのだという。
 5月27日にウクライナ正教会の一般信徒から高位聖職者までの代表者を集めて開かれた公会の場で承認された宣言は、戦争反対、即時停戦、キリル総主教の立場に反対、ウクライナ正教会の完全な独立と自立性を証する規約に追加と修正を認める、などといった内容のものとなっていた。しかし、これを額面通りに受けとめない人々も多かった。ウクライナ正教会と対立する新正教会やウクライナ政府はこの公会を「くだらない演出」と評した。
 地域ごとの差異について見るなら、クリミヤの3つの主教区は公会の決定に従わず、これからもロシア正教会の庇護下にあると宣言した。逆に、西部諸州の聖職者・信者たちは公会決定を歓迎した。ウクライナ正教会への政治的抑圧が最も苛烈だった西部では暴力的襲撃も少なくなく、しかも一部の過激派だけでなく、ウクライナ保安庁・警察・地方当局がそろってウクライナ正教会弾圧に関わっていたから、そうした情勢では、公会決定によってロシアとの断絶を公けに宣言することが生き残るための唯一の方法だった。
 ウクライナ正教会をロシアのコラボレーター(協力者)と見なす攻勢はこの後もますます強まった。西部ではウクライナ正教会から新正教会への教区移管がさらに進められた。高位聖職者がロシアに出国した例もあるが、それは必ずしも協力先に逃げたということではなく、政治的圧力による追放や強制連行の可能性もあるという。こうして、政界にも財界にも、宗教研究に携わる研究者の間でも、ウクライナ正教会を支持しようという人間はほとんどいなくなった。現在はウクライナ正教会自体の法的解体が検討されているという。
 こういった攻防の一つの象徴的な焦点となっているのが、キーウのペチェルシク大修道院をめぐる経緯であり、この問題をめぐっては第3章、第5章、終章にまたがって詳しい記述がある。由緒のあるこの大聖堂は、ソ連時代に宗教施設としては閉鎖され、博物館・自然公園とされていたが、ペレストロイカ期の1988年にその一部が正教会に返還された*11。返還を受けたのは、当時はロシア正教会であり、その後ウクライナ正教会モスクワ総主教座に受け継がれた。近年に至り、この大聖堂を新正教会がわがものとしようとして、激しい攻防が展開された(法的にいえば、まずウクライナ正教会が法律違反を問われて、聖堂の貸与契約が更新されず、2022年末をもって国家に返還され、その利用権が新正教会に与えられた)。2023年1月以降、ここで祈祷を行なうことが許可されているのは新正教会だけとなったが、その結果、聖堂はがらんどうになってしまった。というのも、ウクライナ正教会の修道士はペチェルシクだけでも200名を超えるのに対し、新正教会の修道士の数は全国でも50名にとどまるので、とうてい聖堂を埋めるには足りず、大きな儀礼のときには信者や聖職者ではなくジャーナリストや軍人が動員されるという状況だからである。
 この大聖堂に限らず、日曜の礼拝の時間にウクライナ正教会の聖堂が信者であふれているのに対し、新正教会の聖堂はがらんどうだということはウクライナの宗教問題専門家もよく知っており、その一人であるオレーナ・ボフダン(最近まで、民族政策と良心の自由庁の責任者だった)は、ウクライナ正教会に対する現行の措置はウクライナ社会に統合ではなく分断と混乱をもたらすと主張したが、彼女は「ロシア正教会の擁護者」というレッテルを貼られて罵詈雑言を浴び、2022年12月6日に解任された。その後任者はウクライナ正教会に対する容赦ない攻撃と新正教会擁護の立場で知られていた人であり、23年1月31日、民族宗教問題庁の専門家会議は、ウクライナ正教会はいまだにロシア正教会の一部であると認定する結論を出した。
 このような紹介から窺えるように、著者はどちらかといえばウクライナ正教会モスクワ総主教座に同情的であり、現在のウクライナにおける世俗的ナショナリズムの高揚およびその後押しを受けた新正教会に対してはかなり批判的である。だが、そのことは著者が「ロシア寄り」の視点に立っているということを意味しない。著者はもともとロシア正教の研究から出発し、ウクライナに関心をいだいてからも、はじめのうちは「ロシアから」ウクライナを見ていたが、そのことを自覚してからは、ロシアと異なるウクライナの独自性への注目を深め、正教会の歴史についてもロシアの見方とウクライナの見方の大きな食い違いに着目してきた。そうした探索の上に書かれた本書では、ロシアに関する叙述よりもウクライナに関する部分の方がずっと長大かつ重厚であり、ウクライナの社会と教会に関する内在的理解の努力が払われている。
 しかし、ウクライナが単なるロシアの付属物ではないからといって、ロシアとの歴史的つながりの深さを無視することができるということになるわけではない。著者は、ウクライナの歴史や社会がポーランドやベラルーシ、トルコなどの隣国とつながっているように、ロシアともつながってきたことは否定しがたい事実だということを強調する。現在のウクライナでは「ロシアのないウクライナ」をつくる試みがなされているが、それはウクライナ自体を切り刻み、そぎ落とす行為ではないか。ウクライナの豊かさはその多声性にある。ロシアという外来のものを根絶しようとする努力より、ウクライナの地に根付いたものをそのまま育む懐の深さが、豊かで多様なウクライナをつくってきたのではなかったろうか、と著者は記している。
 「ロシアのないウクライナ」をつくろうという、少し前までのウクライナでは考えられなかったことが起きているのは、いうまでもなく戦争のせい――端的に言えばプーチンのせい――である。戦争は前線で戦う兵士や残された家族、攻撃の被害を受けた人々のみならず、銃後の人々の感覚を狂わせる。「この……戦争の帰結が、攻撃を仕掛けたロシアのみならず、侵略を受けたウクライナ社会の内部にも大きな影を落としているということから、私たちは目を逸らしてはならないのだ」、というのが本書の最後の言葉となっている。
 この言葉を見た上で「はじめに」を改めて読み直してみると、次のような印象的な文章があることに気づく。「両国の正教徒が、一つの聖堂で一緒に祈る日は、私が生きている間にはもう戻らないかもしれない。戦争が両国の正教徒にもたらした傷跡はあまりにも深い。それでも私は、ロシアとウクライナで、それぞれの正教徒と一緒に祈りながら、彼らの見たもの、経験したものをこれからも書き続けるしかないと思っている」。このような言葉を最初と最後に配置した本書は深い憂いと悩みに貫かれている。
 
(2023年5-6月)

*1高橋沙奈美『迷えるウクライナ――宗教をめぐるロシアとのもう一つの戦い』(扶桑社新書、2023年)。
*2角茂樹『ウクライナ侵攻とロシア正教会――この攻防は宗教対立でもある』(KAWADE夢新書、2022年)。
*3まさしく「重箱の隅」の類いの瑕瑾だが、8頁10行目にある「ポロシェンコ大統領」は「ヤヌコヴィチ大統領」の書き間違いと思われる。いちいち目くじらを立てるにも及ばないケアレスミスだが、折角の好著なだけに惜しまれる。
*4さしあたり、浜由樹子「ウクライナ侵攻のイデオロギー――5つの構成要素とその背景」『ロシア・東欧研究』第51号(2023年)、渡邊日日「遠い友への書簡――ウクライナ情勢・シベリア民族学・言語と民族と地理の問い」『ことばと社会』(三元社)第24号(2022年)参照。
*5マルレーヌ・ラリュエル『ファシズムとロシア』(東京堂出版、2022年)。本書については「ラリュエル『ファシズムとロシア』を読む」という読書ノートを私のホームページで公開してあるので、それも参照されたい。
*6塩川伸明「ロシアは西か、東か――問い自体を問い直す」『UP』2012年6月号参照。
*7ラリュエルは、プーチンのロシアは、現代の「西側」では「ヨーロッパ」の真正性が失われているという認識に立って自らは「ヨーロッパ」の真正性を劣化から守ろうと自己主張しているのだという解釈――その主張にラリュエル自身が賛同しているわけではない――を提起している。前掲書、294-296頁。
*8一部の極右団体はロマ、LGBT、人権活動家などへの暴力的襲撃行為を重ねたが、それを警察が見て見ぬ振りをしたり、青年スポーツ省がこれらの団体に一定の認可を与えた例があると報じられている。Christopher Miller, " Ukrainian Militia Behind Brutal Romany Attacks Getting State Funds," RFE/RL, June 18, 2018. (https://www.rferl.org/a/ukrainian-militia-behind-brutal-romany-attacks-getting-state-funds/29290844.html. 2022年9月20日アクセス).
*9その背景として、西ウクライナではユニエイト合法化を契機とした教会間紛争が1989-90年に激化しており、そういう中で、正教会としてもモスクワへの従属ではなく「自治」を打ち出す必要に迫られていたという事情があった。塩川伸明『国家の解体――ペレストロイカとソ連の最期』(東京大学出版会、2021年)1672-1673, 1746-1747頁、簡略には塩川「ペレストロイカとウクライナ――ロシア・ウクライナ戦争の歴史的理解のために」『歴史学研究』2023年6月号29頁参照。
*10ここでムスリムとは、主としてクリミヤ=タタール人を指している。一般的な報道や解説では、クリミヤ=タタールとウクライナの一体性が指摘されがちだが、クリミヤ=タタール人は一枚岩ではなく、実態はそれほど単純ではない。とりあえずホームページ上の拙稿「ウクライナとロシア――ソ連解体後30年の歴史を振り返る」の関連各所を参照されたい。同じホームページの「マイケル・イグナティエフとロシア・ウクライナ」にも関連個所がある。
*11このことについては、塩川『国家の解体』626頁、より簡略には塩川「ペレストロイカとウクライナ」『歴史学研究』2023年6月号28頁参照。