ユダヤ近現代史への異色のアプローチ――スリョースキン『ユダヤの世紀』を読んで
 
塩川伸明
 
 
はじめに
 
 ユダヤ人/ユダヤ教の歴史は世界の歴史のあちこちに無視できない痕跡を残しているが、それがあまりにも多岐にわたり、複雑であるため、その全体像を視野に入れるのは極度に困難である。ユダヤ教ということを問題にするなら、旧約聖書の世界に始まる長期の歴史にさかのぼらなくてはならないだろうが、それはとりあえず断念して近現代史に視野を局限するとしても、対象も論点も多岐にわたり、一人の人間が論じきれる範囲を優に超えている
 私は自分自身でこのテーマに正面から取り組んできたわけではないが、今から半世紀近く前に原暉之の先駆的な論文「近代ロシアにおけるユダヤ人およびユダヤ人問題*1」を読んで以来、ユダヤ人問題の複雑さと面白さに取り憑かれてきた。その後、野村真理、高尾千津子、長尾広視、赤尾光春、鶴見太郎らの優れた研究が続出したことにも触発され、持続的に関心をいだいてきた。18世紀末から20世紀半ばまでの時期に世界で最大規模のユダヤ人を抱え込んでいたのはロシア帝国およびその領土を引き継いだソ連だった以上、ロシア・ソ連史を専攻する者がこのテーマに関心をいだくのは当然のことである。とはいえ、ロシア・ソ連におけるユダヤ人問題と、中東、アメリカ、西欧諸国その他世界各地におけるユダヤ人に関する各種の議論の間に接点を見出すのは容易ではない。
 そういうことを考えているうちに、かねて気になっていたスリョースキン『ユダヤの世紀』(Yuri Slezkine, The Jewish Century, Princeton University Press, 2004)を読んでみようと思い立った。本書は、カバーに印刷されている宣伝文句によれば、全米ユダヤ関係図書賞、全米スラヴ研究学会図書賞、全米宗教学図書賞をトリプル受賞したとのことで、広く話題を呼んだようである。もっとも、各種の書評を読んでみると、本格的な学術書でありながらエキセントリックで型破りのスタイルで書かれているとか、標準的な分類を拒む作品であり、挑発的なテーゼ、スウィーピングなナラティヴ、大胆な記述と論争的結論に満ちているとか、自らの大胆不敵さを意識しており、読者を翻弄しようとしているなどと指摘されていて、行儀のよい専門研究書の枠内には収まらない異色の作品だということが一様に指摘されている*2。そういう書物である以上、普通の研究書を読むような姿勢で臨むわけにはいかないし、こちらの予備知識不足もあって、十分理解しきれない個所も少なくない。何とも手強い相手だが、ともかく読み取り得た限りでの概要を紹介して、この問題に関心をいだく他の研究者諸氏からの批判的コメントを頂戴するための素材としたい。読み取りの難しい本であることから、かなり我流のまとめ方をしており、原著の記述に忠実でない個所があることについては予め寛恕を請いたい。
 
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 本文に入る前に、「まえがき」などを手がかりに著者のバックグラウンドを紹介しておくなら、ユーリ・スリョースキン(1956年生まれ)はソ連で生まれ育ち、成人してから出国してアメリカの学者となった(現在はカリフォルニア大学バークレー校教授)。2人の祖母のうち、一方はコサックの系譜――ということはつまり反ユダヤ・反共産主義の立場――を引くことを誇りとし、全ての所有物をロシア革命で失ったが、晩年には忠誠なソヴェト市民となった。もう一方の祖母はユダヤ人で、帝政期に革命家として投獄され、アルゼンチンに亡命したが、社会主義建設に参加するため1931年に帰国した。彼女は晩年にはユダヤ人としての出自に誇りを懐き、自分の人生のほとんどは間違いだったと考えるようになったという(p. vii)。こういうわけで、ユダヤ/反ユダヤ双方――また、親ソ/反ソの両面でもある――の交錯する複雑な人生を間近に観察したことが本書の背後にあるようである。
 さて、序章および第1章では、本書の基礎にある歴史観のようなものが呈示され、それに基づいて世界各地におけるさまざまな社会集団――ユダヤ人と大なり小なり類似性を持つと見なされる多様な例――のことが人類学的に論じられている。時間的にも空間的にも広大な例を取り上げた叙述であり、その一つ一つがどこまで妥当なのかは何とも言えない――一部の書評では、第1章における大風呂敷な議論は実証的基礎に欠け、往々にして不正確だと批評されている――が、とにかく広い視野で物事を考えようという問題提起は刺激的かつ野心的である。
 中世から初期近代にかけての農業・牧畜社会には、多数派定住民がしたがらない、あるいはできない仕事――死亡、商業、魔術、貨幣、病気などに関わる仕事――に従事する余所者がいた。彼らは多数派と異なる宗教・言語・起源をもち、余所者として嫌われたり、怖がられたりする反面、土着民ができないものを提供することで便利がられたり、ときとしては崇められたりもするという両義的存在だった。著者はローマ神話のマーキュリー(ギリシャではヘルメス)とアポロ(ギリシャではアポロン)の対を引き合いに出して、定住農牧民はアポロ的存在、移動する余所者はマーキュリー的存在としており、このアポロとマーキュリーの対は本書全体のキー概念となっている。ここでマーキュリー的存在の具体例として挙げられているのは、日本のエタ・ヒニン〔被差別部落民〕*3、ジプシー(著者によれば、ロマを自称する人たちはその一部に過ぎないので、本書では「ロマ」ではなく「ジプシー」の語が用いられている)、アルメニア人、インドのパルシー(ゾロアスター教徒)、華僑、印僑、レバノン人、ネストリア派、マロン派、コプト派等々である。あまりにも広大かつ雑多という観もないではないが、とにかくユダヤ人と類似の特徴を持つ集団が世界各地にあったということを示すのがこの章の狙いのようである(pp. 4-12, 24-29)。
 この第1章で一つ目を引くのは、言語に関する独自の考察である。マーキュリー的存在は周囲の多数派(アポロ)とあれこれの形で交流せざるを得ないが、同時に、相手に分からない言葉を敢えて使うよう努めた。たとえばロマーニー語はインド語〔印欧系諸言語の一つ〕の変形したものだが、各地のジプシーは「擬似ロマーニー」――英語、スペイン語、バスク語、ポルトガル語、フィンランド語、スウェーデン語、ノルウェー語等々のロマーニー・ヴァージョン――を使った。これはホスト住民の言語の変形でありながら、多数派には理解できないものだった。ジプシー自身は幼時にはホスト社会の言語を先ず身につけ、ある年齢になってから擬似ロマーニーを習得する。それは周囲の人に理解されたくない秘密の話をするために使われる、というのが著者の指摘である。ユダヤ人の場合、バビロン捕囚後早期に本来の言語を失い、ホスト社会の言語を使うようになったが、それに独自の変形を施し、アラビア語、ペルシャ語、ギリシャ語、スペイン語、ポルトガル語、フランス語、イタリア語などのユダヤ・ヴァージョンを作り出した。イディッシュはドイツ語の一種とされることが多いが、非ゲルマン的要素を大量に含み、特定の方言に還元されない独自のもので、まさしくマーキュリーにふさわしい言語だとされる(pp. 16-20)。
 識字を身につけたマーキュリーの場合、テキストの操作において卓越するという特徴を持つ。伝統社会では識字は聖職者の独占物だったが、文字を読むマーキュリーにおいては誰もが聖職者となる。これがユダヤ人、パルシー、アルメニア人、東欧ドイツ人、印僑、華僑共通の特徴だとされる(p. 29)。
 さて、近代社会においては伝統社会と違って、誰もが流動的になり、知的になろうとする。つまり、アポロもマーキュリーになろうとする(この問題については第2章で詳述される)が、元からのマーキュリーの方が巧妙であり、しばしば優位を保つ。ヨーロッパと中東におけるアルメニア人とユダヤ人、インドにおけるパルシー、アフリカにおける印僑、ラテンアメリカとカリブにおけるレバノン人がその典型とされる。たとえばインドのパルシーの場合、成功した政治家、企業家、フリーメーソン、音楽家の多く(ズビン・メータもその末裔)を彼らが占めているという(pp. 30-31)。
 人口的に少数派であり、もともと軽蔑の対象だったマーキュリーが近代社会で成功を収めることは、多数派たるアポロからの逆襲をしばしば呼び起こした。トルコにおけるアルメニア人およびアッシリア人、ヨーロッパにおけるユダヤ人とジプシーの絶滅の試みはその典型例である*4。これらの試みは全世界的に非難されたが、その後もなくなることなく繰り返された。アフリカ諸国独立後の「アフリカ化」は印僑やレバノン人の追放を伴った。1982年のインド人ポグロム、東南アジアでの華僑襲撃、1965-67年のインドネシア〔「9.30事件」〕、カンボジアのポルポト政権下の中国人大量殺害、1978-79年のヴェトナムからの中国人ボート・ピープル流出等々の例があり、スハルト退陣後のインドネシアでも反中国人暴動があった。このように著者が指摘するのは、ナチによるユダヤ人大虐殺は孤立的な出来事ではないと示唆したいかのようである。もっとも、華僑が「アジアのユダヤ人」と呼ばれたり、他のさまざまな襲撃事件が「ポグロム」と呼ばれるのは、まさしくユダヤ人がそれらの象徴という位置を占めているからだとも著者は指摘している。孤立現象ではなく普遍的な現象だが、その最も典型的な例がユダヤ人および反ユダヤ主義だということであり、従って近代は「ユダヤの時代」であり、20世紀は「ユダヤの世紀」だということになる(pp. 1, 36-39)。
 
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 第1章が時間的にも空間的にも広大な対象を幅広く論じていたのに対し、第2章は時間的には近代、空間的にはヨーロッパへと視野をしぼっている(これだけでも、十分以上に広大だが)。
 序章や第1章でも既に触れられていたことだが、近代においては、かつて「汚れた」ものとされていた職業に広く一般の人々が従事するようになる。近代化とは、万人が都会的で、流動的で、文字を読むようになる過程であり、学ぶために金を稼ぎ、稼ぐために学ぶ時代である。そこにおいては、かつての農民と貴族が商人と司祭になる。つまり、万人がユダヤ人となる、あるいはアポロがマーキュリー化する。そのなかで国家は次第に宗教に無頓着となり、宗教的差異に寛容となる。そのため、ユダヤ共同体はその独自性を失い、ユダヤ人もキリスト教徒になったりする(pp. 40-46)*5
 そうした点だけから考えるなら、マーキュリーとアポロ、ユダヤ人と非ユダヤ人の差異は消失するかにも見える。だが、実際には差異は消えない。伝統的な意味でのユダヤ人(=ユダヤ教徒)ではなくなっても、その子孫であることを自他ともに意識することで、近代ユダヤ人は周囲の他の人々(アポロ)と区別される特異な集団であり続ける。重要なのは、近代の資本主義および市民社会は、抽象的には普遍的な原理に基づくかに見えながら、実際にはネイション=ステイトという特定の枠の中で成立するという点である。そして、多数派(アポロ)にとってそのネイションは自分たちの伝統と連続したものと感じられるのに対し、元来「余所者」だった少数派(マーキュリー=ユダヤ人)は、自らの父祖の伝統に反して多数派の文化を習得せねばならない。そこには種々の矛盾がつきまとう。ユダヤ人は近代資本主義社会における最大の受益者だが、同時にナショナリズムの時代の最大の犠牲者となる。「ユダヤの世紀」は同時に「反ユダヤ主義の世紀」でもあった、というのが著者の主張である(pp. 1-2, 43-45)。
 ここから導かれる重要なテーゼは、近代の主な預言――それはまた反近代の預言でもある――はみなユダヤの苦難に対する応答だったということである。フロイト主義、マルクス主義、シオニズムがそれである(ユダヤ人の絶滅を説くナチズムはこれらの裏返しであり、やはり「ユダヤの世紀」の象徴だという)。いうまでもなく、マルクスもフロイトもユダヤ人だった。マルクス主義、フロイト主義、シオニズムは現代を動かす3大イデオロギー=宗教だとされ、それぞれの本場がソ連、アメリカ、イスラエルだということで、この後の議論の大枠が設定される(pp. 1-2, 79-85, 100-104)。
 本書の一つの特徴は、そうした近代ユダヤ人のかかえる自己矛盾や苦悩を描き出すために、さまざまな文学者や哲学者の作品からの長文の引用を各所にちりばめている点にある。フランツ・カフカ、マルセル・プルースト、レオポルド・ブルーム(ジョイス『ユリシーズ』の主人公)、そしてフランクフルト学派のメンバーたち(そのほぼ全員がユダヤ人)等々である(pp. 75-79, 86-88)。多数の文学作品や哲学書を引き合いに出した議論は、それらの内容によく通じていない読者にとっては困惑を呼び起こすし、こうした絢爛たる議論がどこまで適切なのかについては留保するしかない。とにかく各種文学作品を引き合いに出して論を進めるスタイルは、この後の第3章、4章でも繰り返され、本書の一つの重要な特徴となっている。
 近代ユダヤ人の逆説と苦悩の一つの源泉は、父祖の伝統への反逆という点にあり、著者はそれを「父殺し」と概念化している。フロイト主義とマルクス主義はいずれもユダヤ的父殺しの問題への回答だったとされる(p. 100)。後の行論を先取りしていえば、ユダヤ教徒の子供が棄教してマルクス主義的革命家になるのも、マルクス主義を信奉したソヴェト的ユダヤ人の子供がそのイデオロギーを捨ててソ連の反体制派になるのも、ともに父殺しの一種ということになる。
 
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 第2章が近代ヨーロッパを対象としていたのに対し、第3章では対象がより絞り込まれて、19世紀末から20世紀初頭にかけてのロシアが取り上げられる。この時期のロシアも近代ヨーロッパの一部といえば一部であり、第2章での議論が当てはまる部分もあるが、それでもロシアが特別に取り上げられるのは、一つにはユダヤ人口の多さ――その当時、世界のユダヤ人口の最大部分を占めた――のためだが、それだけではない。この頃までに、ヨーロッパの西方では多くのユダヤ人が言語的・宗教的に同化する傾向を強めていたのに対し、当時のロシアではまだイディッシュを話し、ユダヤ教を信奉する部分が大多数を占めていた。言語と宗教を「民族」の最重要指標と考えるなら、西欧および中欧のユダヤ人はその凝集性を失い、もはや「民族」とみなしにくいのに対し、帝政末期ロシアのユダヤ人は「民族」として捉えられる度合いが相対的に高かったことになる*6
 とはいえ、そのロシアでも、次第に教育が普及する中でユダヤ人がロシア語を習得する度合いが上昇したし、ユダヤ人定住区域(今日の地理的区分でいうとバルト三国、ベラルーシ、ウクライナ、モルドヴァに当たる)の中で農村から小都市へ、小都市から大都市への移動が進んだ。ロシアの大都市への移動は法的に規制されていたが、その制約を超えて移住する人も徐々に増大した。そして、ポグロムや各種制約にもかかわらず、ロシアのユダヤ人は資本家や専門職、あるいは革命的知識人の間で顕著に高い比率を占めた(pp. 117-118)。
 19世紀末の産業化は新しい分野へのユダヤ人の進出をもたらし、とりわけ金融業での活躍が顕著だった。もっとも、ユダヤ人の間での競争も激しかったし、非ユダヤ人との取り引きも多かったから、彼らは単純に一枚岩の存在ではなかったが、それでも彼らは一つのビジネス共同体として自他共に認められていた。ユダヤのマスタープランのようなものがあったわけではないが、ロシア帝国全土およびその外まで含むネットワークでの結びつきは確かにあったとされる(pp. 118-121)。
 教育面でいうと、ギムナジウムおよび大学生の間での急速なユダヤ人増大と過剰代表は専門職業人への進出の前提となった。とりわけ法曹および医者の間での活躍が顕著だった。音楽をはじめとするハイカルチャーの分野でもユダヤ人の活躍が目立ち、アントンとニコライのルビンシュテイン兄弟(それぞれペテルブルクとモスクワの音楽院を創設)、ヴァイオリニストのエルマンとハイフェッツ等々を生み出した(pp. 123-127)。
 彼らがロシア知識人になるには、その前提として、先ずロシア文学を身につけたロシア人とならねばならなかった。著者はそれを「プーシキン教」への帰依と表現している。ペテルブルグのユダヤ人の間でロシア語を主に話す人の比率は、1869年の2%から1910年の42%へと上昇した。ロシア語を話すようになったユダヤ人は、自己を「人間一般」「コスモポリタン」と見なすようになった。そして、「プーシキン教」への入信は、父祖の家を去ることを意味した。なお、父祖への反逆はユダヤ人だけの特徴ではなく、ロシア・インテリゲンツィヤ全般の特徴でもあった。ロシアの急進的インテリゲンツィヤとユダヤ人はともに父と対立したのだと著者は説く。帝政末期のロシアでは、家父長的家族で育てられた多くの若者が、ロシア的後進性と西欧的近代の双方に反逆して、ロシア的後進性をバネとした社会主義への直接移行を目指した(pp. 127-143)。
 革命運動の主流は、当初のナロードニキ(本書ではpopulismの語が充てられている)からやがてマルクス主義へと移行した。ロシアのインテリゲンツィヤは農民を重視する傾向があったのに対し、マルクス主義者は農民を軽蔑したから、非農民的なユダヤ人に受け入れられやすかったのだと著者はいう。他方、労働運動の中にマルクス主義とイディッシュ・ナショナリズムの要素を持ち込もうとしたユダヤ人ブンドは、より普遍主義的な潮流――ロシアあるいはポーランドのマルクス主義――あるいはヘブライ的ナショナリズムとの競合に敗れたとされる*7。また、1903-06年のポグロム後にはシオニズムが若者への影響力をある程度伸ばしたが、パレスチナへの移民はアメリカへの移民あるいはロシア大都市部への移動よりも小さかったと著者は指摘し、全体として社会民主主義(後の共産主義)に力点をおいた記述をしている(pp. 148-152)。
 他の民族の活動家が革命家になるのはネイションとしての解放と重なっていたが、ユダヤ人の場合、国家に反逆すると同時にユダヤ性にも反逆した点が特徴的だとされる。マルクスはプロレタリアは祖国を持たないと主張し、これは現実のプロレタリアには当てはまらなかったが、ユダヤ人マルクス主義者はまさしく祖国を持たなかった(pp. 152-153)。
 第1章の後半は第一次世界大戦からロシア革命へと至る過程に充てられている。ここでは多くのことが語られているが、ロシア革命を複合的現象としてとらえ、1914-21年にまたがる大動乱としているのが一つの特徴である。「ユダヤ性に反抗するユダヤの革命」〔以下、「ユダヤの革命」とは全てこの意味〕も、そうした複合現象の一構成要素だったとされる。
 「ユダヤの革命」はボリシェヴィキ革命と同一ではないが、一貫してポグロムに反対した唯一の軍――しかもユダヤ人〔トロツキー〕によって率いられていた唯一の軍――が赤軍だったことから、ユダヤ人が戦おうと思うなら赤軍に参加するほかなかった。もっとも、ボリシェヴィキの多数派はロシア人(1922年に党員の72%)であり、次いで過剰代表だったのはラトヴィア人だったから、共産党がユダヤ人主導だったとはいえない。またユダヤ出自の革命家はユダヤ人としての解放を求めたのではなく、むしろユダヤ人ではなくなろうとした。トロツキーは自分の民族は社会民主主義だと言った。こういうわけで、ユダヤの革命とボリシェヴィキの革命は決して同じではないが、状況の中でユダヤ人はボリシェヴィキに傾斜した。そのことは、革命に反対する勢力が「ユダヤ=ボリシェヴィキ」というイメージを構築する要因となった(pp. 169-173)。
 ボリシェヴィキ党員中のユダヤ人比率は高くなかった(1922年に5.2%)が、目立つ位置に多くいたことが「ユダヤ=ボリシェヴィキ」イメージを増幅した*8。1917年10月のボリシェヴィキ党中央委員12人中5人がユダヤ人だったし、初代および第二代の全ロシア中央執行委員会議長のカーメネフとスヴェルドロフはともにユダヤ人だった。1919-21年の共産党中央委員会ではほぼ一貫して4分の1を占めていた。特に重要なのは、治安機関における比重である。全体としての治安機関におけるユダヤ人の比重は、白軍側からの宣伝に反してそれほど高くはなく、量的な多数派はロシア人、過剰代表なのはラトヴィア人だった。しかし、指導的役職者に着目すると、ユダヤ人の比率は相当高かった。1923年にOGPU(統合国家政治部)が発足したとき、その指導的役職者の15.5%がユダヤ人であり、8人からなる参与会メンバーのうちの4人がユダヤ人だった。「社会的異分子」として投獄された人の間でもユダヤ人比率は高かったが、彼らは往々にしてユダヤ人の取調官によって尋問されたり銃殺されたりした(pp. 175-178)。
 このようにユダヤ人革命家はソヴェト政権において目立つ位置を占めていたが、そのことはボリシェヴィキおよびその支持者たちにとって重荷となることがあった。ゴーリキーの場合、自分自身は親ユダヤ的(=反農民的)だったが、反ユダヤ主義を刺激することを恐れ、ユダヤ人ボリシェヴィキが不用意な言動を差し控えるよう助言した。トロツキーは十月革命直後に内務人民委員への就任を打診されたとき、敵に宣伝材料を与えるのを避けるためという理由でこれを断わった*9。レーニンの母方の祖父がユダヤ人だったという事実――レーニン自身はそのことを知らなかったようだが、死後に姉のアンナが資料を見出したという――も、反ユダヤ主義宣伝に利用されることを恐れて、表沙汰にすることが避けられた(pp. 163, 186-187, 245-246)。このように、反ユダヤ主義を容認するわけではないが反ユダヤ主義宣伝を刺激しないよう配慮するという発想はその後も持続し、次第に反ユダヤ主義への微妙な事実上の接近をもたらすことになる。
 
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 第4章はソ連、イスラエル、アメリカにまたがった20世紀ユダヤ史を描いており、本書の中で最も長大な章となっている。分量が多いだけでなく、本書全体のクライマックスをなしているので、いくつかの部分に分けて紹介する(但し、著者の記述は時としてあちことに飛んでいる観があって、そのままでは話の筋を追いにくいので、私なりに整理し直した形での紹介を試みる)。
 この章の冒頭では、ショレム・アレイヘムの『牛乳屋テヴィエ』(後にアメリカで翻案されて『屋根の上のヴァイオリン弾き』となる作品の原作*10)が取り上げられ、テヴィエの娘たちのその後の人生についての解釈が呈示されている。テヴィエはウクライナのユダヤ人集落(シュテットル)に住んでいたが、娘たちの多くは親元を離れて、あちこちに移住し、異なった人生を送る。ある娘は革命家の男性と結婚して、ロシア各地で革命運動に携わる。ある娘はアメリカに渡り、ある娘は――これはショレム・アレイヘムの書いたとおりではなく、スリョースキンの独自な解釈だが――イスラエルに移住する。彼らの子供たち――テヴィエからいえば孫たち――は、ソ連の都市部、アメリカ、イスラエルという移住先に分かれて、異なった生活を送るが、みなテヴィエの孫という意味では、お互いに従兄弟/従姉妹同士であり、相互のことを意識しながら自己を形成する。これがこの章の基本的な骨格をななす枠組みである。著者は当初、本書を『テヴィエの娘たち』というタイトルにしようと考えていたとのことだが*11、この章がこういう組み立てになっていることからすれば、それも納得できる。
 さて、ソ連、イスラエル、アメリカの3国にまたがった論述を含む本章の中で最大の位置を占めるのはソ連であるので、先ずこの部分を戦前期と戦後期に分けて眺めてみよう。
 テヴィエの住んでいたウクライナの集落は、当時のユダヤ人の典型的な居住地域だったが、第一次世界大戦、革命、内戦という騒乱の過程でこの地域のユダヤ人は殺されたり、追放されたり、逃げ出したりして、他の土地に居住するようになった。そのなかにはアメリカやパレスチナ/イスラエルに行った人たちも少なくないが、何といっても量的に最大だったのは、地理的に近い――また多くのユダヤ人はイディッシュだけでなくロシア語も身に付けていたので言葉も通じやすい――ロシア大都市部(典型的にはモスクワやペテルブルグ/レニングラード)だった。帝政ロシアのもとでは、定住区域外の大都市への移住には厳しい制約があったが、革命によってその制約が撤廃されると、大量のユダヤ人がそこに移住し、高い教育を受けて諸方面で活躍するようになった。彼らは文化面ではロシア語・ロシア文学(「プーシキン教」)を吸収し、イデオロギーとしては共産主義に移行した(pp. 206, 212-226)。
 こうしてソヴェト時代のユダヤ人は諸方面で活躍し、多くのエリートを輩出したが、だからといって、不利な要素がなくなったわけではない。ネップ(新経済政策)のもとで、ユダヤ人はいわゆる「ネップマン」――小規模商業や手工業で金儲けをしているとみなされる「小ブルジョアジー」――の中で大きな比率を占めたが、そのため「ブルジョア的危険」を体現するものと見なされがちだった。とはいえ、「ブルジョア的危険」がユダヤ人と等置されたわけではない。ネップ期に主要な「敵」とされたのは、むしろロシア人のクラーク(富農)、ロシア正教の聖職者、外国資本家だった。ネップが終わると、私企業に携わるユダヤ人は迫害されたが、彼らを取り締まる治安機関員も往々にしてユダヤ人だった。1930年代半ばに内務人民委員部の指導的役職者の中で最大なのはユダヤ人、次いでロシア人、ラトヴィア人、ウクライナ人、ポーランド人、グルジア人、ベラルーシ人、ドイツ人の順だった(pp. 218-221)。
 ソ連の諸民族の中でユダヤ人は識字率の高さ、高等教育を受けている比率の高さで群を抜き、文化エリートの中での比率も非常に高かった。シャガール、エイヘンバウム、ヤコブソン、シクロフスキー等々はその最も有名な例である。もちろん、ソヴェト・エリートがみなユダヤ人であるわけではないし、ユダヤ人がみなエリートであるわけではないということに著者は注意を向け、ユダヤ人とソヴェト・エリートを単純に同一視する傾向に警告を発している。それでも、ユダヤ人のエリート比率が顕著に高いことは事実であり、絶対数でいえばロシア人に次いで第2位だった。そして、エリートを類似した環境や背景をもつ集団ごとに分けた場合、その中でユダヤ人が最も目立つグループをなしたことが指摘されている(pp. 222-236)。
 ユダヤ人が新しいソヴェト・エリートの中核をなしたことは諸方面からの反撥を呼び起こした。ユダヤ人とソヴェト国家が結びつけて捉えられ、反ユダヤ的な噂が広められるようになった。ある歴史家がプラハの同僚宛てに書き送った手紙では、モスクワ大学受験者の78%がユダヤ人であり、プラハにロシアの大学がある一方、モスクワにはユダヤの大学があるとされた。ソヴェト政府がユダヤ人を依怙贔屓しているとか、ソヴェト政府はユダヤ政府だといった見方が広められていることに対して党機関・治安機関は神経をとがらせていた(pp. 242-244)。
 戦前期を通して反ユダヤ主義は許されざる悪とされ、1925年には「共産主義=ユダヤ体制打倒」とかユダヤ人のパレスチナへの追放を叫んだロシア・ナショナリスト7人が死刑に処せられた。他方では、ユダヤ出自の高官の存在をあまり目立たないようにするという傾向も続いた。トロツキーについては前述したが、レーニン死後に後継の人民委員会議議長として、より有能だがユダヤ人のカーメネフの代わりに、ロシア人のルィコフが選ばれたのも、そうした配慮が作用していた。トロツキーもカーメネフも自己意識としてユダヤ人と感じてはいなかったが、それでもそうした人物が目立つ地位に就くことは反ユダヤ主義を刺激すると考えられた。最もデリケートなのはレーニンの場合で(この問題も前述)、姉のアンナは1932年と34年にこの問題を蒸し返したが、スターリンは沈黙を指令した(pp. 244-246)。
 反ユダヤ主義への一つの対処として、ユダヤ人を「普通の民族」にすることも試みられたが、それは他の民族への「現地化政策」――一種のアファーマティヴ・アクション*12――と同じ意味を持つことがなかった。というのも、ユダヤ人は伝統的な宗教・言語・儀式を捨てたり、他民族と結婚することにためらいがなかったからだと著者はいう。「普通の民族」にする政策の一環として、農業入植政策も試みられ、クリミヤ北部および南ウクライナに「ユダヤ人共和国」をつくるという計画が立てられた。この計画はアメリカのユダヤ人団体からも支援を受けて1926-27年に進められかけたが*13、クリミヤ=タタールの指導者から反対を受けて難航した。因果関係は明確でないが、とにかく、ユダヤ人をクリミヤに定住させる政策は放棄され、それに代わって極東のビロビジャンにユダヤ人の自治共和国を作るという政策が公認のものとなった。もっとも、この政策はユダヤ人の間にさしたる反響を呼ぶことがなく、ビロビジャンに移住したのはごく少数にとどまった*14(pp. 248-249)。
 1937-38年の「大テロル」の時代となると、体制の弾圧の矛先は体制自身に向けられるようになった。革命の高僧は自らを犠牲に供した。「革命はその子を食らう」という言い方があるが、この場合はむしろ親を食い尽くしたのだと著者はいう。そして、ユダヤ人は政治エリートの中で不均衡に大きな位置を占めていたため、犠牲者の中でも顕著だった。しかし、非エリートの犠牲者の中ではユダヤ人は多くなかったから、全体としてのテロルの犠牲の中でのユダヤ人比率は低かった。1937-38年に政治犯として逮捕された比率は、ポーランド人中で16%、ラトヴィア人中で30%だったのに対し、ユダヤ人中では1%にとどまった。1939年初めの収容所人口中のユダヤ人比率は全人口中の比率よりも明らかに低かった(pp. 269-274)*15。国境外に同胞を持つディアスポラ民族の多くは1930年後半の国際緊張の中で対敵内通者となることが危惧されて、集団的追放の対象とされたが、ユダヤ人はその対象とならなかった。1939年に至っても、イディッシュ語出版は盛んに行なわれており、国立ユダヤ劇場の指導者ミホエルスはレーニン勲章を授与された(pp. 274-275)。
 これに続く独ソ戦――著者はソ連的用語法を採用して「大祖国戦争」と書いている――は大きな転機となった。この戦争を通して、ソヴェト国家は自己をロシア帝国の後継者と考えるようになり、他方、ユダヤ出自の知識人は自己をユダヤ人と見なすようになった。彼らはそれまでプーシキンとレーニンが自分の祖国だと考えていたが、ナチが彼らをユダヤ人と判定するからには、自分たちはユダヤ人だと認識するほかないと考えるに至った。ナチがやってきたとき、多くのユダヤ人がナチによって殺された(著者自身の祖母の兄弟を含む)。この経験を通して、ユダヤ出自の人たちは自分たちがユダヤ人であると認識させられた(pp. 275-288)。
 このようにユダヤ人が自らのユダヤ人性を再認識する一方、ロシア人・ウクライナ人などの非ユダヤ人たちの間では、反ユダヤ主義の広まりが見られた。それはナチ占領地域で、3年間にわたる反ユダヤ主義宣伝が行なわれたことに端を発し、他の地域にも広がっていった。一部のソヴェト市民は「ユダヤ人抜きのウクライナ」を望むようになった(pp. 289-290)。
 戦時下のユダヤ人は否応なしにナチ・ドイツとの戦いに参加するほかなく、あらゆる傾向のユダヤ人が思想・信条に関わりなく1つの家族となった。「ユダヤ人反ファシスト委員会」はソ連政権公認でミホエルスを議長として結成されたが、ソヴェト・ユダヤ人は上からの統制を離れる勢いで自然発生的な声をあげはじめた。独自のユダヤ人部隊結成を要請する声もあらわれたし、イディッシュの作家たちは自分たちの民族的悲劇を強調するようになった。「ユダヤ人反ファシスト委員会」の活動においてはアメリカへの宣伝が大きな位置を占め、ニューヨークを拠点とする世界シオニスト団体とも交流した。このような国際的交流は独ソ戦遂行中はソ連政権から容認されていたが、戦後に彼らが疑惑をかけられるもととなる。1944年2月にミホエルスらはスターリンへの手紙で、クリミヤにユダヤ自治共和国をつくるよう請願し、政治局員のうちカガノヴィチ(ユダヤ人)、モロトフとヴォロシーロフ(ともに妻がユダヤ人)は慎重ながら同情的だったが、スターリンはこれを拒否した(pp. 292-294)。
 こういうわけで、戦前および戦時中のソ連では、民衆の間に反ユダヤ的気分が観察されたり、指導者もそうした反ユダヤ感情を刺激することを恐れてユダヤ人の突出を避けるという傾向があったとはいえ、政治指導部が自ら反ユダヤ主義的政策をとることは基本的になかったし、各界エリート中でのユダヤ人比率は一貫して非常に高かった(エリート中のユダヤ人過剰代表を抑制する政策は1930年代末に始まっており、これは事実上の反ユダヤ政策に近似する意味を持ったが、ユダヤ人の排除や弾圧には至っていなかった)。しかし、戦後期にはこの点で逆転が生じた。
 
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 戦後のソ連で事実上反ユダヤ的な意味を持つ政策がとられたことはよく知られている。その背景についても種々の研究が現われている*16。私自身がその問題に正面から取り組んでいるわけではないが、ある程度読みかじった研究と対比するとき、スリョースキンの記述は結果的現実を強調するのに急で、その背景要因の掘り下げはあまり深くないという印象を受ける。その意味で、戦後ソ連に関する本書の記述には多少物足りない観もあるが、ともかくいくつかの興味深い事象に触れている。以下、なるべくそうした個所を中心にしながら、本書の記述を辿ってみたい。
 一つの重要な要因は、パレスチナにイスラエル国家が建国されたことである。当時のソ連外交は、イギリスへの対抗の観点からイスラエル建国支持の立場をとったが、そのことは国内で指導部の予想を超えた動きを引き起こした。独ソ戦期に自らがユダヤ人であることを自覚した――いわば、忘れかけていた「血」を、ナチのせいで思い起こさせられた――モスクワやレニングラードのソヴェト・ユダヤ人は自己の感情を自発的に表出するようになっていたが、イスラエル国家の誕生はそれをさらに刺激した。その端的なあらわれとして、イスラエル軍への義勇兵としての参加希望が表明された。この希望は、スペイン内戦への義勇軍のアナロジーで正当化され、イスラエル国家は英米帝国主義者に支援されたファシスト・アラブ侵略者と戦っているのだから、これに対するイスラエルの戦いは大英帝国との闘争だと主張されたりした(pp. 294-296)。
 1948年9月3日、初代の駐ソ・イスラエル大使としてゴルダ・メイエルソン(後のメイヤ)がモスクワに赴任したとき、ソ連では20年以上にわたって見られなかったような自然発生的政治集会に多数のユダヤ人が集結した。メイエルソンがモスクワのシナゴーグを訪問してラビと会見したとき、多数のユダヤ人が彼女を歓迎し、イスラエルとの連帯を表明した(pp. 296-297)*17
 これを契機に、ソ連当局はソヴェト・ユダヤ人が敵対的な外国に忠誠を誓う可能性に気づいた。かつて1930年代末‐40年代前半にドイツ人、ギリシャ人、フィンランド人、ポーランド人などが潜在的な通敵分子として迫害されたとき、ユダヤ人はその対象でなかったが、今や類似の疑惑が彼らにかけられるようになった。ユダヤ人のうちイディッシュ文化を守る人の場合は「ブルジョア民族主義者」として、イディッシュを捨ててロシア文化に同化した人の場合は「根無し草のコスモポリタン」として非難されるようになった。こうした中で、1948年1月にはミホエルスが暗殺され、続いてイディッシュ劇場の閉鎖、多くのイディッシュ作家の逮捕、そしてユダヤ人反ファシスト委員会メンバーたちの逮捕と処刑などが起きた(pp. 297-298)。なお、1948年時点ではソ連はイスラエル建国を支持し、親イスラエル=反アラブの立場を立っていたのに、どうしてそれが短時間に逆転したのかという問題に本書は立ち入っておらず、この点も物足りない。
 この後しばらく、各界エリート中のユダヤ人削減キャンペーン――いわゆる「反コスモポリタニズム」旋風――が繰り広げられた。もっとも、本書の記述を見ると、削減キャンペーン以前に如何にユダヤ人比率が高かったか、またキャンペーンが収まってからしばらく経った時期のユダヤ人比率も如何に高かったかを示す具体的データが挙げられている一方、キャンペーンによってどの程度の削減が生じたかを示す具体的データは挙げられていない。キャンペーンを誰が、どのようにして引き起こしたかについても詳しい叙述はなく、分析としてあまり深くはない。とにかく、キャンペーン前夜のユダヤ人エリートの重みに関しては、マルクス=レーニン主義を教えるソ連の教授中の19.8%、モスクワ、レニングラード、キエフ、ハリコフなどの大学では25%とか、各分野における学界ボス(ミニ・スターリン)は、哲学のミーチン、経済学のヴァルガ、歴史学のミンツ、法学のトライニン等、みなユダヤ人だったとか、科学アカデミー・ロシア文学研究所(プーシキン館)の学術評議会メンバー中の80%、ボリショイ劇場、モスクワ音楽院、モスクワ・フィルハーモニー、レニングラード音楽院などの指導的メンバーのほぼ全員等々といった例が挙げられている。政治の中枢たる共産党政治局では、カガノヴィチは本人がユダヤ人、モロトフ、アンドレーエフ、ヴォロシーロフは妻がユダヤ人だったし、更には、他ならぬスターリンの長男ヤコフの妻、娘スヴェトラーナの複数の愛人がみなユダヤ人だった(pp. 301-304)。
 1953年にスターリンが死去すると、反ユダヤ的政策はその規模を縮小させた。もっとも、著者はこれは度合いの問題だと書いていて、あまり大きな本質的変化ではないと示唆するかのようだが、この点についてもあまり詳しい掘り下げはない。とにかく巨視的な歴史像として、「ユダヤの革命」と共産主義革命は戦前には大連合の関係にあったのに対し、その大連合はユダヤ人共産主義者への十字軍の結果として終焉したという理解が示されている(p. 313)。
 いずれにせよ、スターリン後のソ連では一時期の反ユダヤ主義は失速し、ユダヤ人は専門職業階層の頂点に戻って来た。ユダヤ人のうちの大学卒業者の比率は1959年には11.4%(ロシア人のうちでは1.8%)だったが、この比率は1989年には64%(ロシア人では15%)に上昇した。伸び率ではロシア人の方がやや高いが、とにかくユダヤ人の大学生比率は圧倒的な高さを示した。科学従事者の比率も同様である(pp. 329-330)。こうしてユダヤ人はソヴェト体制の最後まで専門職業エリート中に顕著な位置を占めていた。しかし、政権との相互関係は、かつての共生から対抗へと変化した。それは党=国家エリートと専門職業エリートの間の乖離の拡大を意味した(pp. 330-332)。
 もっとも、ことさらにユダヤ人だけが厳しい抑圧にあったわけではなく、もっとひどい目に遭った集団は他にも存在した。しかし、屈辱のパーセプションはユダヤ人において特に強かった。他の諸集団よりもひどく抑圧されていたというわけではないが、誰よりも強く屈辱感を懐いたのがユダヤ人の特徴だとされる。著者によれば、ユダヤ人であることとインテリゲンツィヤであることとはほぼ同等視され、体制に対して否定的という特徴を共有した(pp. 339-340)。このような観点に立つなら、ロシア人インテリゲンツィヤとユダヤ人インテリゲンツィヤはあまり区別されなくなったかにも見える。実際、この後の個所では両者を単純に並列するような記述も出てくる。しかし、次に掲げるアネクドートはそれだけには尽きないものがあったことを物語る。
 ラビノヴィチ〔典型的にユダヤ的な名前〕に政治指導員が尋ねる。「君の父親は誰か」。
 「ソヴェト連邦です」。
 「よろしい。君の母親は誰か」。
 「共産党です」。
 「素晴らしい。君の最大の望みは何か」。
 「孤児になることです」。
 いうまでもなく、この第3問への回答は痛烈な皮肉だが、ラビノヴィチにとって第3問のみならず第1問・2問への回答も真実だったと著者は指摘している(p. 341)。前の方で触れたように、ユダヤ人は「父殺し」の伝統を持っていたというのが著者の考えであり、父がソヴェト連邦で母が共産党だということが真実であればこそ、ますますその親に反逆したのだということのようである。
 こうしてソ連のユダヤ人の大半は共産主義を放棄し、リベラリズムの国たるアメリカか、シオニズムの国たるイスラエルへの移住を望むようになった。1967年の「6日間戦争」〔第3次中東戦争〕の衝撃はイスラエル志向を強めた。多くのソ連知識人が出国を望む中で、ドイツ人、アルメニア人、ギリシャ人も金持ちの外国の親戚から身代金を払ってもらう可能性があったが、出国を許されたのはユダヤ人だけであり、その根拠はイスラエルという故国の存在にあった。アメリカのユダヤ人ロビーはソ連ユダヤ人の出国自由化を求めて、米ソデタントを牽制し、ジャクソン=ヴァニク修正〔ソ連が出国を自由化しない限り、ソ連に最恵国待遇を与えない〕を1974年に成立させた(pp. 353-357)。
 この後の経過に関する叙述はかなり駆け足になっているが、1968年から1994年の間に120万人のユダヤ人(全体の43%)がソ連・旧ソ連諸国を去った。20世紀の初頭にテヴィエの娘たちにあった3つの「約束の地」のうち、ソ連はアメリカとイスラエルの双方に敗北し、かつて世界最大のユダヤ人居住地だったロシアにおけるユダヤ人の存在はごく小さいものとなった(pp. 358-360)。
 今日、多くのユダヤ・ナショナリストはソ連の経験を振り返って、白衛軍、ナチ、ウクライナ・ナショナリスト、戦後ソ連による相次ぐ迫害の犠牲者として自己の歴史を想起するが、ユダヤ人がボリシェヴィズムと一体化し、1920-30年代ソ連のエスタブリッシュメントとして成功していた事実は思い出そうとしない。他方、ソルジェニツィンのようなロシア・ナショナリストはボリシェヴィズムとユダヤ性を同一視し、ユダヤ人がボリシェヴィキ指導部で果たした役割に責任を感じるべきだと説くが、非ロシア諸民族がロシア人の犯した悪行の責任を問うていることには言及しない(pp. 360-361)。ここでは双方の側のダブルスタンダードが指摘されている。
 いずれにせよ、2002年人口センサスによればロシア連邦に残っているユダヤ人は23万人(全人口の0.16%)でしかない。彼らの選択肢の一つはロシア人への同化(ロシア人との通婚、正教への改宗など)であり、もう一つの選択肢は市場経済化の中で企業家になることである。エリツィン時代の資本主義化の過程で巨富を蓄えたオリガルヒ7人のうち6人はユダヤ人だということが指摘されている(pp. 361-362)。
 
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 以上、ソ連におけるユダヤ人の歩みを戦前期と戦後期に分けてみてきたが、本書の第4章にはその他にイスラエルおよびアメリカにおけるユダヤ人についても各所で記述がある。それらは一個所にまとめられておらず、あちこちに分散しているが、ここでは便宜上、イスラエルに関する個所とアメリカに関する個所をそれぞれまとめて紹介してみたい。
 先ず、シオニズムに鼓吹されてパレスチナに移住し、1948年にイスラエル国家を建国したユダヤ人について。イスラエルはユダヤ・ナショナリズムの国であり、それまでネイションを持ち得なかったユダヤ人をネイション化させた。ソ連があらゆるネイションと国家の廃止を目指す革命を志向したのに対し、イスラエルは伝統的ユダヤ人とは異なるネイションとしてのユダヤ人をつくりだそうとするという意味で、目標は異なるが、どちらも革命的であり、メシア的救済論を共有していた(pp. 208-211)。
 ユダヤ人の「普通のネイション」化の一つの形態は、それまでほとんど携わってこなかった農業への従事であり、農業入植である(ソ連でも農業入植が一時期試みられたことは前述)。もう一つの顕著な特徴は、伝統的ユダヤ人には見られなかった「戦士の文化」の鼓吹であり、イスラエルは軍事色の濃い国家となった。伝統社会におけるアポロとマーキュリーの対比において、アポロは農業と牧畜、マーキュリーは商業、金融、呪術、医療等々に携わるという対比があることは前述したが、その他にもう一つの重要な対比として、戦士になるのはアポロに限られ、マーキュリーは軍事から排除されるという点があった。これに対して、自らネイションとなることを目指したシオニズムは、軍事を我が物とすることに熱心となった(pp. 327-329)*18
 このような特徴を持つイスラエル国家が成功をおさめたのは、ナショナリズムというものの強さによる。著者によれば、一般論として部族主義は人類の普遍的条件であり、身内と身内以外を区別する家族はあらゆるラディカリズムよりも強い。キリスト教も汝の子と他人の子を同等に愛せと説きながら、実際には家族を聖化することで生き延びた。共産主義はキリスト教の馬鹿げた弟として、短期的理想主義高揚の後に敗北した(pp. 363-364)。ここで著者はナショナリズムと「部族主義(tribalism)」を等置し、それは身内と身内以外を区別する人類一般の性向に基づくものだという、いわば身も蓋もない議論をしているように見える。
 こうしてシオニズムは共産主義に勝ったが、その代わり、イスラエルは特異な国家となった。領土拡張、壁の建設、占領地への入植、デモ隊への発砲、法手続きによらない殺戮を行なっていながら他のヨーロッパ諸国からつまはじきにされない唯一の国家がイスラエルだと著者は指摘する。その背景には、1970年代の欧米における「ホロコースト文化」の広がりがあった。ホロコーストは比較を絶する絶対悪とされ、イスラエルはその犠牲者として特別な位置を占めた。そこには、アメリカ・ユダヤ人のイスラエルとの結びつきおよびイスラームとアラブへの西欧の反感が作用していた。神が死んだ後のヨーロッパで超越的な「悪の化身」としての座をナチズムが占め、その反射的関係で、イスラエルは法手続きによらない殺戮を行なっても指弾されない特異な存在となった(pp. 364-366)。著者はこれ以上突っ込んだ価値評価を明示していないが、このような記述にはシニカルな響きがあるように感じられる。ソ連と共産主義が滅びたのに対しシオニズムとイスラエルは生き延びに成功しているが、それは手放しに賛美できるものではないといった感覚があるのだろうか。
 
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 「テヴィエの娘たち」の3つの移住先のうち、アメリカに渡ったユダヤ人は、ソ連やイスラエルのような革命を志向するのではなく、以前と同じ願望を、より小さな差別のもとで実現しようと試みた。他の諸国では資本主義的成功は羨望の対象であると同時に道徳的にいかがわしいと見なされがちだったのに対し、アメリカでは資本主義的成功は紛れもない成功だったという事情がその背後にあった(pp. 207-211)。
 以前の章で見たように、マルクスとフロイトは二人の代表的な近代ユダヤ的預言者だったが、マルクス主義は東に行き、フロイト主義はアメリカに行った。そして、フロイト主義は人間的悲惨をセラピーでやわらげることで、現存する福祉国家が生き延びるのを助けたのだ、と著者はいう(pp. 81-83)。ここでいうフロイト主義とは――後世のマルクス主義がマルクス本人の思想とは異なるのと同様に――本来のフロイトの学説とは異なるが、アメリカ的環境の中で変容し、近代資本主義社会で矛盾をかかえた個々人が革命によることなく生きていくためのセラピーという役割を果たした(pp. 318-321)。
 さて、アメリカのユダヤ人のうち最大の部分はロシア出身者であり、急速な成長と経済的成功を遂げた。ソ連のユダヤ人とアメリカのユダヤ人はほぼ同時期に高等教育で成功し、その結果、過剰な成功に伴う社会的軋轢という「ユダヤ人問題」を引き起こした。ソ連の大学は共産主義者を養成したが、アメリカでも大学生は共産主義者になりやすかった。1930年代のシカゴ大学の学生の政治活動は、共産主義者間のスターリニスト派とトロツキスト派の論争が主要な位置を占めていた。そこにおいては、ソ連が歴史の前途を示すのか、それともソ連は堕落して誤った道を歩んだのかという問題が重要視されていた。ユダヤ人でもありロシア人でもあるトロツキーの影響力の大きさは、アーヴィング・ハウ〔アメリカの新左翼知識人・作家〕とかダニエル・ベルといった例に示される(pp. 260-265)。
 第2次世界大戦後になると、ソ連の「反コスモポリタニズム」旋風と時を同じくして、アメリカではマッカッシー旋風の時代となった。両者はユダヤ人共産主義者の迫害という面で共通するが、ソ連ではユダヤ人として、アメリカでは共産主義者として迫害されたという違いがあった(pp. 314-315)。
 こうして、戦後の一時期までアメリカのユダヤ人は何らかの意味での共産主義に傾倒する傾向があったが、次第にその重みは低下した。アメリカのユダヤ人の子弟は共産主義からユダヤ・ナショナリズムへと転向しつつあった。その背後には、共産主義への幻滅およびユダヤ人子弟の社会的上昇があった。知識人中におけるユダヤ人の位置の大きさは、1969年にアメリカ全人口中の3%にすぎないユダヤ人が大学法学部教授の27%、医学部教授の23%、生化学教授の22%等々を占めたといった数字に示される。クレムリンがユダヤ人の達成を取り消している時期に、アメリカではユダヤ人の成功がソ連に追いつきつつあった(pp. 315-318)。
 もっとも、学生の間では依然としてラディカリズムが強く、1960-70年代には多くのユダヤ人学生が社会主義運動に参加した。SDS(民主的社会のための学生運動)、バークレーの自由演説運動、ウェザーマン〔1970年代の極左運動〕などにおけるユダヤ人の比率は顕著に高かった。1970年の全国調査によれば、ユダヤ人学生の23%が自己を「極左」と見なしていた(プロテスタントでは4%、カトリックでは2%)。しかし、在米第三世代ともなると、アメリカ社会で確固たる位置を占め、ユダヤ性を隠す必要もなく、むしろユダヤ・ナショナリズムに傾斜する傾向が強まった。但し、それは戦闘的シオニズムというよりも、イスラエル国家への穏やかで漠然たる支持を意味した。アメリカのユダヤ人はソ連の従兄弟/従姉妹およびイスラエルの従兄弟/従姉妹に責任を感じるようになり、前者の出国の自由を支援したり、後者への精神的・金銭的支援を行なった。もっとも、それは自らイスラエルに赴くような熱烈な支持ではなく、アメリカ社会の中での一つのエスニシティとしてだった(pp. 348-352)。
 アメリカのユダヤ人はソ連およびイスラエルに比べて非革命的だが、最大の成功を収め、目覚ましい社会的上昇を遂げた。アメリカ知識人たちの相互評価で最も高い評価を得た20人のうち15人はユダヤ人であり、数多くの専門職を含んでいる。しかも、アメリカは他の国と違ってマーキュリーの国であるため、ユダヤ人は差別の対象にならない。政治過程への参与度の高さにおいて、戦後のアメリカは戦前のソ連に次ぐ高さを占めるようになった(pp. 367-369)。
 しかし、ユダヤ人が多数派に受け入れられるにつれて、その特殊性は薄れていく。ユダヤ人が非ユダヤ人と結婚する率は1940年には3%だったが、1990年には50%を超えた。テヴィエの子孫たちが木から落ちた葉のように飛んでいくとき、テヴィエは何のために娘たちを育てたのだろうか。ユダヤ人であってもなくても大した意味がないのなら、神はどうしてそれらをつくりだしたのか(p. 371)。
 本書はこの言葉で終わっているが、この終わり方はいささか唐突で、何を言いたいのか判然としない。推測するなら、3大移住先のうちソ連は敗北し、イスラエルは限定的勝利を収めつつ特異な軍事国家になったのに対して、アメリカは最も成功したが、その代わりにユダヤ人としての独自性を失い、ユダヤ/非ユダヤという問題設定自体が意味を失おうとしているということだろうか。20世紀は「ユダヤの世紀」だったいうのが本書の基本主張だが、21世紀はもはや「ユダヤの世紀」でなくなっていると著者は考えているのかもしれない。
 
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 以上、必ずしも忠実な要約とは言えないが、とにかく本書の叙述を一通り追ってきた。全体を振り返って考えると、本書にはあちこちに疑問を引き起こす記述があるとはいえ、とにかくユニークな問題提起を大量に含んでいて、論争挑発的という意味で有意義な書物であるように感じる。その特徴を大づかみにまとめるなら、次の3点が挙げられるだろう。
 先ず第1に、広い視野で多種多様な対象を取り上げて、比較の観点から論を繰り広げているということを挙げねばならない。これは第1章と第2章で特に顕著だが、ある程度対象を絞った第3章、4章でも十分に広い対象が取り上げられている。広大な対象を取り上げるということは、個々の事例についてどこまで正確なのかという疑問を引き起こすから、その全体が説得的ということはできないだろうが、とにかく一旦はこういう広い視野でものを考えてみることにはそれなりに意味があるように思われる。
 そうはいっても、もちろんありとあらゆる関係事象がまんべんなく論じられているわけではない。たとえば西欧や中欧のユダヤ人は第2章である程度立ち入って論じられた後、第3、4章では姿を消している。また本書でいう「ユダヤ人」は基本的にアシュケナージムであり、セファルディムはとりあげられていない。さらに、イスラエル国家の軍事的性格は指摘されても、パレスチナ・アラブに関する記述はほとんどない。このような欠落は押さえておかねばならないが、それにしても一つの本でここまで広がりを持った議論を展開した作品は稀であり、そこにあれこれのラフさがあるにしても、とにかく問題提起としての役割はあると言えるのではないかと思われる。
 第2の特徴は、広大な対象を整理するための独自な仕掛けとして、いくつかのキー概念およびそれに沿った図式が提起されている点にある。アポロとマーキュリーの対比(アポロのマーキュリー化、マーキュリーのアポロ化を含む)、近代は「ユダヤの時代」であり、20世紀は「ユダヤの世紀」(=「反ユダヤ主義の世紀」)とする把握、その世紀における3大イデオロギー=宗教がマルクス主義、フロイト主義、シオニズムであり、それぞれソ連、アメリカ、イスラエルと対応するという図式、近代ユダヤ人の特徴としての「父殺し」という概念、「テヴィエの娘たち」およびその子孫たち――孫たちは互いに従兄弟/従姉妹関係にある――の3大移住先としてのソ連、イスラエル、アメリカという整理(しかも、この3国は先の3大イデオロギーと対応する)などである。こうした概念図式はどちらかというと直感的に提起されている観があり、論理的理解に困難なところがあるし、個々の具体例への適用がどこまで妥当かも疑う余地がある。そういう留保はつけるにしても、このように広い対象を取り上げながら、それらをいくつかのキー概念で整理しようとする試みは興味深いものであり、読者の頭脳を刺激してくれる。
 第3に、「ユダヤ性に反逆する人たちを多数含むユダヤ人」という逆説性に富んだ対象を論じるに当たって、著者は逆説や皮肉に富んだレトリックを駆使しているが、こういう論じ方自体が対象の特性に即したものと言えるかもしれない。マーキュリーの特徴の一つにトリックスター性が挙げられているが、本書自体がトリックスター的な書物という観があるような気がする。
 私自身はこうした逆説と皮肉を駆使したレトリック――しかも文学作品や哲学書からの大量の引用と援用を含む――があまり得手ではない。そこで、この小文では敢えてそうしたトリックスター性を脱色し、本来「型破り」を特徴とする本書をあたかも「普通の学術書」であるかのように読み、そのような観点から紹介してきた。それは著者の意に背くものかもしれない。しかし、私としてはそういう読み方しかできなかったし、とにかくこのように読むことによって多くの得るものがあったと感じている。この論争挑発的な書物をめぐって活発な議論が展開されることが期待されるし、小文がそのためのささやかな呼び水になるなら望外の幸いである。
 
(2021年7-8月)。
(最初のアップロード後にいくつかの微修正を施した。2021年8月12日)。
 
*小文執筆に際して、高尾千津子、鶴見太郎両氏から有益な助言を得たことを記して謝意を表する。もちろん、小文の中にありうる誤りや欠陥は私だけの責任である。

*1『愛知県立大学外国語学部紀要(地域研究・関連諸科学編)』第8号、1972年。
*2以下のような書評を参照した。Russian Review, vol. 65, no. 2 (2006), pp. 347-348 (John D. Killer); Slavic Review, vol. 64, no. 4 (Winter 2005), p. 892 (Sander Gilman); Journal of World History, vol. 17, no. 3 (September 2006), pp. 347-350 (Chaeran Y. Freeze); Slavonic and East European Review, vol. 84, no. 6 (April 2006), pp. 349-350 (Maria Rubins); The Journal of American History, vol. 92, no. 5 (September 2005), pp. 704-705 (Marc Dollinger); American Historical Review, vol. 112, no. 2 (April 2007), pp. 463-465 (Steven Zipperstein). また、Marei Shore, "Tevye's Daughters: Jews and European Modernity," Contemporary European History, vol. 16, no. 1 (February 2007), pp. 121-135は6冊の本を合わせて取り上げた書評論文だが、その中でスリョースキン著が最も大きな位置を占めている。日本では、高尾千津子「内なる境界――ロシアユダヤ人の地理空間」松里公孝編『講座 スラヴ・ユーラシア学』第3巻(ユーラシア――帝国の大陸)講談社、2008年、207-208頁、同「変容するロシアユダヤ人の歴史像 ―〈モスクワ・ユダヤ博物館〉にみるユダヤ人の「歴史の創出」」『ユダヤ・イスラエル研究』第31号(2017)、19-20頁に本書の要点の紹介がある。
*3日本に関する記述は我妻洋の英文著作に依拠している。
*4なお、著者はここでthe attempted "extirpation"という表現をとり、「ジェノサイド」という言葉を使っていない。索引にも「ジェノサイド」の語は出てこない。その理由は説明されていないが、「ジェノサイド」を唯一無比とする発想への暗黙の批判があるのかもしれない。
*5なお、著者は近代におけるユダヤ人の変容を念頭におき、本書で「ユダヤ人」という言葉が指すのは、伝統的なユダヤ共同体のメンバーだけでなく、そこから離反した子孫たちを――信仰、言語、職業、自己描写、正式の地位に関わりなく――広く包括するとしている(p. 3)。
*6スリョースキンはこの問題に立ち入っていないが、19世紀末‐20世紀初頭の社会主義的理論家たちの間で「ユダヤ人は民族か」という問題をめぐって論争が展開されたのは、こうした事実を背景としている。
*7全体として本書はブンドを軽く扱っており、索引を見ると「ブンド」は5個所にしか出てこない。ポアレイツィオンに至っては一個所も出てこない。
*8もともとロシア革命以前のロシア社会民主労働者党では、ユダヤ人はメンシェヴィキおよびブンドに多く、ボリシェヴィキ中には少なかった。その後、革命と内戦の経験を経てボリシェヴィキに流入するユダヤ人が増大し、共産党内で顕著な過剰代表となった。塩川伸明『国家の構築と解体――多民族国家ソ連の興亡U』岩波書店、2007年、138-140頁参照。スリョースキンはこうしたことを一応知っているはずだが、メンシェヴィキにもブンドにもあまり多くの紙数を割かず、ほとんどもっぱらボリシェヴィキに焦点を当てている。
*9このことについては本人が回想で語っている。トロツキー『わが生涯』下、岩波文庫、2001年、108-109頁。
*10ショレム・アレイヘム『牛乳屋テヴィエ』(岩波文庫、2012年)。西成彦による訳者解説は、ウクライナのユダヤ人概観、イディッシュ語使用者の言語生活、アメリカ版『屋根の上のバイオリン弾き』への変容などに関する解説を含んでいる。
*11Marei Shore, "Tevye's Daughters: Jews and Europen Modernity," Contemporary European History, vol. 16, no. 1 (February 2007), p. 121.
*12Terry Martin, The Affirmative Action Empire: Nations and Nationalism in the Soviet Union, 1923-1939, Cornell University Press, 2001 (テリー・マーチン『アファーマティヴ・アクションの帝国――ソ連の民族とナショナリズム、1923-1939年』明石書店、2011年)、塩川伸明『ナショナリズムをどう受けとめるか――言語・エスニシティ・ネイション』三元社、2015年、第6、7章参照。
*13この問題については、高尾千津子『ソ連農業集団化の原点――ソヴィエト体制とアメリカユダヤ人』(彩流社、2006年)に詳しい。
*14一部に誤解があるが、ビロビジャンへの移住は強制ではなく自発的なものであり、結果としてごく少数のユダヤ人しか移住しなかった。高尾、前掲書、202頁。
*15関連データは、塩川伸明『終焉の中のソ連史』(朝日選書、1993年)、377-390頁参照。そこでは、ユダヤ人比率の低さは「意外」だと書いたが、本文に書いたような事情を考慮するなら、それほど意外ではないものとして理解することができる。
*16日本では長尾広視が一連の論文を書いている。「ソ連のユダヤ人問題――スターリンの『最終的解決』に関する考察」『ロシア史研究』第69号、2001年、「戦後ソ連物理学界の抗争とユダヤ人問題――知識人層における反ユダヤ現象の一側面」『スラヴ研究』第50号、2003年、「コスモポリタン批判再考・ソ連演劇界にみるスターリン統治の論理」『思想』2007年4月号、「スターリン時代のユダヤ人問題」(塩川伸明・小松久男・沼野充義編『ユーラシア世界 越境と変容の場』第2巻(ディアスポラ)、東京大学出版会、2012年。
*17当事者の回想が、ゴルダ・メイア『回想録――運命への挑戦』(評論社、1980年)、228-237頁にある。
*18もともと非軍事的・平和的でリベラルな性格を持っていたロシア・シオニズムの中から軍事的性格の濃い修正シオニズムが生まれた経過については、鶴見太郎『イスラエルの起源』(講談社、2020年)が詳しい。