歴史学断章――カッシーラー『人間』より
 
 
 少し前のことだが、かねて気になっていたカッシーラー『人間――シンボルを操るもの』(岩波文庫)を読んだ。人間科学全般にわたって広く論じた本であり、その全体をきちんと咀嚼することができたとはいえないが、歴史学を扱った第10章では、いくつか印象的な記述にぶつかった。その中から、二つの個所を引用しておく。
 
 「彼〔ゲーテ〕はヘルダーの歴史叙述のうちに、「人類の屑と殻」だけを見出したのではなかった。ゲーテをして絶賛させたのは、ヘルダーの「処理の仕方――塵埃からただ、黄金を篩い分けるのではなく、塵埃それ自身を生き返らせて、生きた植物にすること」であった」(岩波文庫版、376頁)。
 この比喩的表現をどう解釈すべきかは一義的でないが、とにかく通常の資料読解では「塵埃から黄金を篩い分ける」ことが目指されるのに対し、「塵埃それ自身を生き返らせて、生きた植物にすること」という表現には目を引くものがある。
 
 「世界史は世界の審判」というシラー(およびヘーゲル)の言葉を受けたランケ論。
「彼〔ランケ〕は歴史学者の使命を、それほど僭越なものとは考えなかった。彼は世界史の大きい試練のうちで、歴史学者はあらかじめ裁決を準備しなければならないが、この宣告をなすべきではないと考えた。このことは道徳的無関心とは甚だしく異なったものである。否、それは最高の道徳的責任をもった感情である。ランケによると歴史学者は被告人のための検事でもなく弁護人でもない。もし彼が判事として語るならば、彼はjuge d'instruction(予審判事)として語るのである。彼は、最高裁判所である世界の歴史に提出するために、事件のあらゆる資料を蒐集しなればならない」(398頁)。
 これもまた比喩的表現だが、検事でも弁護人でも通常の判事でもなく、だからといって道徳的無関心というわけでもなく、「予審判事」なのだ――言い換えれば、裁決の準備には携わるが、宣告をなすべきではない――という言い方には共感を覚える。
 
(2018年9月2日にフェイスブックに投稿した文章を微修正した)