新型コロナ・ウィルス問題再論――当たるも八卦当たらぬも八卦
 
 
 二ヶ月ほど前に新型コロナ・ウィルス問題について「一介の素人による問題提起」と銘打った小文およびその改訂版を投稿した(0525および0601)。その後もいろいろと新しい展開があり、私なりに思うところがないでもないが、所詮は素人の思いつきなので、それをわざわざ公開する必要はないと考えてきた。そのこと自体はあまり変わらないが、とにかく情勢の変化を受けて、前稿の段階では考えていなかったいくつかの思いつきが浮かんできたので、敢えて「当たるも八卦当たらぬも八卦」という仮説と予感のようなものを記して、後日の再点検の素材としてみたい。
 
 @今年の前半が第一ラウンドだとしたら、今年の後半から来年春頃にかけては第二ラウンドということになるだろう(よく「第一波」「第二波」という言い方がなされるが、何をもって「波」とするかが一義的でないので、単純な時期区分として「ラウンド」としておく)。いつまでも外出規制や国際的往来遮断を続けているわけにはいかない以上、第一ラウンドがいったんある程度の落ち着きをみた国々でも第二ラウンドで再拡大が進むことは不可避と思われる。
 
 A遠くない時期にワクチン、特効薬、集団免疫のどれかによって終息するだろうとの見方もあり、もしそうなるならそれはそれで結構だが、あまりそれに期待をかけるべきではないように思われる。また、一部では、「検査を飛躍的・圧倒的に拡大して感染者を全員隔離すれば、感染拡大を防止しつつ、安心して経済活動をフルに再開させられる」という説も唱えられているが、これは信用する気になれない。そうではなくて、本格的終息はなかなか訪れず、感染拡大のリスクが残るなかで経済社会活動を恐る恐る再開させるという困難な状況が長期に持続するという前提で、その困難性を多少なりとも緩和する術があるか、それはどこまで有効かといったことについて考えてみたい。
 
 B第一ラウンドでは、欧米諸国およびラテンアメリカ諸国が特に大きな被害をこうむり、東アジア・東南アジア・豪州は相対的に深刻度が軽いというような地理的差異があった(その原因については諸説あるが、ここでは立ち入らない)。だが、第二ラウンドがそのパターンをそのまま繰り返すとは限らない。既に第一ラウンドの経験があり、それをある程度まで教訓化できると考えるなら、第一ラウンドほど無防備に惨禍に襲われることは避けられるのではないかとの希望的観測もある。とはいえ、第一ラウンドの経験に基づく対策がある程度まで分かってきたとしても、それをどの程度まで実践に移せるかは国によって違いがあるだろう。ごく大雑把に言って、直接的要因としての医療および医療行政の水準のほか、それを支える社会的・経済的要因が総合的に作用する(そして、政治はそれを促進したり妨害したりする)だろう。それらの総合的結果として、いくつかの国々ではそれなりの準備をもって第二ラウンドに立ち向かい、あまり大きな被害を出さずに済む一方、他の国々では第一ラウンドと同様に大きな被害をこうむるといった差異が生じるのではないか。
 
 C各国ごとの具体的状況は他の人たちの検討に委ねるとして、とりあえずアメリカと日本について簡単に考えてみる。アメリカの場合、ロックダウンの期間がわりと短く、早めに経済再開に踏み切ったため再拡大のペースが速いようだし、大統領選挙が大きな「足かせ」となっているのではないかと思われる。日本の場合、外出規制の手法が比較的緩やかであり、しかもわりと短期間で解除されたから、十分押さえ込むことができないままの再拡大に向かいつつあるようにみえる。見る人の立場によっては、そのこと自体はやむを得なかったという評価もあり得るが、それだけにとどまらず、明日から始まるGo Toキャンペーンが再感染の速度を高めることが懸念されるし、オリンピックをまだ諦めていないことも「足かせ」となりそうである(その他、ウィルスの型の変異による急拡大の可能性という予測も現われている)。とすれば、アメリカにせよ日本にせよ、第二ラウンドでの感染は相当大規模にのぼるおそれがあるように思われる。
 
 Dここまで書いてきたのは感染状況についての一般論だが、重症化および死亡については別個に考える必要がある。よく指摘されるように、この病気の厄介な点は、多くの感染者は無症状ないし軽症で済む一方、一部の感染者は急速に重症化し、さらには死に至ることがあるという落差の大きさにある(軽症者も後遺症に悩まされることがあるとのことだが、この点についてはまだ詳細が明らかでない)。この点に関する一つの希望的観測としては、第一ラウンドの経験を通して種々の知見が積み重ねられ、どういう人が重症化する可能性が高いか――ただ単に高齢者とか既往症のある人というだけでなく、その他の要因も含めてもっと細かく複合的に――分かるようになりつつあるかもしれないし、いわゆるサイトカインストームがどのようにして生じるのかも解明されつつあるのではないかということが期待される。もし重症化しそうな感染者の早期察知が可能になれば、適時に相応の措置がとれるようになるかもしれない。その際、根本療法はさておき対症療法を適切にとるならば、重症化可能性の高い人を重症化の一歩手前で食い止めることができるようになるかもしれない。もっとも、これはあくまでも「うまくいけば、そうなるかもしれない」といった程度の話に過ぎない。また、その現実化の度合いも国によって違いがあるだろう。
 
 E日本の現状についてみると、五月下旬に緊急事態宣言が解除され、六月半ばに都道府県を越えた移動の制限も解除された後、次第に感染が再拡大しつつある。当面、新規感染の大部分は若年層に集中しているが、これには二通りの説明がありうる。一つは、外出規制緩和に伴って直ちに外出したり、「三密」状態に接したりするのはそうした年齢層に多いという実体的要因であり、もう一つは、特定地域・業種に狙いを定めた検査拡大によってその年齢層の発見率が上がったという統計上の要因である。おそらく双方が重なり合っているのだろう。いずれにせよ、感染再拡大の最初の局面では、高齢層の感染はまだ多くなく、関連して重症者・死者も低い水準にとどまっている。しかし、若年層における感染拡大が発見率上昇だけによるわけではなく、ある程度の実体的拡大が進んでいるとするなら、それはやがて高齢層にも波及していくものと想定される。現に、ここ数日は高齢の感染者も増大しつつあり、それに伴って重症者数もじわじわと増えつつある。新規の死者はまだ少ないが、ぽつりぽつりと現われ始めているようだ。全般的拡大の中で高齢患者・重症者・死者も漸次的に増大するという趨勢自体は不可避かもしれないが、問題はその増大のスピードや規模である。ここで気になるのは、Dに記したような希望的観測が日本に当てはまるかどうかという点である。もともと第一ラウンドにおいて、日本における死者数は――日本だけが特にということではなく、他の東アジア諸国と並んでということだが――比較的少なかったが、それをDの要因によって更にもう少し押し下げることができるかどうか。もし死亡が低水準にとどまるなら、感染拡大自体はとめられなくても深刻度はそれほど高くなくなるという考え方もあるが、果たしてそうなるかどうか――これが最大の問題ではないか。
 
 以上に書いた思いつき的試論は数ヶ月ないし一年も経てば、どこがどこまで当たっており、どこにどのような欠落があったのかが明らかになるだろう。一定の期間を経てから、これを思い出して、自己検証してみたい。
(フェイスブックへの二〇二〇年七月二一日の投稿)
 
〔七月二三日の追記〕。
 この投稿は「当たるも八卦当たらぬも八卦」と銘打ったわりには、たくさんの留保をつけて慎重な書き方をした(それが私の癖なのだが)ため、当たり障りのない常識論のようなものになってしまった気もする。もう少し踏み込んで、「当たるかどうか自信があるわけではないが、どうもこういう気がする」ということについて明示して、手の内を明らかにしてみたい。
 上のAで、圧倒的検査拡大論に触れ、「一部にはそういう声もあるが、あまり信用する気になれない」という書き方をした。ここのところはもっとはっきり言えば、テレビやSNSではこういった議論が相当高まっていて、一種の流行となっている。そのような流行の言説に対して懐疑的な立場を示したということである。
 日本の近い将来の展望について。最近始まった再拡大は、当分収まることはなく、かといって大爆発(ある人が使って有名になった言葉では「目も当てられないことになる」)でもなく、だらだらとした増大を続けるのではないか。というのは、政治家の対応は拙劣で、拡大を止めることはできそうにないが、政治家以外の人たちがそれぞれにいろんな対応をすることで、かろうじて大爆発を食い止めるのではないかという気がする。
 緊急事態宣言の再発令の展望について。政治家も経済界も、できるだけ出したくないだろうから、感染拡大が続いても再発令はせずに、種々の弥縫策で乗り切ろうとするのではないか。もっとも、もし(ありがたくない展望だが)感染者だけでなく重症者・死者もどんどん増えていくなら出さざるを得なくなるだろう。「そんな事態になってから出しても遅すぎる」という批評は当然あり得るが、この国の政治はそういう風にしか動かないのではないか。
 以上、文字通り「当たるも八卦当たらぬも八卦」の予感を記した。さて、どうなるか。
 
 
【八月末時点における日本の状況の中間総括】
 六月末頃に始まった再拡大はどうやら七月末頃に一旦ピークに達し、頭打ちになったようである。ということは、「八月には目も当てられないことになる」という児玉龍彦氏の予言は外れたということを意味する(児玉氏の警告が政府を動かして対策を変更させたわけではないから、「予言自体が現実に働きかけることで結果を変えた」という議論は成り立たない)。
 とりあえず大爆発は避けられたということはある程度の安心材料であるかに見えるが、だからといって手放しの楽観論が正当化されるというわけでもない。
 @感染拡大が頭打ちになったといっても、その後の減少はごく緩やかなものであり、着実に収束に向かっているわけではない。これから先、外国との往来なども条件付きながら徐々に再開していく中で、収まりかけた感染拡大がまたしてもぶり返すのではないかということが懸念される。
 A感染から重症化までにはおよそ二週間程度の時間がかかるといわれており、その意味では、感染拡大が頭打ちになった七月末から二週間後の八月半ばには重症患者数も頭打ちになってよさそうなものだが、実際にはもうしばらく上昇し続け、四週間程度経った八月末の時点でようやく頭打ちになったかどうかという状況である。これが明確な低下に向かうかどうかが今後の注目点となる。
 B重症者増大にやや遅れて、死者も漸増しだした。感染者全体に対する致死率は春よりも大分低いようだが、それは感染発見率の上昇および若年感染者の高比率のせいだと考えられる。より重要なのは年齢層別の内訳だが、これについては大きく異なった二通りの推計が発表されている。最初に発表された推計では、高齢者の致死率は春の段階と変わっておらず、低下傾向は見られないという、かなり落胆させる結果となっていた。これに対し、その少し後に発表されたもう一つの推計では、年齢層別致死率もかなり下がっていて、例えば七〇歳以上では一‐五月の二四・五%から六‐八月の八・七%にまで下がったという。二つの推計の間の落差が非常に大きく、どうしてこのように異なった数字が出されているのか明快な解説が待たれる。また、仮に後者の方を信頼するとして、今後さらに致死率が下がって、「あまり怖くない病気」の水準に至るかどうかも気になるところである。
 このうちの@は、緊急事態宣言再発令などといった強い対策をとらず、経済活動再開と感染対策を同時並行的にとっていることの自然な帰結であり、ある程度まではやむを得ないという見方もありうる。問題は、緩やかな低下が今後も続くかどうか、また重症化や死亡の拡大を食い止めることができるかどうかであり、ABの今後の帰趨が注目される。
 今後、国際的な人的移動が徐々に再開されていく中で再拡大の可能性は十分あると考えられる。そうした中で、オリンピック中止が決まるかどうかも大きな着目点である。また、冬にはインフルエンザの季節がやってくるから、今年末から来年春あたりの時期は一種の正念場になるだろう。何とかそれを乗り切ることができればよいが、その保証があるわけではない。楽観も悲観もせずに、成り行きを見守り続けるほかない。
 
 
【九月末時点における日本の状況】
 六‐七月に上昇した感染者数は八月から九月半ばにかけて下降したが、その後、「下げ止まり」という様相を呈し、場合によっては再上昇に転じるかもしれないとも危惧されている。こうした推移から、いくつかの点を確認することができるのではないか。
 第一点。ある程度の感染拡大が進んでも、それは必ずしも指数関数的で爆発的な増大をもたらすと決まっているわけではなく、それなりの対応策をとることによってある程度抑えることができる。この「それなりの対応策」にはいろいろな幅があり、より厳しい行動規制をとればとるほど有効だが、それほど極端な規制でなくても、ある程度までの効果をあげることができる。ただし、それには限界があり、きちんと抑え込むことは難しい。
 第二点。感染拡大抑止の観点からするなら、行動規制を厳しくする方が有効だが、社会経済的な疲弊を考慮するなら、徹底して厳しい方策を長期間とり続けることはできない。他面、規制を緩めるなら感染再拡大の可能性が高まるから、ここには「あちら立てればこちら立たず」の関係がある。おそらく、これから先も一進一退が続くのではないか。
 近い時期の見通しとして、Go Toトラベルの東京への拡大、Go Toイートの開始、各種イヴェントの人数制限緩和、そして外国からの入国の拡大などが続くことが予定されているから、どちらかというと再増大の可能性が高い。その後の一進一退については予測の限りでないが、ギリギリいっぱい爆発的拡大を避けることができ、医療崩壊も免れるなら、それはそれでよしとしなくてはならないのかもしれない。なお、諸外国の状況は時期ごとの変化が大きく、「どこはどんな風だ」ということを一概に言いにくいが、この間、ヨーロッパにおける再拡大が相当進んでいるみたいで、これが今後どうなるかも気にかかる。
 感染の全般的状況とは別に、重症者および死者については取り出して考える必要がある。重症者数は七‐八月に漸増した後、一応は頭打ちになったかに見えるものの、九月後半でもまだ明確な減少に転じることなく、だらだらと微増と微減を繰り返しているように見える。激増でなく漸増だとはいえ、なかなか低下しないのはどうしてなのかが気にかかる。
 死亡例はそれほど急増したわけではないにしても、ポツリポツリと出続けており、収まる気配がない。これも詳しい要因解明が待たれる。ある解説によれば、当初は確実にコロナ死と判定できる人だけを数えていたのが、今では直接の死因が何であれコロナ陽性である死者を全て数えているために数字が大きく見えるのだという。死者は多くの場合、高齢者や持病をかかえている人だろうから、そういう場合、何が決定的な死因なのかを確定すること自体が難しいのかもしれない。仮にそうだとして、基準をそろえた場合に春と現在はどのように対比されるのかを、およその推計でよいから明らかにしてほしいという気がする。また、「どの程度の怖さか」を測るためには、直前まで健康そうに見えた人が死亡した例がどのくらいあるのかを明らかにしてほしい(もちろん個人情報に触れない統計として)し、年齢別の致死率を出す場合に、「七〇歳以上」といった大雑把な括りではなく五歳刻みくらいで出してもらえると、どの年齢ならどの程度怖いのかがはっきりするのではないか。
 これまでにワクチンや治療薬の開発、治療体制改善、検査態勢充実その他、種々の方策がとられており、今後も続くだろうが、こうした諸方策によってCovid19を完全に克服することができるという可能性はそれほど高くないのではないか。むしろ、今後相当長期にわたって、数ある感染症の一つとして残り続けるように思われる。問題は、ほかの感染症と比べてどのくらいの怖さがあるのかという点である。
 この点と関わって、「コロナはただの風邪だ」という説と、「いや、それは暴論だ。風邪よりもずっと怖いのだ」という説とがあって、論争が続いている。「ただの風邪だ」vs「そうではない」という風に定式化すると、極端な二者択一のように見える。だが、「だんだん怖さが低減すれば、風邪ないしインフルエンザと近いものになっていくことが期待されるし、現にそうなりつつある」と「まだ、そこまではいっていない」という風に言い直せば、度合いの問題になる。仮にインフルエンザと同等になったとしても、高齢者にとってインフルエンザはやはりそれなりに怖いものであり、「全く怖くない」などと言えるわけではない。怖いことは確かだが、それがどの程度なのかを考える必要がある。コロナとインフルエンザの主な違いを挙げるなら、@インフルエンザの方が古くから病態が知られており、対応策が比較的はっきりしていること、Aコロナは無症状者からもうつるので、いつどこでかかるか分からないという不気味さがあること、そしてB軽症者が短期間に重症化したり重篤化したりする可能性があること、といった点があるだろう。これらはどれも完全にはなくならない要因だとしても、次第に解明が進めば、ある程度は怖さの度合いが下がっていくことが期待される。とすれば、今のところはまだ「インフルエンザ並み」とは言えないが、やがてはそうなるかもしれないし、それがなるべく早期であってほしいと願望するというのが現状ではないだろうか。