ラリュエル『ファシズムとロシア』を読む
 
 
 遅まきながら、マルレーヌ・ラリュエル『ファシズムとロシア』(東京堂出版、2022年)をようやく読んだ。邦訳書の近刊予告が出たのがロシア・ウクライナ戦争開始の直前、刊行されたのが開戦直後というタイミングだったため、「ファシズム国家であるロシアがとうとうその本性をむき出しにして、侵略戦争を始めた」という理解を裏付ける書物であるかに早とちりする向きもあるようだ。実際には、原題がIs Russia Fascist?と疑問形になっていることに示されるように、「ロシアはファシズムではない」というのが著者の見解である。もっとも、だからといって現代ロシアの政治が健全だとか、危険な要素がないなどと言っているわけではない。その危険性の所在を正確に把握するためには「ファシズム」といった安易なレッテル貼りでは済まないというのが本書の主張である。ここまでは比較的分かりやすいが、本書の内容をもう一歩立ち入って理解しようとすると、なかなか一筋縄では済まない複雑さがあることに気づく。論文集ではなく体系的なモノグラフではあるが、既出論文をまとめ直したせいか、章によって力点が異なるような印象があり、そのことも主題の確定を困難にしている一因ではないかという気がする。本書の中には、ロシアはファシズムではないという指摘に力点をおいた部分と、ファシズムではないにしても危険な兆候があるとして、その兆候を詳しく描写した部分とがあり、どちらを重視して読むかで全体としての印象が相当異なってくる。とにかく我流のまとめ方をしてみるなら、以下のような個所が特に重要であるように思われた。
 先ず、ロシアをファシズムと規定する論者(代表的には、アレクサンダー・モティル、また日本でも有名なティモシー・スナイダー)への強い批判があり、また一部の論者が「プーチンの教祖」だとするドゥーギンの政治的影響力は実際にはあまり大きくないという指摘が目につく。スナイダーの著作は何冊も日本語に翻訳されていて、かなり強力な影響を及ぼしているし、ドゥーギンと「新ユーラシア主義」を重要視する言説も広まっているから、その点でいえば、本書は流行の議論に対する解毒剤たらんとしているように見える。
 そのことと関連して、ファシズム概念に関する独自の考察がある。著者は、さまざまな人たちが自分と異なる潮流に貼り付ける悪罵のレッテルとして「ファシズム」という言葉を使ってきたことを指摘し、この混乱状態を解きほぐすためには記号論に手がかりを求めるのがよいとする。そして、民主主義/権威主義、西側/非西側、ヨーロッパ/アジアという時代遅れの二項対立が不毛であるのはいうまでもないとして、「西側のリベラリズム」/「ロシアのファシズム」という新しい分断線を引くのではなく、これらの言説がアイデンティティ形成のダイナミックなプロセスだとする社会構築主義の立場に依拠すると宣言する。言い換えれば、本書は敵を指し示したり、「歴史の正しい側」にいる者を賛美する精神で書かれてはいない、そうではなくてロシアの政治的展開を問う唯一正当な方法は「我々自身」、すなわち西側を問うことだという前提に立っている、と説かれる。やや晦渋な表現だが、「ファシズムであるか/ないか」という問いの立て方自体が不適切であり、この言葉に実体があると考えるのではなく、むしろその利用法に着目することが重要だという見地であるように見える。
 ロシアにおける「ファシズム」の語の利用に関しては、自己認識としての「反ファシズム」が重要視されていることが詳しく解説されている。そういう自己認識を持つ国の人々が「ファシズム」の語が自分たちに適用されることに強い憤激を示すのは驚くに値しない。これは、ナチ・ドイツとの戦争(ロシアの用語法では大祖国戦争)の記憶が国民意識の中できわめて重要な位置を占めていることと密接に関係している。「記憶の政治」というテーマは、近年、世界各国でクローズアップされているものだが、今日におけるロシアの状況を理解するためには、次のような状況を想起しなくてはならない。冷戦期においては、ソ連と西側の対立にもかかわらず、第二次世界大戦は「ファシズムvs民主主義」の戦いだったという歴史認識だけは西側とソ連に共有されていた。ところが、冷戦終焉後の中東欧諸国(主にポーランドとバルト三国、またある時期以降のウクライナ)はこうした歴史観に挑戦して、スターリンのソ連とナチ・ドイツを等置し、大戦の終結はファシズムからの解放ではなくスターリニズムへの隷属の始まりだったという歴史認識を対置するようになった。これはEU諸国にとっても簡単には対応しきれない問題を提起し、複雑な波紋を投げかけたが、ロシアはこのような中東欧からの提起を「歴史修正主義」と捉えて、鋭く対抗している。これはきわめてデリケートで厄介な問題だが、ポーランドやバルト三国からの問題提起が従来広く共有されてきた歴史観への挑戦だという意味で「歴史修正主義」と見なされることには、あながち根拠がないわけではない。実際、バルト諸国やウクライナにおけるナチとの協力者が今日名誉回復されていることをどう考えるかは、非常に深刻な争点となっている。
 これまで見てきた個所は、ロシアで優勢なものの見方をできるだけ内在的に捉えようとする姿勢を示しており、ある意味では「ロシアはそんなに異常な社会ではないし、危険視するには当たらない」と説いているかに見える。しかし、他面では、現代ロシアにはファシズムの個々の要素と類似した要素が多々あり、それを誇る人さえいること、しかもその浸透範囲は結構広く、社会上層にまで及んでいると指摘した個所もわりと大きなスペースを占めており、そうした個所を読むと「現代ロシアは恐ろしい社会だ」という印象が生じる。
 ロシアにおけるファシズムへの部分的傾斜は、元来、「禁じられたイデオロギー」への興味とか、危険なものが放つ秘めた誘惑などに発しており、そうした傾斜は反体制派の中から生じた。しかし、それは次第に広い範囲の人々を捉えるようになった。各種極右団体はもともとカウンターカルチャーから発し、異端の存在だったが、部分的には内務省や国防省、また共産党指導者などにも浸透するようになった。作家のリモノフが率いる「ナショナル・ボリシェヴィキ党」の党名に示されるように、そこには極右と極左の異種混合(帝政賛美でもありボリシェヴィキ賛美でもある)が特徴的だった。当局は、こうした極右の運動が反プーチンになることを懸念して、それを安全な水路に導くために官製の極右・ロシア主義運動を組織するようになった。もっとも、その運動が暴走の兆しを見せると、当局は過激なナショナリズムを排除するようになったから、両者を一体視することはできない。それにしても、部分的な重なり合いはあり、それは相当の広がりを持っていると指摘されている。
 いま見たのは、どちらかといえば周辺的かつ極端な現象だったが、支配中枢の言動にも危険な兆候があるということも本書では詳しく論じられている。但し、政権中枢は一枚岩ではなく、いくつかの構成要素に分かれることが強調され、プーチン体制は全体主義ではなく、むしろハイブリッド性が特徴的だとされる。本書によれば、「クレムリン」は3つの「生態系」――大統領府、軍産複合体、正教界――の複合からなるとされる(なお、「正教界」とは紛らわしい表現だが、「正教会」を中心としつつ、より広いネットワークを指す)。これらのうち、大統領府はイデオロギー的折衷性が特徴的である。彼らは「保守主義」を自認するが、どの時代を理想とするのかは曖昧であり、いろいろな潮流と雑種的に共存しうる。軍産複合体はソ連時代との連続性が大きいが、共産主義イデオロギーよりも愛国主義を重視し、ソ連期と帝政期の過去を和解させようとする。そして「正教界」は、人工妊娠中絶反対、反同性愛法支持などといった道徳的宣伝を重視しており、君主制イデオロギーをいだくこともある。これらは全体として後ろ向きのイデオロギーだが、どこに戻ろうとしているのかといえば、帝政期を範とする面とスターリン的様式を回顧する面の両方があり、ごたまぜだということが指摘されている。
 このように現代ロシアにおける危険な兆候を多面的に描きつつ、その基本的な特徴づけとしては、「ファシズム」概念を使うよりも「反リベラリズム」という概念の方が有用だというのが著者の見解である。ここで「反リベラリズム」とは、リベラリズムをいったん経験した後に、それを押し戻すポスト・リベラリズムということであり(従ってリベラリズム以前である中国には当てはまらないとされる)、これはロシアだけの問題ではなく、多くのヨーロッパ諸国にも同様の兆候があると指摘されている。関連して、文化的遺産の観点からは、ロシアは自己をヨーロッパの一部と見なすばかりか「ヨーロッパ」の真正性を「西側」の内部から生じた劣化から守ろうとしているのだと述べられている。同性婚やLGBTを認める西側は本来の「ヨーロッパ文化」から堕落しており、ロシア正教会やアメリカの宗教右派の方が本来のキリスト教精神を守ろうとしているのだということになる。
 このように多彩な内容を持つ本書は、そのうちのどの部分に着目するかによってかなり大きく異なった印象を残す。その一つの要因として、本書の時代的対象の広さがあるかもしれない。明確な時期区分はなされていないが、本書ではソ連解体後30年ほどにわたる長い期間が扱われており、その間には種々の変動があったから、どの局面を念頭におくかによって異なった印象が生じておかしくない。
 そうした中で、執筆最終段階の状況は本書冒頭の個所に鮮明に反映されている。2020年にウクライナのゼレンスキー大統領はナチと共産主義を同一視するポーランドの歴史観に同意を表明し、他方、プーチンはポーランドのヒトラーとの共謀を非難したことが述べられ、2014年以降、ウクライナもロシアも相手をファシズムと批判し合っていることが指摘されている。これはいわばウクライナとロシアの間の「舌戦」の高まりということができる(本書の原著は2021年刊)。そういう状況のなかで本書が執筆された直後に、「舌戦」は「熱戦」に転化した。日本語版は「熱戦」開始の直後に刊行され、読者はそうした状況の中で本書を読むことになった。現に進行しつつある戦争を見ながら、開戦前夜に書かれた本書を読む場合、どの部分に力点をおいて読むかで、大きく隔たった感想が生まれるのは当然である。既にかなり多くの書評が出ているようだが、たとえば乗松亨平氏と藤原辰史氏の書評(それぞれゲンロン書評#003, 2022年3月25日配信、および朝日新聞2022年4月16日)は、かなり対照的な見地を示している(『現代思想』6月増刊号の近刊予告によれば、乗松氏と浜氏の両方が寄稿するようで、それぞれがどのような解釈を打ち出すのかに関心がもたれる)。それは本書が論争喚起的な野心作だということのあらわれだが、今日の状況はそれだけでは済まない深刻な問題を投げかけているというべきだろう。
 
(2022年5月9日にフェイスブックに投稿した文章に小さな文章上の補訂を施した)