小杉亮子『東大闘争の語り――社会運動の予示と戦略*1』を読む
 
塩川伸明
 
 
はじめに
 
 「1968」という言葉に象徴される一連の社会運動は、日本では長く忘れ去られていたが、今年がちょうど50周年に当たることから、いくつかの関連書が出たり企画がもたれたりしている。そのうちのかなりの部分が当事者世代による回顧談といった色彩を帯びているが、珍しく若い世代の研究者が距離をおいた地点から一種の現代史(歴史社会学)研究として取り組んだのが本書である。もっとも、現代史の常として、対象の淡々たる分析にはとどまらず、現代的問題意識を投影した感じの個所も含まれるが、ともかく懐旧譚や政治評論とは性格を異にした研究書として独自の意義をもつ書物と言える。私自身、当事者世代の一員であり、本書の対象とあれこれの関わりをもってはいるが、こうした書物の性格を考慮して、ここでは「自分史」的側面はとりあえず脇に置き、一個の研究書としての本書についての感想と批評を書き記してみたい*2
 
一 課題設定および研究史
 
 「1968」という言葉で総称される雑多な運動は広く考えるなら世界各地で見られたが、アメリカやヨーロッパにおける「1968」研究に比べ、日本では研究が乏しい。そのことの理由として、本書の第1章は以下の3点を挙げている。第1に、マスメディアなどによって否定的な集合的記憶が形成されてしまっていること、第2に、特定の「史観」による制約(今日につながると論者が考える何らかの側面を取り出して、それだけに注目するという偏向)、そして第3に、当事者たちの沈黙(別の個所で触れられている「語りづらさの問題」もこれと関係するだろう)。これは大まかには一応うなずける指摘である。もっとも、「否定的な集合的記憶」を体制寄りのマスメディアが流布したとしても、それが広く定着したのには、それだけにはとどまらない何らかの理由があるのではないかとか*3、「沈黙」「語りづらさ」の背後に何があるかといったことを考えていくなら、これだけでは片付けられない問題が出てくるような気もするが、そうした点については、ここではひとまず措いて先に進むことにしよう。
 先行研究が量的に乏しいなかで、ともかくも取りあげるにたる先行研究の代表例が小熊英二の記念碑的な大著『1968』であることはいうまでもない*4。小杉はそのことを意識して、本書の各所に小熊に対する批判的記述をちりばめている。若手研究者が新しい研究を進める際に前世代による先行研究を乗り越えることを目指し、あれこれの批判を提示するのは自然なことであり、異とするに及ばない。問題は、どのような側面に注目して、どのように批判するかにある。私自身、小熊を一面で高く評価し、他面で批判や違和感を表明してきたが*5、小杉はどのような角度から、どのように小熊を批判しようとしているのかという点を検討してみたい。
 先ず、対象との時間的距離の差という問題がある。小熊は1962年生まれで、いわゆる「全共闘世代」より十数年若い世代に属する。これに対し、小杉は1982年生まれ、つまり小熊より20歳も若く、「全共闘世代」との開きは30年以上にも及ぶ。このような年齢差から、小熊にとって「全共闘世代」は「少し年長のライヴァル」という位置にあるのに対し、小杉にとってはもっとずっと距離をおいて観察することのできる対象となっている。一般に現代史研究においては対象と歴史家の時間的距離がパースペクティヴの取り方に大きく影響するが*6、小熊にとって「1968」はやや近すぎて十分な距離をとりにくい面があったのに対し、小杉にとってはより距離がある分、歴史らしい歴史が書きやすかったという差異があるように思われる。
 もう一つの差異として、雑多な構成要素からなる「1968」のうちのどの側面に着目するかという問題がある。小熊著は一種の百科全書的様相を呈していて、多岐にわたる対象を幅広く取り扱っている。その結果、やむを得ないことながら、その記述には相対的に深い部分と浅い部分のばらつきがある。私見では、最も精彩を放っているのはベ平連を扱った部分と連合赤軍を扱った部分である。これに対し、全共闘をはじめとする大学闘争および新左翼諸党派(セクト)を扱った部分は、あれこれの側面をとりあげてはいるものの、やや外在的な記述にとどまっているとの印象がある。ベ平連に関する叙述が生き生きとしているのは著者が対象に共感をもって接しているからだということが容易に了解されるが、およそ共感の対象ではありえない連合赤軍も深みをもって描かれていることは、共感の有無と叙述の深浅とが必ずしも直線的対応にあるわけではないということを物語る。これは運動史研究に関わる重要な問題である。それはともかくとして、小杉著はまさしく小熊著の相対的に弱い部分たる大学闘争および新左翼諸党派を主要テーマとして取りあげている。その結果、小熊があまり突っ込んでいない側面が小杉著ではスポットライトを当てられているという関係があるように思われる。
 いま見たような差異は、日本の「1968」について両者がいだく大まかなイメージの差異につながる。小熊が――ベ平連をほぼ唯一の例外として――その弱点を重視し、受け継ぐべき「遺産」を残さなかったという辛い評価に傾いているのに対し、小杉は小熊があまり注目しなかった側面を掘り起こすことで、日本の「1968」にもそれなりの「遺産」があったことを示すというような関係になっている。もっとも、それはあくまでも個別の事例に即して「このようなケースもあった」という論じ方なので、それが「全体像」だということを直ちに意味するわけでもなければ、小熊的な見方を全面的にひっくり返すものでもない。この問題については以下の議論で何度か立ち返ることになる。
 
二 方法
 
 本書の第2章は方法について論じているが、そこで最も重視され、本書の主要内容をなしているのは、関係者への聞き取りによるオーラル・ヒストリーである。
 何らかの歴史的事件を再構成しようとする際にオーラル・ヒストリーという手法をとるというのは、現代史や歴史社会学では比較的よくとられる行き方である。ただ、本書の場合、その対象の性格上、適切な聞き取り対象者を選定し、実際に聞き取り作業を進めるのにはかなり大きな困難があったものと推察される。先に触れた「沈黙」「語りづらさ」の問題はその困難性を倍加する。著者は最初に聞き取りを行なった福岡安則(当事者の一人であり、後に社会学者となった)の紹介を出発点にしながら、それだけに頼らず、なるべく多様性を確保すべく種々のルートを通じて人脈を広げ、聞き取り対象者を探索した模様である。それがどこまで十分なものであるかは、にわかには判断できない。ことの性質上、代表性を確保するということはそもそも問題外であり、大なり小なりの歪みを持ちつつも、とにかく「全体像」からそれほどかけ離れておらず、有意味と思われる像が得られるかどうかが問題となる。
 聞き取り対象者となったのは全部で44人である。但し、うち3人は当時既に助教授になっており、大なり小なり学生の動きに同情的だったにしても、運動参加者とは言えない。その意味で、運動参加者への聞き取りは41人(他大学生4人を含む)ということになる。この人数は、十分といえるほど多くはないかもしれないが、かなりの多彩さを含んでいるという意味では、それほど極端には偏っておらず、多様性をある程度まで体現していると言えそうである。
 著者は各所で「アクターの雑多性」「多様性」といった言葉を使っている。実際、多様な人々が多様な形で運動に関与していた以上、そのことを意識しておくことは不可欠だろう。あれこれこれの人の語りは、「当事者が言ったのだから、これが実相だ」などと安易に想定されるのではなく、むしろ「多様な語りの部分的引用を多声的に再構成する」ことが目標とされている(131頁)。この姿勢は大いにうなずける。その上での問題は、本書に登場する多様なアクターのうち、どのような類型に属する部分がどのくらいの比率を占めていたのかとか、それらがどのような相互関係にあり、全体としてどのような流れをつくりだしたのかといった点である。これはなかなか難しい課題である。代表性をもつ統計的データがあるわけではなく、多分に偶然的機縁で接触することができた人たちの語りを素材とするほかないという条件下で、暫定的にもせよ、また一定のデフォルメを含みつつも「全体像」のようなものに迫るというのが小杉の課題だが、その作業が実際にどのように行なわれているのかを私なりに検討してみたい。
 先ず、一つの手がかりとして、聞き取り対象者の世代的なばらつきについて考えてみよう。当時助手だったり大学院博士課程だったりした人たちと学部の1、2年生だった人たちを対比するなら、前者は30歳前後、後者の大半は20歳未満ということで、10年ないしそれ以上の世代差がある。経験の豊富な年長者(本書で使われている仮名でいえばB、V、X、また本書の聞き取り対象ではないが山本義隆も)が運動の性格を規定する上で大きな役割を果たしたのは自然だが、そうした人たちと、大学に入ってまもない若者とを一括して「運動参加者」とすることには若干の問題があるように思う。20代の青年にとっては、ほんの2、3年の年齢差でもかなりの開きと感じられることを思えばなおさらである。本書では、生年の分かる人については何年生まれということが書かれており、また学年も示されているが、それらは個別的情報にとどまり、体系化されていない。そこで、本書の各所に散在するデータを私なりにまとめ直すと、およその分類として、「年長組」(助手・院生)が4人、「年中組」(3、4年生)が26人、「年少組」(1、2年生)が7人*7となる(4人は学年不明)。
 もう一つ注目されるのは、44人からの聞き取りが満遍なく紹介されているわけではなく、ある程度以上詳しい語りが紹介されているのはごく一部だけだという点である。本文で語りが引用されている頻度を私が数えてみたところ、ゼロ回(15人)、1‐2回(7人)、3‐7回(14人)、8回以上(8人)と、かなりのばらつきがあることが分かった。もっとも、直接に引用されていない語りも研究過程でなにがしかの参考にされ、いわば「隠し味」的な役割を果たしただろうから、ゼロ回とか1-2回といった人たちからの聞き取りもあながち無意味ではなかったのだろう。それにしても、読む人に強い印象を残すのは3回以上にわたって引用された人たちの語りだと想定するのは無理のないところと思われる。そこで、44人から助教授3人および学年不明の4人を除いた37人について、年齢別と引用度別を組み合わせて分類すると、以下のようになる。
  年長組 年中組 年少組 合計
2回以下 2 11  4 (すべてゼロ回) 17
3-7回 1  8  3 12
8回以上 1  7  0  8
合計 4 26  7 37
 
 先ず目につくのは、年少組が引用されている度合いの低さである。総数としても7人だけだし、その過半がゼロ回であり、8回以上は皆無である。他方、「8回以上」に当たる8人の一人一人がどのような潮流に属していたかを見ると、いわゆるノンセクト・ラディカル(以下、「ノンセクト」と記す)3、民青3、フロント1、医学部闘争委員会1という内訳になり、意外に民青が多いことが分かる。もっと詳しくいうと、「8回以上」のうちでも特に被引用度が高いのは13回(1人)、14回(1人)、16回(2人)だが、この4人のうち3人までが民青(残る一人は医学部闘争委員会)であり、うち2人(JおよびT)は民青の中で指導的地位についていた人たち――日本共産党中央指導部との関係では中間管理職であり、軋轢をかかえていたが、ともかく東大内では指導者として振る舞っていた――である。つまり、最も頻繁に参照されているインフォーマントの多数派が民青の指導者だったということになる。このことを指摘するのは必ずしも批判の意ではなく、むしろここにはそれなりの意義があるようにも思われる。というのも、従来、「1968」の学生運動といえば全共闘系の運動が重視され、それと対立関係にあった民青系については主題的に取りあげられない傾向があったが、本書は全共闘と民青の双方を視野に入れ、あまりよく知られていなかった民青の内情を詳しく明らかにしているのが一つの特徴をなしている。それはよいのだが、主要インフォーマントの選定がそういう形になっていることが著者自身によってきちんと説明されていないのはやや問題ではないかと感じる。
 民青に限らず他の潮流を含めて、比較的年長かつ学生運動経験の豊富な人たちの語りが多く引用され、「年少組」からの引用があまりないというのは、ある程度自然なことかもしれない。学部1、2年生といえば、入学後まだそれほど時間が経っておらず、大学の運営の仕組みとか、そこにおける問題性などについて漠然たるイメージしか持っていなくて当然である。学生運動の経験も当然ながら浅い。そういう人たちが当時何を考えたり感じたりしていたかは、本人でも混沌としていて思い出しにくいし、聞き手が引き出すのも難しいだろう。もっと歳上で、学生運動の経験もかなり積んでいたような人ほど、わりとスッキリと割り切れた記憶を持ち、それを語ることもできやすいという傾向があると考えられる。もっとも、本書がそうした「整然とした」記憶のみで満たされているわけではなく、戸惑いや模索の跡の窺える語りもあちこちにある。それが本書の面白さだが、それにしても、全体としては比較的年長かつどちらかというと指導的位置にあった人の語りが多く引用されているという印象は否みにくい。
 このような偏りがあること自体はやむを得ないことであり、あえて欠陥というつもりはない。ただ、気になるのは、そうした偏りがどこまで自覚されているのかという点である。というのは、次のような事情を念頭におくからである。当時の活動家とりわけノンセクトに顕著な傾向として「指導・被指導」のヒエラルヒー構造に対する嫌悪感があり、自分のことを「指導者」と位置づけることを避ける傾向があった。にもかかわらず、年齢が高く経験も豊富な人たちは、実質上、否応なしに「指導者」として振る舞ったという現実がある。その結果、リーダー=フォロワー関係の存在が明示されないままに、事実上リーダー的な人たちの語りが優先され、フォロワー的な人たちの語りはあまり取りあげられないということになっているのではないだろうか。
 
三 幼少期から前期青年期にかけての人間形成
 
 本書は「1968」の運動を考えるに当たって、その参加者たちの人間形成を幼少期ないし前期青年期*8にさかのぼって考えるという方法をとっており、そのため、聞き取りの中で子供時代の経験や感覚を語ってもらうことを重視している。これは「1968」を短い「点」のようなものとして捉えるのではなく、より長い視野の中で考えることを可能にするという意味で面白い企てである。但し、先にも書いたように、年長組と年少組の間に10年ほどの世代差がある以上、1950年代や60年代の様々な状況が彼らにどのように作用したかも、世代差を踏まえて考える必要があるだろう。また、出身地域その他の条件によって大きく異なった環境の中で育ったことが想定されるが、その点に関しては、「都市部と地方のあいだに生活スタイルや入手可能な情報量の面で大きな差があった」と指摘されており(51-52頁)、これは重要な点である。
 さて、本書第3章は対象者たちの人間形成に作用した主たる契機として三つの点を挙げている。第一に、相対的に恵まれている境遇にある人は自分よりも恵まれない人たちのことを思いやらねばならないという倫理観。第二に、親が共産党や労働組合などの活動家だった場合の影響。そして第三に、日教組の教師による平和と民主主義の価値観に立った教育である。どれも一応うなずけるが、それぞれについてもう少し掘り下げる余地があるように思う。
 そもそもある時代に育った人たちにどのような社会的要因がどのように作用するかは、様々な集団ごとや個人間の差異を考えるとき、簡単には確定できない難問である。本書の場合、ある世代集団(コホート)の全体像を描くというのではなく、聞き取り対象者に即した個別的例解といった感じの叙述が中心になっており、それはそれで面白い試みだが、そうした個別的例解がどの程度趨勢を捉えているのかはにわかに確定しがたい。
 3つの契機のうち最初に挙げられている「自分よりも恵まれていない人たち」への感受性という要因は面白い着眼だが、これを社会科学的に分析するのは結構難しいことのように思える。1950-60年代の日本といえば、戦災それ自体は過去のものとなりつつあったとはいえ、大人世代にとってはまだ記憶に新しかったから、子供たちもそうした話を聞き知る機会が多かっただろう。また、ようやく高度経済成長が始まりつつあったとはいえ、その後に比べたり欧米「先進国」に比べたりするなら、全体としてまだ貧しいというのが当時の日本の経済状況だった。そういう状況を念頭におくなら、子供を大学に進学させる経済的ゆとりのある家庭といえども、戦争とか貧困といった問題――小熊英二流に言えば、「現代的不幸」に対比される「近代的不幸」――を身近に感じる条件があったということが一応言えそうである。もっとも、それがこの時期までに限られた特殊性なのかどうかはにわかに判断できない。経済成長が更に続いて「先進国」という自意識が広まった後にも相対的な貧困の問題は残るし、その中での格差の問題も続くから、「裕福ではないが貧困でもない」階層の人たちが「自分より貧しい人々がいる」という事実に道義的憤激をどのくらい感じるのかというのは、時代に関わりなく持続する問題かもしれない。
 この問題を本格的に論じるのは私の手に余るが、あくまでも漠然たる感覚としていえば、ある時期までは、相対的に恵まれた状況にある社会階層の人たちも「自分たちよりも恵まれない人たちがいる」という事実への感受性をいだき、何らかの形でその是正を心がけねばならないという規範意識のようなものがかなりの程度広まっていたような気がする。そのような規範意識がどの程度有意味かとか、具体的にどのように是正することができるかとかいうことを考え出すと切りのない問題が出てくるが、とにかく「自分よりも恵まれていない人たち」を完全にほったらかしにしてもよいという観念はあまり有力ではなかった――少なくとも大声では言いにくかった――ように思う。ところが、いつの頃からか、そのような規範意識が薄れ、恵まれない状況にいる人たちは「自己責任」なのだから、そのような人たちのことを思いやる必要などないという感覚が広まってきたのではないか。もしそのような変化を言えるとしたら、本書で指摘されている傾向はある時代に特有なものだったということになるのかもしれない。とはいえ、これはあくまでも仮説であり、どこまで当たっているかは何とも言えない。
 第2の契機とされているのは、親が共産党とか労働組合の活動家だった場合の影響というものだが、これはあくまでも「そういう事例があった」という個別の話であって、性急に一般化できるものではない。ただ、戦後ある時期までの共産党の影響はかなり大きかったし、戦闘的労働運動も健在だったから、今日のような状況と対比するなら、そのような立場の親ないし身近な年長者に接する機会のあった子供たちはそれほど例外的存在でなかったとは言えるかもしれない。
 第3の契機とされる日教組系の教師の役割は、確かに当時においてはかなり大きなものがあったと言えるだろう。日教組の組織率の推移とか、日教組に属していた教師による教育が実際にどのようなものだったか(右派からの日教組批判はしばしばその役割を誇大に描くが、そうした虚像を離れた実像はどうだったか)といった問題は別個に取り組むべき課題だが、とにかく「平和と民主主義」に象徴される戦後改革的価値観に子供たちがさらされた度合いはかなり高かったといってよいだろう。
 いま見た第2および第3の契機に関して微妙なのは、親や教師の価値観がそれほどストレートに子供に伝わるかどうかという問題である。思春期の子供が周囲の大人に反抗するというのはごくありふれた現象である。親が共産党員だったり、教師が日教組の熱心な活動家だったりしても、子供が彼らの願い通りに育つとは限らず、むしろ大人の期待とは違う方向に進むということは大いにありうる。この点は個人差が大きく、一般化した議論を展開するのは難しい。ただ、漠然とした想定だが、大人の説く価値観に反撥する中学生・高校生の多くは、その価値観そのものを全面否定するというよりは、「大人の言行不一致」「偽善」「押しつけがましさ」などに反撥するのだと考えれば、価値観の基本については暗黙に受容していることになる。「平和」とか「民主主義」とかいった価値観は全面的に退けられるのではなく、「それを説く大人だって、それを守っていないじゃないか」という形で反抗が表出されると考えれば、この時代の子供たちは、いろんな反抗をはらみ、個々には種々のヴァラエティを含みつつも、大きくはやはり「平和と民主主義の子」だったと言えるように思われる。この点は、全共闘運動が全体として「戦後民主主義」に否定的だったという通念と関わるので、やや立ち入って考えてみるに値する*9。運動の過熱局面において、民主主義的手続きの意義をそれ自体として否定するかの言説が一部に登場したのは事実である。だが、それが当時の運動参加者の全体的意識を代表していると即断するのは性急である。様々な運動参加者たちの種々の部分が、どの時期・どの局面で、どのような「民主主義」観をいだき、それをどのような行動にあらわしたのかは複合的な問題であり、別個に検討しなければならないが、とにかく「戦後民主主義否定」の一語で片付けられるような単純なものでないことだけは確かだと思われる。
 やや話が広がりすぎたが、本論に戻る。以上では、著者の挙げる3つの契機に即して考えてきたが、その他に、第4の契機として、相対的にませた高校生の場合には、高校時代に「大人向け」の文章を読んだりして、その影響を受けていたということも考えられる。1960年代における「論壇」の状況はもちろんいろんな多様性を含んでおり、一色で塗りつぶされるような単純なものではなかったが、今日に比べれば、広い意味で「左翼」的と見なされる傾向が優位を占めていたといってよいだろう。広義の「左翼」の中でもいろんな論争があり、戦後初期に強かった共産党の影響は次第に低下していたし、マルクス主義に対しても種々の批判や再解釈が出されていたが、そうしたヴァラエティを含みつつ、広い意味での「左翼」的な議論が総合雑誌その他の場で提起されていた(インターネットがなかったのはもとより、ミニコミもまだあまり盛んでなかった時代である)。ませた高校生がそうしたものを読みかじってどのくらい理解できたかには留保をつけるべきだろうが、とにかく漠然たる雰囲気として、「知識人とはこういったことを議論する人たちだ」というイメージのようなものがあり、自分も大学に入ったらそうした議論の仲間入りするのだろうという予感をいだいていた、といったケースが結構あったのではないかと思われる。
 以上、著者の挙げる3点にもう一つを加えて4通りの角度から考えてきたが、こうした時代環境のもとで育った人たちのあいだには、もちろんかなりの個人差があったとはいえ、少なくとも入学後に学生運動に関わった人たちと限定するなら、いくつかの共通性があったといえるように思われる。これまで取り上げてきた契機に即していうなら、「自分よりも貧しい人たちへの思いやり」、「平和(戦争反対)」、「民主主義」、そして場合によっては、それらの価値があれこれの潮流の「社会主義」と結びつけられるといった発想である。こういった価値観は当時の人たちに相当程度広まっていたものであり、運動参加者たちはそのうちの特異で先鋭な部分だったにもせよ、緩やかな意味でのつながりをもっていたと考えられる。大学闘争に参加した人たちは当時の若者のうちでも一部だけであり、本書のように題材を東大闘争と限るなら、ますます参加者は限定されるが、そのような限定を念頭におきつつも、彼らは同時代の他の人々と完全に隔絶した存在ではなく、上に書いたような意味での緩やかなつながりをもっていたといえるのではないか。そのようなことを考えさせる点に、本書第3章の意義があるように思われる。
 
四 過程              
 
 本書の第5、6、7章は、東大闘争の発端、展開、収束の過程を描いている。そこでは、運動がいくつかの節目を経ながら変容したり、分岐したりしていった過程が示されている。これは本書の本論部分ともいうべき個所であり、当時学生だった私などもよく覚えていなかったり、よく知らなかったりする事柄を含んでいる。かいつまんで要点を見ていきたい(以下、大まかな意味では本書の3章構成にあわせて3つの時期に分けてみていくが、ところどころで本書の区分から離れて多少前後することがあることを断わっておく)。
 
1 発端・拡大・分岐
 
 東大闘争は当初、医学部における不当処分への抗議という形で1968年1月に始まった(その他、文学部でも1967年10月の処分問題があったが、これがクローズアップされるのはもっと後のこと)。医学部だけに限定されていた運動が全学的に広がったのは、6月15日の医学部学生による安田講堂占拠、それを排除するための6月17日機動隊導入を契機としていた。以後、運動は急速に拡大し、それまで運動経験のない学生たちが大量に参加するようになった。
 ここで注目されるのは、この時期にはじめて運動に参加した――つまり、それまで「ノンポリ」だった――学生たちがむしろ学生運動活動家たちよりもラディカリズムを発揮したことがあると指摘されている点である(たとえば151-152頁)。なにがしかの運動体験を持った人たちは妥協とか引き際とかいったことを考えるのに慣れているのに対し、そうした経験をもたない人たちがとことん非妥協性を貫くべきだというラディカリズムに傾くのはある意味自然なところがある。そのような大衆的ラディカリズムの広がりは運動の急速な拡大を促進する一方、収拾を困難にする要因ともなり、また運動内での分岐発生の背景ともなった。
 運動内での分岐は様々な形で現われたが、何といっても大きいのは、全共闘系の学生と日本共産党=民青系の学生の間の分岐である。彼らはもともと系統を異にするとはいえ、必ずしも最初から先鋭な対立関係にあったわけではなく、部分的には提携することもあった(この忘れられがちな点を指摘しているのは本書の功績の一つである)。しかし、運動がエスカレートしていく過程で、次第に両派の分岐は拡大していった。
 その一つの契機として、11月上旬に文学部で起きた「8日間団交」(林健太郎学部長を8日間にわたって教室内にとどめた)が本書ではかなり詳しく取り扱われている(これは著者の聞き取り対象者の中に当時文学部の学生だった人たちが突出して多かった事情とも関係しているだろう)。この出来事はマスメディアで「暴行」として広く伝えられ、それまである程度まで学生に同情的だった教官たちの「空気がガラッと変わった」とされている(198頁)。そうした背景のもと、日本共産党中央から東大の民青に対して「8日間団交」から手を引き、全共闘系学生と手を切るようにという指示が届けられた。東大の民青にとってはこれは突然の方針転換であり、かなり大きな戸惑いのあったことが当事者の語りで示されているが、とにかく党中央の指令は絶対であり、民青系学生はこの方針転換の受容を余儀なくされた。それと同時に、全共闘を排除しようとする民青とそれに抵抗する全共闘の間での対抗関係が急激にエスカレートして、暴力化の様相を濃くしていくこととなった。
 前にも触れたが、本書では民青系学生――それも東大内で指導的な位置にいた人たち――からの聞き取りが大きな位置を占めており、第5章から第6章にかけて、彼らが日本共産党中央の介入に際して示した戸惑いが詳しく描かれている。私などは、当時民青とは対抗関係にあったために、彼らがどのようなことを考えていたのかは知る由もなかったが、本書の叙述は彼らの複雑な心境をたどることを可能にしている*10
 やや話を広げるなら、民青だけでなく他のいくつかの潮流に関しても、党派内の微妙な事情を窺わせる語りが本書ではいくつか紹介されている。本来穏健派だったはずのフロントが他の諸党派に引きずられる形で急進化していったこととか(318-319頁)、もともとレーニン主義を批判してセクト主義反対を唱えたはずの社青同解放派(反帝学評)が前衛党主義に変質していった(330頁)などといった事情が、当事者の戸惑いを込めて語られている。こうした変質は、社会運動というものが当初の担い手の主観的思惑を離れて自己運動していくことがあることを示している点で興味深い。
 
2 転機――大学新執行部の登場と分極化の拡大
 
 いま見た文学部「8日間団交」の直前に大学当局側で大きな動きがあった。11月初頭に大河内一男総長をはじめ執行部が総退陣して、加藤一郎を総長代行とする新執行部が発足した。この新執行部は学生との討論を通じて紛争の解決を図るという方針を打ち出し、全学集会を提案した。12月2日に配布された「学生諸君への提案」という文書は、「この長期にわたる紛争の間に、われわれは、教授側にも大きな責任があることを自覚するようになった」とした上で、学生からの要求――それは全共闘からの「7項目要求」と民青からの「4項目要求」に分かれて提示されていた――に関する見解を述べ、それらの要求を全面的にではないまでもかなりの程度受け入れるかにみえる姿勢を示した*11
 大学当局がこういう態度を示したことは、学生側がどう対応するのか――「代表団」選出の主導権をどの潮流がとるのか、また当局の提案にどこまで乗るかの選択――を大きな問題とした。民青と全共闘の対抗関係自体はこれ以前の時期にさかのぼるが、加藤新執行部の登場と新しい提案はその対抗を一層抜き差しならないものとした。その関連で興味深いのは、当時、民青活動家の間では、当局が全共闘の要求を飲んで交渉妥結に至るのではないかという観測が広がっていたという指摘である(220-221頁)。このような観測は民青の全共闘への対抗意識を昂進させ、党派間衝突を激化させる一因となった。
 ここで問題となるのは、全共闘が当局との交渉妥結に至る可能性が現実にあったのかどうかという点である。当局側がある程度譲歩の姿勢を示していたこと、少なくともその一部には全共闘側への相対的な共感があったこと*12、そして民青が全共闘と当局の交渉成功を危惧していたことからするなら、ある程度その可能性が現実にあったかのようにも見える。しかし、実際には、水面下での接触がある程度あったものの、それは本格的な交渉にいたらず、妥協による収拾は実現しなかった。そのことについては、当時から「政治的には信じがたい愚行」という評価があり(佐藤誠三郎)、小熊も佐藤の評価を「一定ていど、妥当な見解」としている*13。これに対し、小杉はこれを「"政治"的未熟さの反映というよりは、……彼ら彼女らなりの"政治"の表れだったととらえる方が適切である」と反論している(213頁の注26)。
 私見を差し挟むなら(この私見は当時の私ではなく半世紀を隔てた現時点の私見である)、全共闘がもともと一体ではなかった上、その様々な部分はそれぞれに異なった形で「運動」や「政治」をとらえていたことが重要ではないかと思われる。先ず、新左翼諸党派についていえば、彼らにとって大学闘争は学外政治への手段的な位置づけであり、しかもその「学外政治」とは妥協や改良を含む「通常の政治」ではなく「革命」だったから、そうした立場からは、一切の取引や妥協がありえないとされたのは――それが賢明だったかどうかは別として――自然である。
 他方、ノンセクトの場合、学外政治にも無関心でなかったとはいえ、学内闘争の方が主要関心事だったが、ここでも「通常の政治」を拒否し、「大学解体」や「自己否定」を掲げ、一種の「永続革命」を志向する傾向が強かった。もっとも、ノンセクトの中でも比較的経験豊富で、運動に一進一退はつきものであることを知っていた人のうちには、ある程度の妥協を「中間的成果」として矛を収めた方が犠牲が少なくて済むという発想をもつ人もいたかもしれない。実際、非公式の折衝に当たったのが助手共闘のBだったことは(250-252頁)*14、そのことを物語っている。しかし、前にも触れたように、東大闘争開始後にはじめて学生運動に関与したような年中・年少の学生の間では、むしろ一切の妥協を拒むラディカリズムが広がっていた。そのうえ、ノンセクトというのは「上部・下部」「指導・被指導」という発想を忌避する発想に立っていたから、「指導者」の決断で「下部」のラディカリズムを抑えるということはできない構造があった。これがヒエラルキカルな規律をもった政治党派であったなら、たとえ「下部大衆」の間で妥協反対論が強くても、それを「指導部の権威」で抑え込むことができたかもしれないが、ノンセクトにとってそれは不可能だったろう。
 こうして全共闘は大学当局との交渉を拒否したが、そのことは、「節を守る」代わりに「現実政治」的な意味では孤立を深め、不利な状況に自らを追い込むということを意味した。バリケード封鎖と占拠を続けているならやがて警察との対決が不可避となり、その対決では力関係は圧倒的に不利であるということが分かっていても、それを避けることはできないという発想が何人かの語りで示されている(246-250, 327頁など)。
 そうした流れの中で見るなら、1969年1月の安田講堂攻防戦は、「言葉は悪いけど"玉砕"しかない」(249頁)という決断の産物だったということになる。この出来事はマスメディアで大きく報道され、全社会的な影響は大きかったが、全共闘系の運動はこの「玉砕」によってピークを過ぎ、この後の収拾過程は、民青およびそれと提携するストライキ解除派の主導権のもとで進むことになる。
 
3 収拾とその後
 
 闘争の収拾とストライキ解除へ向けての動きは、時系列をさかのぼらせることになるが、早くいえば夏休み明けから始まっていた。ストライキ突入の決議は各学部の学生大会――教養学部では代議員大会――の多数決によっていたとはいえ、大会に出席しなかった人たち、出席して反対・棄権した人たち、一応賛成だったがそれほど積極的ではなかった人たちをあわせて考えるなら、長期ストライキ継続への反対ないし消極論は潜在的にはもともとかなり多かったと考えられる。それでも夏休みの間は、どっちみち授業はないのだからということで「寝トライキ」を決め込んでいた学生たちも、夏休みが終わると、授業・進学・卒業・就職などのことが気になってもおかしくはない。もっとも、大学当局の対応が説得的でないという受け止め方は広汎に広がっていたから、何が何でもストライキを終わらせようという議論は――少なくとも公然たる形では――そう簡単には出される余地がなかった。また、新左翼諸党派、ノンセクト、民青という3大潮流のいずれにも属さない学生は自己の立場を明快に定式化するのが難しく、表立った形で自己主張することはある時期まで少なかったように思われる。とにかく、9-10月は一面で闘争拡大が進みながら、他面で秘かなスト解除要求も徐々に募るという両義的な状況だったように見える。
 しかし、10-11月ともなると、ストライキ長期化に伴う「スト疲れ」、事態の成り行きへの不安、学生運動内での「内ゲバ」激化への反撥、そして大学新執行部からの新しい提案提示などといった要因を背景に、次第にストライキ解除を求める動きが強まっていった。ここで特異な役割を果たしたのが、「クラス連合」という運動体の登場である。この「クラス連合」は上記3大潮流のいずれとも異なる動きとして新たに登場したにわかづくりの団体だったため、これまであまりよく知られず、その性格も見定めがたいところがあった*15。小杉はこの潮流を「全共闘と民青の中間的存在」と特徴付けている(260頁)。そうなのかもしれないが、「クラス連合」の中には雑多な人たちが混在しており、「わりと全共闘寄り」というイメージは、たまたま聞き取り対象者の中に含まれていたUという人の特殊性を反映しているのではないかという気もする(Uは1969年1月頃に「クラス連合」から離れて全共闘支持に移ったとのこと。260-261頁)。
 いずれにせよ、全共闘の運動が先細りになる中で、民青と「クラス連合」が提携する形でストライキ解除への動きが高まった。その際、日本共産党中央から民青にストライキ解除派との提携という方針が強力におろされ、民青活動家内に不満と動揺を生み落としたこと、と同時に、「民青系活動家は状況判断や組織化戦略に長けていた」という受け止め方が部外者にもあり、そのことが彼らの路線が優位を占めていくことの背景にあったことが紹介されている(233-236頁)。
 曲折をはらみつつも、民青と「クラス連合」を中心とする交渉妥結勢力は7つの学部で代表団を選出することができ、1969年1月10日(つまり安田講堂攻防戦の直前)、いわゆる「7学部代表団交渉」が秩父宮ラグビー場で行なわれ、多数の項目からなる確認書が交わされた*16。これをうけて、2月以降、各学部で確認書が批准され、ストライキ解除と授業再開へと向かう過程が進むことになる。この後も、授業再開をめぐる対抗が、とりわけ文学部では長く続いたことが292-300頁で詳述されているが*17、表面的に目立つ形での運動はこれ以降収束に向かうことになる。
 本書第7章(およびある程度第6章も)の一つの特徴は、こうした闘争収束過程を追うだけでなく、外観的には運動が尻すぼみになっていく中でも志を持続する試みがあちこちでみられた点に注目しているところにある。それは「通常の政治」とは異なる新しい運動ともいうべきものへの関心と関係している。そのことは、ややさかのぼるが、第6章で安田講堂攻防戦前夜の状況に触れている個所に既に現われている(257-265頁)。「大学解体」というスローガンは、「通常の政治」からすれば無内容な抽象論と見えるが、「オルタナティブな大学構想」の模索をはらんでいたという指摘はその代表例である(265頁)。
 これをうけて、授業再開後の時期や、更にはもっと後の時期まで含んで、「東大闘争の延長上に持続性のある運動・活動を形成しよう」(300頁)とする動きを追跡する作業が第7章の第2・3項の主要内容となっている。そこでは、たとえば医学部では安田講堂攻防戦後に改めて医学部共闘会議が結成されて、「将来の医師として、自分がいかに社会に関わっていくかを考える」(304頁)作業が進められたこと、教養学部では授業再開を拒否した折原浩を中心として連続シンポジウムが開催されたことなどといった例が紹介されている。その他にも、闘争収拾期における模索には種々の類型があったことが述べられている。
 時間がもう少し経過すると、学生運動や新左翼運動から離れる学生も増えてきた。本書は社会運動に関する一般論として、運動からの離脱を、@キャリヤの変化などをきっかけとする自発的な脱退、A精神的・身体的ストレスによる燃え尽き、B後の再開を想定した中断という風に三分類し、幾人かの語りによってそれを例解している(一人の語りの中に複数の要因が出てくることもあり、上記の分類は明快な択一ではないことも指摘されている。321-323頁)。さらに、後の部分を先取りするなら、第9章の第2節「東大闘争参加者たちのその後」では、何人かの運動参加者たちがもっと後の時期にどのように政治的活動や社会運動に関わったかを跡づけている。
 小杉がこのように収拾期およびその後の時期にかなりの紙数を割いているのは、「玉砕」によってすべてが終わったとか、この運動はしょせん線香花火的なもので、後に何も残さなかったというような見解に反論して、運動の「遺産」を確認しようという意図があるように思われる。これはこれで理解しうる考えである。もっとも、ここで挙げられている様々な事例はあくまでも特定の個々人に関するものなので、それがどこまで当時の運動参加者たちを代表するものかという点は確定のしようがない。意地の悪い見方からするなら、本書で取り上げられているような「節を守った」人は少数の例外ではないかという批判も出されるかもしれない。使われている材料が代表性を持たない個々人への聞き取りである以上、この問題にこれ以上踏み込むことはできない。ただとにかく、かなり多彩な例が紹介されることで関係者たちを単純な一色で塗りつぶすことは避けられており、外観的には目立たないながらもある程度の継続性がその後にもあったという程度のことは一応示しているように思われる。前に触れた研究史の問題とからめていうなら、小熊英二は個々には多彩な例を挙げつつも全体的な総括としては、日本の「1968」には継受すべき「遺産」などほとんどなかった(ベ平連はほぼ唯一の例外)という辛い見解に傾くのに対し、小杉は取りあげるべき「遺産」があったことを掘り起こそうとしている。二人とも定量的な議論をしているわけではない以上、どちらの方が全体の趨勢をとらえているかを確定することはできない。ただ、これまで小熊的な見方が主流だったとすれば、それだけには尽きない側面もあった――そちらの方が多数派だったまで言えるかどうかは別として――と指摘した点に小杉著の意義があることになるだろうか*18
 
五 理論的考察
 
1 グローバル・シックスティーズ論
 
 本書の第8章は「グローバル・シックスティーズ論」にあてられている。日本の事例を対象として取り上げながら、それを国際的文脈の中で考えてみようとする態度には大いに共感することができる。その具体的内容としては、@冷戦構造という背景、A国境を超えた文化の流通、B国境を超えた社会運動の相互作用が挙げられ、日本の場合、@Aは当てはまるがBの要素は相対的に乏しかったと指摘されている。
 これは一応うなずける議論だが、冷戦構造の問題、とりわけ現存社会主義への態度という問題への踏み込みが弱いのではないかという印象を受ける。いわゆる「先進資本主義国」における諸矛盾への抗議運動が既存の社会主義運動に吸収されることなく、むしろ現存社会主義への批判的態度を伴って表出された点に、当時の運動――「旧左翼」と区別される広義の「新左翼」――の一つの特徴があった。この点で重要なのが、まさしく1968年に起きたチェコスロヴァキアにおける改革運動およびそれへのワルシャワ条約機構軍の介入であり、これに対してどのような態度をとるかは当時の非常に大きな論争点だった。ところが、この点について本書ではほとんど触れられていない*19。主要テーマではないといってしまえばそれまでだが、当時の運動の性格を冷戦構造との関係で捉えるためには、簡略にであれ触れられるべき論点だったはずではないだろうか。
 現存社会主義への関心の薄さは、やや後の個所で「1991年のソ連崩壊で社会主義革命の現実味が失われ、社会主義運動の有効性への疑いが深まった」などと書かれているあたりにも現われている(388-390頁)。1968年チェコスロヴァキア事件の段階で既に現存社会主義への批判的立場をとっていた新左翼系の活動家にとって、1974年のソルジェニツィン国外追放、79年のアフガニスタン侵攻、80-81年のポーランドにおける「連帯」運動と戒厳令等々の一連の事件によって現存社会主義への不信と否定的態度は十分すぎるほど確定していたのであって、1991年を待つ必要など全く無かった*20。小杉のこの個所の叙述は、ここでとりあげられている人が日本共産党=民青系の人であり、遅い時期まで現存社会主義に未練を抱いていたということに由来するバイアスがあるように思われる。
 第8章の議論のうちもう一つ重要なのは、「1968」における欧米、アジア、日本の位相をどのようにとらえるかという問題である(359-362頁)。ここにおける小杉の議論は次のような形で進められている。日本の運動はアメリカやヨーロッパとの間にある程度の交流があったにしても、それは限定的なものにとどまり、むしろ距離が大きかった。そのため、日本と欧米諸国を同時性でとらえることには限界がある。むしろ日本の「1968」についてはアジア圏内の国境を超えた相互連関・相互影響に着目する必要がある。少し先立つ時期における日韓条約反対闘争の遺産とか、日本における旧植民地出身者との接触などが運動形成において大きな役割を果たした点に着目するなら、日本の「1968」は欧米諸国とよりもむしろアジア諸国との連関の中でとらえるべきだ、というのが小杉の主張である。
 アジア諸国との連関という問題設定は確かに重要であり、この点に触れたのは本書の一つの功績である。その点を認めた上で、ここでの論の運びにはいくつかの疑問を感じる。いわずもがなのことを確認するような話になるが、日本とアジア諸国は世界史的構造の中で同じ位置にあったのではなく、むしろ旧植民地宗主国vs元被支配者という明確な対抗関係におかれていた。単純に図式化していうなら、曲がりなりにも「先進資本主義陣営」の中に参入した国(日本)と、むしろ「第三世界」に数えられる諸国という違いがあり、そうした対抗関係をはらんだ同時存在として並存していた。この「対抗的な並存」という構造に着目するならば、実は欧米諸国にも同様の問題があったことに気づく。フランスにとってのアルジェリア問題はその典型例だし、アメリカにおけるアフリカ系住民を一種の「国内植民地」的に捉えるなら、ここにも同様の問題があった。そして、ヴェトナム戦争を遂行していたアメリカとそれに同盟する日本は明らかに「同じ」陣営の中にあった(韓国の場合、かつて植民地だったという側面と、この時期にはヴェトナム戦争に関与していたという側面の二重性があり、そのことが問題を複雑化している)。このように考えるなら、日本と欧米諸国はともに「先進資本主義諸国」の一員として、旧植民地なり「第三世界」なりからの反乱や問いかけに答えざるを得ない位置にあったという意味において*21、構造的には「同じ」側に属したということになる。もっとも、そうした構造的な同質性があったからといって、社会運動が同じように展開されるとは限らず、交流の相対的乏しさもあって、各国ごとの運動のあり方がかなり異なったのは小杉の指摘するとおりである。だが、だからといって「欧米との非同時性とアジアとの同時性」(411頁)という風に図式化してしまうのは世界史的構造を考える上ではあまり適切でないように思われる。
 では、日本と欧米諸国とが構造的には「同じ」側に属しながら、現実の社会運動がかなり異なった形で展開されたのはどうしてかということが問題となる。どの国にも多様な潮流が存在し、それらが複雑な相互関係を織りなしていたことを思うなら、それらを適切に国際比較するというのはあまりにも巨大な課題であって、簡単に論じられるような問題ではない。ここでは、とりあえず私の関心を引く一つの側面に限って簡単に考えてみたい。グローバルな「1968」研究において、欧米諸国についてはある種の「遺産」が指摘されることが多いように見える。もちろん、それは手放しの賛美ではなく、後続世代からする「1968年世代」への批判もあり、「1968の脱神話化」も叫ばれているようだが、「脱神話化」の必要性が指摘されること自体、一定の「遺産」評価がかなりの程度広まっていることを前提するだろう*22。これに対し、日本では、当事者による回顧的文章は別として、第3者からの見方は比較的冷ややかで、「遺産などというものは何もない」という見方が最近まで優勢だったように見える。小杉による本書はそうした傾向に抗議して、目立たないながらも地道な活動の継続があることを示そうとしたもので、それはそれとして貴重だが、そうした「遺産」が全体としてどの程度有意だったかを示すまでには至っていないように思われる。
 私自身が当事者の一員であるため、これは自分に跳ね返ってくる話だが、やはり日本における「1968年の遺産」は、たとえばドイツとかフランスとかに比べて相対的に弱かったのではないかという風に思われてならない。では、その原因はどこにあるのか。この深刻な問いに簡単な回答などあり得ないが、とりあえず私にとって重要と思われるのは、あの当時の運動の中で出された問いの中には、あまりにもラディカルなものがあったという点である。あまりにもラディカルな問いを自らに突きつけた人は、どのような回答も安易なものとみえてしまうから、とどのつまりは絶句するほかなくなる。その絶句と沈黙は本来、強い精神的緊張をはらんでいたはずだが、そうした高度の緊張を長期間維持することは難しいから、多くの場合、次第に弛緩していく。深刻な問題に悩むが故の絶句と沈黙のはずだったものが、いつの間にか単純に何も考えないことに転化していく。このような過程が作用していたように思われてならない*23。前の方で触れた「沈黙」とか「語りづらさ」といった問題はこの点と関係しているのではないだろうか。これはまた安藤丈将の指摘する倫理主義の過剰という問題とも関わるだろう*24
 
2 予示的政治と戦略的政治
 
 本書の分析で一つの中核ともいうべき位置を占めているのは、社会運動における「予示的政治」と「戦略的政治」という対概念である。これは本書の副題にも掲げられ、第1章と第9章で詳述されているほか、他の章でもときおり触れられており、本書の主要な議論をなしている。
 「予示的政治」とは耳慣れない言葉だが、「社会運動の実践そのもののなかで、運動が望ましいと考える社会のあり方を予め示すような関係性や組織形態、合意形成の方途を具現化し、維持すること」を目指すような運動のあり方だとされる。そこにおいては、運動は特定の目標への手段ではなく、むしろ「参加者みなが尊重される合意形成過程を経て決定された行為の遂行」が重要だとされる。そこでは、マクロな権力に対する挑戦というよりも、ミクロな次元に見出される社会内権力への挑戦という性格が特徴的だとも指摘されている。これに対し、「戦略的政治」とは、ヒエラルキカルな組織形成と戦略的思考を特徴とし、目的にとっての手段と考えられる運動を推し進めようとするもので、そこでの目標はマクロな社会変革ということになる(21-23、374-376頁)。
 勝手に整理させてもらうなら、自己充足か手段か、ミクロかマクロか、緩やかなネットワークかヒエラルヒー的組織かといった一連の指標の組み合わせで論が立てられているように思われる。自己充足=ミクロ=ネットワークが予示的政治であり、戦略的政治はその逆ということになる。これらの指標が常にこのように組み合わされるものかどうかには疑問の余地もなくはないが、とにかく一つの考え方としてこのような対比を想定してみることは有意義だろう。その上で、重要なのは、予示的政治と戦略的政治とをどのような関係のものととらえ、どのように評価するかという問題である。実は、この点では必ずしも一義的な回答が与えられているわけではなく、複数の解釈が可能となっているように思われる。
 一つのありうべき解釈は、戦略的政治は古くさい、乗り越えられるべきものであり、予示的政治こそは新しい、肯定的な意義をもつものだという考えである。戦略的政治がどちらかというと日本共産党や新左翼諸党派と親和的であり、予示的政治が当時のノンセクトや後の「新しい社会運動」と親和的であることからすると*25、前者よりも後者に軍配を上げる価値観ということになる。本書で明示的にこのような解釈が提示されているわけではないが、予示的政治を「自己変革/自己解放」の側面と結びつけて叙述しているあたり(380-382、400-401頁)には、どことなくそのようにとれるところがある。全体の最後のあたりで、当時の運動が「1970年代以降の新しい社会運動形成につながったという先行研究や参加者たちの主張を裏づけた」(418頁)と述べられている個所にも同様なニュアンスが感じられる。これはこれで一つのありうべき解釈だが、そのようにだけ割り切ってしまえるかは疑問である。本書第1章で指摘された「史観」の問題――後から振り返って特定の潮流に軍配を上げ、それにつながる要素だけを重視する――を思い起こすなら、先のような解釈だけで本書の内容を割り切ってしまうのは単純化に過ぎるだろう。
 そこで、予示的政治と戦略的政治の関係に関わる本書の記述を改めて読み直してみると、両者は単純に対置されているのではなく、「相補関係にもある」(23頁)と指摘されていることに気づく。「本来は、予示的政治と戦略的政治の運動原理は対立しつつも共存可能なもの」と書かれた個所もある(376頁)。問題は、「本来は」相補的で共存可能だったはずの両原理が現実の運動の過程で分岐し、更には深刻な対立にまで至ったという点にある(23、368、374-376頁)。著者自身がどう考えているかは明らかでないが、「本来なら両原理が相補的に発展することが望ましかったのに、残念なことに分岐が広がり、対立関係に至ってしまった」という史観をここから引き出すこともできるかもしれない。
 本書は運動参加者たちの多様性を重視し、一方ではノンセクトの役割を強調しながら、他方では民青系活動家の語りを頻繁に紹介するなどして、どれか特定の潮流に軍配を上げることは避けている(新左翼諸党派の活動家については相対的に少なめだが、彼らの語りもところどころで紹介されている)。また、運動参加者たちの「その後」を扱った第9章第2節では、戦略的政治への志向性を持ち続けた例(T)、予示的政治を実践し続けている例(F、V、I、MM)、両者の間を往復している者(PP、SS)がそれぞれ紹介されている。とすれば、予示的政治のみを「新しい」要素として肯定しているわけではなく、予示的政治と戦略的政治の双方が運動の継承者として考えられているように見える。
 この項では、予示的政治と戦略的政治の関係について私なりにいくつかの解釈を立ててみた。著者である小杉がどのように考えているのかは十分読み取れない面があるが、とにかく重要な問題を提起しているように思われる。
 
     *
 
 やや長々と、あれこれの側面をとりあげて論じてきた。ところどころで疑問めいたものも提示してみたが、全体として興味深い野心作であることは間違いない。直接的対象たる「1968」の学生運動およびそれを取り巻く時代状況についてであれ、より広く現代史(歴史社会学)の方法についてであれ、本書をめぐる議論が活発に交わされることで今後の研究が深まることを期待したい。
 
(2018年6-7月)

*1小杉亮子『東大闘争の語り――社会運動の予示と戦略』(新曜社、2018年)。
*2実は、著者が本書のもととなった研究を進める際に私も聞き取り対象者の一人となったのだが、以下のような事情から、私の語りは本書には全く出てこない。私が著者から連絡を受けたとき、私の理解によれば依頼の趣旨は二通りあった。一つは、社会科学研究および現代史研究に長く携わり、当該テーマにもそれなりの関心をもっている者として、彼女が取り組みつつある研究の構想についてコメントないしアドヴァイスをほしいということ、もう一つは、当事者としてインタヴューに応じてほしいということの二点である。そして、実際に会ったときには前者の方に長い時間をさき、後者に関してはごく短時間しか話さなかった。私のコメントやアドヴァイスが彼女の研究にどの程度役だったかは何とも言えない。全く無駄ではなかったのだろうと思いたいが、たった一回会っただけである以上、ある程度の貢献があるとしても、それを過大評価すべきではないだろう。他方、本書の主要部分はオーラル・ヒストリーの集積からなるが、その点に関して私はさしたる話をしなかったので、著者としては使いようがなかったものと思われる(それは自然なことであり、不平を言うつもりはない)。そういうわけで、私は本書の登場人物ではなく、間接的な関わりはあるものの、どちらかといえば「第3者」的な読者として本書を読んだということを断わっておく。「自分史」的な観点からの感想もないわけではないが、その点については、本稿では最小限に触れるにとどめる。
*3否定的な集合的記憶形成に寄与した要因として、警察によるポリシング戦略の巧妙化を指摘する研究もある。安藤丈将『ニューレフト運動と市民社会――「六〇年代」の思想のゆくえ』世界思想社、2013年、第3章。興味深い指摘だが、これについても、それが成功し得た要因については更に検討すべき問題が残る。
*4小熊英二『1968』(上・下、新曜社、2009年)。これ以外に目につく先行研究としては、安藤、前掲書のほか、西田慎・梅崎透編『グローバル・ヒストリーとしての「1968年」――世界が揺れた転換点』ミネルヴァ書房、2015年がある。この本について私は「歴史としての1968年」という小文で論評を試みた(塩川ホームページの「最近のノート」欄に収録)。
*5塩川ホームページの「読書ノート」欄収録の小文で最初の感想を述べ、その後の再考を「新しいノート」欄収録の再論で述べた。
*6この問題については、塩川伸明「現代史における時間感覚――事件・歴史家・読者の間の対話における距離感」中部大学『アリーナ』第10号(2010年)参照(塩川ホームページの「これまでの仕事(2012年以前)」の欄の当該項目に全文をリンクしてある)。
*7著者は教養学部生が文学部と並んで多く、10人としている(37頁および38頁の表2.2)。しかし、そのうち3人は留年生なので、むしろ「年中組」とみなすのが妥当と考える。
*8小さなことだが、著者自身は「幼少期から青年期」と書いている。しかし、大学入学以前のことを主に問題にするのであれば、「青年期」というよりは「前期青年期」といった方が適切だろう。また、時期として「1940年代から60年代初頭」とあるが、対象者たちの大半は1940年代にはまだ物心ついていない年齢だったから、「50年代から」とした方がよいように思われる。
*9日本の「1968」運動が「戦後民主主義」否定論だったという理解は小熊の前掲書によって広められ、西田・梅崎編、前掲書の序章にも引き継がれている。
*10この時点では不満をいだきつつも党中央に服従した民青系活動家の多くは、数年後には「新日和見主義」というレッテルのもとで共産党から排除されたようである。当事者の回想として、川上徹『査問』筑摩書房、1997年参照。
*11この時期の大学当局の動きについては、加藤総長代行のもとで総長特別補佐を務めた坂本義和の回想が詳しい。坂本『人間と国家――ある政治学徒の回想』下、岩波新書、2011年、第11章。もっとも、清水靖久「銀杏並木の向こうのジャングル」『現代思想』2014年8月臨時増刊号(丸山眞男特集)200-201頁には坂本著における記憶のバイアスの指摘がある。
*12坂本義和によれば、「全共闘に理解と共感をもって」いた社会学の高橋徹から話を聞いたこともあった。また、「日共系の方は、改革案の検討に乗る姿勢で、われわれの案を聞いてもいいという反応でした。しかし私たちは、最初に問題を提起してきた全共闘を優先するべきだと考えていました」とある(同上、22、39頁)。
*13小熊、前掲書、上、895-898頁。事実関係に関する批判として、清水、前掲論文、219頁の注4。
*14この個所では仮名で示されているが、別の個所ではBは最首悟のことだということが明示されている。最首が加藤総長代行や坂本特別補佐と秘かに会見を重ねていたことについては、坂本、前掲書、下、45-46頁に証言がある。
*15私自身の実感的記憶として、当時、「クラス連合」について、「なんだかよく分からない、変な動きが出てきたな」といった以上のイメージを持つことができなかった。にわかづくりの団体という性格上、私の知る限り、その後に持続的な運動をすることもなく、ストライキ解除後は消滅していったのではないかと思われる。
*16余談だが、このときの確認書の第10項に「大学当局は、大学における研究が資本の利益に奉仕するという意味では産学協同を否定する」というくだりがある(268頁)。産学協同が肯定的意味をもつことが自明であるかのように語られている今日の情勢の中で読むと今昔の感に堪えない。
*17文学部の他には医学部の動向もかなり詳しく触れられ、教養学部については、当時助教授や助手だったAA(折原浩)やB(最首悟)の対応が述べられている。授業再開が早い時期に進行した法学部についてはあまり記述がないが、丸山眞男をめぐる状況について、清水、前掲論文が詳しい検証を行なっている。
*18ここで、あえて私自身の感慨を記しておく。本文に記したように、当時の運動に対する小熊の視線は厳しく、小杉の視線は暖かい。当事者の心理的反応として前者に落ち着かないものを感じ、後者に安堵を覚える面があるのは自然である。しかし、逆に、だからこそ厳しい眼差しを安易に忌避してはならず、暖かい眼差しに甘えてはならないとも思う。私が小熊と小杉のどちらが正しいという結論を出そうとせず、やや煮えきらない態度をとるのはそのような考慮が背後にある。
*19ついでにいうと、トニー・ジャットは後の回想で、1968年の時点ではプラハやワルシャワで起きていたことについて何も知らず、ほとんど関心をもっていなかった、大分後になってチェコスロヴァキアに関心をいだくようになり、チェコ語も勉強して現地を訪問するようになった、と書いている(ジャット『記憶の山荘――私の戦後史』みすず書房、2011年, 142-144, 193-201頁)。彼は私と同じ年の生まれだが、1968 年当時に何の知識も関心もなく、十年以上経ってから関心をいだき始めたというのは、あまり信じられないような気がする。彼の東欧観は同時代的な感覚を反映しているというよりも、むしろ1980年代以降に形成されたイメージを過去に投影しているように思われてならない。N・フライ『1968年――反乱のグローバリズム』みすず書房、2012年, pp. 190-198や西田・梅崎編、前掲論集の序章および第9章もジャット的な見方に引きずられているように見える。
*20このように書くことは、1991年に大した歴史的意味はなかったとか、そこから衝撃を受ける必要はなかったということを意味するわけではない。単純にいうなら、1991年のソ連解体が意味したのは、「社会主義革命の現実味が失われ」たということではなく、「脱社会主義を軟着陸方式で進めることの現実味が失われた」ことだった。社会主義からの離脱という選択自体はもはや驚くべきことでなくなっていたが、それが軟着陸ならぬハードランディングという形をとったことは経済の崩落や社会秩序の解体といった巨大な惨禍を伴い、その後遺症は今日にまで及んでいる。この点については、塩川伸明『冷戦終焉20年――何が、どのようにして終わったのか』勁草書房、2010年、「一九一七年と一九九一年」『現代思想』2017年8月号、「ポスト社会主義の時代にソ連と社会主義を考える」『ニュクス』(堀之内出版)第5号(近刊)など参照。
*21「反乱や問いかけに答えざるを得ない」と書いたが、そのことが実際にどこまで自覚されていたかはもちろん個々の例によって異なる。どの国にも、そうした自覚の強かった人たちもいれば弱かった人たちもいるだろう。日本に即していえば、アジアへの視線は「1968」の時点では弱く、もっと後になってはじめて登場したとするのが小熊の見解であり、1965年の日韓闘争をはじめ早い時期からあったとする小杉がこれに対峙している。これも両者の着目点の違いの一例である。
*22とりあえず、西田・梅崎、前掲書に収録されている一連の論考のほか、油井大三郎編著『越境する一九六〇年代――米国・日本・西欧の国際比較』彩流社、2012年、また野田昌吾 「「一九六八年」研究序説――「一九六八年」の政治社会的インパクトの国際比較研究のための覚え書き」『大阪市立大学法学雑誌』第57巻第1号(2010)など参照。
*23ここに書いたのは、かつて立岩真也『私的所有論』への読書ノート(2001年2月、塩川ホームページの「読書ノート」欄に収録)の末尾に書いた文章を若干パラフレーズしたものである。
*24安藤、前掲書。また、西田・梅崎編著への安藤の寄稿(第11章)も参照。
*25細かくいうなら、新左翼諸党派の中にも共産党に似たヒエラルヒー構造が相対的に強かった潮流とそれほどでもなかった潮流とがあった。また、ヒエラルヒー構造をもつ党派といえども予示的政治の要素と完全に無縁だったわけではなく、ノンセクトの方にも戦略的政治の要素がなかったわけではない。ここでは、あくまでも緩やかな相関を念頭において「親和的」という表現をとっておく。