亀山郁夫・沼野充義『ロシア革命100年の謎』(河出書房新社、2017年)を読んで
 
 
 文学研究者が歴史にどのような関心を寄せ、どのようなアプローチをして、どういう議論を展開するのか、期待と危惧の両面的な感覚を抱きながら読んだ。結論を先に言ってしまうなら、危惧の方はそれほど懸念するには及ばなかった――「これはちょっと」と感じる個所もあちこちに散見されるが、そういう個所がむやみと多いというわけではないし、またそれらは著者たちにとってあまり重要視されていない細部であるように見える――半面、期待も十分に満たされるには至らなかったといった感じである。もっとも、これは著者たちのせいというよりも、読む側の責任かもしれない。とにかく、わりと面白く感じた点をいくつか列挙してみたい。
 ロシア革命100周年に当たる今年にはかなり多くの関連著作・論文が出たが、本書の場合、文学研究者の観点からの議論という特徴のほかに、「ロシア革命への100年」と「ロシア革命からの100年」という二つの時期を設定して、あわせて200年を通観しているという点に大きな独自性がある。一冊の本で200年もの長い時間を論じるという大胆な作業は、細かい史実にとらわれる歴史家にはなかなか手を出せないものだが、文学研究者独自の感性に基づいて長期の歴史を論じる試みは面白いものと感じた。19世紀から20世紀初頭にかけてのロシア文学史は世界の文学史の中でも豊穣な構成要素をなしているが、その流れを近年の研究動向を踏まえつつ新たに解読した前半部には「さすが」と感じさせられる個所がいくつかあった。
 1917年以降の100年を扱った後半部は様々な論点に触れているが、中でも興味深く感じたのは、大まかには近い観点に立つ二人が微妙に意見を異にしていることが窺える個所がいくつかあった点である。亀山の持論である「二枚舌」論に沼野が食い下がっている個所(第8章)などはその代表例である。
 ロシア革命後の100年(あるいはソ連終末までの70年)を一まとめにしてしまうのではなく、その中での時期区分、およびその変化の意味を論じているのは、時期区分という問題にこだわる歴史家にとってもある程度頷けるところがある(もっとも、1932年を最大の画期とするのは文学史固有の観点であり、歴史全般から言えばもう少し違う区切り方が適切と感じるが)。時期区分の問題と関係して、「ポストモダン1」(スターリン時代)、「ポストモダン2」(70年代の非公式文化)、「ポストモダン3」(ソ連亡き後の現代)という議論も、十分は咀嚼しきれないものの、刺激的なものと感じた。
 全体の終わり近くで、「もしもロシア革命が失敗に終わったら、今どうなっていたか。その後の二十世紀のロシアは……」という沼野の問いかけに亀山が答えて自らの「歴史改変SF」を披瀝している個所(326頁以下)は、「怖いもの見たさ」でもっと聞きたい気分と、やはりそんな途方もない話は聞きたくないという気分の両方を呼び起こす。
 こういうわけで、面白い個所や刺激的な個所があちこちにあるのだが、どうしても歴史家と文学研究者とでは関心の所在が違い、彼らにとって重要なことがこちらにはあまりピンとこない、またその逆、というすれ違いの感覚がつきまとう。先日、ある研究会の場で新進気鋭のロシア文化史研究者に、亀山・沼野著をどう思うかと質問したところ、歴史家と文学研究者は互いに相手のことを理解することができず、対話が成り立たないというような回答があった。現実問題としてその通りではあるのだが、誤解やすれ違いを含みつつ議論を戦わせる場のようなものがあってもよいのではないかと思う。
 
(2017年12月1日にフェイスブックに投稿した文章をわずかに修正したもの)