ウクライナの社会学者による現代ウクライナ政治分析
Interview with Volodymyr Ishchenko, "Towards the Abyss," New Left Review, No. 133/134 (January-April 2022).
ここで紹介するイシチェンコという人について私自身あまりよく知っているわけではないが、とりあえず得られた情報によるなら、1982年生まれで、キエフ・モヒラ・アカデミーで学び、最近までキエフ工科大学で教えていた。ゼレンスキー大統領選出の頃(2019年春)までは国内にいたが、その後出国し、現在はベルリン自由大学に在籍している模様。New Left Reviewのほか、The Guardian; Post-Soviet Studies; Ponars Eurasia (ヘンリー・ヘイルとマルレーヌ・ラリュエルが共同編集するウェブ雑誌)などに寄稿している。その政治的立場は大まかにいえば「ウクライナの左派」ということになるが、その「左派」ということの意味を確定するのは難しい(このインタヴューでも暗黙に前提されるだけで、詳しい説明はない)。明らかに共産党とは一線を画している一方、ネオリベラリズムには強く批判的で、大雑把な意味で西欧社民に近いように見える。それでいて、ウクライナ国内では共産党と同列視されたり、「親ロシア派」というレッテルを貼られたりして、活動が非常に困難にされているようだ。インタヴューの日付は特定されていないが、開戦後1ヵ月ほど経った時期(おそらく2022年3月後半)のようだ。以下、このインタヴューの内容をやや詳しく紹介するが、字面を追っただけでは趣旨をとりにくいところがあるので、我流の解釈に基づいた紹介とならざるを得ない。より詳しい内容を知りたい人は原文に当たっていただきたい(掲載誌はウェブ上でフリーアクセスになっている)。
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2014年のユーロマイダンは、他の旧ソ連諸国における蜂起や「アラブの春」同様、本物の革命ではなく、出来損ないの革命(deficient revolution)だった。革命的変革を求める大衆運動によって突き動かされた変動であり、その産物と称することに正統性の根拠をおいていたが、実際には運動参加者たちの利害を代表していない行為者たちによって簒奪された。では、簒奪したのは誰か。第1に、ボス(ポロシェンコはその代表例)のまわりにパトロン・クライエント関係で結集した伝統的なオリガルヒ政党。彼らは、他に真似るべきモデルがないので、ソ連共産党と同様の威圧的なパターナリズムの最悪の遺産を引きずっている。第2に、西側志向のNGOおよびマスメディア。彼らは西側からの補助金の大きな部分を受け取り、共同体の動員者というよりも職業的な企業として振る舞っている。彼らはユーロマイダンのイメージを構築し、民主革命というナラティヴを国際的に広めた。第3に、「スヴォボダ」、右派セクター、アゾフ運動といった極右集団。彼らはウクライナ・ナショナリズムの急進的解釈に基づいたイデオロギーをもち、国家が暴力を独占できない状況の中で武器を持って登場した。第4に、西側の国家および国際組織(ワシントンとブリュッセル)。彼らはウクライナのNGOに資金供与するだけでなく、ロシアに対抗する軍事組織にも資金を供与している。これら4者が、異質性をはらみつつ「マイダン連合」を形成した。
失脚したヤヌコヴィチ元大統領の率いていた地域党はマイダン革命の敗者であるかに見えた。実際、地域党は崩壊した。しかし、オリガルヒを中心とするその構成員たちは政治的再編を経つつ、ウクライナ経済を支配し続けている。マイダンの前も後もウクライナの主な富豪たちの顔ぶれはほとんど変わらなかった――その最大の例はポロシェンコ――ことに示されるように、この面での変化は驚くほど小さかった。
他方、共産党および左派全般は明確な敗北を喫した。共産党は2012年議会選挙で13%の票を獲得し、ウクライナ政治の一角をなすと認められていたが、2014年には地盤たるクリミヤとドンバスがウクライナの実効統治から外れたことで議席を失い、2015年の「非共産主義化法」によって活動が禁止された。
ポロシェンコは大統領に当選した時点ではマイダンの急進的翼を代表するとは見られていなかったが、マイダン後の新しい勢力配置の中で、ナショナリズムの急進化が進んだ。オリガルヒはマイダンの成果がないことをごまかすために、ナショナリズムを利用した。
ポロシェンコは大統領選挙の前にはドンバスに関して平和を唱えていたが、数週間のうちに方向転換し、交渉を始める代わりに「反テロ作戦」を開始した。ミンスク合意(2014年の議定書と2015年の合意があるが、ここでは主に後者)は、停戦、地方選挙の実施、ドンバスのウクライナ内での特別の地位を規定していた。この合意の履行を明確に要求したのは野党だけであり、他の多くの政党はミンスクはロシアによって押しつけられたものと受けとめていた。二つの「人民共和国」を国家承認することでミンスクを葬ったのはプーチンだが、それ以前に多くのウクライナの政治家たちはミンスクを非難していた。その上、極右勢力は、もし政府がミンスクを履行するなら暴力に訴えると公言していた。2015年に議会でドンバス二州への特別の地位付与が議決されたとき、「スヴォボダ」の活動家は手榴弾を投げ込んで、死傷者が出た。2020年に至るまで、安定した停戦は存在しなかった。ほとんど毎日のように砲撃や銃撃があり、双方の側で死者が出ていた(民間人の死者は3000人にも上る)。
プーチンはドンバスにおけるウクライナ側の軍勢は極右に握られていると主張しているが、それは正しくない。極右が支配的ということはなく、彼らは少数派だ。2014-15年にはアゾフ連隊が最も戦闘能力の高い部分だったかもしれないが、その後はそうではなくなった。とにかくアゾフは特殊な部分だ。よく組織されており、西欧の極右に参加を呼びかけ、褐色インターナショナルのようなものをつくりだしている。その後、アゾフは内務省の国民親衛隊に統合された。
マイダン後のウクライナに関する支配的なナラティヴは、東部と西部を統合したシヴィックなネイションが生まれ、民主改革を進めているというものだ。しかし、反面では、両極化の傾向もある。マイダン後にエスニック・ナショナリズムは掘り崩されることなく、むしろ強まりさえした。ある者にとっての民主主義への包摂と拡張は、他の人たちにとっての排除と抑圧を意味した。2014年以前の時期に「親ロシア的」とはロシアの主導するユーラシア連合のような国際機関への参加論を指したが、2014年にそのような勢力は崩壊し、その後は、非同盟路線の主張や東西双方とのプラグマティックな協力の主張、また共産党禁止やロシア語使用制限への反対論も「親ロシア的」というスティグマを押されるようになった。こうして、相当大きな規模の少数派が、それらの間の差異にかかわらず「親ロシア的」と見なされ、スティグマを押され、攻撃を浴びている。それは時として暴力的襲撃になったり、メディアの法的抑圧をもたらしている。フェミニスト、LGBT、ロマ、左翼の団体も、極右によって標的とされている。私は2018-19年にはまだキエフにいて、左翼的メディアや集会を組織しようとしていたが、半ば非合法的な形で活動しなくてはならなかった。
ポロシェンコ政権が行なったのは、非共産主義化(共産党禁止)、ナショナリスティックな歴史叙述の強化、ウクライナ化、ロシア的文化の制限、モスクワから独立した(その代わりにコンスタンチノープルに従属する)正教会の創出などだが、これらはマイダン以前から極右が要求してきたものだ。マイダン後の政府の中に極右政治家はほとんどいないにもかかわらず、こうした政治日程が支配的となった。
NATOとの関係についていえば、1996年憲法は非同盟の原則を確認していたが、2014年以降、ポロシェンコらはその変更を唱えるようになった。2018年に憲法改正が採択され、ポロシェンコは2019年初頭に憲法改正法に署名した。NATO加盟可能性がない国で、NATOとEUへの加盟が憲法上の「戦略的路線」とされた。2019年大統領選挙へ向けた選挙戦で、ポロシェンコは言語問題にも力点をおき、公共の場および教育におけるロシア語の使用を制限する法律が採択された。選挙時に彼はナショナリスト的大義のリーダーと見なされていた。結果として、彼はゼレンスキーに大敗したが、それは不思議なことではない。
ポロシェンコ自身は、イデオロギー的にナショナリズムにコミットしていたわけではない。彼はもともと地域党の共同創立者の一人で、ヤヌコヴィチ政権で大臣を務めたこともある。マイダン後、彼は二つの対抗するアジェンダの間で罠にはまった。一方では、革命的変化への非現実的な期待が圧力となった。他方では、ナショナル・リベラルな市民社会からの要求も強まった。イデオロギー面における急進民族主義化は安易な道だった。ナショナリズムに訴えることは、「非愛国的」な批判を黙らせ、反対派を分裂させることに貢献した。議会が憲法改正を採択したときの世論調査では、NATO加盟への支持は40%しかなかった。ポロシェンコは活動家的市民の間で人気のあるプロジェクトを推進したが、それは有権者中の多数派ではなかったのだ。「非共産主義化」で道路や市の名前を変えたり、共産党を禁止したりすることも、それほど強い支持を集めてはいなかった。多くの人は別に共産党を擁護するということではなく、ただ単にそうした問題にあまり関心がなかったのだ。
2019年の大統領選挙は、これまでのウクライナの大統領選挙と違って接戦にはならなかった。ゼレンスキーはガリツィア3州を除くほとんどすべての州で勝利した。とうとうウクライナは一体となることができたかに見えた。左翼はようやく息をつけるようになったと感じた。私は2019年にゼレンスキーを支持したが、いまでもそのことを後悔してはいない。ゼレンスキーの大勝のおかげで、ポロシェンコの権威主義を掘り崩すことができたのだ。
4月に大統領選挙で勝利したゼレンスキーは、7月に議会の繰り上げ選挙を行なった。にわか仕立ての与党「人民の僕(公僕党)」はウクライナの選挙史上空前の大勝を収めた。その結果、彼は権力を集中することができた。9月にウクライナ、ロシア、ドンバスの間で最初の捕虜交換があったことも、彼の人気を高めた。ミンスク合意の履行に乗り出す機会が開けたように見えた。
しかし、まもなくゼレンスキーの党は本物の政党ではないことが明らかになった。それだけでなく、一貫性ある政策を進めるためのチームもないことが明らかになった。彼は次々と人を入れ替えた。彼はポロシェンコと同じ罠にはまった。オリガルヒの派閥、急進民族派、リベラルな市民社会、西欧諸国政府らが、それぞれのアジェンダを押しつけた。過大な期待に応えることができず、政権は弱いボナパルティズムという様相を呈した。彼は亀裂を克服しようとしていろんな勢力を攻撃した。左翼を攻撃したり、右翼を攻撃したり、ナショナリストを攻撃したり、「親ロシア派」を攻撃したりといった具合だが、どれも気まぐれであり、体制は強固にならず、2022年初めまでに多くの有力な政治家たちを疎外するようになっていた。ウクライナがこんなに混乱した状況にあるということは、プーチンに絶好のチャンスを与えた。2021年初めまでに、彼の人気は落ち始めた。野党プラットフォーム――地域党の後継政党で、2019年には第2位だった――の支持率は、調査によっては公僕党をしのぐようになった。
どうして戦争が始まったのかはまだ分からない。アルメニア(2018)、ベラルーシ(2020)、カザフスタン(2022年)の暴動も作用していたかもしれない。ウクライナ内政の混乱もプーチンの判断に影響しただろう。
野党プラットフォームのメドヴェチューク――かつてクチマ(元ウクライナ大統領)のスタッフの長で、プーチンの個人的友人であり、ドンバスの捕虜交換で交渉団を率いた――は「親ロシア派」の代表と目されているが、それだけでは割り切れない。世論調査で野党プラットフォームの支持率がゼレンスキーを上回っていることを思えば、彼への制裁は政治的ライヴァルへの攻撃とも見ることができる。「親ロシア派」への制裁は確たる証拠もなしに決定されている。裁判所の決定なしに、メドヴェチュークの預金口座はすべて封鎖された。彼のビジネス・パートナーであるコザクも制裁の対象となったが、後者は3つのテレビ局の所有者であり、それらのテレビ局はゼレンスキーへの批判的な声を伝えていた。メドヴェチュークは反逆罪の容疑をかけられて、自宅軟禁となった〔開戦直後の2022年3月に逃亡して、4月にウクライナ政府によって拘禁された〕。
ゼレンスキー政権は制裁の対象を広げ、あるときはオリガルヒ、あるときは組織犯罪の容疑者、あるときは野党的メディアへと適用した。2022年初頭までに、野党的なメディアのほとんどすべては禁止されていた。人気のある政治的ブロガーのシャリーはEUに避難所を求めた。こうした気まぐれな制裁によって、ゼレンスキーは自分の敵を増やした。世論調査では、彼の支持率は下がりつつあり、ある調査ではポロシェンコに追い越されてさえいた。しかし、戦争がすべてを変えた。いまやゼレンスキーの支持率は、かつてない高さになっている。
マイダン後のウクライナにいくら問題があったにしても(実際、多数の問題があったのだが)、それはウクライナ人が自ら解決すべきものであって、ロシアの戦車や爆弾によって解決されるべきものではない。「親ロシア派」とレッテルを貼られている人たちを含めてウクライナの政治家やオピニオン・リーダーでロシアの侵略を歓迎するものはいない。昨年、あるウクライナの「親ロシア的」ジャーナリストは、ロシアが「親ロシア派」のためにできることは何かという問いに対して、こう答えた。「ウクライナのことはウクライナに任せてくれ。それよりも、ロシアがもっと豊かで、魅力的な国になるよう努めてほしい」。ロシアの支配者一派は、自国のソフト・パワーが不足しているので、ハード・パワーに依拠しようと決断したのだ。2021年には力による外交に訴え、2022年にはそれもやめて軍事的強制に進んだのだ。
2月24日まで、ほとんどのウクライナ人は、ロシアが侵攻してくるとは信じていなかった。政府も信じていなかった。ゼレンスキーは「限定的侵攻」がありうるとは考えても、全面的攻撃があるとは予期していなかった。米英の諜報機関はロシアの侵攻を予見する点で正しかったが、プーチンの最終的決断があらわれたのは2月初頭以降のことだと認めている。彼らはウクライナ軍のポテンシャルを過小評価し、キエフは3、4日で陥落するだろうと考えていた。ワシントンはどうして侵攻を妨げようとしなかったのか。彼らはウクライナをNATOに入れようとは思っていなかったのだから、その点でプーチンと交渉することもできたはずだ。あるいは逆に、ウクライナに大量の兵器を供与して、プーチンに攻撃を断念させるという手もあった。しかし、彼らはそのどちらもしなかった。
戦争はウクライナ・ロシア関係およびウクライナ・アイデンティティの変化を引き起こしている。戦争が始まるまでは、15%くらいのウクライナ市民が、自己をウクライナ人でもありロシア人でもあると感じていた。いまやこれを維持することはできず、どちらか一方のアイデンティティ――大抵はウクライナ――を選ぶようになっている。ロシア語およびロシア文化の位置は縮小し、公的な場面だけでなく私的会話でもそうなりつつある。戦争が続くうちに、急進的ナショナリストが抵抗運動で主導的な位置を占めるようになるだろう。私が生まれ、人生の大半を過ごしたウクライナはもはや失われてしまった。
ロシアにおけるプーチンへの政治的反乱の可能性は、当面は小さい。戦争に反対する人たちが20万人も出国したいま、その可能性は高くない。反対派は分裂している。エリートのクーデタの方がまだしもありうるが、それが起きるのはウクライナで敗北してからのことだろう。つまり、革命なり宮廷クーデタなりが戦争を終わらせるのではなく、今後のロシアを決めるのは戦争の成り行きだろう。
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紹介は以上だが、末尾近くにある「私が生まれ、人生の大半を過ごしたウクライナはもはや失われてしまった」という一句は悲痛な叫びの様相を呈している。もちろん、特定の立場に立つある論者の議論である以上、これが「真実」だなどと即断するわけにはいかない。ただとにかく、ウクライナの中に「親ロシア派」とか共産党というわけではない「左派」――大まかな意味で西欧社民に近く、ナショナリズムの穏健ヴァージョンには共感するが急進ヴァージョンには反対――がいるという事実は、もっと知られてもよいのではないだろうか。インタヴューの中には多くの興味深い論点があるが、一例として、ウクライナにおける極右の役割について過大評価論と過小評価論がぶつかり合っている中で、そのどちらでもないバランスのとれた見方を出しているように思える。イシチェンコに限らず、「ウクライナ左派」の多くは、国内では困難な状況におかれ、西ヨーロッパ諸国やアメリカに活動の場を見出しているようである。欧米の知識人や研究機関が彼らに活動の場を提供しているのは懐の深さを示すものだが、同じ欧米の主だった政治家たちや大手のマスメディアはこの勢力の存在をほとんど完全に黙殺しているように見える。このギャップは何を物語るのだろうか。
なお、このインタヴューについては、池上善彦氏のフェイスブックで知った。記して謝意を表する。
(2022年4月26日にフェイスブックに投稿した文章をごく僅かに修正した)