資料としてのゴルバチョフ著作集――第29巻(1991年10-11月)を中心に
 
 
 2008年に刊行が始まり、先頃第29巻が刊行されたゴルバチョフ著作集は*1、かつて1987-90年に出た7巻本の演説論文集と比べて、ただ単に巻数が多いとか、もっと後の時期までカヴァーしているというだけでなく、いろいろな意味で充実したものとなっている。一つには、当時公表された発言だけでなく、これまで未公開だった各種の発言をあれこれのアルヒーフ/アーカイヴ(文書館)から収録している。採録のもととなった文書館として、ゴルバチョフ・フォンド(社会経済政治学研究国際財団)付設のアルヒーフからのものが多いのは驚くに値しないが、それ以外に、ロシア国立現代史文書館(通称ルガニ)やロシア国立文書館(通称ガルフ)とか、中には大統領アルヒーフのように普通の歴史家にはアクセスしにくいアルヒーフも含まれている(編者たちがどのようにしてそれらにアクセスしたのか、その際にどのような制約がついていたのかは明らかでない)。また、重要な会議に関しては、ゴルバチョフ本人の発言だけでなく、他の出席者たちの発言も巻末注や付録にかなり長く紹介されている点も特筆される。もっとも、速記録を全文収録しているわけではなく抄録であるため、隔靴掻痒の感をいだかせるところもあり、これで万全というわけではない。ゴルバチョフに近い立場の人たちによって編集されている以上、そうした立場に由来するバイアスがあることはいうまでもない。そのような問題があるとはいえ、関係アルヒーフがまだ全面公開の対象となっていない現状で、そして他の類似刊行物との相対比較でいう限り*2、資料価値が高いものということができる。
 拙著『国家の解体――ペレストロイカとソ連の最期』(東京大学出版会、2021年)の執筆時に利用できたのは、1991年10月初頭までをカヴァーした第28巻までであり、そのため、拙著第19章のはじめのあたりまではこの著作集を活用して書くことができた。その後の時期に関わる巻が未刊行だということはずっと気になっていたが、ともかく末尾に近い時期までカヴァーできたこと、また著作集の刊行ペースが緩やかになって、いつまで待てばどの巻まで出るのかの見込みも立てがたかったことから*3、第28巻まで手にした時点で全体を書き終えて、出版に踏み切った。ところが、ちょうど拙著の校正が終わって、まさに刊行されるという時期になって第29巻が届いた。そこで、この小文では第29巻(以下では、「本巻」と記す)の概要を簡単に紹介し、これによって拙著がどの程度補足されることになるかを考えてみたい。
 
【10月11日の国家評議会】
 本巻の冒頭に収録されているのは、1991年10月11日の国家評議会の記録であり、その典拠はルガニの速記録である。この会議については『政治局資料集』、資料集『同盟は維持することができた』、およびグラチョフの回想に記録があり、旧稿「ソ連解体の最終局面」および『国家の解体』ではそれらに基づいて一応の記述をしていた*4。一般論として、同じ会議の記録でも『政治局資料集』および『同盟は維持することができた』がゴルバチョフの側近たちのメモに基づいているのに対し、ルガニの方は正式の速記録であることから、後者の方が資料としての信頼度が高いと考えられる。ゴルバチョフ著作集はその速記録からの採録であり、全文ではないという限界はあるものの、とにかくこれまで利用可能だった他の資料類よりは相対的に価値が高い。もっとも、グラチョフの回想には速記録にない個所の記載もあったりするので、全体像復元のためにはこれらを慎重に見比べねばならない。とにかく、ここでは本巻からどのようなことが窺えるかを確認しておきい。
 この会議にエリツィンとクラフチュークの二人がともに出席したこと、また二人とも経済共同体条約調印に賛成の態度を示したことは既に知られていたとおりだが、会議の冒頭では議題をめぐって若干の応酬があった。真っ先に発言したクラフチュークは、今日の議題は経済共同体条約と食糧問題に関する協定にとどめ、他の議題は次の機会にまわすべきだと述べ、カリーモフもこれに賛同した。これは、より広い議題とりわけ同盟条約問題をも討論したいという意向を持つゴルバチョフへの牽制の意味を持っていた。ゴルバチョフはこれに対し、同盟条約案に関する今後の作業日程について、本格討論ではないまでも意見交換をしようと発言して、近い将来の同盟条約調印を目指した作業日程だけは何としても確認しようとした。同盟条約調印準備は第5回臨時ソ連人民代議員大会決定〔8月政変直後の9月5日〕で指示されたものであり、今日の会議で経済条約および食糧協定の調印に進もうとしているのもその基礎の上でのことだ、時間を失ってはならない、政治的思惑のせいで根本的文書類が遅れるというようなことがあってはならない、というのがゴルバチョフの言い分だった。その他、KGB再編に関するバカーチン提案、軍に関するシャポシニコフ提案、外交に関するパンキン提案についても意見交換がなされることになった。こうして正規の議題は経済共同体条約と食糧問題に関する協定にとどめながらも、他の政治課題についてもある程度の意見交換を行なうことが認められた*5
 このような冒頭の応酬の後、経済専門家グループを代表してヤヴリンスキーが経済共同体条約案について報告を行なった。この報告は本巻の付録に全文が収録されている(411-421)。これはおそらくはじめて公刊されたものなので、やや詳しく紹介するに値する。ヤヴリンスキーはおよそ次のように述べた。国家評議会の委託をうけて専門家たちおよび諸共和国の代表者たちが集まって、経済同盟――後に「経済共同体」ということにとなった――に関する条約案作成の作業を続けてきた。何回も採決を繰り返してテキストを練り直した末に、困難ではあったが基本的合意が取り付けられた。この条約案は10月1日のアルマアタ会議に提出された。その場には一連の共和国大統領や多くの共和国首相が出席していた。この過程で共和国の立場は調整され、テキストは改善された。翌日、一連の共和国とりわけロシアの意見を取り込む追加協議の後、3つの共和国〔特定されていない〕の指導者たちが条約に調印し、15日までに条約に調印するという声明を8つの共和国が採択した。それから条約案は新聞に公表され、全ての共和国で討論が展開され、多様な意見が提出された。こうした経緯を踏まえ、この場での審議は決定的な性格を持つものと期待する。経済共同体条約への反対論はいくつかに類型に分けることができる〔以下、若干の逸脱ないし混乱があるので、私なりに整理し直した〕。第1に、あまりにも巨大で異質性をはらむ国でよりも、個々の国での方が危機から脱出しやすいという意見が出されている。しかし、実際には孤立化のコストの方がずっと大きい。市場が大きければ大きいほどよいのは自明だ。第2に、各共和国はそれぞれに自分たちは搾取されていると主張している。これはプリミティヴな見解だ。みんながお互いに搾取しているなどというのはおかしい。市場に移行して自由価格が設定されるなら、この問題は自然に解消される。第3に、条約は現状を固定するものだとか、全体主義的な中央を再生するものだと言われている。それは価格等を固定して考えているからだ。「ルーブリ圏」は単なるメカニズム、調整者だ。また条約は主権を損ねるものだという見解がある。世界のどんな国も、主権とか独立と関わりなく、種々の条約を結んでいる。時によって結んだり結ばなかったりするが、経済条約の問題が立てられること自体が論争となることはない。現在つくられている条約は主権宣言や独立宣言を考慮に入れており、そこに矛盾はない。諸共和国がそれぞれの中央銀行をつくると言っているので、条約では「銀行同盟」〔共和国ごとの中央銀行の同盟〕について語っている。一定の条件下で共和国通貨を導入する余地も認めている。
 ヤヴリンスキーはこのように種々の異論に対して条約を擁護した後、政治条約〔同盟条約〕との関係にも簡単に触れた。政治条約と経済条約の関係についていうなら、本来的には政治条約が先に結ばれた方がよいという点で誰もが一致している。しかし、実際には政治条約の方が複雑であり、長い時間がかかっている。これは私の決めることではない。私はたくさんの政治家たちと接触してきた。政治家たちは条約という観念自体を忌避する傾向がある。だが、条約なしにどうするのか。以前は中央という攻撃標的があったが、今や中央がなくなったので、各共和国がお互いを攻撃している。人々の間で余所者への攻撃の心理が強まっている。アルマアタで仮調印がなされたとき共和国指導者たちの相互関係は改善されたが、まもなく相互不信が広がりだした。いかなる条約に関しても主要な政治課題は信頼醸成だ。相互の苦情は政治の問題であり、それが解決されないと経済問題の解決も先送りになってしまう。ヤヴリンスキーは最後に、アメリカもドイツもイギリスもフランスもこの条約を支持していると述べて、参加者たち〔各共和国首脳〕に条約支持を訴えた。
 ここに見られるように、ヤヴリンスキーは経済共同体条約案を作成した責任者として、懐疑論に反論して、条約への調印を強く訴えた。政治条約(同盟条約)は彼の管轄ではなかったが、できることなら同盟条約も早期に調印されることが好ましいという認識を示しした上で、政治家たちの相互不信がそれを妨げていると彼は述べている。
 この後の討論では、それほど激論が交わされたわけではなく、概して早期調印論が多数を占めたが、いくつかの留保を示す発言があった。たとえばウズベキスタンのカリーモフは、発展の不均等性を考慮するなら、無制約な価格自由化だけが行なわれると後進的共和国は困難に追い込まれると述べたが(15-16)、これはロシアが価格自由化に乗り出そうとしているのを牽制する意味を持った。これに対し、エリツィンはロシアは経済共同体条約に調印する、早いほどよいと明言し、さらに、条約に予定されている協定類は批准までに準備されていなくてはならない、条約に規定されていない中央機関への支出は打ち切るべきときだと述べた(18)。同盟条約調印は急がないが、経済共同体条約調印は急ぐというのがロシア政権の意向であり、中央機関への支出を近く打ち切ることで中央を解体に追い込むという意図がここには示されている。ウクライナのクラフチュークは、経済条約調印反対論を明示はしなかったものの、集権化的性格を持ついかなる文書も受け入れられないと述べ(19)、エリツィンとのニュアンスの差を示した。ナザルバーエフが19の補足協定はいつまでにできあがるのかと質問したのに対し、ヤヴリンスキーは政治的意思次第だが主なものは一ヶ月半でできるだろうと答えた(19)。アゼルバイジャンのムタリボフは、アルメニアとの戦争が続行中だということを強調して、この戦争で中央はわれわれを助けるのかどうか――アゼルバイジャンが経済および政治条約に参加するかどうかはその点にかかると発言した(21)。
 こうした討論をうけてゴルバチョフは、10月15日までに調印することで一致が得られた、補足協定類の準備を急がねばならない、二国間条約の調印はこれと矛盾するものではないと述べて、この議題を締めくくった(22)。最後の点〔二国間条約〕はロシアの構想に対する譲歩であり、いくつかの異論は残るもののとにかく経済共同体条約調印に早く進もうという考えを反映している。
 この議題の後、食糧供給協定に関する討論が行なわれ、それからKGB再編問題へと議論が進んだ。この議題に関するバカーチン報告は本巻の付録に全文が収録されている(423-425)。この報告では、KGBの人員総数および支出額が内訳を伴って明示されているのが目を引く。そうした現状報告を踏まえて、現在のKGBを中央諜報機関、防諜に関する共和国間機関、国境防衛隊の合同司令部へと3分割することが提案され、また共和国への分権化の方向が示された。若干の意見交換の後、国家評議会はこの報告を承認した(KGBの3分割は正式には10月22日付の国家評議会決定)。
 この日の国家評議会は、エリツィンが長期休暇から帰ってきてから最初の重要会議だったが、全体としては「嵐の前の静けさ」という様相を呈していたように見える。あれこれの点での意見対立が表出されたものの、とにかく近く経済共同体条約調印に進むことが確認されたばかりか、同盟条約についても非公式ながらある程度の意見交換がなされ、作業を先に進めることへの大まかな合意をゴルバチョフは取り付けた。この場で明確な異論を出しているのはクラフチュークだけであり、カリーモフおよびムタリボフはそれぞれの観点からの自己主張を出したものの、いずれも経済共同体条約調印自体への反対ではない。ナザルバーエフが熱心な早期調印論であるのは驚くに値しないが、エリツィンもこの時点では意外に宥和的であるように見える。
 
【10月15日から18日まで】
 さて、本巻のこれに続く部分では、対外関係・国内問題の双方にわたって、いくつかの未公刊資料が収録されている。
 まず旧ユーゴスラヴィア和解工作の一環として、10月15日にゴルバチョフはセルビアのミロシェヴィチおよびクロアチアのツゥジマンとそれぞれ会見した(52-60)。当時短期間ソ連外相を務めていたパンキンの回想によれば、この和解工作はパンキンの提案であり、この工作の結果、停戦の共同コミュニケを発表するという合意が得られ、ソ連、アメリカ、ECが和平交渉を促進することになった。しかし、まさにこのコミュニケ発表と同じ日にボスニア議会は独立を決議し、セルビア人勢力が議会から退場することで、ボスニア内戦は再勃発してしまった*6。結果的に空振りに終わったとはいえ、国外における重要な紛争に関する和解工作で主導的役割を演じることによって国際社会に高い位置を保持しようとする思惑は、月末の中東和平マドリード会議(後述)でも示されることになる。
 前述したように、10月11日の国家評議会では経済共同体条約は15日調印と予定されたが、実際の調印はやや遅れて18日となった。この条約のテキストは本巻の付録に全文収録されている(426-440)。これは当時一般に公表されたものであって、新資料というわけではないので、詳しく立ち入ることはしないが、いくつかの注目すべき個所を確認しておく。
 先ず前文は、かつてのソヴェト社会主義共和国連邦(同盟)の主体だった独立諸国家はその現在の地位に関わりなく〔つまり、同盟条約に参加すると否とにかかわらず〕、危機脱出、市場経済移行、世界経済への参入という共通の問題をかかえ、経済統合および共通経済空間維持の利点を意識して、この条約を結ぶと宣言している。第5条では、以下の諸領域における経済立法の接近および政策の調整を目指すとして、企業家活動、商品およびサーヴィス市場、運輸・エネルギー・情報、通貨および銀行システム、財政・税制・価格、資本および有価証券市場、労働市場、関税規則、対外経済関係および外貨政策、国家的な科学技術政策、投資、エコロジー、人道その他の共通利害に関わるプログラム、規格・特許・度量衡・統計・会計を挙げている。第6条は、参加国は共通と認められた財産の一方的奪取をしない義務を負うと規定しているが、これは当時既に進行しつつあったソ連国有財産の乗っ取り合戦に歯止めをかけようとしたものである。第9条は、参加諸国家は経済高揚の基礎は私的所有、企業活動の自由、競争であることを認めると明記して、資本主義的経済活動の原則を確認している。第12条は商品およびサーヴィスの無関税での自由移動をうたって、統合市場の原則を確認している。通貨については、第16条で共通通貨としてのルーブリ維持の必要性を認める一方、個別国家の通貨導入はそれが共同体の通貨システムを損なわないという条件付きで認められるとしている。第17条では、銀行政策協調のため、各国中央銀行を包括する銀行同盟および国家間発券銀行を創設することがうたわれている。第28条は労働力移動の自由の原則を定め、第38条はIMF、世界銀行、GATTに共同で加盟することをうたっている。経済活動の法的規制に関しては、第40条で参加諸国家においてはそれぞれの法制が至上性を持つと確認した上で、第42条では、この条約および協定が共同体の権限内で定めた規範と個々の立法が抵触するときは共同体規範が優位すると定めている。第44条は、経済共同体の諸制度として、国家間経済委員会、銀行同盟、経済共同体仲裁裁判所を設置するとし、第45条は共同体の最高の調整機関は諸国家首相評議会であると定めている。条約を具体化する補足的協定としては、条約と同じ有効期間〔3年間〕を持つ19の協定が第50条に列挙され、より短い期間に関する7つの協定が第51条に列挙されている。前者の例としては、経済共同体の諸制度の地位および権能に関する協定、銀行同盟の創設およびその規約に関する協定、共同体の財産の権利の調整に関する協定、共同体から脱退する際の相互義務調整に関する協定、資本移動に関する協定、独占禁止制度に関する協定、年金および社会保険に関する協定、個別国家が独自通貨を導入するときの条件に関する協定、対外債務の原則およびメカニズムに関する協定*7などが挙げられている。第52-54条では共同体への「準加盟」の制度が定められている。条約の発効については、個々の参加国にとっては批准書寄託後一ヵ月後(第58条)、条約全体としては3つ以上の参加国が批准した時点(第59条)と定められている。このような内容を持つ条約に、8つの共和国の首脳およびソ連大統領たるゴルバチョフが署名した*8
 見られるとおり、基本的に資本主義的経済制度への立脚および参加諸国の主権国家性を前提としつつ、それら諸国が緊密な経済統合を維持することを想定した条約となっている。それが実質的に機能するかどうかは、第50条で言及された補足協定類にかかっていたが、その点については後で見る。
 
【10月21日から28日まで】
 10月21日には、新たに再発足したソ連最高会議が何度もの延期の後にようやく開会され、ゴルバチョフも開会日の両院合同会議で演説した。この演説は当時の『イズヴェスチャ』に報道され、『国家の解体』2039頁でも、簡単な経緯説明をつけて触れた。本巻ではこの演説のテキストがガルフの速記録から採録されており、会期の経緯についても巻末注に説明がある(79-88, 517-518)。
 同じ21日、ゴルバチョフと補佐官および顧問たちとの会合がもたれた(94-95)。この会合については、やや簡略化された記録が『同盟は維持することができた』増補第2版にあり、それに基づいて『国家の解体』2038頁で触れた。
 26日には、ゲンシャー(ドイツ副首相=外相)とゴルバチョフの会談がもたれた。これについては、記録がゴルバチョフ・フォンド・アルヒーフに基づいて収録されており、経緯の説明も巻末注にある(103-110, 522-523)。なお、資料集『ミハイル・ゴルバチョフとドイツ問題』には前日に行なわれたゴルバチョフ=ゲンシャー電話会談が収録されているが*9、26日の会談は収録されておらず、ゴルバチョフ著作集が初出である。
 28日には第5回臨時ロシア人民代議員大会後半部が開会し、その冒頭でエリツィンが長大な演説を行なった。この演説のテキストも本巻の付録に収録されているが、これは当時公表されたものの採録であり、初出というわけではない。このエリツィン演説については『国家の解体』2040-2042頁で触れた。
 
【10月28日から11月2日まで】
 これらに続く大きな会議は、28日から30日にかけてマドリードで開かれた中東和平会議(ゴルバチョフとブッシュが共同主宰)であり、またその帰路の30-31日にゴルバチョフはフランスに立ち寄ってミッテランと会談した。これらについては、当時公表された声明類の他、『同盟は維持することができた』、英文で編まれた中央ヨーロッパ大学の資料集、グラチョフおよびパラシチェンコの回想、ブッシュとスコウクロフトの回想、チェルニャーエフの日記などが以前から知られており、旧稿「ソ連解体の最終局面」108-113頁および『国家の解体』2043-2044頁では、それらを利用して一通りの記述を行なった*10。本巻では、当時発表された文書類の他に、ゴルバチョフ・フォンド・アルヒーフおよびガルフ資料を取り混ぜて、かなり大きな頁数が割かれている(125-214)。
 マドリードから戻ってきたゴルバチョフがエリツィンと最初に会ったのは11月2日のことである。その模様については、直後にゴルバチョフがシャフナザーロフとレヴェンコに伝えた内容のシャフナザーロフによるメモがゴルバチョフ・フォンド・アルヒーフから収録されている(215-216)。同じ資料は『政治局資料集』、『同盟は維持することができた』、シャフナザーロフの回想にも収録されており*11、それらは細部で小さな不一致があるものの、全体としてはほぼ同じ内容となっている。旧稿「ソ連解体の最終局面」116-117頁および『国家の解体』2045頁はそれらに基づいて記述した。
 
【11月4日の国家評議会(その1)】
 続いて11月4日に国家評議会が開かれた。これについても『政治局資料集』やグラチョフ、シャフナザーロフ、パンキンらの回想に記録があり、旧稿「ソ連解体の最終局面」117-121頁および『国家の解体』2044-2045頁はそれらに基づいて記述した。こうした既存の資料と比べると、ルガニの速記録に依拠した本巻はずっと詳しいものになっている。以下、主な個所を紹介する。
 この会議にエリツィンはかなり遅れてやってきたが、彼を待つ間に、ゴルバチョフは現在の情勢に関する意見交換を始めた。そのはじめの方の内容は、旧稿「ソ連解体の最終局面」117-118頁で記したのとあまり変わらないので簡略な紹介にとどめる。彼は一方でロシアの価格改革案を支持すると同時に、それが経済共同体の枠内だということについての明確さが欠けており、価格改革案の公表が消費市場の投機的状況、パニックを引き起こしつつあるという危惧を表明した(233-235)。この発言の途中でエリツィンが入室し、ゴルバチョフは「君を待っていたのだ」と述べてから、演説を続けた。マドリードで西側首脳たちはみなソ連の解体を恐れていた。西側は同盟の改革を望んでいるが、改革された同盟の存続を望んでもいる。国内でも同様だ。〔10月〕11-21日にアルマアタ、キエフ、モスクワ、クラスノヤルスクで科学アカデミー社会学研究所が行なった世論調査によれば、同盟支持率はアルマアタで78.2%、キエフで55%、モスクワで72.6%、クラスノヤルスクで67.9%という高さを示している*12。私は土曜日にエリツィンと会い、近く同盟条約案について国家評議会で審議することで合意した。カリーモフ、ナザルバーエフ、シュシュケヴィチ、ニヤゾフも同意見だ。〔マドリードで〕ブッシュは15億ドルの農業クレジット供与を約束した。中東和平については、シャミール(イスラエル首相)との会談は画期的だった。ゴンサレス(スペイン首相)は、ソ連はヨーロッパと世界にとって必要だと語り、主権国家同盟がうまくいかないなら危険な空白が生じると指摘した。ミッテランの意見も同様だ。西側指導者たちは同盟維持と並んでロシア政府の経済改革にも賛成だと述べた。経済条約の作業を完了すると同時に、同盟条約調印の準備に進まねばならない(235-242)。
 かなり長大なゴルバチョフの冒頭発言が終わった後、エリツィンは議事日程に沿って進むべきだと述べて、本来の議題たる経済共同体条約問題を超えた政治問題(同盟条約)に立ち入ることを牽制しようとしたが、ゴルバチョフは、いや、意見交換を行なっただけだ、議事日程については既に確認済みだと答えて、これをかわした(242)。
 このようなさや当ての後に行なわれた経済共同体条約に関するヤヴリンスキー報告は付録に収録されている。彼はおよそ以下のように述べた。経済共同体条約の準備グループは9月16日に発足した。〔10月18日の〕条約調印後、一連の協定の準備が専門家グループによって進められた。一連の協定のうち既に13は合意ができており、あと6つは予備的に討論され、もう3つは準備中だ。いくつかの共和国は軍事とか共同活動領域といった政治問題を提出しているが、これは専門家グループでは解決できない。協定の準備が進んでいるのに、多くの共和国は別の考えを持っているかのようだ。銀行、財政、通貨、関税などについて〔経済共同体参加国全体としてでなく〕2国間の協定で解決することができるという考えがあるが、これは危険だ。経済共同体条約を結んだからには、時間を無駄にせず、協定の確定に進むべきだ。対外債務については、各共和国がそれを担う用意があるかどうかを明言すべきだ(457-459)。
 この報告を受けて、質疑がかわされた。まずゴルバチョフが、多くの共和国が別の道を進もうとしているというのは本当かと尋ね、ヤヴリンスキーは、専門家グループに代表を送ってこなかったり、代表が然るべき信任状を持っていない場合がある、所有分割を決めてからでないと先に進めないと主張する共和国もある、と答えた(242-243)。
 この後の討論では、概してヤヴリンスキー報告に賛意を示す発言が多かった。この時点でまだ調印していなかったウクライナのフォーキン首相も、ウクライナは経済共同体に賛成だと明言し、経済的結合の断絶は破滅的だと述べた。条約案の個々の文面には問題もあるが、とにかくウクライナはもうすぐ条約に調印すると彼は表明した*13244-245)。なお、彼が疑念を表明した条約の案文修正については、ヤヴリンスキーがこの修正はロシア代表団からの強い要請によるものであり、各共和国首脳の合意を受けたものだ、それを疑問にさらすのは受け入れられない、と応じた(247-248)。
 多くの共和国が経済共同体条約に調印を済ませたかあるいはもうすぐ調印しようとしているこの時点で最大の問題は、条約を具体化する補足的協定類が確実に締結されるか否かにあった。ナザルバーエフは、各共和国首相は準備された協定に調印すべきだと述べて、次のように続けた。カザフスタンは10月18日の合意の立場に確固として立つ。ウクライナ、モルドヴァ、アルメニアは個々の具体的義務抜きにとどめようとしているが、これは合意からの後退だ。経済共同体条約第55条には、義務不履行の場合には共同体除名もあり得ると記されている。ところが、これに照応した国家間経済委員会の権限が受け入れられないとの主張が出されているのはおかしい(248-250)。この発言に見られるように、ナザルバーエフは経済共同体の統合を確固たるものにすることを強く主張していた。翌年5月の彼の発言――経済共同体条約に続いて銀行同盟に関する協定、統一通貨空間に関する協定、私有化政策の調整に関する協定等々が準備されていた、もしこの条約が現実に施行されていたならヨーロッパで進行したような統合が進んだだろうが、忍耐が足りなかったのだ(『国家の解体』2025頁)――はこれをうけている。
 この後、ゴルバチョフは共和国間経済委員会とヤヴリンスキーに、作業を一週間以内に完成する――国家評議会レヴェルで決定しなくてはならない政治的問題については3日以内に問題を定式化する――ことを指示した(250)。なお、ゴルバチョフとエリツィンの間で言葉遣いに関する応酬があったが、それほど大きな問題とはならず、一応の暫定的合意に至った(251)
 これに引き続いて、国家間経済委員会の構造と人員に関するシラーエフ報告があり、その内容は付録に収録されている(459-460)。経済共同体の諸制度の地位および権能に関する協定は一連の補足協定類のうちでも最重要のものであり、そのためにヤヴリンスキーとは別個にシラーエフが報告することになったものと思われる。この報告をめぐる討論では、ゴルバチョフ、シラーエフ、ヤヴリンスキー、ヴォリスキーらの間で若干の応酬があった(252-258)。詳しい事情はよく分からないが、これらの人々は経済共同体を確固たる統合体として発足させるという点では共通の立場に立ちつつも、それをどのように具体化するかをめぐって細部での意見対立があった模様である。
 討論の締めくくりに立ったゴルバチョフは、提案を基本的に承認することにしよう、エリツィンやシュシュケヴィチからも意見が出されている、意見交換を踏まえて、12日〔実際には14日になった〕の国家評議会で政治同盟とともに審議対象とすることにしよう、と述べた(254-255)
 続いて、再びシラーエフが立って、一連のソ連省庁を15日に廃止することになると述べ、それに伴って3万6000の人員が削減される、うち半分はロシアの官庁に移行するが、残りは労働法に従って解雇手当を受け取り、求職活動をすることになると説明した(460-462)。この官庁削減については『国家の解体』2045頁でも触れたが、ゴルバチョフ著作集の討論記録はより詳しいもので、文化、教育、検察などの分野をどうするかについて若干の意見が交わされたこと、その中でエリツィンがソ連省庁を極力小さくしようとする立場を示したことなどが窺われる(255-258)。
 
【11月4日の国家評議会(その2)】
 11月4日の国家評議会はここでいったん休憩に入り、その後、国防・内務・外務という重要領域に関する討論に移った。この討論については、旧稿「ソ連解体の最終局面」119-121頁で、主としてグラチョフの回想に基づいて記述したが、本巻にある速記録はこれよりもずっと詳しいものなので、以下では、この部分についてやや立ち入った紹介を試みる。なお、この3領域に関する報告を行なったシャポシニコフ国防大臣、バランニコフ内務大臣、パンキン外務大臣は、いずれも8月政変時に前任者が信頼を失墜したのをうけて新たに任命された人たちだが、その際、人選の主導権はゴルバチョフよりもむしろエリツィンにあった(『国家の解体』1887頁)。その意味では、彼らはエリツィンをはじめとするロシア指導部と友好的な関係にあったが、いったんソ連レヴェルの大臣となったからには、ソ連官庁の活動に責任を負う人間として、エリツィンからのソ連官庁解体攻勢にそのまま従うことはできないという微妙な位置にあった。余談ながら、この数日後にエリツィンがチェチェン=イングーシへの非常事態導入を宣言して軍事力行使に乗り出したとき、ソ連国防大臣たるシャポシニコフとソ連内務大臣たるバランニコフはゴルバチョフの指令がない限り部隊を動かすことはできないという態度をとって軍事力行使を妨げたが(後でも改めて触れるが、『国家の解体』2130頁参照)、ここにも彼らの立場の微妙さが現われている。
 さて、シャポシニコフ報告は本巻の付録に収録されているが、その内容はおよそ以下のようなものである。いくつかの共和国の動きは軍事に関する不安な状況をもたらしている。ウクライナ、アゼルバイジャン、グルジア、モルドヴァでは独自軍がつくられようとしており、バルト諸国は撤退を要求している。独自の軍人宣誓が策定されようとしている。軍を分割することはできない。もっとも、独自の軍事部隊を持とうという志向自体は理解できる。各共和国内に独自軍を要求する急進勢力がおり、共和国指導部たちは板挟みの窮地にある。ともかく、軍を民族的メルクマールで分割することはできない。提案として、第1 に主権的諸国家の国防大臣たちによる諮問委員会をつくること、第2 にソ連国防省および参謀本部は諸共和国の国防省創設を援助すること、第3 に主権的諸国家の領土における軍の地位を確定することを提起する。第4 に国家評議会は秋の徴兵を保障してほしい。また、国外にいる軍部隊がかかえている巨額の外貨での債務を償還するため、国防省が商業センターをつくることが提案されている(462-466)。ここで言われている「商業センター」が何を指すのかはよく分からないが、縮小する軍事備品の財政的処分を担当する機関を念頭においているものと思われる。
 この報告を聞いたゴルバチョフが、それを同盟なしで成し遂げることができるのかと尋ねると、シャポシニコフは、誰も自立的に取り引きすることはできない、軍事力省(Министерство вооруженных сил*14)とわれわれの間に矛盾がある、と答えた(258)。彼は続けて、チェコスロヴァキアおよびハンガリーからの撤退のときには全てを投げ出してしまったが、それを繰り返すおそれがある、商業センターが必要だと述べ、バルト諸国からロシア領への撤退に備える必要性を指摘し、これまであった軍事工業委員会が廃止された(注14参照)ことに鑑み、国防省に一連の委員会を設置する必要があると述べた(258-259)。
 シャポシニコフは続く発言で、これから厳しい冬の時期と経済危機がやってくると指摘して、次のように述べた。国家評議会メンバーに最大限のバランス感覚発揮を呼びかける。脅すわけではないが、軍がなくなるどころか、それ以上のものが失われるかもしれない。以上を考慮して、われわれの提案を検討してほしい(466-467)。
 ゴルバチョフは軍の問題についてはこれ以上討論することなく、すぐに内務省の問題に移ろうとしたが、エリツィンが口をはさんで、次のように発言した。私個人としてだけでなくロシア指導部の名において、ロシアは独自軍を持とうとしたこともなければ、つくりだしつつあるわけでもなく、これから先、諸共和国中で最初にであろうと、2番目であろうと、3番目あるいは4番目であろうと、独自軍をつくるつもりはないということを公けに声明する。われわれは主権国家同盟という新しい国家を作ろうとしており、無条件で単一軍がなくてはならない。もちろん、再編成は不可避であり、旧指導部批判は正当だが、シャポシニコフは根本的な改革に取り組んでいる。今日の提案はその最初の一歩だ。もちろん、主権諸国家は民間防衛、軍事教練、軍事政策決定などに関与する。ロシアは国民親衛隊(национальная гвардия*15)をつくることにしたが、これはクーデタの再発にそなえるものであり、1万人か2万人程度の規模だ。これは内務省部隊からつくられ、軍には関係しない。民間防衛は全て共和国に委ねるべきだ。バルト諸国は空軍、対空防衛を自分たちのものだと主張している。しかし、軍の分割は問題にならない。ロシアは決して独自軍創設に向かわないことを改めて確認する(260-263)。この発言は、ロシアが軍の分割に乗り出そうとしているのではないかとの推測を打ち消そうとして*16、そのような意図は決してなく、単一軍維持――小規模な共和国親衛隊は別として――の立場を堅持していると強調するものになっている。主権国家同盟を「国家」と認めている点も注目される。この時点のエリツィンは、おそらくシャポシニコフとの良好な関係維持の狙いもあって、軍の分割に反対して単一軍を維持するという立場をとっていた。深読みをするなら、「諸共和国中で最初にであろうと、2番目であろうと、3番目あるいは4番目であろうと」という個所は、もっと多くの共和国が独自軍創出に向かうなら話は別という趣旨にとれなくもないが、その問題が浮上するのはもっと後の話である。
 このようにエリツィンがシャポシニコフ報告に異を唱えなかったのに対し、やや意外なことにベラルーシのシュシュケヴィチが報告への疑問を呈示して、次のように述べた。軍への信頼が揺らいでいる。ベラルーシでは、共和国領土内に配置されているよりもはるかに多くの人数が徴兵されている。わが議会はこれを受け入れないだろう。ベラルーシは独自軍の決定を採択していないが、その方向に押しやられようとしている(263)。通常は同盟維持派であり、中央に従順と見なされているベラルーシがこの問題で異を唱えたのは意外の観もあるが、徴兵および軍配置に関する不満が募っていたことが窺われる。このようなシュシュケヴィチの異論に対しては、シャポシニコフが次のように応答した。極東は人口が少ないが、そこに一定数の兵員を配置しないわけにはいかない。ベラルーシで徴兵された兵士がベラルーシでしか勤務しないというようになるなら、ソ連国防省はどうしたらよいのか。それでは民族軍となってしまう。同盟が存在するからには、軍はインターナショナルでなくてはならない(269)。それ以外にもシャポシニコフとシュシュケヴィチの間で若干の応酬があった(271-272)
 カザフスタンのナザルバーエフは、われわれは確固として単一軍維持の立場に立っている、経済的観点からも独自軍創設はありえない、民族親衛隊は別としてとにかく単一軍を支持すると述べた後、フォーキン(ウクライナ首相)に向かって、ウクライナの独自軍に関する決定はわれわれを不安にさせる、政治情勢からやむを得ず採択したのかもしれないが、これは他の共和国にとってよい前例とはならない、と呼びかけた(263-264)。
 カリーモフも、われわれは単一軍に賛成だときっぱり言う必要があると述べたが、軍人の生活保障(賃金、食糧)に関する情報が不足していること、軍内での兵士の死亡数が平時にしては異常な規模にのぼっている〔おそらく新兵いじめのことを指している〕といった苦情を表出した(265-266)。キルギスタンのアカーエフ、タジキスタンのイスカンダロフ大統領代行、トルクメニスタンのニヤゾフらはみな単一軍維持に賛成の態度を示した(268-269)。
 ムタリボフは単一軍賛成の態度を表明した後、アルメニアとの関係に触れて次のように述べた。わが領土内では、もう4年間も戦争が続いている。われわれはソ連軍への徴兵義務を遂行しているのに、アルメニアもグルジアも遂行していない。そういう状態が放置されている。アゼルバイジャン人は平和的な人民で、誰とも戦おうとは思っていない。しかし、戦争が仕掛けられている。そのため、独立宣言と同時に軍事力に関する法律を採択せねばならなかった。アルメニアには3年前から不法武装部隊がある。アゼルバイジャンの民族親衛隊を公認してほしい*17。この部隊はソ連軍の予備部隊にもなる(267-268)。
 このムタリボフ発言に関してゴルバチョフは、われわれはエリツィン、ナザルバーエフとともに〔ナゴルノ=カラバフに関する〕和平を仲介した*18、もし共和国軍形成に進むなら高くつくことになるだろう、エリツィンとナザルバーエフの線で問題を解決せねばならないと述べたが(274)、ムタリボフは納得せず、以下のような応酬が続いた。
 (ムタリボフ)私は自分の立場を固持しなくてはならない。というのも、〔共和国の〕最高会議に反対することはできないからだ。〔共和国の〕法律が採択されたからには、それを無視することはできない。
 (ゴルバチョフ)分かった。あなたの説明を記録にとどめよう。しかし、あなたもわれわれの懸念を理解すべきだ。
 (ムタリボフ)わが共和国では噂が広まり、精神異常状態となっている(275)。
 この応酬は、アゼルバイジャン共和国内で対アルメニア強硬派の圧力が高まって、ムタリボフ政権を拘束していたことを物語る。
 軍の問題に関して独自の立場に立っていたのはウクライナだが、フォーキン首相の発言は共和国独自軍の問題には触れず、職業軍化および集団安全保障システムに関するエリツィン発言に賛成と述べるにとどまった(269)。その後で、ゴルバチョフがウクライナ最高会議のいくつかの決定〔共和国軍形成を指す〕の効力停止問題を取り上げると、フォーキンは取り消しは受け入れられないと表明した。ゴルバチョフは、第5回人民代議員大会の単一軍に関する決定と矛盾するウクライナ最高会議の軍に関する決定を見直すよう勧告するという多少和らげられた表現を提案し、これが採択されることになった(278)。
 全体として、この討論ではエリツィンがシャポシニコフ支持を表明したのをはじめとして、多くの共和国代表が単一軍維持の態度をとり、その限りは大まかな合意があるかの様相を呈した(唯一の例外たるウクライナもそれほど強硬な態度を表出してはいない)。他面、シュシュケヴィチやムタリボフの発言に見られるように、同盟維持派=単一軍維持派の共和国からも各種の異論が出されたことは、論争の構図を複雑化させた。上で触れた諸問題の他、軍民転換問題、武器販売問題、過渡期における軍事力の地位に関する条約などといった論点をめぐっても、入り組んだ論争が展開された。
 種々の不一致をはらみながらも、とにかくシャポシニコフ報告が一応承認された後、バランニコフが内務省に関する報告を行なった(テキストは本巻の付録に収録)。彼は犯罪の顕著な増大について説明して、犯罪との闘争における共和国間調整の必要性を説いた。治安出動で大きな役割を果たしていた内務部隊の個々の部分は共和国に移行するものとされた(467-469)。内務省問題、および関連して検察の役割をめぐって、カリーモフ、エリツィン、ムタリボフらから若干の異論が提起されたものの、概してそれほど大きな論争を引き起こすことなく、この議題は終了した。
 
【11月4日の国家評議会(その3)】
 この会議の最後の議題となったパンキン外務大臣の報告およびそれをめぐる討論は相当白熱したものとなった。その背景として、エリツィンはこの数日前の演説でソ連外務省の規模は現在の10分の1にすることができると語って、ソ連外務省を解体に近い状況に追い込み、外交活動の大半はロシア外務省が握るという考えを示唆して、大きな反響を呼んでいた(『国家の解体』2041頁)。パンキンは8月クーデタ反対の態度をとった数少ない外交官として、自らが率いるソ連外務省が「民主化されたソ連」の外交を担うものと考えていたから、それをほとんど無に帰させようとするロシア政権の動きには抵抗を示した。他面、外務省の活動改革および規模の縮小自体は彼も必要と考えており、このときの討論は複雑な様相を呈した。パンキンの報告および討論について、旧稿「ソ連解体の最終局面」119-121頁ではグラチョフの回想に基づいて一通り記述したが*19。本巻に収録されている速記録はそれよりも詳しいものなので、やや立ち入って紹介する。
 パンキンはその報告でおよそ次のように述べた。ソ連の国防省、外務省、内務省、治安機関は8月クーデタ時に信用を失墜したが、第5回臨時ソ連人民代議員大会決定でそれらは大統領と国家評議会の直接指導下に置かれることとなった。ソ連の国家機関の8割を廃止することになったが、国防、外交、治安の3領域は分割できないということが確認された。ソ連外務省存続の必要性については、エリツィンも〔第5回〕人民代議員大会での発言や国家評議会へのメモで認めた。ソ連の法的継承者たる我が国〔主権国家同盟を指す〕には、同盟および主権諸国家の利益を統合する単一の外交政策が必要だ。経済の破局的状況の中で、外国からの支持と援助が不可欠だが、単一の外交政策こそがそれを促進する。ソ連は約1500の国際条約・協定で種々の国際的義務を負っており、それらを今後も遵守するこそが、国際社会で生きていく上で不可欠な信頼を保証する。また、世界大国として、〔中東や旧ユーゴスラヴィアでの〕和平活動も展開しなくてはならない。国連安全保障理事会常任理事国としての義務、グローバルなエコロジーその他の問題、NATOや欧州共同体との関係、諸外国との国交――これらがソ連外務省の機能だ。ソ連外務省の規模の3割削減を提案する。貿易独占廃止に伴い、通商代表部はソ連貿易省とともにその役割を終えた。大使館や総領事部の規模も、そこに配置されていた軍およびKGB要員の排除によって削減する。個々の主権共和国は、特に関係の深い外国との間で外交関係を結び、代表部を設置することができる。われわれの提案を注意深く検討し、然るべき決定を採択してほしい(469-471)。このように、エリツィンの9割減提案に3割減案を対置して、ソ連外務省をスリム化しつつ維持しようとする考えをパンキンは表明した。
 これをうけた討論で、ゴルバチョフは先ず、自分はエリツィンと会って、この問題について突っ込んだ話し合いをしたと述べ、ソ連外務省と貿易省を合同させることについては異論がないことを明らかにした(途中でエリツィンが口をはさんで、「支持する」と述べた)。このように、先ずはあまり紛糾しない論点を確認した後、ゴルバチョフはヤコヴレフの発言を促した(289-290)。
 ヤコヴレフ発言の趣旨は次のようなものである。外交官集団(внешняя служба)は単一でなくてはならない。他面、その中に寄生的要素がかなり含まれていたことも確かだ〔軍・諜報関係者を指す〕。3割減では足りず、4割減の方がよいかもしれない。しかし、グローバルな問題、特に軍縮、とりわけ核軍縮問題への対処は必要だ。領事活動は共和国に委ねることもできる。大使館に民族代表を入れるのもよい。私がカナダ大使だったとき、大使館にはウクライナ共産党やエストニア共産党からの代表がいた。〔ソ連の大使館とは〕別個の大使館を設置するのはうまくない。「社会主義共同体」が存在していた時期には、ブルガリア、チェコスロヴァキア、ハンガリー、ルーマニア、ポーランドの大使館はソ連大使館を本拠としており、彼ら自身の人員は2、3人だけだった。大使館の構成は全共和国の対等性に基づくべきだ(291)。この発言は、3割減ではなく4割減の方がよいかもしれないと示唆する点でパンキン提案から距離を置いているものの、全体としてはソ連外務省の存続擁護論ととることができる。
 続いてカリーモフとムタリボフが南の諸隣国〔イスラーム圏〕との外交における中央アジアやアゼルバイジャンの役割に関する意見を述べ(292-293)、その後、おもむろにエリツィンが立って、長大な演説を行なった。
 エリツィンの発言はおよそ以下のようなものである。私はゴルバチョフおよびパンキンと話し合って外務省再編に関する提案を知り、多くの問題が除去された。しかし、まだ外務省は共和国が国際法主体となったことをよく理解していない。3割減では足りない。それだけでは、〔ソ連〕外務省機構は共和国の「下からの」活動を阻害するだろう。もっと根本的な変化が必要だ。われわれは東欧諸国を失ってしまった。ロシアとブルガリア、ロシアとルーマニア、ロシアとポーランドの関係を新たに打ち立てねばならない。経験を積んだ外交官を尊敬するが、今や多くの人はその立場を変えねばならない。8月クーデタ時に、大半の大使館はクーデタ指導部に従ったではないか。ロシアは財政問題を考慮して、最初から自前の大使館を持とうとは思わない。先ず領事館から始めることとし、大使館はその後だ。他の方面のことはあなた〔パンキン〕に任せる。私は自分の経験で、彼ら〔外務省職員たち〕が共和国の主権に対して保守的な態度をとっていることを知っている。確かに、あなた〔パンキン〕は外国の代表団が来たときに私に丁寧な態度をとった。しかし、残念ながら誰もがそうだというわけではない。在外大使館の全人員を削減しようと言うのではない。しかし、たとえば諜報員は削減できる。通商代表部も〔市場経済のもとでは〕廃止できる。あなた〔パンキン〕は、共和国外務省はソ連予算からまかなわれると言ったが、賛成しない。共和国は自ら外交政策を決定し、財政も自らまかなう。外国大使館における民族代表については、これまで何の政策もなく、偶然的だった。カナダ大使館にウクライナ人がいたのも、政策があったわけではない。私が9割減を語ったのは、まんざら的外れではなかった(293-295)。この発言は、部分的譲歩の要素を含みつつも、かなり強硬なトーンを帯びているようにみえる。末尾の「まんざら的外れでもなかった」という一句は、9割減という直前の発言を擁護するかのようでもあり、かといってその数字に絶対に固執するわけではないかのようでもあり、解釈が微妙である。
 この後、ゴルバチョフがまだ発言者はいるかと問いかけると、カリーモフが、もういない、正しい提案がなされた、われわれは〔パンキン報告を〕支持する、と発言した。それをうけてゴルバチョフは、よろしい、こうしよう、単一の対外関係省(外務省と貿易省を合同させたもの)のコンセプトを準備する、単一の対外政策が必要だと述べて、議論を締めくくろうとした(295)。ここでエリツィンが口をはさみ、〔単一の政策ではなくて〕基本原則だと述べ、 ゴルバチョフはいや政策だと応じて、しばらく応酬が続いた。ゴルバチョフは〔ソ連外務省の〕構造の改変や人員の削減は必要だと認めて、次のように続けた。中国との関係ではカザフスタン、トルコとの関係ではアゼルバイジャン、ポーランドとの関係ではベラルーシ等々の〔ソ連外交への〕参加が必要だ。ロシアはもっと多くの国の大使館に人を送ることになるだろう。こうして古い外務省の閉鎖性は打破される。このようにいくつかの譲歩によってエリツィンをなだめつつ、彼は11月12日の国家評議会でコンセプトの主たる輪郭を確定することにしようと提案した(295-297)。この提案自体への正面からの異論はなかったが、決定を具体化する国家評議会の日取りは12日よりも後でよいのではないかという声が出た。若干のやりとりの後、ゴルバチョフは、12日案を支持しているのは私しかいないようだ、それでは14日にしよう、パンキンとヤヴリンスキーはその日までに提案を作成することと指示して、議事を締めくくった(297)。
 このように討論を追ってみると、旧稿「ソ連解体の最終局面」119-121頁およびそれをうけた『国家の解体』2044-2045頁の記述は、結論的に大きく間違ってはいなかったものの、妥協の要素をやや過大に見積もっていたような気がする。グラチョフやパンキンの回想はエリツィンがソ連外務省の存続を認めたという側面に力点をおいた記述をしていたが、エリツィンの長大な発言はできるだけ中央を追い詰めた上で辛うじて妥協を成立させるという感じのもので、自己の力を誇示しようとする狙いを秘めていたように見える。ゴルバチョフ、グラチョフ、パンキンらは内心ではそのことに気づいていたのかもしれないが、エリツィンの歩み寄りの側面をより重視したいという心情があったのかもしれない。
 この日の国家評議会では、最後に、近く迫った11月7日に革命記念日の式典を行なわないということについて若干の意見交換があった(298-299)。この問題については、「ソ連解体の最終局面」121頁および『国家の解体』2045頁でグラチョフの回想に依拠しつつ簡単に書いた。本巻にある討論記録はそれよりも多少詳しいが、どの発言も断片的で、趣旨がとりにくいので、ここでは立ち入らないことにする*20
 
【11月5日から12日まで】
 本巻ではこの後、ゴルバチョフと世界銀行総裁プレストンとの会談(11月5日)、アメリカの国防次官アトウッドとの会談(同日)、アメリカの駐ソ大使ストラウスとの会談(11月6日)の記録が、いずれもゴルバチョフ・フォンド・アルヒーフから採録されているが、これらには触れないことにする。
 11月9日には、チェチェン=イングーシへの非常事態導入に関するエリツィンの大統領令をめぐって、ゴルバチョフとチェルニャーエフが会話した内容がチェルニャーエフの日記(翌10日の記載)から引用されている。この日記は既に公刊されていて初出ではないし、その経緯に関する『国家の解体』2129-2130頁の記述を変えるものではないので、ここでは立ち入らない。
 11月12日には、ゴルバチョフの補佐官および顧問たちとの会合があり、その記録がゴルバチョフ・フォンド・アルヒーフから採録されている。主な内容は、エリツィンとロシア政権がソ連省庁乗っ取りに動き出しているという情勢への対応である。この動きの本格化を象徴するのは11月15日および28日の一連のロシアの決定だが(『国家の解体』2047, 2050-2051頁)、それに先だつ動きが既に始まっていることを見据えつつ、ゴルバチョフは次のように述べた。エリツィンの一連の大統領令にはエネルギーがある。だが、同時に、経済共同体のコンセプトを投げ捨てるようなものもある。エリツィンのアプローチへのオルタナティヴを出す必要がある。喧嘩を始めて経済共同体を解体させてしまうことのないよう、慎重に進まねばならない。11月25日には同盟条約の仮調印に進む。もしエリツィンの取り巻きが、他の共和国なしでやっていけるという方向にエリツィンを突き動かすなら、破滅だ(341-343)。ここにはエリツィンを敵に回すことを避けながら同盟条約調印に進みたいという願望があらわれており、そのためには「エリツィンの取り巻き」〔ブルブリスとそのチームを指す〕とエリツィンを切り離すことが必要だという考えが反映している。
 同じ12日にゴルバチョフの著作『8月クーデタ』の刊行記念会がもたれ、また13日には、アメリカの農業次官クラウダーおよび大統領補佐官ヒューイットとの会談があったが、これらについてはここでは立ち入らない。
 
【11月13日、労働組合代表者たちとの会談】
 本巻の最後に収められているのは、11月13日に行なわれたソ連労働組合総連合(Всеобщая конфедерация профсоюзов СССР)の代表者たちとゴルバチョフの会談の記録である(ルガニの速記録からの収録)。ソ連労働組合総連合とは、かつての全ソ労働組合中央評議会(ВЦСПС)がペレストロイカ期の組織改革を経て衣替えしたものであり(1990年10月の第19回労働組合大会決定)、若干の変容をこうむったものの基本的には既存の公認労働組合の延長上の組織である。変化の要素は、共産党および国家からの独立性をうたうようになったこと、各共和国ごとの労働組合組織の自立性を尊重して、それらの連合体という体裁をとった点にあった。そうした変化を反映して、ペレストロイカの中で新たに登場した独立労働組合連合の代表者もこの会談に参加している。彼は、シチェルバコフ(ソ連労働組合総連合議長)だけが労働組合を代表しているわけではない、党の独占はなくなったが、今や〔労働組合の〕独占もなくすべきときだと発言して、場内が騒然となり、ゴルバチョフが静粛を呼びかけるという一幕があった(396-397)。
 それはともかく、ゴルバチョフはこの会合で、翌日の国家評議会で同盟条約案が第一読会として審議されることに触れて、次のように述べた。明日は重要な日だ。エリツィン、ナザルバーエフ、カリーモフ、シュシュケヴィチ、タジキスタン等々はみな同盟国家維持に賛成しているが、彼らがその立場を変えないかどうかは分からない。ウクライナは奇妙な決定に縛られて、大統領選挙までの間、同盟条約審議に参加しないということになっているが、どうなるかは分からない。諸君〔労働組合〕は各地の状況を知っているのだから、この問題に関して私を助けてほしい。同盟国家が維持されないなら、統一市場が破壊され、経済は崩壊する。共和国間経済委員会がロシアと協力して、価格自由化後の方策について総合的な対策を立てるべきだ。さもないと大混乱が起きる。(ここで会場から、既に混乱しているという声が発せられた)。これが3度目だ。最初はルィシコフ政府のもとでの価格改定提案、2度目はパヴロフ内閣のもとでの価格改革だが、いずれも市場を混乱させた。そして今度だ〔ロシアの価格自由化構想を指す〕。またしても大混乱となろうとしている。そこに労働組合の役割がある。私は社会契約の構想を支持する。それを結ぶのは私ではなく、あなたたちだ。共同して協定を結ぶべきだ。単一経済空間を維持するために経済条約が必要であり、そのために政治的問題の解決が必要とされる。『トルード』紙(労働組合の新聞)はこのことを勤労者に呼びかけてもらいたい(406-408)。
 この会議のことは従来あまりよく知られておらず、『国家の解体』でも触れなかったが、ゴルバチョフ演説の背後の事情を推測するなら、経済改革に伴う価格自由化が不可欠となっている中で、これまでの価格改革案が大衆からの反撥をうけて何度も挫折してきた経験に照らして、社会契約による合意を労働組合を通して確保することが大きな狙いだったものと考えられる。また、経済政策を担う政府もそれと交渉関係に立つ労働組合も共和国ごとへの分散を強めている状況の中で、労働組合総連合を通して共和国間協調を呼びかけることももう一つの狙いだったように見える。労働組合にそれに答えるだけの力量があったかは疑問だが、とにかくゴルバチョフとしては国家評議会における同盟条約交渉と並んで、それを背後から支援してくれるかもしれない労働組合の協力に期待を託していたということのようである。
 
     *
 
 以上、ゴルバチョフ著作集第29巻の主要部分を一通り紹介してきた。見てきたように、この巻でカヴァーされているのは1991年10月11日から11月13日まで、つまりほんの一ヶ月ほどである。年末のソ連解体およびゴルバチョフ退陣まではあと1ヵ月半であり、第30巻でそこまでいくのか、あるいは第31巻まで必要とされるのか微妙なところである(もともと著作集の刊行が始まった時点では、「第1期(1991年まで)全22巻」と予告されていたが、それを相当上回る冊数となる)。このところ刊行ペースが大分落ちており(前注3参照)、ゴルバチョフ本人の健康状態やゴルバチョフ基金の財政状態如何によっては刊行が停止してしまうおそれもなしとしない。続巻が無事に出るのかどうか、出るとしていつ頃になるか分からないが、とりあえず第29巻の紹介を中心としてこの小文をまとめ、ホームページ上にアップロードすることにした。いずれ続巻が出るなら増補改訂版を書くことになるかもしれない。
 
(2021年4-5月)

*1第29巻は奥付けによれば2020年8月刊となっているが、日本に届いたのは2021年に入ってからのことであり、私が入手したのは拙著『国家の解体――ペレストロイカとソ連の最期』(東京大学出版会、2021年)の最終校正が終わった直後のことだった。
*2たとえば、シャフライらの編集した大部のソ連解体資料集(Распад СССР. Документы и факты (1986-1992 гг.). в 2-х томах. Под общей редакцией доктора юридических наук, проф. С. М. Шахрая. М., 2009, 2016)は、いくつかの重要会議の記録をアルヒーフに基づいて収録しているが、その多くは速記録ではなく単なる議事録であることから、内容はゴルバチョフ著作集よりも乏しいケースが多い。
*3かつては年に数冊出ていたのに対し、第27巻は2017年2月、第28巻は2018年5月、第29巻は2020年8月と、次第に間遠になってきた。
*4塩川伸明「ソ連解体の最終局面――ゴルバチョフ・フォンド・アルヒーフの資料から」『国家学会雑誌』第120巻第7=8号(2007年)105-108頁、『国家の解体』2024-2025, 2038頁。『政治局資料集』(В Политбюро ЦК КПСС...По записям Анатолия Черняева, Вадима Медведева, Георгия Шахназарова (1985-1991). М., 2006; 2-е изд., 2008)、資料集『同盟は維持することができた』(Союз можно было сохранить. Белая книга. М., 1995; Издание второе, переработанное и дополненное. М., 2007)、およびグラチョフの回想(А. Грачев . Дальше без меня...M., 1994)の該当頁については関係個所に注記してある。
*5 М. С. Горбачев. Собрание сочинений. т. 29, М., 2010, c. 11-15. 以下、この巻からの紹介は本文中に括弧でくくって頁数だけを示す。
*6Boris Pankin, The Last Hundred Days of the Soviet Union, (tr. from Russian), I. B. Tauris, 1996, pp. 191-194.
*7おそらくこの項目に対応するのが、1991年12月4日に調印されたソ連の債権・債務継承に関する条約(『国家と解体』2176-2177頁)ではないかと推定される。
*8奇妙なことに、本巻440頁の署名者一覧では、ニヤゾフ(トルクメニスタン大統領)の名が落ちている。全体としてはかなり丁寧な編集を施された著作集における異例な遺漏である。
*9А. Галкин и А. Черняев, (Сост.) Михаил Горбачев и германский вопрос: Сборник документов 1986-1991. М., 2006, c. 648-649.
*10中央ヨーロッパ大学の資料集は、Svetlana Savranskaya and Thomas Blanton (eds.), The Last Superpower Summits: Gorbachev, Reagan, and Bushu Conversations That Ended the Cold War, Central European University Press, 2016, Epilogue, グラチョフの回想は前注4、パラシチェンコの回想は、Pavel Palazchenko, My Years with Gorbachev and Shevardnadze, Pennsylvania State University Press, 1997; 『ソ連邦の崩壊――旧ソ連政府主任通訳官の回顧録』三一書房、1999年、ブッシュとスコウクロフトの回想は、George Bush and Brent Scowcroft, A World Transformed, Vintage Books, 1998)、チェルニャーエフの日記は、A. C. Черняев. 1991 год. Дневник помощника Президента СССР. М., 1997; он же. Совместный исход. Дневник двух эпох. 1972-1991 годы. М., 2008.
*11シャフナザーロフの回想は、Г. Х. Шахназаров. Цена свободы. Реформация Горбачева глазами его помощника. М., 1993
*12これと類似した調査結果がM. C. Горбачев. Жизнь и реформы. M., 1995, кн. 2, с. 582; 『ゴルバチョフ回想録』新潮社、1996年、下、678-679頁でも言及されており、『国家の解体』2013頁で紹介した。
*13ウクライナはこの2日後の11月6日に経済共同体条約に調印した。もっとも、共和国内に異論も残り、論争が続いた。『国家の解体』2078-2079頁。
*14このような名称の省の存在は確認できない。11月14日の国家評議機会決定付録の官庁一覧表は既存の省庁を、@廃止されるもの、A存続するもの、B過渡的に存続するものと分けて列挙しているが、そのどこにもこの省は挙げられていない。Ведомости Верховного Совета СССР, 1991, 50, ст. 1421.あるいは、この決定で廃止された軍事工業委員会(Государственная военно-промышленная коммиссия)のことを念頭においているのかもしれない。
*15ロシア語のнациональный(ナショナル)という形容詞には、元来エスニックなニュアンスが色濃く付着しており、「民族的」と訳すのがふさわしいが、ある時期以降アメリカ英語的な用語法が流入したため、むしろ「国民的」と訳すべきケースもあらわれるようになった。文脈によってニュアンスが異なるので解釈が難しいが、この個所は「国民的」と訳すのが適切と考えた。
*16エリツィンは1991年1月のバルト危機のさなかにロシア独自軍創出の位置を仄めかしたことがあったが、批判を受けてすぐ撤回した。『国家の解体』916, 1018頁参照。
*17アゼルバイジャンは1991年8月30日に独立宣言と同時に民族自衛部隊創設に関する最高会議決定を採択し、10月9日には共和国軍事力法を採択した。『国家の解体』1941, 2073頁。なお、この会議にはアルメニア代表として大統領の代わりに首相が出席していたはずだが(Грачев . Дальше без меня..., c. 118)、アルメニア側からの発言は記録されていない。
*18エリツィンとナザルバーエフによるナゴルノ=カラバフ和平仲介の試みについては、『国家の解体』2074-2075頁参照。
*19その他に、パンキン自身の回想も参照。Pankin, The Last Hundred Days of the Soviet Union, chap. 13.
*20なお、この問題については9月16日の国家評議会でも議論されていた。М. С. Горбачев. Собрание сочинений. т. 28, М., 2018, c. 313-315.簡単な紹介は、塩川伸明『歴史の中のロシア革命とソ連』有志舎、2020年、289頁の注12および『国家の解体』2144頁の注92。