ジョージ・H・W・ブッシュの訃報に接して
 
 
 11月末にジョージ・H・W・ブッシュが亡くなった。アメリカ政治史における彼の位置については然るべき人たちが書くだろうが、国際政治史の観点からは、冷戦終焉過程において彼が演じた役割という問題が落とせないだろう。これは分かりきったようでいて、意外に分からないところが多く残っている。
 ブッシュはレーガンのもとで副大統領を務めていたが、1989年1月に大統領に就任してから数ヶ月の間は、レーガン期の対ソ関係改善をどこまで受け継ぐべきかをめぐって政権内論争があったということが何人かの人たちによって伝えられている(そのため、米ソ交渉は一時的に停滞した)。しばらくして米ソ対話が再開され、年末のマルタ会談と冷戦終焉宣言に至るわけだが、そこに至る経過でも、マルタ自体でも、米ソ間には意見の違いが残り続け、冷戦終焉宣言はきわどいところで辛うじて達成されたもの――そして、その後も不安定性が残る――という印象もある。私自身が詳しく検討しているわけではないが、米ソ首脳会談に関するアメリカ側補佐官による記録とソ連側補佐官による記録には微妙な差異があるように思われる。それだけでなく、米政権内でもブッシュ、スコウクロフト、ベイカーらの間には種々の差異があった。この点と関係して、George Bush and Brent Scowcroft, A World Transformed, New York: Vintage Books, 1999は、あちこちで二人の著者の間の差異が窺える本だが、にもかかわらずこの本が共著として書かれたのはどうしてなのかという疑問が浮かぶ。
 1990年に入ると、ドイツ統一の方式をめぐって米ソ間で鞘当てが続いた。最大の争点は統一ドイツのNATO帰属問題だったが、これをめぐっては当時もその後も膨大な論争があり、それらを整理するのは容易なことではない。結果的にゴルバチョフがブッシュに押しきられたわけだが、ブッシュはゴルバチョフをどう思っていたのか――基本的に好意をいだきながら個別論点で争ったのか、好意は見せかけに過ぎず、依然として「敵」という感覚が残っていたのか――も、まだ解明されきっていない(「敵」というのは強すぎる表現かもしれないが、冷戦終焉宣言を発した後に、なおかつNATOに固執したのは何を意味するのか)。
 1991年になると、ソ連が一つの国家として維持されるかどうかが疑問視される状況の中で、ブッシュは基本的に「改革されたソ連」(国名から「社会主義」の語を削ることが想定されていた)が一つの国家として維持されることを望み、ゴルバチョフを支えようとした。これまで「一つの国家」だったものが分裂してたくさんの核保有国が生まれるかもしれないという悪夢を思えば、それは理解に難くない。8月初頭にキエフを訪れたブッシュがウクライナ独立論に対して自制を促す趣旨の演説をしたのは有名である。もっとも、このキエフ演説に関してはいくつかの行き違いがあり、ウクライナ民族主義急進派による誇張気味の情報がアメリカに伝わって、アメリカ国内でのブッシュの人気低下につながったといわれている。この間の事情については、当時アメリカのモスクワ駐在大使だったマトロックがJack Matlock, Jr., Autopsy on an Empire: The American Ambassador's Account of the Collpase of the Soviet Union, Random House, 1995, chap. XIXで詳しく描いているが、それによるなら、当時ジャーナリズムで広く伝えられたイメージには多分に誤解の要素が含まれていたようだ。
 いずれにせよ、1991年も終わりに近づくと、エリツィンのゴルバチョフに対する政治的優位が強まる中で、ブッシュは徐々にゴルバチョフからエリツィンに乗りかえようとしたように見えるが、その具体的経過はまだ十分明らかになっていない。12月1日のウクライナ独立レファレンダムの少し前には、米政権がウクライナ独立を承認する用意があるとの情報がリークされた。このことはその後の経緯に一定の影響を及ぼしたはずだが、このリークにブッシュがどこまで関与していたのかも気になるところである。12月8日にロシア・ウクライナ・ベラルーシ三国首脳がソ連解体の合意をしたとき、エリツィンはゴルバチョフよりも先にブッシュに電話をかけて、あたかもブッシュの同意が既成事実であるかに装いつつゴルバチョフに通告したが、このときのブッシュの反応についても、関係者の回想間に齟齬がある。
 とにかく、こうしてソ連国家の解体が確定すると、ちょうど次期大統領選挙に向かいつつあった時期だということとも関係して、ブッシュは「われわれは冷戦に勝ったのだ」という宣伝に乗り出した。これはゴルバチョフと表面上友好的だった時期の言説(「冷戦に勝者も敗者もない」)とはまるで異なる態度表明だが、そうした「勝利」意識をいつ頃からいだいていたのかも気になる。この後のアメリカで一挙に広まった「勝利主義(triumphalism)」については多くの人が指摘しているが、その起源をどこに求めるかも大きな問題である(1989年の過程を追いながら、その後の「勝利主義」に触れた稀な文献として、マイケル・マイヤー『1989 世界を変えた年』作品社、2010年)。
 おそらくアメリカ政治の専門家たちによるブッシュ論ないしブッシュ伝のようなものがこれから出てくるだろうが、その際にこうした一連の問題についてもなるべく配慮を払ってもらえればと願う。
 
(2018年12月5日にフェイスブックに書き込んだ文章を微修正した)