三たびコロナ禍(Covid-19)をめぐって(2021年1月)
 
 
 これまで新型コロナ感染症(Covid-19)問題に触れた素人流の思いつきを何度かフェイスブックやホームページに書いてきた。このホームページにアップロードしたものとしては、「新型コロナ・ウィルス感染症(COVID-19)の深刻度の国際比較のために:一介の素人による初歩的な試論」(2020年5月)および「新型コロナ・ウィルス問題再論――当たるも八卦当たらぬも八卦 」(同年7月)がある。後者では、その時点での予測めいた議論を提出してみたが、いま振り返ってみると、この予測には当たった部分と外れた部分とがある。見通しを誤った部分があるのは当然のことであり、どういう点を見落としていたのかを反省することで認識を深めることができるのではないかというのがもともとの狙いだった。きちんとした点検の作業は別の機会を期すとして、とにかく半年前にはこう見えたということを思い起こしつつ、そこでは見えていなかったことを取り込んで考えていくことにはそれなりの意味があるだろう。
 いうまでもなく、私はこの問題についてとりたてて深い見識を持っているわけではなく、マスコミやネット上で飛び交っている各種の情報や論評を眺めながらあれこれと考えているにとどまる。そこには当然ながら玉石混淆の雑多な情報・評論が含まれる。コロナ問題が世間を騒がせ出してから最初の数ヶ月間は、浮き足だった感情論が相当大きな比重を占めていた。しかし、そういう時期が数ヶ月続くうちに、地に足のついた専門家の解説およびそれをきちんと紹介する堅実な議論――ことさらに楽観的でも悲観的でもなく、冷静的で多面的な検討を心がける議論――が増大してきた。そのおかげで、秋頃には、あれこれの感情論に振り回されることはあまりなくて済むような気がしていた(もちろん、まだ分からない部分が大きいが、分からないことは分からないと認めつつ、分かる限りの情報に基づいて対処するしかないという意味で)。ところが、年末以来、再び感染数が急上昇する中で、またしても浮き足立った感情論が氾濫してきたように感じられる。もっとも、何が堅実で信頼できる情報で、何が根拠不足な感情論かを明確に区別する基準があるわけではない。ただとにかく前者に該当すると思われる情報が春よりは増えてきたように思われ、それに基づいて考えるなら、安易な感情論――楽観論と悲観論の両極――に振り回されないでも済むのではないかという気がしている。
 当面の展望としては、今回の緊急事態宣言の予定する措置が中途半端なものである以上、これでもって急速な収束に向かうとは考えにくい。「医療か経済か」あるいは「医療も経済も」といったことがよく取り沙汰されるが、実際には双方の「共倒れ」的な状況がしばらくの間続くのではないだろうか。これはグルーミーな展望だが、それを一挙にひっくり返す秘策のようなものがあるとは思えない。一部には、「これこれの方策(たとえばPCR検査の圧倒的増大とか、これまでコロナを扱っていなかった病院にどんどんコロナ患者を入院させるとか)を採れば万事解決するのに、それをとらないのはおかしい」といった言説も広がっている。だが、それは科学的な根拠を持つ主張というよりも、藁にもすがりたい心理が産みだした幻想だと思われてならない。
 当面の展望がパッとしないとしても、それがいつまでも続くと決まっているわけではない。各種の対策は不十分ではあっても全く無効というわけでもないだろうし、政治家の無策にもかかわらず奮闘する実務家たちの努力のおかげで、時間とともにある程度の改善に向かうことが期待できないわけでもない。季節的要因の大きさについても確定的にはいえないが、冬よりは春・夏の方が収まる傾向が相対的に強まる程度のことはいえるのではないか。ここに付け加えるのがワクチンの接種である。
 当初は、ワクチン開発はそう簡単に進むものではないのだという解説が専門家の間では優勢だったが、いくつかの事情のおかげで、意外なほど急速に開発が進んだようだ。これまでのところ、副反応もそれほど大きくないと伝えられている。もっとも、接種が広がれば広がるほど、実験段階では気づかれていなかった副反応が現われる可能性も指摘されるが、欧米諸国で接種が広がった後に接種を始める日本では、その点に関する情報も増えているだろうから、それなりの対応ができるかもしれない(いわば、遅れに伴う「怪我の功名」?)。ワクチン接種が始まってからも、それを大規模に実施していく上では多くの関門があって、普及にはかなりの時間がかかるようだし、ワクチンの有効性の度合いや有効期間についても未知数の要素が大きいので、過度な期待は禁物だが、とにかくある程度は事態の相対的改善に貢献することが期待される。そうはいっても、年の初頭における感染拡大が十分抑え込まれない状況からの相対的改善だとすると、これでもって万事解決というわけにはいかないだろう。
 もう一つの大きな問題は、オリンピック・パラリンピックの中止か決行かという選択である。とても無理だと考えるのが常識的だという気がするが、政治家たちの間では何が何でも決行に突き進むのだという声が強いとも伝えられる。仮に強引に開催するなら、スポーツの祭典としてはしょぼいものになり、経済効果も期待を大きく下回り、そして外国からの入国拡大に伴って感染が再拡大するという最悪の結果になるおそれがあるが、そうなるかどうかは現段階では未知数というほかない。
 いずれにせよ、今年中の収束は見通せないが、2022年か23年頃あたりまでくれば、完全収束とはいえないまでも、ある程度の落ち着きを見るということが期待される。ただ、それは単純な「コロナ以前への復帰」=「正常化」ではない。この間に蓄積された社会経済的疲弊は相当大きなものであり、その中での格差拡大・社会的分断も深刻な域に達していることだろう。コロナに限らず新たな感染症の続発も予想される中で、デジタル化や非接触型の活動(リモート会議、在宅勤務等)の比重は増大し続けるだろうが、そうした新たな条件への適応可能性の高い人たちと低い人たちの社会的階層分化も無視できない。一時的な収入減補填を超えた職種転換や職業訓練のための補助金も必要とされるし、セーフティネットの拡充も必要だが、そのための財政支出が壁にぶつかる、あるいは赤字国債増発の結果として悪性インフレが生じるなど、種々の困難が待ち受けていそうである。
 「日本はもはや先進国ではない」ということが少し前からささやかれていたが、「ポスト・コロナ時代」においてはそれがより一層あからさまになるのではないか。そのこと自体は驚くに値しないことかもしれないし、大騒ぎせずに冷静に受け入れた方がよいという考えもある。だが、それを受け入れまいとする心理が作用して、諸矛盾の原因を他者に求めるヘイトや差別などの病理的な現象が暴力的な要素を伴って増大するのではないかとも予期される。そういった種々の困難をどのように切り抜けていくのか、具体的なシナリオは描けないが、とにかく新しい種類の矛盾と危険に満ちた時代がやってきそうな気がする。
 とりあえずの予想を一応書いてみたが、もちろん未来予想というものは不確定性に満ちたものであり、この通りになるだろうなどと確信しているわけではない。一定の時間を経た後にここに書いたことを振り返って、どこにどのような欠落があったのかを反省する手がかりが得られるなら、それでよしとするしかない。
 
(2021年1月28日にフェイスブックに投稿した文章をごく僅かに補正)。