《書評》猿谷弘江『六〇年安保闘争と知識人・学生・労働者*1
 
 
     一
 
 六〇年安保闘争は今から六〇年以上前の出来事であり、当時の直接的記憶を持つ人はごく少数になりつつあるという意味で、完全に「過去」に属する主題である。私のように、今や「高齢者」に数えられる世代の人間でも、当時はまだはっきりとした社会意識をいだいておらず、その時点での直接的な知識は皆無に近い。やや具体的にいえば、当時小学校六年生だった私にとって、世の中に「政治」というものがあるらしいということをおぼろげに知った最初の出来事が六〇年安保だった。その時点での具体的知識はほとんど無に等しいが、何か大きなことがあったらしいという意識だけは残ったから、もう少し長じてから、各種の同時代文献を読みあさったり、先輩たちから聞きかじったりすることで、当時の感覚を間接的に吸収し続け、その結果、自分が直接体験したことではないにもかかわらず、ある程度身近な感覚が生まれた。これに対し、もっと若い世代になると、そうした間接的な感覚自体が縁遠いものであり、そもそも接する機会がないのが普通だろう。
 本書の著者は、かつて日本にも大規模な社会運動があったということ自体を想像できないような時代に育ったようで、アメリカ留学中に一時帰国した二〇〇八年には、六〇年安保だけでなく社会運動というもの全体が日本社会では忘れ去られた存在だったという。それが多少変化したのは二〇一一年の「三・一一」を契機に社会運動がある程度高まり始め、二〇一五年には安全保障関連法案をめぐる抗議行動が展開されてからのことだったと書かれている。アメリカで社会運動研究を学んだ著者は、帰国時に六〇年安保について調べようとしはじめたが、最初のうちは「何でそんな主題に関心を持つのか」と不思議がられる状況であり、メディアや公的言説の中に六〇年安保が登場することは滅多になく、かつての運動参加者の間でもほとんど語り継がれていなかった(一〇‐一一、一五‐一六頁*2。そうした全般的無関心の中で戸惑いながら、関係者を探し出して、多数のインタビューを積み上げて書き上げたのが本書のもととなる英文の博士論文であり、本書はそれを全面的に書き改めた作品だという。
 いま述べたことにも示されるように、社会運動という主題への関心や知識は、国と時代によって相当大きく異なる。日本以外の諸国では、あれこれの社会運動がいろんな形で展開され、大衆集会、デモ、ストライキなどがありふれているケースがわりと多いようだが、一九七〇年代から二〇〇〇年代にかけての日本では、およそデモやストがある程度以上の規模で行なわれることが珍しく、たまに起きると奇異の目で見られるといった状態が続いていた。そういう時代に育った著者がアメリカで社会運動研究に開眼し、それを日本でも実践してみようと思って一時帰国してみたら、最初のうちは無関心の壁が厚かった。これは一九七〇年代以前に自己形成した世代とはまるで違う出発点から研究を始めたということを意味する。私自身は一九六〇年代後半から七〇年代前半あたりが青春時代だったから、著者との隔たりは相当大きい。そうした隔たりを意識しながら、だから話が通じないと決めつけてしまうのではなく、隔たった世代の間でどのようにして対話が可能かという問題を念頭において本書を読んだ。この書評も、そうした異世代間対話の実践例のつもりである(本稿で著者の記述に即した感想や批評だけでなく、ところどころで私自身の記憶や知識にも触れるのは、自分の方が正しいことを知っていると言いたいからではなく、異なったパースペクティヴからの見え方を対比してみたいという考えによる)。
 序章を読んでいて印象的だったのは、インタビュー調査を進める中でいくつかの意外な事実にぶつかり、当初の予想が外れ、むしろ予定外のことを聞き取る機会が多かったと記されている点である(三六‐四一頁)。アメリカ留学中に一定の理論および研究手法を身につけ、その応用のようなつもりで事例研究を始めたら、インタビューでの話が予定外の方向にずれていったこと、しかもそのことに気づいたのは調査が終盤に近づいてからだったことが記されている。これは率直な述懐であると感じる。本書のスタイルは、社会学理論を重要視し、それを実証分析に適用するような感じで書かれているが、実際にはそこからはみ出る部分がかなりあり、むしろそうした部分こそが面白いと感じさせられる。
 
     二
 
 本書の骨子は、六〇年安保闘争の主体を知識人、学生、労働者という三種類に分け、この三者はあまり共通するものをもたず、それぞれに異なったフィールドで運動を展開していたという観点から、それらを論じるという形で組み立てられている。著者は最初からそういう観点をもっていたわけではなく、調査途上でぶつかった意外な発見からそのような観点に導かれたようだ。事前にもっていた分析枠組みに固執することなく、調査過程での発見を大事にして、新たな観点を構築する著者の姿勢は柔軟なものであり、共感を持って読むことができた。もっとも、当時のことに関する実感的記憶をもつ人たちからすれば、これら三者があまり多くのものを共有しておらず、ほとんど別世界のような感じで活動していたというのはそれほど驚くべき新発見ではないのではないかという気もする。ここには世代による感覚のズレのようなものが関係している。それは善し悪しの問題ではなく、異なったパースペクティヴからの見え方をつきあわせることで対話への道が開かれるのではないかと感じる。
 第一章は三種類の主体について論じる前の予備的議論であり、戦後日本における社会運動の空間の歴史的発展が概観されている。この部分は、ある程度事情に通じた人にとってはわりと常識的な内容であるような印象を受けるが、アメリカで大学院教育を受け、最初の博士論文も英語でアメリカ人読者を念頭において書かれた以上、ある世代以上の日本人読者にとっては常識的であるような事柄も一応まとめておく必要があったのだろう。
 個別の点として、戦後日本の民主主義は占領軍によって一方的に強要されただけではなく、日本の側にもそれを受け入れる素地があったと指摘する際に、在米経験をもつ人たちを特に挙げている点が目を引いた(六八‐六九頁、関連して一一八頁も参照)。書かれていること自体は妥当な指摘だが、民主主義の自発的受容の契機を在米経験者ないしアメリカ哲学を学んだ人たちにのみ見ているのは、やや視野が狭いのではないかという気がした。この辺も、いかにも「アメリカからの視点」と感じさせられるところである。
 続く第二章から第四章にかけてが本書の中心部分であり、それぞれが知識人・学生・労働運動にあてられている。
 先ず第二章では戦後知識人の公共的活動が主題となっている。ここでは、丸山眞男、竹内好、鶴見俊輔、久野収、清水幾太郎ら、知名度の高い知識人が多数取り上げられ、「オールド・リベラリスト」と区別される「進歩的知識人」の群像が描かれている。中でも、久野と清水の二人を詳しく取り上げている点が一つの特徴である。全体としてこの章は有名な人たちを中心としているため、わりと常識的な感じもするが、清水論にはある程度の新味が感じられる。他方、久野を「周辺的な位置にいた知識人と見なされ」としている(一四一頁)点は、私の感覚とは異なる。久野は鶴見と並び立つ存在であり、丸山ほどではないにしても竹内、清水らと肩を並べるくらいの位置にあったというのが私の感覚である。
 小さな点だが、進歩的知識人の多くが六〇年安保は成功だったと総括したと捉えて、敗北論を唱えた清水と対比している(一四〇頁)のも気になった。というのも、丸山の感覚はそのどちらとも異なっていたように思われるからである。丸山は安保闘争高揚絶頂時の座談会(一九六〇年五月二七日)で「長い宿酔の時期がやってくる」との予見を述べ、数年後にそれを自ら引用して、「そのあとの宿酔のひどさは私の予想を上まわった。……私はあの闘争に一市民として参加したことにいまもって悔いるところはないが、右のような宿酔現象のひどさには少なからず失望した」と書いている*3。この発言は、闘争絶頂時の高揚感や「成功」感覚を彼は醒めた目で眺めていたことを物語っている。世間一般では「戦後民主主義のチャンピオン」のように見られていた丸山は、内心ではそれに距離を置き、浮かれてはいられないという感覚をいだいていたのであり、その後の彼が現実政治へのコミットから撤退することの背景をなすように思われる。
 第三章では学生の運動が取り上げられているが、そこにおける重要なポイントは、「民主化運動」と「共産主義運動」という二つの別個のフィールドがあったという主張である。両者が完全に無縁だったとされているわけではないが、どちらかといえば別個だったという側面が重視されている。この点は本書全体の評価とも関わるので、後で改めて立ち戻ることにする。
 この章の第2節以下では、一九五〇年の共産党分裂、五五年の六全共(第六回全国協議会)、五六年のスターリン批判とハンガリー事件といった一連の経過の中で、学生の共産主義運動のフィールドで大きな変動が起き、ブント(共産主義者同盟)や革共同グループが生じたことが論じられている。この経過は比較的よく知られた話であり、ここでの叙述は全体としてやや平板という観もあるが、個別の事項――典型的には、一九五八年の「六・一」事件――については、インタビューに基づいた詳しい記述がある。著者は「六・一事件」は新左翼の歴史では重要なターニング・ポイントとして後々まで言及されていたというのだが(一六八頁)、私はこの出来事について全く聞いた覚えがない。新左翼系の人たちの中でも、これを後々まで語り継ぐべき重要事件として記憶していた人たちと、そうではない人たちがいたということになる。
 著者の見方の一つの特徴は学生と知識人の乖離を強調する点にあり、学生運動の活動家たちは知識人の影響から自律していたとか、文献を読むとすればマルクスやトロツキーなど外国の著作であり、日本の知識人の影響が入る余地はほとんどなかったと論じている(一七六、一七九頁)。そういう面がなくはないとはいえ、個人差を無視してこのように概括するのはいささか乱暴ではないかという印象を受ける。当時の大学進学率は後の時代のように高くはなかったから、学生たちのなかには、どちらかといえば知識人に近い、いわばその予備軍的な性格を帯びていた人たちが少なくなかったはずである。そして、どういう人がどういう文献を読んでいたかは個人差が大きいから、こういう問題に関して特定の人々へのインタビューに依拠して論じるのは、インフォーマントの偏りに由来するバイアスを大きくするおそれがある。
 学生たちと知識人たちの距離は、個人差だけでなく、どの潮流に注目するかによっても異なる。本書で最も重要な位置を割り当てられているブントの場合、その主たる担い手は学生共産党員たちだったから、年長の知識人(主に大学教授たち)とは、間接的以上の接点は小さかっただろう。これに対し、革共同諸派の場合、もう少し年長の左翼思想家・活動家たちが大きな位置を占めていたのではないかと思われるが、彼らは丸山眞男、清水幾太郎、久野収等々の「大物」知識人とは異なる「一匹狼」的な知識人だった。そして、「構造改革派」の場合にはかなり多くの知識人たち――佐藤昇、井汲卓一、今井則義、長洲一二その他多数――が重要な役割を果たし、学生運動との接点もかなりあったはずだが*4、この潮流については本書ではごく簡単な言及だけにとどまっている(一七三頁)。こういうわけで、学生たちと知識人たちの距離ないし接点の大きさは、どの潮流に注目するかで異なるが、本書が接点の小ささを強調するのはブントに最大の力点をおいていることと関係している。それはそれでよいのかもしれないが、どの部分に着目するかによる違いという問題にやや無自覚ではないかとの懸念も感じる。
 第四章では労働運動が主題となっている。この章の前半ではナショナル・センターの戦後史、とりわけそこにおける総評の政治闘争が概観されているが、後半では新左翼労働運動に焦点が絞られている。これはかなり特異な絞り方である。第二、三章ではそれぞれ知識人および学生運動のうちの主流的な部分が詳しく論じられていたのに対し、この章では、主流から外れた少数派が主題となっているわけである。
 このような問題設定には、それなりの意味がないわけではない。従来あまりよく知られていなかった少数派の運動を取り上げることは、それだけでも有意味な作業だと考えることができる。また、前章で論じられた新左翼的学生運動と本章で論じられる新左翼的労働運動は、ともに「新左翼」という意味での共通性があり、ある程度までは交差する部分もあったが、その交差はかなり限られていたという指摘が本章の主たる内容となっている。これは六〇年安保闘争を担った学生運動と労働運動があまり大きな共通性をもたず、むしろ異なったフィールドで運動を展開していたという著者の主張を裏付ける意味がある。それはそれでうなずけるのだが、著者がインタビューしたのが特定の少数派活動家であることは、その発見の代表性に関する疑念を呼び起こす。
 より具体的に見るなら、本章で主要に取り上げられているのは、大阪中央電報局、三菱重工長崎造船所、日本共産党港地区委員会の活動家たちである。そして、叙述の詳しさは、いま挙げた順番になっている。それは、著者がどういう人たちにインタビューしたかによって左右されている観があり、そこには偶然性の要素が関係しているように思われる。この種の研究においてそうした偶然性はある程度まで不可避であり、やむをえないともいえるが、問題はそのことに関する自覚が十分でないように見える点にある。私自身は、これまた偶然的事情によって、上記三者について、本書とは逆の順の詳しさで知っていた。だからといって、私の方が事情に通じているなどと主張するつもりはない。あくまでもこれは偶然的事情の差異に過ぎない。ただとにかく、本書における日本共産党港地区委員会の活動家たちに関する記述(二四五‐二四六頁)はほとんど中身のない短文にとどまっていて*5、大阪中央電報局に関する詳しさと対照的である。そうしたアンバランスはたとえ不可避のものだとしても、それでもって全体像が描けるのだろうかという疑問を呼び起こす。
 終章では、それまでの記述がまとめられ、知識人、学生、労働者はそれぞれ別個のフィールドで運動していたという主張が再確認されている。もっとも、仔細に見ると、著者の記述には微妙な揺れがあるようにみえる。小さな例だが、一つの段落の中に、「それほどの関心をもたない」という表現と「ほとんど関心がなく」という表現が並んでいる個所がある(二六八頁)。著者はこれらをほぼ同じようなことと考えているのかもしれないが、「それほど……ない」という場合には「ある程度はあった」ということを含意するのに対し、「ほとんど……ない」という場合にはむしろ「なかった」に近いニュアンスとなり、両者は語感として相当隔たるはずである。これはただ単なる語感の問題に過ぎないかもしれないが、フィールド間の差異をどの程度大きく見積もるかという問題に関わる。そのことを念頭において終章を丁寧に読むと、「それぞれに形成されていた運動のフィールド(または空間)が、歴史的時間と物理的空間において「たまたま」といえるタイミングで「接合(conjuncture)」した」とか、「複数のプロセスが「たまたま」歴史的時間の一点で重なりあうことで、一つの現象として立ち現われてくる」という個所があることに気づく(二六七、二八〇頁)。この記述自体は妥当だが、もともと別個だったものが「たまたま」接合したり、重なり合ったりするのはどのようにしてだろうかという疑問が湧く。「たまたま」にせよ、とにかく接合するというのは、限定的にもせよある程度の共通性や接触点があったからだろうし、また接合を通して何らかの変容が生じるのではないかという疑問も湧くが、そうした点に本書は一切立ち入っていない。
 「呉越同舟」という言葉がある。この言葉は、通常「同舟ではあっても呉越だ」という側面に力点をおいて使われる。だが、これを引っ繰り返して、「呉越でありながら、ともかく同舟だ」という側面に力点をおき、呉も越も同じ舟に乗っていれば、知らず知らずのうちに相互接触・相互影響関係が生じ、ある種の共通性を持ったり、その過程でそれぞれの変容が起きたりすることもあるという風に考えることもできる。異なるプロセスが「たまたま」接合するというのはそういうことではないだろうか。小杉亮子の本書への書評は、「六〇年安保闘争に関わった知識人、学生、労働者がどれほど異質であったとしても、たまたま同じ場所にいたり、たまたま同じできごとに関わったりすれば、ひととひとのあいだには何かが生じるもののではないだろうか」、「異質な運動のあいだにも接触点はあった」と書いているが、これもそうした考えを示唆しているように思われる*6
 
     三
 
 以上、各章ごとにいくつかの感想を書きつらねてきた。以下では、特定の章だけに関わるというよりも全体に関わるいくつかの問題を取り上げて検討したい。特に考えてみたいのは、@民主主義と共産主義の関係、A暴力について、B六〇年以降への展望、C資料の扱い方の四点である。
 先ず民主主義と共産主義の関係について。本書では、「民主主義」ないし「民主化」といった言葉が一つのキーワードのように頻出するが、それは共産主義とはおよそ相容れない対立概念として捉えられている。今日の状況でそのように考えられるのは自然であり、著者はそれをいわずもがなの常識と見なしているようにみえる。そのこと自体をとやかくいうつもりはないのだが、戦後初期の日本を考える場合、実は共産主義の側も民主主義を標榜し、「民主主義」「民主化」というキーワードをシンボルとしていて、いわば同じシンボルをめぐるヘゲモニー争いがあったのだという事実を踏まえないと、歴史理解としては不十分なものとなってしまう。
 今では忘れられているかつての知的状況を思い起こさせる一つの手がかりとして、C・B・マクファーソン『現代世界の民主主義』(岩波新書、一九六七年)という本がある。著者はカナダの政治学者で、マルクス主義に近いといわれることもあるが、明確にマルクス主義者と自認しているわけではなく、ある時期にはかなり大きな影響力を持っていた。この本は民主主義の類型として、「非自由主義的民主主義――共産主義型」、「非自由主義的民主主義――低開発国型」、「自由主義的民主主義」を挙げているが、それらのうちどれかが「本物」「偽物」と割り切るのではなく、それぞれの特徴を多角的に比較する形で論が進められている*7。こうした書物が岩波新書として刊行され、広く読まれたということは、「共産主義(あるいは社会主義)タイプの民主主義」と「資本主義経済を前提したリベラル・デモクラシー」のどちらが「民主主義」と呼ばれるにふさわしいかというヘゲモニー争いがあったということのあらわれである*8。今日では、そのヘゲモニー争いに決着がつき、民主主義といえばリベラル・デモクラシーしかありえず、「共産主義(あるいは社会主義)タイプの民主主義」などおよそ考えることもできないという理解が一般化している。現在の時点でそう考えるのは自然だが、歴史を理解するためには、そういう通念が「常識」として定着していなかった状況を想起しなくてはならない。著者の場合、「常識」定着後の時代に育った上に、長期留学先のアメリカではもともとその「常識」が強固だったという事情もあって、今日の「常識」とはかけはなれた歴史的状況があったことを想像するのが困難だったのだろう。
 戦後日本における「民主主義」シンボルをめぐるヘゲモニー争いは、いくつかの例に端的に象徴される。たとえば、民主主義科学者協会(略称、民科)という団体が一九四六年に創立され、一九五〇年代には相当広い範囲の学者たちを糾合し、日本の知識人全体に強い影響を及ぼしていた。この「民科」は共産党の影響下にあった団体であり、共産党の盛衰および党と知識人たちの軋轢の中で次第に衰退し、少数の後継団体――代表的には民科法律部会――を除いて全体として衰退していった。こうして、ある時期以降、民科の存在自体が忘れられる状況が生まれたが、ともかく一九五〇‐六〇年代にはかなり有力な団体であり、「進歩的知識人」の中での存在感も大きかった。もう一つの例として、民主青年同盟(略称、民青)はいうまでもなく共産党の青年団体だが、このネーミングも自分たちが民主主義の担い手だという意識を反映している。他方、労働運動における産別民主化同盟(略称、民同)は労働組合内の共産系運動に対抗する狙いを込めて一九四八年につくられた運動体である。このように、一方における「民科」「民青」、他方における「民同」は、ともに「民主主義」「民主化」をシンボルとして、そのシンボルをどちらが我が物とするかをめぐってヘゲモニー争いを繰り広げていた。このようなヘゲモニー争いは戦後日本史の重要な局面をなしていた。今日の「常識」をそこに投影して、民主主義といえばアメリカからもたらされた資本主義的なリベラル・デモクラシーしかありえないとしたのでは、当時の状況を内在的につかむことはできない。
 このことを念頭において、本書の記述を見ると、あちこちで気になる個所が目にとまる。たとえば一一六‐一一七頁に「人民戦線」の起源の説明があるが、これはもっぱらフランス知識人たちがつくりだしたものという描き方になっている。人民戦線の一つの本場がフランスにあり、そこにおいて特定政党に関わらない知識人たちが大きな役割を果たしたのは事実である。しかし、そうした運動が起こりうるためには、それまで相互に敵視しあう関係にあったフランス共産党とフランス社会党が接近して統一戦線を形成したという事実が前提として必要だった。フランス共産党の方針転換の起源をフランス国内の大衆運動の圧力に求める見解も一部にはあるが、高度に集権化されていた共産党が方針を大転換するためにはモスクワからの指令が不可欠であり、実際トレーズの訪ソが決定的転機だったということは共産主義運動史の定説である。コミンテルンが人民戦線戦術を定式化した第七回大会(一九三五年)の歴史的位置づけについては種々の議論があるが、これがスターリンの意図に反していたとか、ソ連外交と無縁だったとかいう説が成り立たないことは多くの専門家によって確認されている。このような政治的術策と、超党派的な芸術家やジャーナリストたちの自然発生的な動きとの関係については掘り下げるべき問題が残っているが、とにかくスターリンとコミンテルンを抜きにして人民戦線を考えることができないことは確かである。日本の場合、当時既に日本共産党は壊滅状態にあったが、コミンテルンの人民戦線戦術は国外からの情報として伝えられており、日本版人民戦線論者がそれを全く意識していなかったということはありえない。その影響をどのように見積もるかには種々の見方があるとしても、完全に無関係だったかに考えるのは妥当でない。
 第二章の末尾に、「本章では検討しなかったが、マルクス主義(共産主義)の知識人がいた」とある(一四二頁)。この部分を完全に除外してしまうのはバランスを失するとの意識があって断わり書きをつけたのかもしれないが、この断わり書きはかえって新しい疑問を呼び起こす。「本章では検討しなかったが」という書き方は、本書の主要対象たる進歩的知識人たちと「マルクス主義(共産主義)の知識人」とが別々の存在だという認識を前提していると読める。しかし、実際には、本章に登場する人たちの中にも共産主義やマルクス主義と深い関わりを持った人たちがいるのであって、そうした人たちは「検討しなかった」のではなく、検討したにもかかわらず、その側面が無視されているのである。代表的には、武谷三男や羽仁五郎を挙げることができる。そればかりか、鶴見俊輔の姉である鶴見和子(後に上智大学教授)も一時は共産党に属していた*9。彼女のような人までも共産党に引きつけられたというのは今日では想像しがたいことだが、当時の歴史状況を理解する上では重要な点である。この例に限らず、戦後初期の共産党は相当広い範囲の人たちを引きつけていた。彼らの中には、その後、あれこれの時期に離党したり、除名されたりした人も多いが、とにかくそういった人たちを含む広がりを持っていたことは、当時の状況を内在的に理解する上で見落とすことのできない点である。
 右の引用個所における「マルクス主義(共産主義)」という書き方にも、気になるところがある。確かに、この両者は重要な点で重なり合っている。しかし、共産主義運動とか共産党なりブントなりといった運動体を問題にする場合には「参加したか否か」という択一が問題になるのに対し、思想ないし理論としてのマルクス主義を問題にする場合には、「マルクス主義者か否か」という択一ではなく、「マルクス主義者を自認はしないが、マルクス主義を重要視し、その影響を大なり小なり受けた」というような人たちの存在を考慮しなくてはならない。丸山眞男がその最も著名な代表例だということはいうまでもない。丸山に限らず、戦後日本の「進歩的知識人」の多数派は、マルクス主義者を自認すると否とに関わらず、大なり小なりその影響をこうむり、それを意識していたのであって、「進歩的知識人」を論じながらマルクス主義の系譜を除外して考えるという論じ方はほとんど意味をなさない*10
 第三章の冒頭には、「学生の民主化運動と共産主義運動という二つの運動を区別」するという宣言がある(一四八頁)。「区別」すること自体はよいが、主として論じられているのが学生共産党員やそこから生まれたブントである以上、両者の関係はそれほどすっきりと分かれるものではなく、より微妙なものとなることを念頭においておかなくてはならない。著者が両者を区別するのは、学生運動家たちが依拠していたのは「民主主義的なハビトゥス」と「民主主義のゲームのルール」だったからという理由に基づいている(一八八‐一九三頁)。このように論じる背景には、共産主義運動は民主主義的なゲームのルールと無縁であり、もし共産主義者がそうしたルールを尊重するかに見えるとするなら、それは「共産主義者であるが故に」ではなく「共産主義者であるにもかかわらず」だとの判断がある。共産主義運動の歴史の中で民主的手続きを踏みにじった例が数限りなくあるのは紛れもない事実であり、著者がそのように考えるのは無理からぬものがある。にもかかわらず、いかに奇妙に見えようとも、当事者たちの主観においては共産主義者たちは民主主義尊重を唱えていたのであり、それを踏みにじる際にはあれこれの口実を設けて正当化を図っていたというのもまた歴史的事実である。
 ある人たちが口で民主主義を唱えながら、実践においてそれとかけ離れた行動をとるというのは決して珍しいことではない。その場合、口先での民主主義は全く本気ではなかったのか、あるいは本気で追求していたのだが、やむを得ない(と当事者に認識される)状況下で心ならずも背いてしまったのかが問題となるが、これは個々の状況によって異なるし、両者の間に一線を引くのが難しいことも多い。必ず後者だと決めてしまうのは甘すぎるが、必ず前者だと決めてしまう理由もない。ところが、著者は共産主義者については前者に違いないと、暗黙のうちに前提してしまっているように見える。
 そのことと関連して、終章には、共産主義のフィールドにおいては「議会制民主主義はブルジョア民主主義であり、打倒しなければならない」というドクサが強いられていたと述べた個所がある(二六九‐二七〇頁)。共産主義者が議会制民主主義を「ブルジョア民主主義」として批判してきたのは事実である。だが、だからといって、それを「打倒しなければならない」と主張したという事実はない。「ブルジョア民主主義」は打倒されるべきだというのではなく、乗り越えるべきだとされたのであり、「ブルジョア民主主義よりも百万倍も民主的なソヴェト民主主義」に代えられるべきだと――もちろん、現実的結果はそういうものではなかったが、彼らの主観においては――説かれたのである。これは共産党であれブントであれ同様である。著者の記述は結果的現実に即していえば当たっているかに見えるが、彼らが何を主張していたかの理解としては完全に間違っている*11
 民主主義の問題と裏表の関係にあるのが暴力の問題である。本書には、ブントの行動はその言葉ほどに過激ではなかったとの指摘があり、「暴力革命」との言辞にもかかわらず、実際には、非暴力の原則から大きく逸脱することはなかったと述べられている(一九六‐一九九頁)。これをうけるかのように、「共産主義運動であっても、運動を進めるには暴力ではなく、理性的な議論によって進めることがよしとされていた」とある(二〇二頁、傍点は引用者)。いま傍点をつけた個所は、共産主義運動は本来的に暴力的であり、理性的な議論を否定するものだという認識を前提している。もし共産主義運動が暴力でなく理性的な言論に訴えようとするなら、それは「共産主義者であるが故に」ではなく「共産主義者であるにもかかわらず」だとの考えが背後に前提されているようである。
 確かに、歴史上の共産主義運動は大量の暴力によって特徴付けられてきた。そのことは万人の認めるところである。ただ、この問題を考える際にはいくつかの点を踏まえておく必要がある。先ず、大量の暴力行使という現実は「理性的な議論」重視を排除するわけではない。実際、共産主義運動がうんざりするほど大量の「理論文献」を生み出してきたのは周知の事実である。それらの文献は、今日の目からはあまり理性的に見えないかもしれないが、かつては多くの学者・知識人たちがそれらを熱心に読んできたという事実を忘れることはできない。今日的評価はともかく、歴史的には、数多くの学者・知識人・理論家たちが共産主義的な主張を「理性的な議論」として提示し、論じ合っていたのである。ここで問題となるのは、「理性的な議論」重視と暴力行使が互いに排除し合うことなく並存してきたという、今日では理解しにくい歴史的事実をどう解明するかという問いである。これはそう簡単に答えの出る問いではないが、暴力行使を直ちに「理性的な議論」無視と等置してしまったのでは、問題の所在自体が見失われてしまう。
 革命運動がしばしば暴力に走ったことの背景についても考えておく必要がある。今日では忘れられがちなことだが、もとを正せば国家権力の側が苛烈な暴力を用いた支配を行ない、革命運動がそれに対抗しようとするなら暴力に訴えるほかないという状況が、多くの国に存在していた。ロシア革命も中国革命もそうした環境の中で生じた暴力革命だった。その後の時代にあっても、相対的平穏に特徴付けられる幸福な国はそれほど多くはなく、軍事支配その他の大量暴力を国家権力側が振るい、革命運動もそれに応じて暴力的な形をとるという例は、世界全体からいえばそれほど稀なことではない。日本の場合、戦前から戦時中にかけてはまさしくそういう状況があったし、戦争直後にもそれと連続する要素が直ちに解消したわけではなかった(共産党も労働運動も合法化されたが、その背後には占領軍という暴力装置があった)。日本共産党が一九五〇年代前半に武力闘争方針をとったのは――その時点ではもはやその現実性が薄れ、アナクロニスティックになりつつあったとはいえ――直前までの状況を思い起こせば、それほど理解困難なことではない。
 右の段落では、話を簡単にするために、権力側の暴力と革命側の暴力という単純な対抗構図をとりあえず取り上げたが、実際には、暴力というものはもっとずっと多様な形をとる。現代の日本では、目につきにくい陰湿な迫害はあちこちにあるものの、露骨な大量暴力を目にする機会は滅多にないため、何となく大量暴力の横行は非常に特殊な、われわれと縁遠いことのように思い込まれやすい。だが、近代民主主義の本場と見なされてきたヨーロッパでも、二〇世紀の前半は「炎と血の時代」とも形容される戦争と内戦の時代だった*12。深刻なのは、暴力の担い手は国家権力の手先とか、ファナティックな革命家とかいった人たちだけには限られず、もっとずっと広い一般民衆が、さまざまな形での暴力に関与していたという事実である*13。こうしたことを考えながら、本書における共産主義と暴力に関する記述を読むと、全体としてナイーヴかつ一面的という印象が浮かぶのを避けがたい。
 第一点および第二点の検討が長くなってしまったが、第三点、すなわちその後の展望の問題に移る。本書は六〇年安保を主題としながらも、その時期だけに議論を絞るのではなく、そこに至るまでの戦後十数年の時期にかなりの紙幅をさいている。これに対して、その後への言及は至って乏しい。前史の長さと後史の短さは好対照をなしている。どうしてそうなったのかの理由は特に説明されていないが、冒頭の記述を振り返るなら、著者が調査を開始した時点で日本の社会運動に関する情報は極度に乏しく、六〇年以後はさしたる運動がなかった――日本で社会運動が復活するのは二〇一一年の「三・一一」や二〇一五年の安全保障法制をめぐる運動によってだ――というイメージ(一〇‐一一頁)があったことが関連しているのではないかと推測される。
 とはいえ、一九六〇年と二〇一一年の間に、ある程度以上の規模をもつ社会運動が全然なかったわけではない。一九六五年の日韓条約締結時の運動、それに続くヴェトナム戦争への日本の関与を問題にした反戦運動、六八‐六九年をピークとする大学闘争、そしていわゆる七〇年安保などがあった。これらは規模において六〇年安保には及ばないにしても、それなりの広がりを持っていた。著者もそのことを全然意識していないわけではなく、小熊英二『1968』上下(新曜社、二〇〇九年)や小杉亮子『東大闘争の語り――社会運動の予示と戦略』(新曜社、二〇一八年)への言及もある。しかし、これらの言及はごく簡略なものにとどまり、あまり中身がない。述べられているのは、「七〇年安保闘争は、六〇年安保闘争とはかなりの程度、様相を異にした」、また六〇年には暴力の要素が小さく、六八年の「新宿騒乱」や「六八‐六九年にピークとなった大学紛争」とは異なるといった程度にとどまる(二七四、二七八頁)。これはごく大まかに言えば一応妥当な指摘だが、どうして、どのように「様相を異にした」のか、暴力の要素が六八‐六九年にはどうしてあのように拡大したのかといった点については何も立ち入っていない。
 本書全体から浮かぶ長期的な歴史に関する見取り図は、戦後の日本では大衆的な社会運動を可能にする空間が開け、それが頂点に達したのが六〇年だが、七〇年代以降、社会運動不在の時代が続き、ようやく近年になって復活の兆しがある、ということになるだろう。ここで問題となるのは、大衆的高揚から運動不在の時代への転換がどのようにして生じたのかという点であり、六〇年代後半の一連の運動はその問題を考える上で無視できない位置を占めるはずである。これはもちろんそう簡単に答えられる問いではなく、本書がそこまで立ち入っていないのもやむを得ない。ただとにかく問題の所在だけは確認しておく必要がある。六〇年代末から七〇年代初頭にかけての運動にはさまざまな要素が混在していた(著者の論法に倣って言えば、異なるフィールドでの多様な運動が「たまたま」重なり合っていたということになるかもしれない)。その中のある要素に注目するなら、暴力の極度の拡大、とりわけいわゆる「内ゲバ」のエスカレートや連合赤軍事件が多くの人々の脳裡に強い否定的印象を残し、そのことが社会運動全般へのアレルギーを呼び起こして運動の停滞を招いたという風にも考えられる。他面では、小杉亮子が『東大闘争の語り』で描きだしたような地道で粘り強い活動がその後も持続したので、社会運動の種子は途絶えはしなかった、という考えもありうる。これ以外にもさまざまな見方がありうるだろう。いずれにせよ、こうした問題は今後に残された課題である。
 最後に資料の扱い方について。本書ではさまざまな種類の資料が利用されているが、特に重要な位置を占めているのは回想とインタビューである。それ以外に各種公刊文献も使われているが、それらは主として背景事情に関する概説的記述に利用されており、本書のオリジナルな部分に関わるわけではない。そこで、インタビューおよび回想の扱い方についてやや立ち入って考えてみたい。
 先ずインタビューに関しては、対象者の選定は「スノーボール・サンプリング」によったとの説明がある(一四頁)。「スノーボール・サンプリング」とは、ある人にインタビューしたときに他の人を紹介してもらい、さらに次の人を紹介してもらうということを繰り返していくうちに雪だるま式に対象者数が増えていくという方式を指す。この方式は、調査開始以前には知られていなかったネットワークを探り当てることができるという利点がある。どのようなネットワークが存在していたのかとか、複数のネットワークが相互にどのような関係(ないし無関係)にあったのかということが知られていない主題について研究する場合、このような調査方式は、その実践自体が一種の発見につながるという意味がある。他面、対象の全体像(らしきもの)がつかめない主題である以上、無作為抽出による代表的サンプル選定などできようはずもない。それはそれでよいが、こういう手法をとるからには代表性は保証されないということをどこかで断わっておいた方がよいのではないだろうか。最初にどういう人(たち)にインタビューするかによって、その後どういう人たちを紹介され、どういう雪だるまができあがるかも異なってくる可能性がある。全体を通読した印象として、本書で描き出されたいくつかのネットワークは確かに六〇年安保において相当重要な役割を果たしたものと思われる――但し、これは知識人と学生だけに当てはまり、労働者については当てはまらない――が、これがすべてというわけではなく、他にもそれなりに重要なネットワークがあったかもしれないのに、そのことにはあまり配慮がなされていないような印象がある。
 次に問題としたいのは、回想およびインタビューという資料の性格である。これらはいずれも当事者が後になって語ったり書いたりしたものという点で共通する。そこには、公刊文献に語られていない事実が含まれていることも多く、その意味で貴重な資料だということはいうまでもない。他面、注意しなくてはならないのは、記憶に基づく叙述がどこまで過去の事実と照応しているかという問題である。一般論として、時間の経過に伴って記憶の変容あるいは忘却が進行するということはいうまでもない。また、年月を経る中で他の人々の証言や評論に接して、その影響を知らず知らずのうちにこうむるということもあり、そうなると、もともと自分が考えていたことと他者の言説に影響された部分との判別がつきにくくなる。
 こうした記憶の変容ということの他に、自己正当化の誘惑も微妙な問題をはらんでいる。これは何もあからさまな嘘(いわゆるフェイク)を語るということだけを指しているわけではない。個々の具体的な出来事を全く事実無根の方向に歪曲するということはそれほど多くないとしても、意識的・無意識的に自己にとって都合のよいような形で過去を描き出すというのは誰にでもあることである。なお、これは過去の自分の言動を美化あるいは正当化するという形をとるだけとは限らない。何らかの運動に参加した人が後にその立場を変えた場合、その変化を正当化するために、過去の自分たちの運動を殊更におとしめるような形で矮小化したりカリカチュア化したりするということもある*14。こういうわけで、当事者が後に語ったことをどのように読み取るかはなかなか難しい問題をはらんでいる。
 こういうことを念頭において本書を読むと、ある人が回想なりインタビューなりでこう語っているから、だから当時の状況はこうだったという風に論を進めている個所があちこちにあることに気づく。これは人の語ったことを額面通りに受け取るナイーヴな態度ではないかという印象を免れない。
 過去の現実の復元というものは非常に難しいものであり、どうすれば「実相」に到達することができるという出来合いの処方箋のようなものがあるわけではない。多様な資料を読み比べて、この資料からはこういう見方が示唆されるが、別の資料からは別の見方が示唆されるといったことをつきあわせて、多少なりとも実像に近いイメージに迫っていくほかない。これは歴史学の基本をなす「史料批判」の問題である。本書は学問のジャンルとしては社会学に属し、歴史学の書ではないから、あまり厳格な歴史学の作法を要求するわけにはいかないだろうが、とにかく歴史にも関わっている以上、歴史家の目からは「史料批判が甘い」という批評が向けられるのは避けがたい。
 
     四
 
 いささか注文の多い書評になってしまった。とはいえ、私が本書とじっくりと向き合い、長文の書評を書いてみようと思い立ったのは、本書が読み甲斐のある多い好著だと感じたからこそである。
 何よりも先ず、これまで回想や評論の対象にとどまっていた六〇年安保闘争をほとんどはじめて本格的な研究の対象として取り上げたこと、そして社会学理論(とりわけブルデュー社会学)の摂取に基づいた理論的分析を試みている点が最大の貢献ということができる。それだけでなく、調査開始以前にいだいていた予断に縛られることなく、インタビューの中で予想外の話を聞くことから得た発見を大事にしているのは類書にはない美点であり、特筆に値する。
 これまでも述べてきたことだが、現代史上の論争的な主題について考える際、異なった世代、異なった立場の人々の間でパースペクティヴの違いがあるのは避けがたいことである。実際、本書を読みながら、私は著者の見方と自分の見方とがずいぶん隔たっていることを痛感させられた。しかし、世代や立場が違うから話が通じないと決めてしまったのでは、対話は閉ざされてしまう。そうではなく、異なった観点からの見え方をつきあわせることによってこそ、対話への道も開かれるのではないか。この小文は、そうした対話へ向けてのささやかな問題提起の狙いを込めたものである。
 
(二〇二一年一二月)

*1猿谷弘江『六〇年安保闘争と知識人・学生・労働者――社会運動の歴史社会学』(新曜社、二〇二一年)。
*2語り継がれることがほとんどない中で、例外として樺美智子の名が挙げられている(一六頁)。確かに、樺の名は長らくシンボル的な位置を占め、いろいろな形で語り継がれてきた。しかし、それだけに一種の神話化作用をこうむってきたようなところがある。珍しくその脱神話化に取り組んだ文章として、矢吹晋『〈中国の時代〉の越え方――一九六〇年の世界革命から二〇二〇年の米中衝突へ』(白水社、二〇二〇年)の序章「樺美智子からの問い」がある。この点についてはフェイスブックのタイムラインへの投稿(二〇二〇年八月二七日)で触れたことがある。
*3丸山眞男『増補版・現代政治の思想と行動』未来社、一九六四年、第三部への追記、五七一‐五七二頁。
*4構造改革派学生運動の指導者の一人である安東仁兵衛は、「六全共」直後の時期に丸山眞男から話しかけられて長時間話し合い、それ以降、私淑するようになったと回想している。安東仁兵衛『続・戦後日本共産党私記』(現代の理論社、一九八〇年)、二〇‐二二頁。丸山はもちろん構造改革派の一員ではないが、広い意味でのシンパシーをいだいていたことは、梅本克己・佐藤昇との鼎談などに窺うことができる。『(丸山眞男対話篇)現代日本の革新思想』上下(岩波現代文庫、二〇〇二年、初出は一九九六年)。また安東より一回り若い世代の上村忠男(後にヴィーコ研究者になった)は六〇年当時は大学に入ってまもない学生だったが、その少し後に構造改革派に接近し、イタリア語を学んでグラムシの翻訳などに携わった経緯について、『回想の1960年代』(プネウマ舎、二〇一五年)で回想している。さらに数年若い富田武の『歴史としての東大闘争――ぼくたちが闘ったわけ』(ちくま新書、二〇一九年)、七六‐八一頁も参照。
*5日本共産党港地区委員会の活動家たちは六〇年安保の時期に共産党からブントへと集団的に移行し、その後のブント解体時には革共同に移行し、革共同分裂時には中核派に移行した。そうした経緯が本書では全く触れられていない。
*6『図書新聞』二〇二一年一一月六日号。なお、「呉越同舟」という言葉を本文に書いたような意味に使うこともできるのではないかというアイディアは、私が一九六八年の社会運動について考える中で思いついたもので、これまでに何度か書いたことがある。「歴史の中の1968年」および「「1968」に関する若干の覚書」(いずれも塩川伸明ホームページの「新しいノート」欄に掲載)。
*7同じ著者の作品として、『自由民主主義は生き残れるか』(岩波新書、一九七八年)その他の邦訳書もある。
*8民主主義論と関連するもう一つの重要論点として、「社会主義と自由」という問題系もある。今日では、社会主義と自由は相容れないという考えが常識となっているが、かつてはその常識を疑う議論がアメリカにも日本にもあった。代表例として、粟田賢三編『社会主義と自由』(岩波新書、一九五四年)という本がある。今の時点でこの本を読むと今昔の感に堪えないが、当時は真剣にこういう討論が交わされていたというのも一つの歴史的事実である。
*9黒川創『鶴見俊輔伝』(新潮社、二〇一八年)、一九一‐一九二頁。
*10一つの例として、カール・R・ポパー『歴史主義の貧困』(久野収、市井三郎訳、中央公論社、一九六一年)の「訳者あとがき」に、「マルクス自身の中にポパーの批判に応えうるようなものがなかったかどうか、したがってこれまでの『マルクス主義』をよりよく発展させるために、ポパーの批判をてことするようなやり方もなくはないか、といったことは問題とされていいであろう」という個所がある(同書、二五二頁)。ポパーを訳した久野とか市井といった人たちも、マルクス主義の「よりよい発展」を考えていたのである。
*11日本を代表するソヴェト法学者の藤田勇は、ロシア革命およびソ連を「自由と民主主義」を目指す思想と運動の延長に位置づけつつ、現実の歴史はそこから著しく乖離ないし逸脱していた事実を見据えて、その乖離や逸脱をどのように説明するかをめぐって知的格闘を繰り広げている。藤田勇『自由・民主主義と社会主義1917-1997――社会主義史の第二段階とその第三段階への移行』(桜井書店、二〇〇七年)、『ロシア革命とソ連型社会=政治体制の成型――ソビエト社会主義共和国連邦史研究1917-1937』(日本評論社、二〇二一年)。私自身は藤田の考えに同調しないが、その知的誠実さは疑うべくもない。塩川伸明「藤田「社会主義史」論との対話――藤田勇『自由・民主主義と社会主義1917-1997』を読む」『社会体制と法』第一〇号(二〇〇九年)、「藤田勇『ロシア革命とソ連型社会=政治体制の成型』を読む」(塩川伸明ホームページの「新しいノート」欄に収録)参照。
*12エンツォ・トラヴェルソ『ヨーロッパの内戦――炎と血の時代、一九一四‐一九四五年』(未来社、二〇一八年)。
*13藤野裕子『民衆暴力――一揆・暴動・虐殺の日本近代』(中公新書、二〇二〇年)。
*14その典型的な例が、西部邁『六〇年安保――センチメンタル・ジャーニー』(文藝春秋、一九八六年)である。この本は、「保守主義宣言」を発した特異な知識人=思想家のセルフ・ポートレイトとして興味深い作品であり、読み物としても活劇調の面白さがあるが、六〇年当時に関する歴史的証言としては信憑性が低く、歴史を再現しようとする際にこれに依拠することはできない。