2002年度政治学会大会(10月5日,愛媛大学)
共通論題T「20世紀は政治学をどう変えたか」
 
ソ連史(現存した社会主義の歴史)の観点から
塩川 伸明
 
 これは標記の学会大会における報告原稿に小規模な改訂を施したものである。この共通論題の組織者である松本礼二氏、共同報告者の大嶽秀夫、竹中千春、古矢旬の各氏、事前に報告原稿を読んでコメントを寄せて下さった内田健二氏に感謝する。
 
 
はじめに
 
 あるイギリスのロシア史家はその近著の末尾で、次のような趣旨のことを述べている――大英帝国の歴史を研究する歴史家は今では大英帝国を道徳的に非難したり弁護したりする必要性を感じずに研究できるのかもしれないが、ソ連解体から10年という時点では、ソ連について同様のことをいうのはまだ難しい(1)。これは的を射た指摘である。できることならば、道徳的に非難したり弁護したりする必要性を感じずに論じたいというのが私自身の立場だが、それを可能にする条件はまだ整っていないように思われる。たとえば、道徳的な非難をしないと、すぐ弁護論だと受けとめられてしまうような状況がまだ存在している。私は先に刊行した拙著の序で、本書は時代に先んじようとしてやや焦りすぎているのかもしれないと書いた(2)。やや不遜な物言いかもしれないが、これから20年とか30年くらい経たないと、こうした議論は受けとめられないのかもしれないという気がする。
 それというのも、社会主義というものについて、かつて過大評価が横行していたことの反作用で、近年は極端な過小評価が広まっているからである(ここでいう「過大/過小評価」とは、その是非や成否に関する評価のことではなく、よかれ悪しかれ現にもった影響力の大きさについての評価のことを指す)。このセッションの企画書に、「政治観、政治認識が20世紀の大きな歴史的経験からどのようなインパクトを受けたかを検討」するとあるが、社会主義の場合、「インパクトがあったかにみえたが、それは幻想であり、実はインパクトなどなかった」という受け止め方が主流であるように思われる。確かに、かつて多くの人がいだいていた社会主義イメージは往々にして現実離れしたものであり、そうした虚像が崩壊する中でそのインパクトも変形を余儀なくされるのは当然である。だが、それにしても、かなりの期間大きな影響力を振るったのが歴史的な事実である以上、その内実を再検討する必要性はなくならないはずである。ところが、現実には、単純に忘れ去ろうとしたり、無視してかまわないといった態度をとる人が大多数をなしているように思われてならない。
 このような状況の中で、専門を異にする多くの人の前でソ連史について何ごとかを語ろうとすると、前提的なところで大きな困難にぶつかる。専門細分化の進行する今日、分野を超えた対話というものは一般的に難しいことだが、旧社会主義国の歴史の場合、「もう結論の出てしまったこんな分野について、今さら知的関心をもつ必要など全くないのではないか」という漠たる感覚が広まっているため、他分野の人々が真剣な関心を寄せること自体がきわめて稀になっているからである。関心がある程度以上広まっているなら、それを前提して、提出される疑問に答える形で議論を進めればよいが、ほとんど全く関心をもたれず、問いを投げかけられることさえない状況の中では、かつては常識だったことを思い出し、本来なら言わずもがなの初歩的なことを再確認するという消耗な作業に取り組まざるを得ない。
 そうした状況があるため、この報告は、初歩的な常識の再確認の要素をかなり含まざるを得ない。本来なら、学会の大会のような場でこういう話をするのはふさわしくなく、もっと綿密な実証研究の成果を披露すべきだということはいうまでもない。にもかかわらず、いま述べたような状況を念頭におくなら、どうしても、このような形で話を進めないと、どこに問題があるのかさえも理解してもらえないのではないかと思う。そういうわけで、具体的な歴史論に立ち入るというよりはむしろその手前の出発点を確認するような形の話になってしまうが、とにかくソ連史――あるいはソ連を中心とする「現存した社会主義」の歴史――がより広い歴史的文脈の中でどのような意味をもっていたのかを、以下の3つの視角から再確認することを試みたい。第1に、「近代化」再考の視点(開発=発展論およびポストモダン論を含む)、第2に、民主主義論の視点、そして第3に、「帝国とネーション」の視点(ポストコロニアル論を含む)である(3)
 
1.「近代化」再考の視点から(開発=発展論およびポストモダン論を含む)
 
 「近代化」については、膨大な量の議論がこれまでに積み重ねられてきており、多くの人に、「今さら」という感覚を引き起こすことだろう。にもかかわらず、そのような「古くさい」問題がわれわれをなおつかんで離さないことも、否定しがたい事実である。発展途上国にとって、今なお近代化あるいはdevelopment(開発=発展)が――いわゆる「開発主義/開発体制」をめぐる論争を含めて――アクチュアルな問題であることはいうまでもない。近年の脱社会主義後の体制移行諸国も、改めて「近代化」に取り組まざるを得なくなっている。それだけではなく、既に近代化を高度に成し遂げたと考えられがちな「先進諸国」においても、ポストモダン論の流行の中で、ときおり「近代再考」論や「未完の近代」論が浮上することがある。としたら、「近代化」はもはや決着済みの過去の論点として片づけるのではなく、そうした経過を踏まえた上で、現時点での「近代化再考」を試みる必要があるように思われる。その作業の全体に取り組むのは私の能力を超えた課題だが、ソ連をはじめとする旧社会主義国の経験の再検討がその大問題に迫る上で何らかの示唆を投げかけるのではないかということを先ず考えてみたい。
 現存した社会主義と近代化の関係について、予め結論を一言でいうなら、社会主義は「近代の否定」ではないが、さりとて単純な「近代主義」そのものでもなく、特異な方法と形態をとった近代化推進の一変種であり、同時に、「近代的方法」を徹底することを通して「近代の克服」を目指した運動でもあった。
 今日では、近代化の「推進」という側面についても、「克服」という側面についても、失敗という結果ばかりが目立ち、そのため、そうした企図があったという事実自体が忘れられがちである。だが、意図と結果の間に大きなギャップを含みつつも、ある意味ではきわめて強烈にこの目標が推進されたということは歴史的事実である。その結果、アンバランスながらも独自の近代化が進行し、またその中で、他の「先進諸国」とは異なる独自の特徴をもつ産業社会が形成されもした。それは、その「近代化」推進方法が特異であり、それに伴い、テンポの異常な速さ、コストやアンバランスの極度の大きさなどの特殊性をもったからである。では、その方法の特異性はどこにあるか。
 「社会主義的な近代化」を「資本主義的な近代化」と対比するとき、先ず眼に入るのは、後者で主要な役割を演じるブルジョアジーおよびその関連制度(市場経済およびそれに適合的な法制度等)が前者では排除され、それに代わって、党=国家体制の主導する行政的=指令的システムが主要な役割を演じたという点である。この行政的=指令的システムは、少数の重点的分野に人的・物的資源を集中的に動員する上では、それなりに有効性を発揮しうる。ということは、近代化の初期ないし中期段階(重厚長大型産業が支配的で、目指すべき目標の種類も比較的限られている)、また戦時期・戦後復興期などには相対的に適合性が高いということを意味する。時代的には1930年代から戦時を挟んで50年代くらいまでについて、その意味での有効性を指摘することができる。その時期には、ソ連の経済成長がそれなりに高かったばかりでなく、先進資本主義諸国でも部分的に「計画経済」の要素を取り入れようとする動きが盛んだったり、また発展途上国における発展(開発)戦略として計画経済方式が有意味なモデルとみられたりした。それはあたかも、「近代の克服」「ポストモダン」の最先端であるかに受けとめられることさえもあった。これは後に失墜するとはいえ、その当時には一定の根拠をもった現象だった。
 もっとも、ここでいう「適合性」「有効性」も条件付きのものである。というのは、重点分野への資源の強烈な集中は、その反面として、非重点分野における犠牲、コスト、全体としてのアンバランスの大きさなどといった副産物を伴わざるを得ないからである(先に「有効性」という言葉を使ったのも、「効率性」との区別を意識してのことである)。近代化がその成果と並んで種々の犠牲を伴い、アンバランスを含むということ自体は他の国にも共通することであり、ソ連に限ったことではない。ただ、それがいま述べたような理由で極度に大きかったという点に、社会主義型の近代化の特徴をみることができる。特に、農業集団化に伴う農民の犠牲の大きさ、重工業本位・量的拡張重視の陰で軽工業、また製品の質がなおざりにされたこと、そして何よりも、あまりにも多くの人命の犠牲などがそれを象徴する。
 こうして、ソ連型の近代化がその「成功」の中においても極度に大きな犠牲を伴ったことは明らかな事実である。だが、そのような犠牲を「やむを得ざるもの」として受けとめる心性(メンタリティ)が、当の犠牲をこうむらされた国民や、諸外国の必ずしも確信的共産主義者でない人々にまで分かちもたれていたということも、また歴史的事実である。このことは、近代化を「何が何でも遂行しなければならない至高の目標」とし、それに伴う犠牲は「やむを得ない」ものとして正当化する意識が19-20世紀の大部分にわたって人類を強く捉えていたことのあらわれである。そして、ソ連の歴史はそのような心性の最も強烈な体現という世界史的な意味をもっている。
 しかし、時代とともに、状況は大きく変化した。社会・経済の仕組みが複雑化して多様な分野へのきめ細かい対応が必要とされる度合が高まるにつれて、行政的=指令的システムの不適合性が高まった。かつては、非優先分野における犠牲に目をつぶるなら、ともかくも経済成長が達成され得たが、次第にそれも困難になるような状況が現出した。こうして、近代化推進力としての行政的=指令的システムの有効性が低下した。この時期には、社会主義諸国の経済成長が鈍化する一方、先進資本主義諸国では「新自由主義」が台頭し、発展途上国における発展(開発)戦略としても、社会主義的な路線よりも市場志向の戦略の方が優位性を発揮するようになり、社会主義の威信が世界的に低落した。1980年代末に社会主義があっけなく崩壊したのは、それに先立つ20-30年間にこうした過程が着実に進行していた――但し、「成立以来、70年間一貫して」ということではない――ことによる。
 
2.民主主義論の視点から
 
 旧社会主義諸国の体制転換に前後して、「民主主義」「民主化」の言葉がいとも安易に広く使われ、脱社会主義の体制転換のことを無造作に「民主化」と呼ぶ用語法が一般化した。そこでは、社会主義体制と「民主主義」とが正反対の対概念であることが暗に前提されていた(4)。こうした用語法に対して、私はこの10年間、一貫して異議申し立てをしてきたが、孤立した声にとどまっている。しかし、実をいえば、私の言っていることはそれほど風変わりなことではなく、むしろごく当たり前のことを思い出そうというだけのことに過ぎない。
 政治学会大会に参加されるような方々を前にして「釈迦に説法」だが、自由主義と民主主義とは異なる概念であり、両者の間にはしばしば緊張関係がはらまれる。そこで、そうした緊張を前提した上でなおかつ両者を結びつけようという思想があり、それが自由主義的民主主義と呼ばれる。これに対し、自由主義をとらない民主主義というものもあり、その代表例がまさに社会主義的(あるいはソヴェト的)民主主義だった。ということは、社会主義は民主主義と単純に無縁だったり、その反対物だったりしたのではなく、むしろ民主主義の特異な一形態だったということになる(いうまでもないが、「民主主義の一種だった」ということは、「だからそれほど悪いものでなかった」ということを含意するわけではない。むしろ、民主主義は時として非常に危ういものであり得るという認識を前提している)。
 ソヴェト政治体制が一種独自の「民主主義」としての「ソヴェト民主主義」に基づいていたとしても、その「ソヴェト民主主義」とは偽りの概念、民主主義とは似て非なるものだったのではないかという問題がすぐ提出されるだろう。結論的にはその通りであり、そのこと自体を否定しようなどというつもりはない。ただ、民主主義的な政治思想や政治制度が非民主的な帰結を生むことがあるというのは、民主主義自体の固有のディレンマの一つのあらわれなのであって、自己否定的な帰結をもたらすことも、民主主義の一つのありうる可能性として考えないわけにはいかないのではないか。そのことを尖鋭に突きつけたという点に、社会主義の経験の歴史的な意味がある。
 いま述べたように、「ソヴェト民主主義」は「民主主義」一般の否定、その対概念ではなく、「自由主義的民主主義」の対概念としての「もう一つの民主主義」だった。レーニンをはじめとするボリシェヴィキは、自由主義的民主主義(彼らの用語では「ブルジョア民主主義」)は形式だけの民主主義であり、その制度を自己の利益のために利用できるような経済力のある人たちにしか奉仕せず、結局は「ブルジョア独裁」を覆い隠す「イチジクの葉」でしかないと批判した。そのような「ブルジョア民主主義」に対置され、より広汎な勤労者大衆の参加を可能ならしめるものとして構想されたのが「ソヴェト民主主義」である。
 「ソヴェト民主主義」は、自由主義的民主主義と対置されるいくつかの特徴をもっていた。もともとソヴェト(評議会)は革命的大衆運動の熱気の中で生まれたという経緯もあり、直接民主制に近い性格をもっていた。工場などの生産の場で大衆討論を伴って選挙されること、代議員は選挙母体から遊離した権力者ではなく、むしろ有権者たちの「代理人」とされること、あからさまに階級的な選挙方式(ブルジョア・地主から選挙権を奪い、また都市=プロレタリアと農村=プチブルの間に意識的に格差を設けるなど)をとること、ソヴェトが単なる「おしゃべりの場」にならないようにするため、立法と執行を兼ねた行動的機関にすること(権力分立の否定)、政治と一般民衆の距離を広げないため、職業議員をおかず、一般勤労者が勤労生活を続けながら議員を兼ねること等々である。また、自由主義的民主主義で重視される種々の自由権については、独自の変形が提唱された。たとえば出版の権利は、紙や印刷所へのアクセスが金持ちに限られている条件下では貧乏人には無意味なので、その権利の実現のための条件(紙、印刷所など)を国家が実質的に保証するという考え方(「実質的保証」論)がとられた(5)
 これらの特徴は「ブルジョア民主主義」批判から導かれたものであり、自由主義的民主主義がしばしば形骸化しやすいという傾向を指摘する限りでは、実際に当たっている面をもつかのようにみえる(「ソヴェト民主主義」をそのものとして擁護する人のいなくなった今日でも、「民主主義の形骸化」を憂え、その「深化」を期待する「ラディカル民主主義」論者の議論の中には、これと類似した性格のものが含まれているように思われる)。
 しかし、結果的には、このような特徴をもつ「ソヴェト民主主義」は「ブルジョア民主主義」以上に甚だしい形骸化を経験した。その要因は既に論じ尽くされているが、簡単におさらいするなら、次のような点が指摘されている。ソヴェト権力は直接に民衆に担われているものと観念されたために、それが民衆から乖離する可能性が否定され、それ故に、権力抑制メカニズムが欠如した。自由主義的民主主義において採用されている一連の制度――権力分立、競争的選挙、自由で批判的なマスメディア、独立した司法など――を、「ブルジョア独裁を覆い隠すイチジクの葉」とみなして、軽視したことは、「実質的な民主主義」と想定されたものを結果的に空洞化させた。勤労者が勤労生活を続けながら議員を兼ねる方式は、ソヴェトの実質的活動を困難にさせ(兼業である以上、会期はごく短いものになり、実質的討論ができない)、「プロレタリアの前衛」とみなされた共産党がソヴェトにとって代わる結果に導いた。出版・集会・団結権その他の諸権利の「実質的保証」という考えは、それらを実現する条件――紙・印刷所・集会スペースその他――を国家が独占的に管理し、割り当てるということを意味し、市民の自由よりもむしろ国家統制を優先する結果になった。
 このような形骸化をこうむりつつも、「ソヴェト民主主義」は大衆の政治への参加を奨励し続けるという点においては、「民主主義」の特異な形態たることをやめはしなかった。ファシズムについて「大衆民主主義」の一形態として捉える見地が提出されているように(6)、スターリニズムもまた「大衆民主主義」の時代の産物だった。そればかりか、一旦その体制が「民主的な国家」と宣言されるなら、そのような「民主国家」を敵(帝国主義・ファシズムのスパイ)の破壊工作から守るためには仮借ない闘争が必要であり、国民の警戒心を最大限動員しなくてはならないという論理が正当化されることになる。「世界で最も民主的」とうたわれた憲法が1936年に採択された直後に「ファシスト国家のスパイ」「人民の敵」を摘発するためという名目で大テロルが発動されたのはこのような論理によるものであり、主観的にはそれは「民主主義」と不可分だった。
 以上にみたように、ソ連の政治制度は、単純に民主主義と無縁だったのではなく、むしろ主観的目標としては「自由主義的民主主義」が陥りがちな形骸化を克服し、直接民主制的要素を取り入れつつ、高次の民主主義を実現しようとする志向を出発点にもっていたが、そのようにして構想された「ソヴェト民主主義」には、その期待に反する結果に導く可能性が当初より内在していた。このことは、「制度的民主主義の形骸化傾向」を批判的に指摘する現代の「ラディカル民主主義」論や「参加民主主義」論にとっても他人事ではない深刻な問題を突きつけているのではないだろうか。そしてまた、「民主国家」を守るためにこそ、その敵(「国際テロリスト」「悪の枢軸」)と断固戦わねばならないという論理にどのように立ち向かうかは、まさに現在(2001年9月11日以降)の最大の問題である。
 
3.「帝国とネーション」の視点から(ポストコロニアル論を含む)
 
 「ネーション(国民/民族)」の観点からソ連を考える際、近年の流行の見解として、ソ連も他の植民地帝国と同様の帝国だったとし、ソ連解体後の現在の状況を「ポストコロニアル」理論の枠組みで捉えようとする発想がある。十年ほど前までは、ソ連を「帝国」とする考えはごく少数の異端的見解だった。だが、いまでは、これはごく当たり前の、むしろ陳腐なものになりつつある。
 流行の議論というものは一般に、何かしらの重要な点に触れているところがあるからこそ流行するものであり、それなりに尊重すべきものをもってはいるが、同時に、往々にして安易なキャッチフレーズになりがちであり、それだけにとどまるなら粗雑な議論になってしまう。ソ連=帝国論についても同様であり、それなりに当たっている面があることは確かだが、それだけで万事が解決するわけではない。ソ連も「帝国」の一種だということは一応言えるとして、では、どのような帝国だったのかの解明もせねば、十分な議論にならない。ソ連は既存の諸帝国に対抗し、「植民地解放」「民族自決」を掲げた「特異な帝国」であり(7)、そこには、「通常の帝国」に比べて、いわば「ねじれた」関係があった。「ここにももう一つの帝国があった」というにとどまるのでなく、その独自な特徴を解明することは、帝国とネーションについての理論的考察にとっても大きな意味をもっている。
 特に重要なのは、社会主義は民族を破壊したのか形成したのか、民族差別を克服したのかそれとも放置あるいは増幅したのか、「民族自決権」を尊重したのかそれとも裏切ったのかという一連の論点である。昨今の流行の見解によれば、ソ連は民族自決権を掲げながらそれを裏切り、その後の現存社会主義は民族を否定あるいは破壊し、またロシア人による他の諸民族への差別を温存してきたとされる。そのような面があったということ自体は確かであり、価値評価的な意味でソ連を弁護する必要はない。だが、認識としてこのような捉え方がどこまで深いものといえるかは、別個に問う必要がある。
 ソ連の民族政策の特徴は、差別を単純に放置したのではなく、アファーマティヴ・アクション的な政策による差別克服を目指し、そのことがかえって新しい問題を生んだ点にある(8)。その意味で、「普通の帝国」における問題状況とは「ねじれた」関係にある。このような「ねじれた」関係の理解は、ポストコロニアル理論の単純な当てはめではなく、むしろ理論そのものの深い再考を促す契機となるのではないだろうか。
 ソ連の民族政策について、「民族自決論は正しいが、ソ連はそれを掲げていながら実践せず、裏切った」という見方が従来よくなされてきた。だが、そもそも自決論そのものについての疑問も数多く提示されている。「自決」の主体たる「民族」をどのように認定するか、またどのような線引きをしても常に少数民族問題は残るのではないか、といった疑問である。このような領土的自決論の限界の自覚から、近年では、領土的自決と区別される文化的自治論(オーストリア・マルクス主義の再評価)も一部で流行している。これはこれで意味のある問題提起だが、これですべてが片づくわけではない。文化的自治にしても、それを制度として実現しようとするなら、何らかの「民族」「言語」「文化」の枠付けが必要であり、その制度化抜きには保証できない(オットー・バウアーの構想は、各人の民族登録と「民族台帳」作成を前提していた)。この点では、「自決」論がかかえたのと同様のアポリアにつきまとわれる(また、ソ連にしても、領域的自決論を強調したとはいえ、文化的自治の要素を全面的に排除したわけではない)。
 根本的な問題は、「民族自決」であれ「文化的自治」であれ「アファーマティヴ・アクション」であれ「多文化主義(マルチカルチュラリズム)」であれ、それを公的政策として実現しようとするなら、何らかの「民族」の枠ないし単位の設定が必要とされるが、ではその枠ないし単位をどのように設定するか、一旦設定された枠は他のありうべき枠に対して桎梏となるのではないかという点である。ソ連における「民族」の枠形成に関しては、多数の具体例があり(中央アジア、ベラルーシ、モルドヴァその他)、ここで立ち入る余裕はないが、ともかく、「民族とは何か」の確定は本来的に微妙なものであり、必ず政治性・論争性を含む。ただ、ここでいう「政治性」とは、専らモスクワによる一方的指示・命令というよりも、各地の文化・教育活動家などがそれぞれの思惑をもって関与する複雑な政治闘争を伴っていたという点も、確認しておくべき点である。
 ソ連民族政策の一つの特徴として、「民族自決」「諸民族の平等」を大義名分とするソヴェト政権は、表だって「同化」=「ロシア化」政策を強行することはできず(9)、むしろそれぞれの地域ごとの「基幹民族/現地民族」の民族文化・言語の尊重が目指された(「現地化」政策)という点がある。かつて「ロシア語の方言」とみなされていたウクライナ語・ベラルーシ語を「独自の言語」として確立を試み、モルダヴィア語をルーマニア語と別に新たに創出し、中央アジアの諸言語をそれぞれ別個に確立しようとしたなどといった例にみられるように、かつて「民族」扱いされていなかった集団を次々と「民族」として創出しようとしたのが特徴的である。
 このような政策に注目するなら、ソ連は「民族」を否定・破壊しようとしたというよりも、むしろそれを創りだそうとしたということになる。そして、確定された「民族」のうちのある程度以上の規模をもつものについては、擬似的にもせよ「主権国家」として連邦構成共和国を付与し、そこにおいて「国民国家」をつくろうとした。そこでは、諸民族言語の文章語としての確定、民族エリートの育成(一種のアファーマティヴ・アクション)、民族ごとの歴史(ナショナル・ヒストリー)研究の推進などが行なわれた。こうして、ソヴェト政権は独自の形で(複数の)「民族」を形成し、(複数の)「国民国家」を形成してきたのである。もちろん、ある枠での「民族」形成は、他のありうべき枠の否定でもあるから、後者に着目すれば「民族の否定」という見方が出てくるのは当然である。「民族の形成・創出」と「民族の否定・破壊」とは別々のものではなく、むしろ同じコインの両面である。
 今日、ソ連解体後に生まれた15の独立国家における「国民形成」は、ソ連時代に擬似「主権国家」として形成されたことがその基礎となっている。それらの独立国家を担っている当事者は、主観的にはソヴェト期の政策を否定し、そこからの断絶を強調するが、実際には、そうした民族エリートの登場自体がソヴェト政権の民族政策の産物なのである。
 
簡単な結び
 
 以上、3つの角度から論じてきたが、ここから明らかなように、ソ連をはじめとする「現存した社会主義」の経験は、20世紀の政治の主要な問題である「近代化」「民主主義」「帝国とネーション」のいずれとも深くかかわっている(もう少しだけ特定化していえば、「開発主義/開発体制」「ラディカル・デモクラシー」「参加民主主義」「アファーマティヴ・アクション」「多文化主義(マルチカルチュラリズム)」「ポストコロニアル理論」等々に触れあうところがある)。しかも、そのかかわり方が特異であり、しばしば「ねじれた関係」にあるために、ソ連の事例は、単なる「もう一つのケース」を追加するにとどまらず、これらの概念を新しい角度から再考する上で、ある種の独自な問題提起としての役割を果たすのではないかと思われる。
 この報告はそうした諸概念の再考について、具体的な方向性を示し得たわけではなく、ただ単に素朴な問題を提起したにとどまる。それにしても、もしこれらの問題が他の専門分野の方々に対して何らかの有意味な問いとなり得るならば、本報告の狙いは達せられたことになろう。
 
(1)Dominic Lieven, Empire: The Russian Empire and Its Rivals, Yale University Press, 2000, p.413.同じ本の別の個所には、次のようなことも指摘されている。本書はソ連解体後8年という時点で書かれているが、他の諸帝国の解体の前例でいうと、帝国解体後の出来事の連鎖はもっと長い時間的幅で起きている。たとえば、大英帝国解体の過程で生じたパレスチナ問題もカシミール問題もいまもって未解決だ。Ibid., pp.378-379.このようなタイムスパンの取り方にも、示唆的なものがある。ついでにいうと、この本の著者の立場は、どちらかといえば穏健な保守主義であるようにみえる(共産主義に対しては、内在的に理解しようとする姿勢があまりなく、あっさりと切っている)。おそらくそのことと関係して、帝国というものを一概に悪として退けることをしない。革新的(左翼的)な立場の論者がソ連について理想を裏切ったという観点から激しく攻撃することが多いのに対し、著者はむしろ保守的な観点に立つがゆえに、大英帝国やハプスブルグ帝国同様、ロシア帝国もソ連も、矛盾をかかえてはいたが、だからといって必然的に滅びるべきだったとはいえないとする。このような、「保守的な立場からの、ソ連への一定の共感を示した理解」ともいうべきこの見解は、比較的珍しいものだが、それだけに興味深いと思う。しかし、少なくとも日本では、このような議論はほとんどみられない。
(2)塩川伸明『現存した社会主義』勁草書房,1999年,6頁。なお、同書への批評への応答参照。
(3)以下の議論は、次の2つの拙稿と部分的に重なるところがある。塩川伸明「『もう一つの社会』への希求と挫折」『20世紀の定義』第2巻,岩波書店,2001年,同「歴史的経験としてのソ連」『比較経済体制研究』第9号,2002年。
(4)このことはさらに、社会主義政治体制を「全体主義」と特徴づけ、それを「民主主義」の対極におく見地とも結びついている。元来、「全体主義」は民主主義と無縁・対極の存在ではなく、むしろ類縁性をもつ「背中合わせ」の関係にあるとの認識も有力だったが、そのような認識は、《社会主義=全体主義vs民主主義》という図式においては忘れられがちだった。川崎修「全体主義」福田有広・谷口将紀編『デモクラシーの政治学』東京大学出版会、2002年,79, 85頁参照。
(5)歴史に即していうなら、ここに列挙したソヴェト制度の特徴のうちの一部は1936年憲法で取り消され、その後のソヴェトは「ブルジョア議会制」への形態的接近を示したという奇妙な変化がある。また、レーニン時代とスターリン時代の連続・不連続というもう一つの大問題もある。しかし、ここでは、具体的な歴史論よりも「ソヴェト制」の基本性格把握が課題であるので、これらの論点には立ち入らない。スターリン時代に民主主義の空洞化が一層甚だしくなったのは確かであり、それ以前と以後とを同列に論じることができないのはいうまでもないが、そのようになる要因が元から潜在していたということだけを確認しておけば、ここでの議論には足りる。
(6)ジョージ・L・モッセ『大衆の国民化』柏書房、1994年参照。
(7)「特異」という言葉を使うからといって、完全に無比といおうとするのではない。一つには、国民国家以前の古い帝国(ロシア、オスマン、ハプスブルグなど)との歴史的連続性がある(Lieven, op. cit.参照)。もう一つには、抽象的な理念による多民族統合を目指し、主観的には「帝国主義」を否定した「帝国」だったという点で、「普遍国家」アメリカ合衆国(古矢旬『アメリカニズム』東京大学出版会,2002年)と奇妙な類似性をもっている。
(8)ソ連の民族政策における「アファーマティヴ・アクション」的要素について、これまで、塩川『ソ連とは何だったか』勁草書房、1993年,16-24頁,『現存した社会主義』239-245,273-279,328頁,「帝国の民族政策の基本は同化か?」『ロシア史研究』第64号,1999年,また「集団的抑圧と個人」江原由美子編『フェミニズムとリベラリズム』勁草書房,2001年所収などで触れてきた。テリー・マーチンの近著は、ソ連の民族政策を「アファーマティヴ・アクション帝国」という言葉で表現している。Terry Martin, The Affirmative Action Empire: Nations and Nationalism in the Soviet Union, 1923-1939, Cornell University Press, 2001.
(9)宗教政策において、ロシア正教への弾圧が他の宗教への弾圧と同様に強烈だったこと、文字政策において、1920年代から30年代半ばにかけてはラテン文字化が趨勢であり、キリル文字化はほとんど唱えられず、それどころかロシア語までもラテン化しようという主張があったことは象徴的である(これらの政策はいずれも後に変化をこうむるが、だからといって、その後の民族政策がストレートな「ロシア化」そのものになったとはいえない。そうした歴史的経緯について、ここで立ち入ることはできない)。
 
 
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