「分かりやすい文章」ということ
 
 
 ずっと昔に読んだ吉田秀和の文章で、長らく記憶に残っているものがある。次のようなものである。
 
 私もかつては翻訳をした。今はやらない。ちゃんとした翻訳をするのがどんなにむずかしいか、少しずつわかるにつれ、自分の能力と根気の不足を思い知るばかりになったのだ。今ではどうしても必要になると、「自由な書きかえ」とことわる。それだけまた、すぐれた翻訳には大きな敬意を払うようになった。以下書くことは、そういった翻訳失格者の弁として読んでいただきたい。
《音楽のことば》の中にはベートーヴェンの文章が幾つも登場する。その一つの例。
「曲頭の記号について、あなたが私と見解を同じくされることを嬉しく思います。それは、音楽の野蛮時代に由来するものであり、楽章の速度を示すものです。例えば、本来は『陽気に』との意味の『アレグロ』という言葉ほど馬鹿馬鹿しいものがあるでしょうか!この意味からしばしばなんと遠く離れてしまっていることでしょう!なんとしばしば音楽作品がその言葉とは正反対のものを表現していることでしょう!」
 有名な手紙の一節だが、これを読んですぐわかる人が何人いるかしら。同じ手紙の別の訳。
「音楽の野蛮時代に由来する速度表示記号につき、貴下が小生と見解を同じくされるのは欣快の至りであります。何故ならば、例えば、本当は陽気にとの意味のアレグロなる記号を、屡屡速さの概念から遠く離れてしまって使うほど馬鹿げたことがあるでしょうか。そうなると作品自身と記号とは正反対のものになってしまいます」(小松雄一郎訳編《ベートーヴェン書簡選集》下、音楽之友社)。
 ずいぶんかたぐるしい言いまわしだけれど(ベートーヴェンがよそゆきの言葉を使ったら、あり得なくもないかも)、とにかくわかる。
(吉田秀和『新・音楽展望、一九八四‐一九九〇』朝日新聞社、一九九一年、三八二‐三八三ページ)
 
 私がこの文章に強い印象を受けたのは、「分かりやすさ」とは何かという問題を考え込まされたからである。
 分かりにくい文章よりも分かりやすい文章の方がずっとよいというのはごく当然のことである。私自身も、文章を書くときに、「難しい方が高級だ」といわんばかりの気取りは避けたいと念じてきた。学者の中には、いまだにそういう気取りを格好いいと思っている人がいるみたいで、もっと明快に書けることを分かりづらい文体で表現して得々としている人もいる。だが、そういうことに一々めくじらを立てても切りがないので、ここでは深入りしないことにしよう。ともかく、私自身は、ある時期以降、意識的に文体を変え、どちらかといえば「学術論文にしては口語的」と感じられるような文体を敢えて選ぶようにもしてきた。
 ただ、厄介なのは、とにかく柔らかかったり、口当たりがよかったりすれば、それが「分かりやすさ」を意味するのかといえば、そうとは限らないということである。
 先に引用されている二つの訳文を比べてみると、そのことがよく分かる。文体の柔らかさ/固さという基準からいえば、第一の訳文の方がずっとこなれていて、現代風であり、通りやすい。ところが、第一の訳文は、はっきりいって誤訳である(吉田秀和自身は、ずばっとそういうのを避け、それどころか、自分は「翻訳失格者」だから偉そうなことはいえないと予め断わっておくという、優しい心づかいをみせているが)。そして、その結果として、実質的に意味の通らない――何をいいたいのか分からない――文章になっている。これに対し、第二の訳文は、「ずいぶんかたぐるしい言いまわし」には違いないが、原文のいわんとするところを正確に捉えているおかげで、実質的な意味をとるのに困難はない。
 「分かりやすい文章」とはどちらのようなタイプの文章を指すのだろうか。もちろん、文体も平易で、内容的にも論理の筋が通っていれば、それに越したことはない。しかし、いつでもそのようにできるとは限らない。人はあることに一所懸命になると、なかなか他のことにまでは手がまわらないものだから、一方を重視すると他方はなおざりにされがちだということもよくある。これはまた、とりあげる題材によっても違うだろう。論理の筋を通すということがそれほど難しくはない事柄もあれば、その点に最大限の努力を傾注しないと、なかなか筋の通った文章が書けないというケースもある。そういう場合に、表面的な「分かりやすさ」だけを追求するのは、かえって本来の意味の「分かりやすさ」を犠牲にすることにはならないだろうか。
 広く一般読者向けに書かれた本とか、テレビでの発言とかを見聞きすると、文体は確かに軟らかく、今風だが、何をいいたいのかが分かるという意味では決して分かりよくない文章が非常に多いように思われてならない。そういう文章が「大衆的」――「民主的」というニュアンスさえある!――で、文体が堅苦しいのは古くさく、「権威主義的」だ、という発想があるようだが、それが実質的な「分かりよさ」を犠牲にしたものだとしたら、どう考えたらよいのだろうか。
 突飛な連想だが、かつて「言語明瞭、意味不明」なる標語で知られた元首相がいた(竹下登)。政界を泳ぐにはその方が好都合だったらしい。ひょっとしたら、マスコミで活躍する上でもそうなのかもしれない。大衆民主主義の時代、そして情報の大量化の時代にあっては、それもある程度まで無理からぬことなのかもしれない。ただ、それが一見「言語明瞭」ではあっても実は「意味不明」だという自覚だけは失いたくないものである。
 
(一九九六年執筆)
 
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