「アーカイヴ(アーカイブ)」という言葉について
 
 
 近年、日本語の文章の中で「アーカイヴ(ないしアーカイブ)」というカタカナ書きの表現に出会う機会が増えた。これに当たる西欧諸語はもちろん古い伝統をもっているし、日本でもそれに由来する外来語表現は以前からあった。ただ、比較的最近まで、この言葉を使うのは主として歴史研究者という特殊な業界に限られ、またそのことと関係して、たとえばドイツ史研究者やロシア史研究者は「アルヒーフ」、フランス史研究者は「アルシーヴ」、イギリス史研究者やアメリカ史研究者は「アーカイヴ」というように、それぞれが研究対象とする国の表現に沿った表記をとるのが普通だった(以前から歴史家以外にこの言葉が知られていた例としては、ドイツ・グラモフォン傘下の古楽専門レーベルとしてArchivというのがあるが、これも発行元がドイツであることから、日本の音楽愛好家の間でも「アルヒーフ」というドイツ語風の発音で知られている)。
 近年の特徴は、そうした狭い業界だけでなく、もっとずっと広い範囲でこの言葉が日常的に使われるようになったことにある。また、ほとんど専ら英語風の「アーカイヴ」という書き方がとられ、これが他の書き方を押しのけそうな勢いである。
 英語(それもアメリカ英語)が他の外国語を押しのけて「国際語」の代表格となる趨勢は広く見られるもので、今ここでそのことをあげつらうつもりはない。ここで考えてみたいのは、この言葉が近年になって「古典的」用法から離れて一種の流行語化する動きがどのような経過をたどって生じたのかという問題である。言葉の使われ方が変化するのは世の常であり、新しい用法を「これは間違っている」と非難するのは私の趣味ではないが、変化がどのようにして起きたかを跡づける作業はやはり必要ではないかと考えるからである。私自身、西欧諸語におけるこの言葉の用法およびその歴史に詳しく通じているわけではなく、この小文はあくまでも雑駁な知識に基づく暫定的な覚書である。「ようである」とか「らしい」といった、やや無責任な表現を多用するのも、そうした事情による。ありうべき不正確さについて、広くご教示をいただけるなら大変幸いである。
 
 まず、やや小さな点だが、複数形か単数形かという問題に触れておきたい。というのも、ある時期までの英語およびフランス語では、この言葉はほぼ必ず複数形で使われていたのだが、近年では単数形での用法がありふれたものとなってきたように見えるからである。このことに私が気づいたのは、フーコーの用語法についての松浦寿輝による解説を通してだったので、先ずそれを引用しておく。
 
「通常は必ず複数形で用いるles archives(古文書ないしその保管庫)をあえて単数形に置き、l'archiveという破格の用法で『言表(エノンセ)』のシステムを定義したうえで、みずからの『考古学(アルケオロジー)』とはこの『史料体(アルシーヴ)』の探査にほかならず、起源(アルケー)へと向けて時間軸を遡行してゆく復元の学ではないのだと言っているのである」(『フーコー・コレクション3(言説・表象)』ちくま学芸文庫、二〇〇六年、四五三頁)
 
 この解説に対応するフーコー自身の記述は以下のようになっている。
 
「私は、古文書=記録態(アルシーヴ)という言葉で、ひとつの文明によって保存されてきたテクストの全体をではなく、また人々が災厄から救いだすことができた痕跡の総体をでもなく、ひとつの文化において、言表の出現と消失を決定づけ、言表の残存と消去を決め、出来事にしてであるという言表の逆説的な存在を規定している規則のゲームを呼ぶことにする。言説の事実を古文書の一般的境位において分析するとは、言説の事実を資料(ドキュマン)(隠れた意味作用や、文形成の規則の)としてではまったくなく、記念碑(モニュマン)として考えることである」(同書、一六六頁)
 
 晦渋な文章で、解釈は容易でないが、ともかく「テクストの全体」ないし「痕跡の総体」(これなら伝統的な古文書の意味に近い)ではなく、「規則のゲーム」を指して、アルシーヴと呼ぶということらしい。だからこそ、非可算名詞として、単数形の表記をとるということなのだろう。
 さて、英語でもフランス語と同様、古文書(館)という意味でのアーカイヴは元来、複数形で用いるのが普通だったようである。古文書というものはたった一枚の紙切れからなることは滅多になく、何枚もの膨大な紙片の山を思い浮かべるから、それがいつも複数形で書かれるのは当然だが、どうして「文書」ならぬ「文書館」も複数形で表記されるのかはやや分かりにくい。素朴に考えるなら、一つの施設を指すときは単数形、それらを多数念頭におくときは複数形と使い分けてもよさそうなものだが、どうも、一つの施設の名称(固有名詞)でも複数形にするのが普通らしい。施設を指すときにも、建物よりはむしろそこに収蔵されている古文書類を念頭におくからかもしれない。
 これに対し、ドイツ語・ロシア語では事情が異なり、特定の文書館を指す場合には単数形でいうのが普通のようである(レコード・CDのレーベルとしての「アルヒーフ」も単数形)。理由はよく分からないが、ひょっとしたら文書よりも施設の方を「アルヒーフ」と呼ぶ用法が先に確立したからかもしれない。ドイツ語についてはよく知らないが、ロシア語の場合、「アルヒーフ」という単語では文書よりもむしろ施設(文書館)を思い浮かべる方が普通のように思う。文書を指す場合、「誰それのアルヒーフ(誰それにかかわる文書類)」という言い方もあることはあるが、むしろ「アルヒーフ資料(архивные материалы)」「アルヒーフ文書(архивные документы)」という言い方をすることが多い。
 ともかく、ドイツ語・ロシア語はさておき、英語・フランス語では、この言葉はほぼ常に複数形で使うというのが伝統的用法だった。そういう中で、フーコーが一九六〇年代に単数形のアルシーヴという用語法を提出したのは、それまでにない意味を込めた新語法ということになる。
 しかし、このような新語法が直ちに広まったわけではなさそうである。フーコーの独自な用語法のうちでも、エピステーメーなどに比べてアルシーヴの方はそれほど一挙に流行になったようには見えない。ところが、確とはいえないがおそらく二〇‐二一世紀の境あたりから、全く別の文脈で、英語の「アーカイヴ」という言葉が単数形で広く使われるようになり、日本語でもカタカナ書きで「アーカイヴ(アーカイブ)」と書く例が増えたように見える。
 
 この言葉の新しい用法は、いくつかの異なった場面で――おそらく偶然の一致で、時期的にほぼ重なり合いつつ――起こってきたようだ。そのはしりは、おそらく映画に関する「フィルム・アーカイヴ」の登場ではないかと思われる(これも英仏では主に複数で書かれるようだ)。映画研究というものがいつ頃から盛んになったのかもよく知らないが、ともかく近年の隆盛に伴い、それまで散逸しがちだったフィルムを保存する運動が盛んになり、そうした施設もあちこちにできるようになったらしい。それと同じといえるかどうか分からないが、おそらくはその影響で、日本でもNHKに保管されている各種映像・音源等を系統的にまとめた施設が二〇〇三年につくられ、それをもとにした番組ともども「NHKアーカイブス」と名付けられている(英語に忠実な表記では「アーカイブズ」となるはずだが、「ブズ」という風に濁音が続くのが日本人にとって発音しにくいので「アーカイブス」にしたのだとのこと)。
 こうした映像・音源類の保存とほぼ期を同じくして、インターネット上の資料を保存したものもつくられるようになった。これはInternet Archive(単数形)と呼ばれているようだ。
 もう一つ違う系統のものとして、社会調査・統計調査の個票データの収蔵というものもある。これは欧米では第二次大戦後の早い時期から始まっていたようだが、それが「アーカイヴ」という名称で呼ばれるようになったのがいつ頃からかはよく分からない。日本でも一九八〇年代くらいからそうしたものをつくる動きが始まったようだが、初めのうちは「データバンク」と呼ばれることが多かったようだ。東京大学社会科学研究所が一九九八年に創設したSSJデータアーカイブ(Social Science Japan Data Archive)」(この「アーカイヴ」は単数形)は「アーカイブ」の名を冠した早い例ではないかと思われる。
 更にもう一つの用法はコンピュータ用語で、おそらくこれが最も新しい用法だろう。コンピュータ技術に通じていない私にはよく分からないが、複数のファイルを圧縮して一つのファイルにしたものを「アーカイヴ」(日本語に訳すときは「書庫」)と呼ぶようで、これは単数で使われるようだ。複数のファイルをまとめる機能のことを動詞でarchiveということもあり、これは訳すと「書庫化する」ということになるらしい。
 
 かなり怪しげな知識にもとづいてだが、とにかくいくつかの新しい用語法の登場についてざっと概観してみた。こういう風にして、様々な新しい用語法が現われてきたことにより、あちこちで「アーカイヴ」という言葉が使われるようになってきたというのが、近年の状況ではないかと思われる。
 その結果、この言葉は今や、古文書を商売道具とする歴史家だけの専門用語ではなくなり、広く日常的に使われるようになった。そこでは、「様々な情報を集中的に保管したものや場所」(実体的な意味での場所・保管庫だけでなく、ヴァーチャルなサイトも含めて)といった意味で使うのが普通のようだ。これはフーコーの用語法とはかけ離れているが、古典的歴史学が尊重してきた古文書以外のものまで広く「情報の塊」と見る点では、ある種の共通性があるかもしれない。単数形の表現が普通になったのも、そうした拡散と関係しているのではないかと思われる。古文書だけが対象である場合には、紙切れが何枚もあるのだから複数形にするのは当然だが、情報とかデータとか言説とか映像とかになると、どのように数えてよいのかがはっきりしない。ビット数などで数えられなくもないが、むしろ「非可算名詞」と扱った方がよくなる、ということではないだろうか。
 古典的には、図書館と文書館ははっきりと異なる存在だった。前者は主として公刊文献を収蔵し、後者は主として非公刊資料を収蔵してきたからである。そして後者だけを指す用語として、「アルヒーフ」「アルシーヴ」「アーカイヴ」という言葉が使われてきた。しかし、最近の新しい用語法では、前者も後者もどちらも「アーカイヴ」の一種だと理解することも可能になってきたようにみえる。歴史家の間では、公刊文献と非公刊文書の史料としての質の違いを意識し、依然として両者を区別するのが普通だが、「情報」という観点からは、あまりそういう区別立てをするまでもないという感覚が広まりつつあるのかもしれない。こうした区別にこだわらざるをえないという意味では、歴史家は保守的だといわれるかもしれない。もっとも、ドイツ・ロシアについて「アルヒーフ」という表記を伝統的にとってきた歴史家たちの間でも、英語風の「アーカイヴ」と呼ぶ人が増えてきたという意味では、歴史家も流行と無縁ではないのかもしれないが。
 
 この小文にはとりたてて結論のようなものはない。冒頭にも記したように、言葉の使い方が移り変わること、同じ言葉が様々に異なる意味で使われることは、言葉というものの宿命ともいうべき現象で、「元来こういう意味だったこの言葉を、こんな意味で使うのは間違っており、けしからん」などというような発想を私はとらない。ただ、言葉を商売道具とする世界の人間としては、様々な用語法の相互関係、その変遷の歴史的経緯といったことについて、できるだけ鋭敏であるべきではないかと思う。不十分かつ雑駁な覚書であるが、そのような作業の一環ないし捨て石となることができれば幸いである。
 
 
(最初の思いつきは二〇〇七年だが、二〇〇九年二月に補筆してアップロード)
 
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