スターリン批判と日本――予備的覚書
 
 
はじめに
 
 「スターリン批判と日本」というテーマがどの程度の人の関心を引くかは、にわかには何ともいえない。スターリン批判半世紀という記念の年(二〇〇六年)にほとんど行事らしいものがなかったことからすると(1)、一般の関心は高くないというのが現実かもしれない。
 社会主義が過去のものとなった以上、その歴史の一こまに過ぎないスターリン批判(一九五六年)についても、今頃ほじくり返してもあまり意味がないという感覚が一般なのかもしれない。確かに、長い時間が経過し、その間にソ連・東欧の社会主義圏の解体という事態を挟んでいる以上、現状と直結する形での「総括」やら「教訓化」やらは時代錯誤になりかねない。スターリン批判をバネにして社会主義論の再検討や新しい左翼運動の形成を目指すという考えは、一九六〇‐七〇年代にはかなりの広がりをもち、アクチュアルなものであるかに見えたが、今日の情勢にそれを直接持ち込もうとしても、空回りとなる可能性が高い。
 そういう事情を念頭におくなら、現代との性急な直結は避けるべきだろうが、それとは別に、「過去の事件となったからこそ、歴史として取り上げる」という観点から、思想史・社会運動史の一つのテーマとすることは可能であり、それにはそれなりの意義があるはずではないだろうか。それがなされないのは、単純に「知らないから」とか「無意味だから」ということだけでなく、むしろ「忘れてしまいたい」という心理が作用しているのではないかという気もする(2)
 もっとも、私自身は日本思想史や社会運動史を専攻しているわけではないから、そうしたテーマにある程度の関心をもってはいても、それを正面から論じる資格はないし、関連知識も断片的なものにとどまっている。いつか遠い将来に検討してみたいという気持ちもなくはないが、まだその準備はない。そういう状況にある中、やや偶然的なきっかけで、ほんの少しだけではあるが関連情報の整理を試みることになった。本格的な情報収集をしたわけではなく、至って中途半端なものだが、とりあえず、将来への備えとして心覚えを書いてみることにした(3)
 いま書いた「偶然のきっかけ」というのは、最近読んだ大嶽秀夫『新左翼の遺産』の中に、「この時期には、ソ連共産党第二〇回大会でのフルシチョフ秘密報告(スターリン批判演説)が直ちに翻訳され、学生たちの間で回し読みされた」という一文を見出したことである(4)。この文章は、冒頭の「この時期」がいつを指すのかが明示されておらず、歴史記述としては問題があるが、とにかくこれを読んだ私は、この記述のもととなる事実がどういうことだったのかに関心を引かれた。この大嶽著は出典注に誤記があり(5)、典拠を探すのにやや骨を折ったが、調べていくうちに次の文章に行き当たった。
 
「折しもソ連共産党二〇回大会でのフルシチョフ秘密報告が強烈な話題となり、はやくもその日本語版が五月ごろには駒場にでまわり、学生活動家の間で廻し読まれた」(富岡倍雄「ブント結成まで」より(6)
 
 しかし、これを見つけて一件落着ではなく、もう一つ別の疑問が出てきた。フルシチョフ秘密報告のテキストは「秘密報告」である以上当然ながら、その時点(一九五六年二月二五日)では外部世界に知られず、それが広く知られるには一定の時間がかかった。最も決定的だったのは、米国務省が英文テキストを六月四日に公表したことである。それをうけて日本語版が出回ったとすると、「五月」では早すぎる。もっとも、秘密報告があったらしいという情報はもう少し前から流れていたので、その紹介ということなら、六月より以前にさかのぼってもおかしくはない。右に引用した記述は当時の記録ではなく後年のもの(初出は一九九四年)だし、「ごろには」という風に書かれているので、あまり細かい正確さにこだわっても仕方がないが、当時の日本の左翼学生や「進歩的知識人」たちのおかれていた情報環境を歴史的に再現するという観点からは、もう少し詳しいことを知りたいという欲求に駆り立てられる。そこで、これを機会に多少のことを確認してみようという気になったわけである。といっても、それほど本格的な調査に直ちに取り組むことはできず、とりあえず、当時の『朝日新聞』『毎日新聞』両紙縮刷版、『世界』『中央公論』のバックナンバーを中心に、若干の資料にざっと当たったにとどまる(以下、これらの新聞・雑誌への言及はすべて一九五六年のものなので、年号の表記を省く)。その意味で、ごく初歩的な調査にとどまるが、これまでに分かった限りでのことを書き留めておきたい。
 
一 一九五六年二月後半から三月上旬まで
 
 当時の日本の新聞は、第二〇回ソ連共産党大会(二月一四‐二五日)のことを開幕からほぼ連日、かなり詳しく報道している。もちろん、秘密報告についてはその時点では知るよしもなかったが、開幕日のフルシチョフ報告がいわゆる平和共存路線を打ち出したことはかなり大きな紙面をとって報じられている。また、特に一六日のミコヤン演説がスターリンの経済学論文や『共産党史小教程』(いわゆるスターリン党史)を批判したことは大きな注目を引き、相当詳しく伝えられている。
 私が縮刷版を見た二紙のうちでは、『毎日新聞』の方が相対的に報道量が多いので、こちらから見ていくことにする。先ず、ミコヤン演説を伝えた二月一九日夕刊は、一面トップの見出しに、「スターリン、地に落つ」と付け、翌二〇日朝刊には、「スターリン批判をこうみる――五氏に見解を聞く」という大きな記事を載せている(五氏とは、曽根益、伊部政一、土居明夫、直井武夫、猪木正道)。二一日夕刊には、「スターリン粛清再検討せよ――仏文化人申入れ」という記事と、「中共紙は沈黙を守る――ミコヤン氏のスターリン批判」という記事が並んでおり、二二日朝刊には、小泉信三の「スターリン批判問題」という、新聞にしては長めの論考が掲載されている。同じ党大会での歴史家パンクラトヴァの演説(二一日)は二三日朝刊に、彼女の写真入りで伝えられている。
 大会報道にすぐ接して、日本人による論評も多数載っている。二五日の荒正人「論壇の動き(今月の論調)」は、この大会の日本論壇への衝撃について論じている。大会閉幕直後の二六日からは、七回にわたって「ミコヤン転換の後に来るもの」という連載記事が載り、その第三回(二八日)は「スターリン批判」となっている。同じ二八日の学芸欄は、「”スターリン批判”を追う思想界」として日本の論壇の状況について論評しているが、その書き出しは次のようになっている。「”進歩的”知識人は『予想されていたことで、当然のことがいわれたまでだ』と表面冷静を保っているが、従来から批判的だった人をのぞくと、大部分の人の動揺はかくせない」。三月三日にはミコヤン演説の要約が掲載されたほか、「その後の進歩主義者たち」という記事は、日本共産党系だったらしい知識人五人の声を匿名で紹介し、当時の戸惑いと混乱を伝えている。更に三月六日の一面トップ記事は、『歴史の諸問題』がトロツキーの名を三〇年ぶりに挙げ、「共産主義の創設者」と呼んだことを伝えている。
 『朝日新聞』の場合、二月一九日の一面トップ見出しが「スターリン主義を攻撃――ミコヤン副首相」となっており、同じ面に山川均の「ミコヤン演説を読んで」、二面にも関連する解説と社説、三面と一一面にも関連記事が載っていて、この演説の衝撃力を窺わせる(一一面の記事は日本共産党幹部の反応を探ろうとしたものだが、ノーコメントだったと伝えている)。その後の続報は『毎日新聞』に比べると少なめだが、フランス知識人の「粛清裁判再審」要求の記事(二一日)は『毎日新聞』よりも詳しく、また二三日掲載のハリソン・ソールズベリー(アメリカのジャーナリスト)の寄稿は、ミコヤン演説で言及されたクーン、アントノフ=オフセエンコ、コシオールらの名誉回復について解説している。
 このような日刊紙の報道ぶりを念頭においた上で、三月初頭刊行の総合雑誌の四月号を見てみよう。『世界』四月号は、フルシチョフ報告(もちろん秘密報告ではなく、公開報告の方)とミコヤン演説の要旨を紹介するにとどまり、関連記事は一切ない。「編集後記」には次のような文章がある。
 
「今月は、フルシチョフ、ミコヤン両氏の第二十回共産党大会における発言のうち、大きな問題となった個所を、外国通信社の要約によらず、航空便で送られてきたプラウダ紙に基いてお伝えした。これについての諸家の論評も、正確な全文が入手した後で、お願いするのが当然と考えたので、本月はただ両氏の演説を御紹介するに留めた次第である。これも来月の特集号にご期待いただきたい。
 ミコヤンのスターリン批判が伝えられて新聞を賑わしたのは二月十九日、既に本月号の締め切り日となっていた。校了日が二十五日、その短い間に、露文の全文を入手して正確なものを読者にご紹介するのは、非常に忙しい仕事であった。記事の配列も急に変更しなければならなかったし、既に掲載を予定していた原稿もやむなく休載せざるを得なかった」(旧漢字を新字体に改めた。以下同じ)
 
 他方、『中央公論』四月号は、「特別付録・動きつつあるソヴェト」として、フルシチョフ演説要旨とミコヤン演説全文に加えて、「フルシチョフ・ミコヤン演説を読んで」という特集、その他、若干の関連記事を載せている。寄稿者は、山辺健太郎、蝋山政道、山川均、鈴木正四、後藤譽之助、堀江正規、清川勇吉、野々村一雄、南信四郎、林健太郎、武田泰淳と、多士済々である。
 『世界』がこのように『中央公論』より出遅れたのは、その発行日が『中央公論』よりも数日前だった――『世界』の広告は『朝日新聞』三月八日、『毎日新聞』三月九日、『中央公論』の広告はそれぞれ一〇日と一一日に出ている――という事情、また正確な原文を入手してから論評すべきだという慎重な姿勢も関係していただろうが、大会前夜の時期における準備の度合いにもある程度の差があったように思われる。
 
二 三月半ばから五月頃まで
 
 今みたように、二月下旬から三月上旬にかけての時期には、ミコヤン演説を中心として「スターリン批判」の衝撃が論じられ始めていたが、フルシチョフ秘密報告自体はまだ知られていないという状況だった。そうした中で、新たな展開をもたらしたのは、三月一六日の『ニューヨーク・タイムズ』報道である。これはハリソン・ソールズベリーの記事で、第二〇回党大会でフルシチョフが秘密報告を行なったらしいこと(但し、日付を二四日と誤記している)、その内容はミコヤン演説も顔色なからしめるほどの衝撃的なものだったらしいことを報じている。具体的内容はそれほど詳しくはないが、特にトゥハチェフスキー事件が重視され、フルシチョフ報告の背後にジューコフをはじめとする軍部の影響があったのではないかと推測しているのは興味深い。それ以外には、レニングラード事件についての暴露があったことを伝えている(7)。このニュースは『朝日新聞』『毎日新聞』とも三月一七日および一八日に大きく報じており、これが広い範囲の人々の注目を引いたことは確実である。『朝日新聞』一八日の「天声人語」は、ソールズベリーの報道を取り上げて、「どの程度まで本当かはまだ分らぬが、ミコヤンのスターリン批判と照し合わせてみても、ありそうなことに思われる」と書いている(アメリカにおける情報入手過程については、末尾の補論2参照)。
 スターリン批判の最初の余波ともいうべき事件は、スターリンの郷里であるグルジアで起きていた。スターリンの命日にあたる三月五日の献花行進から始まった大衆運動が拡大し、一〇‐一一日には軍の導入と流血に至っていたのである。このグルジア暴動については、もちろん当時のソ連公式報道では秘匿されたが、フルシチョフ秘密報告についての情報とほぼ同じ時期に国外に漏れ、かなり大きく報道された(8)。二通りのビッグ・ニュースが同じ日の紙面に載ったことは多くの読者に強い印象を与えたものと思われる。また、『毎日新聞』一九日の記事は、東ドイツのウルブリヒトが秘密報告を確認したと報じている。
 国外への情報流出とは別の話だが、ソ連国内各地の党組織で秘密報告が読み上げられたのは三月中旬以降のこととされる(9)。もっとも、グルジア暴動の経緯は、もう少し早い段階で秘密報告が知れ渡っていたのではないかと推測する余地を残しているが、この点はいまは留保しておく。ともかく、国内でも国外でも、秘密報告に関する情報は二月末から三月前半にかけて少しずつ洩れ始めていたにしても、三月半ばを境に、より広い範囲に知れ渡るようになったと考えられる。そのことを別の形で裏付けるのは、三月末と四月初頭に、『プラウダ』と『人民日報』が相次いで長大な関連論説を出したという事実である。
 まず三月二八日には、『プラウダ』に「なぜ個人崇拝はマルクス・レーニン主義の精神と無縁か?」と題する長大な無署名論説が掲載された。第二〇回党大会決定では名指しされずに批判されていた「個人崇拝」が実はスターリンに関わるものだったことを明示したものである。「個人崇拝」の具体的実情、その原因などの問題についての掘り下げは浅いが、ともかく長大な論説で問題の所在が明示されたということ自体に意義があったといえる(10)。この『プラウダ』論文もすぐ日本に伝えられた(『毎日新聞』三月二八日夕刊、『朝日新聞』三月二九日)。続いて四月五日には、中国共産党の『人民日報』が有名な論説「プロレタリアート独裁の歴史的経験について」を掲載した(11)。これも『毎日新聞』『朝日新聞』とも四月五日に報道している。
 『プラウダ』も『人民日報』も、フルシチョフの秘密報告に直接言及しているわけではなく、第二〇回党大会における「個人崇拝」批判を一般的な形で受けたという体裁のものだが、このような発表のタイミングから判断して、三月半ば以降に国内外で秘密報告についての情報が広まり出す中で一定の対応を迫られたためではないかという仮説が立てられる。いずれにせよ、この頃までには、テキスト自体は未公表ながらも、どうやら秘密報告があったらしいという情報はかなり広く出回っていた。
 欧米でソ連の動向を注視していた人たちが同時代的に書いた文章も、当時の情報環境を知る手がかりとなる。アイザック・ドイッチャーのこの当時の文章を後に集めた論文集として『ロシア・中国・西側』という本があるが、その第五章は第二〇回ソ連共産党大会にかかわる一九五六年執筆の短文を数篇収めている。そのうち二月二六日付と二九日付の二つの文章は秘密報告には触れておらず、公開討論の記録に即した解説が行なわれているのに対し、四月七日付の文章には、「フルシチョフが、今では有名になったあの秘密会議で、スターリンの政治的記録を攻撃した」という記述があり、同じ日付のもう一つの文章には、「『プラウダ』はフルシチョフの秘密演説を反映した論文で、早くもスターリンは『甚だしい法違反』の罪を犯した、と断言した」とある(12)。ここで言及されている『プラウダ』論文はおそらく三月二八日の論説を指すものと思われる。こうしたことから、ドイッチャーのようなソ連ウォッチャーも、二月末の段階では秘密報告を知らなかったが、三月のどこかの段階で知るに至り、三月二八日『プラウダ』論説や四月五日『人民日報』論説の直後の時期に、秘密報告に触れた文章を書いたという順序であることが分かる(三月二二日付で公表された彼の文章――翻訳は『中央公論』七月号――については後述)。
 もう一人の有力なソ連ウォッチャーとして、亡命メンシェヴィキのボリス・ニコラエフスキーについても触れておく。当時ニューヨークで発行されていたメンシェヴィキ機関誌『社会主義通報』四月号に彼が載せた文章には、「〔フルシチョフが〕非公開会期で、スターリンを糾弾する長大な発言をした」との記述があるが、短文にとどまり、詳しい内容には立ち入っていない(13)。五月号の文章の冒頭には、「ソ連共産党第二〇回大会非公開会期でのフルシチョフ報告はこれまでのところ公表されていないが、その内容に関する正確な情報は徐々に外国の新聞に浸透してきている」とある(14)。この論文は連載第一回だったが、六月に米国務省発表があったため、ニコラエフスキーは元の論文の続きを書くのを一旦停止して、六月号に秘密報告自体を論評した文章を急遽掲載し、その後で、元の論文の続きを一〇月号、一二月号に載せた(15)。こうした経緯は、秘密報告の存在自体は米国務省発表以前からも徐々に知られるようになっていたとはいえ、テキストそのものの公表はやはり大きな衝撃だったことを物語る。
 さて、こういうわけで四月上旬までには、秘密報告があったらしいということが相当程度知られるようになっていたが、その時点で刊行された日本の総合雑誌五月号について見てみよう。『世界』五月号は、「共存は新段階へ」と題された特集も第二〇回ソ連共産党大会の平和共存路線を意識したものだが、より直接的には、「問題は何か――フルシチョフ・ミコヤンの発言をめぐって」と題する討論(目次では、副題は「フルシチョフ・ミコヤン演説批判」となっている)が掲載されている(参加者は、前芝確三、猪木正道、小椋広勝、野々村一雄、岡倉四郎)。もう一つの討論「革新政党」も、共産党だけを念頭においたものではないとはいえ、やはり第二〇回ソ連共産党大会をうけたものである。このように、スターリン批判に関する諸種情報の影響は確かに感じられるものの、正面から詳しく論評したものはまだない。
 なお、この号に青木書店が掲載した広告に、『ソ同盟共産党第二十回党大会フルシチョフ・ミコヤン報告』があり、「五日発売」とある。合同出版社も、フルシチョフ報告を含む『ソ同盟共産党第二〇回大会』第一分冊、ミコヤン演説を含む第二分冊を、三月と四月に相次いで出版している。この素早さは注目に値する。
 『中央公論』五月号には、渡辺善一郎「スターリン批難とクレムリンの人々」という論文が載っている。毎日新聞の前モスクワ特派員によって書かれたこの論文は、『ニューヨーク・タイムズ』の秘密報告報道にも触れている。
 続いて、五月初頭刊行の六月号を見てみよう。『世界』六月号には、「スターリン批判以後」という特集があり、A・ロス「イギリスを衝くソ連」、嬉野満洲雄「コミンフォルムの解散」、原子林二郎「東の新風――個人崇拝の清算は進む」、A・ワース「フルシチョフ秘密報告の真相」と並んでいる。『中央公論』よりもやや出遅れた観のあった『世界」が何とか立ち遅れを克服しようとしているといった印象を受ける。これらのうち、原子論文とワース論文は『ニューヨーク・タイムズ』の秘密報告報道をやや詳しく紹介している。他方、『中央公論』六月号は、もう前号までに一通りのことは触れたということなのか、関係する企画を載せていない。
 
三 六月上旬
 
 周知の通り、秘密報告のテキスト(英訳版)を米国務省が発表したのは六月四日のことである。日本の新聞も、直後にこれを大きく伝えている(『毎日新聞』『朝日新聞』とも六月五日)。これによって、それまで噂にとどまっていた秘密報告が、とうとうアメリカ経由で明らかにされたわけである。
 ちょうどこの時期に刊行された『世界』七月号は、「民主主義・社会主義・共産主義」という特集を組み、G・D・H・コール「果して一線を画すべきか」、福田歓一「スターリン批判をどう受取るか」、気賀健三「集団指導と独裁」、クロスマン「ポーランドの新しい革命」、そして討論「ソ連の変貌――それは民主主義の再生か」を載せている(討論参加者は、前芝確三、岡本清一、林健太郎、清水幾太郎)。いわば総力特集である。ここに掲載された一連の文章の正確な執筆時点は不明だが、この号の新聞広告が『毎日新聞』では六月八日、『朝日新聞』では六月九日に出ていることから考えて、米国務省発表以後の執筆ということはありそうにない。しかし、既に間接的な情報は多数あったから、それらを意識して書いたということが推定される。
 福田歓一論文そのものの詳しい検討は別の機会に譲らなくてはならない(16)。ここではただ、この時点の福田(なお、当時彼はまだ三二歳の若手だった)がどのような情報を手にしながらこれを書いたのかということを確認しておきたい。この論文には、「伝えられるフルシチョフの秘密報告」という文言がある。内容的には、大会でのミコヤン演説を重視しているほか、三月の『プラウダ』論説や四月の『人民日報』論文、『世界』前号掲載のワース論文などにも言及している。『現代政治と民主主義の原理』に付けられたノートでは、「フルシチョフによるスターリン批判、わけても秘密報告の真実性が否定しがたくなった時点」での寄稿だという説明がある(17)。秘密報告の中身そのものはまだ目にしていないが、ともかくそういうものがあったらしいという前提に立って、その時点までに入手しきれる範囲内の情報を総合して書こうと努めたことが窺われる(18)
 同じ号の座談会は、冒頭に編集部から次のような発言がある。「去る二月のソ連共産党大会で行われた『スターリン批判』の意味については、世論に与えたその影響が大きかっただけに、いろいろな見かたが述べられているようであります。……今日、先生がたにお集まりいただきましたのは、この『批判』以後、時がたつにつれて、少しずつではありますが、信憑しうる判断の材料に接することができるようになりましたので、この『批判』のもつほんとうの意味をできるかぎり明らかにしていただきたいと考えたからでございます」。この座談会における討論の内容――出席者の立場の間に微妙なズレがあり、なかなか興味深いものがある――には、ここでは立ち入らない。ただ、どのような情報を判断材料としていたのかという点にかかわって、『プラウダ』と『人民日報』論説が言及されていることを確認するに留める。時間的前後関係からいえば、『ニューヨーク・タイムズ』による秘密報告のニュースも当然知られていたはずだが、直接の言及はない。もちろん、米国務省発表も言及されていない。しかし、ともかく「スターリン批判」という衝撃的事態をどう受けとめるかが重要問題だという認識は共通の前提となっている。
 この『世界』七月号を当時の若い学生がどのように受けとめたかに関する一つの証言がある。後に日本を代表するロシア史研究者となる和田春樹の半世紀後の回想である。
 
「どちらも〔福田論文および座談会を指す〕フルシチョフ秘密報告発表以前に書かれたり、話されたりしたもので、格別の印象は残さなかった(19)」。
 
 これはやや不思議な気がする。確かにこの号の準備過程ではまだ米国務省発表を目にすることはできなかっただろうが、秘密報告があったらしいということ自体は既にあちこちで言及されだしていたし、福田論文にも「伝えられるフルシチョフの秘密報告」という文言があることは上記の通りである。また米国務省公表が雑誌発売とほぼ同時だった以上、この号の執筆者や編集者がまだ知らなかったそのニュースも、読者の頭にはほぼ同時に入っていたはずである。とすれば、当時のソ連の政治情勢に強い関心をもっていた読者であるならば、そのニュースを念頭におきつつ、この号を熱心に読んだということが想定される。この小文の冒頭に、当時の学生運動活動家たちが直ちに秘密報告の翻訳を回覧していたという富岡倍雄の文章を紹介したが、そうした記述とも照らすとき、当時の和田――この年の春に大学に入ってまもない一年生――は、こうした問題にまだあまり強い関心を払っていなかったのではないかと推察される(20)。右の引用個所のすぐ後には、秘密報告テキスト公表後の丸山眞男論文についても、「私にはほとんど影響していない」とあり、一〇月段階でもまだそれほど強い関心を寄せていなかったことが窺われる(九月に付けた日記からの抜粋が紹介されているが、これも一般的なものにとどまる)。なお、同じ回想はハンガリー事件についてはより詳しく書いており、衝撃がより大きかったことを物語っている(21)
 同時期に刊行された『中央公論』七月号には、ドイッチャーの「ソヴェト――一九五六年」という論文が載っている。これは三月二二日付『リポーター』紙掲載とのことだが、秘密報告には言及せず、フルシチョフの公開演説とミコヤン演説の差異を論じるにとどまっている。おそらく、三月一六日の『ニューヨーク・タイムズ』報道よりも前の執筆ではないかと推測される。
 
四 六月半ばから一〇月上旬まで
 
 六月四日に公表された米国務省版秘密報告テキストは、まもなく世界中に広まり、センセーションを巻き起こした。日本でも、『毎日新聞』が早い時期に七回連載で抄訳を掲載した(六月一〇‐一七日)。これは抄訳とはいえ、かなり詳しいものである。そして、全文翻訳は『中央公論』八月号に掲載された。この号の広告は『朝日新聞』では七月一〇日、『毎日新聞』では七月一一日に出ているので、遅くも七月半ば以降は、日本の読者にも広く読まれるようになったということになる。
 秘密報告の内容が広く知れ渡るという情勢の中で、イタリア共産党のトリアッティは、雑誌『ヌオーヴィ・アルゴメンティ』誌の質問への回答(同誌、五=六月号、まもなく『ウニタ』紙六月一七日に転載)およびそれにすぐ引き続くイタリア共産党中央委員会報告(『ウニタ』紙六月二六日)で、スターリン批判に関する独自の見解を発表した(なお、彼自身はもっと早い時点で秘密報告を知っていたはずだが、その段階では直接の反応の公表を控えていた。米国務省公表を期に、ある種の自己抑制を解除したということだろうか)。これらはいずれもすぐ後に日本でも紹介された(後述)。アメリカ共産党、フランス共産党なども次々と態度を表明した。六月二八日には、ポーランドでポズナン暴動が起きた。
 こうした経緯をうけて、ソ連共産党中央委員会は六月三〇日に公式決定「個人崇拝およびその諸結果の克服について」を採択し、これは直ちに公表された(22)。この決定は日本の新聞にもすぐ報道されたし(『朝日新聞』『毎日新聞』とも七月二日夕刊および三日)、『中央公論』臨時増刊第九号には全文翻訳が掲載された。時を同じくして、もう一つの衝撃的な情報が米ソ双方で発表された。レーニンの「遺書」と呼ばれる文章――スターリンを強い語調で批判し、書記長更迭を提案したもの――を含む晩年の一連の文書をソ連共産党理論機関誌『コムニスト』第九号(同誌は年一五回刊で、この号は六月の刊行)と米国務省がほぼ同時に発表したのである(23)(「遺書」の一節は六月三〇日決定にも引用されていた)。これも日本の新聞では六月三〇日決定とほぼ同時に報道され(『毎日新聞』では七月一日と同夕刊、『朝日新聞』では七月三日)、『中央公論』臨時増刊第九号には「遺書」の翻訳が掲載された。
 このような流れを念頭におきながら、七月上旬から一〇月上旬までに刊行された雑誌の論調を見てみよう。
 『世界』八月号には、討論「日本における社会民主主義と共産主義」があるが、直接ソ連をテーマとした文章は載っていない。これに対し、『中央公論』八月号は、秘密報告全文に加えて、ドイッチャーの「秘密演説を読んで」を載せている。『中央公論』は続けて臨時増刊第九号を出し、総特集「ソ連の変貌と共産主義の将来」を組んでいる。主な内容として、猪木正道「個人崇拝とマルクス・レーニン主義」、向坂逸郎「マルクス主義者も人間である」、志賀義雄「日本共産党の立場」、トリアッティ「スターリン批判を非難する」(『ヌオーヴィ・アルゴメンティ』五=六月号掲載のもの)、ソ連共産党中央委員会「なぜ個人崇拝が生じたか」(六月三〇日決定)、ネンニ「ソヴェトシステム批判」、「レーニンの遺書(24)」、座談会「ソ連通のみたソ連の現状」(伊部政一、嬉野満洲雄、清川勇吉、林三郎)、そしてケナン「ソ連の変化にどう対処するか」などである。六月号・七月号で『世界』に追いつかれた『中央公論』が、ここへ来てまた一歩先んじたような印象を受ける。
 『世界』九月号は、トリアッティ「プロレタリア独裁の再検討」(イタリア共産党中央委員会報告)、およびこれに刺激された関連論文(山崎功、和田耕作、向坂逸郎、神山茂夫、佐々木基一)を掲載した。『中央公論』『世界』両誌にほぼ同時期にトリアッティの二つの文章が載ったことは、当時の注目度を物語る。『中央公論』九月号(この前に臨時増刊第九号が出ていたので、この号は第一〇号)には、山崎功の「評伝・トリアッティ」が載っている。九月になると、『世界』一〇月号にはシューマン「ソ連は変った」が載り、『中央公論』一〇月号(第一一号)は日ソ交渉の特集となっている(『世界』では一一月号が同様の特集を組んでいる)。
 こうした経過があった後、一〇月初頭刊行の『世界』一一月号に、丸山眞男「『スターリン批判』の批判――政治の認識論をめぐる若干の問題」が掲載された(25)(本来、一〇月号に予定されていたものだが、予定枚数を超える長編となり、締め切りに間に合わなかったため、一一月号に回すことになったと編集後記に書かれている)。あまりにも有名なこの論文の本格的検討は――初出時と論文集収録時のテキストの比較、当時の他の論者たちとの比較、発表直後の反響等々の点を含めて――別の機会に譲るほかない。ここではただ、当時の丸山がどのような情報をもとに思索を練っていたかの確認だけをしておく。この時期に書かれたことからして当然ながら、米国務省発表の秘密報告が強く意識されているほか、『人民日報』の「プロレタリアート独裁の歴史的経験」、トリアッティの反応、そして六月三〇日のソ連共産党中央委員会決定などが言及されている。全体として基調をなしているのは、批判の仕方が安易だという観点――初出時タイトルに示されるような「批判の批判」――である。なお、『現代政治の思想と行動』に付された「追記」(一九五七年執筆)には、『コンミュニスト』〔『コムニスト』〕誌一九五五年第二号および第一一号の論説への言及があるが(26)、どのようにして彼がこれらの論説に接したのかは明らかでない。ひょっとして、当時の丸山はロシア語を勉強して、原文に当たっていたのだろうか。この辺の事情については「丸山学」の専門家のご教示を乞うほかない。
 以上、一〇月上旬までの過程を一通り追ってきた。ここで一区切りとするのは、丸山論文が様々な議論の掉尾を飾るものだったこともさることながら、ちょうどこの時期に現実政治上の新たな展開が情勢を急変させていたという事情による。周知の通り、一〇月後半にポーランドとハンガリーで相次いで緊迫した事態が生じ、特に後者は一一月初頭の第二次ソ連軍介入と大量流血に至った。この衝撃的事態は、二月の第二〇回党大会以来の一連の流れに更に新しい要素を付け加え、これまでを上回る多様な言説の噴出を――世界的にも、また日本国内でも――引き起こした。この過程については、別個の検討課題としなくてはならない。
 
補論1 富岡回想の解釈について
 はじめの方で紹介したように、富岡倍雄は「〔フルシチョフ秘密報告の〕日本語版が五月ごろには駒場にでまわり、学生活動家の間で廻し読まれた」と書いている(27)。この文章は同時代的記録ではなく大分後になってからの回顧的記述なので、記憶の正確さについてはあまり多くを望むことはできない。とはいえ、完全に根も葉もないことを書いたという風にも考えにくい。そこで、「五月ごろ」という個所についてはかなり幅を持たせるとして、どのような解釈ができるだろうかということを考えてみたい。現実性がどのくらいあるかはさておき、ともかく論理的に想定しうる可能性を列挙するなら、次のようになる。
 @秘密報告テキストそのものではなく、『ニューヨーク・タイムズ』の三月の記事に基づく紹介が広まっていたということなのかもしれない。もしそうなら、それが五月(あるいはもっと早く)に出てもおかしくはない。
 Aひょっとしたら、プラハに本部をおく国際学連から全学連国際部が秘密報告のテキストを入手したということも考えられなくはない(この可能性は私自身は思いつかなかったが、岩田昌征から個人的会話で示唆された)。この場合、時点の特定はできないが、二月末以降のいつでも抽象的可能性としてはありうる。
 B米国務省テキストを独自に入手して『中央公論』の訳稿に先立って翻訳していたという可能性も考えられる。この場合、五月は無理だが、六月上旬以降ならありうる。
 C『毎日新聞』の抄訳を複製した――コピー機の普及していない当時のことだから、ガリ版を切って謄写版で印刷したのだろうか――とも考えられる。これも六月下旬以降ならありうることである。
 D『中央公論』版の複製を回覧したとすれば、七月半ば以降ということになる。
 これらのどれが当たっているかは、今のところ確定のしようがない。@CDはいずれもマスメディアに一旦出たものを広めたということだが、AやBのような独自情報入手があり得たかどうかは興味をそそられるところである。もっとも、もしそういった事実があったとしたなら、なにがしかの形でそれを裏付ける関連情報が残されていてもおかしくないが、今のところそうしたものを見出すことはできていない。現段階では、これらはあくまでも「真偽の確定しがたい様々な仮説のうちの一つ」という位置づけにとどまる(28)
 
補論2 アメリカにおける情報入手について
 二月二五日の秘密報告に関する情報がどのようにしてアメリカに伝わり、六月四日の国務省発表に至ったかについてはいくつかの関連情報がある。これまでのところ相対的に最も詳しいグロースの著書によれば、断片的な情報は秘密報告から二週間のうちに種々のルートで伝わっていた(あるものはスパイ活動により、あるものは各国共産党関係者からの意識的・無意識的なリークによる)。それ以来、CIAは原文入手に努めた。相対的に情報管理が緩いと見なされたユーゴスラヴィア、次いでポーランドが主たる標的とされたが、なかなか思うに任せなかった。そうした中、四月にイスラエルの諜報機関がポーランドでテキスト入手に成功し、それをCIAに伝えた。これはロシア語からポーランド語に訳されたテキストだったが、CIAはそれを英訳するかたわら、別のルートで届いたフランス語版とも照合した。これが真正なものかどうかを鑑定するため、ジョージ・ケナン――当時外交官の職からは退き、プリンストンでの研究活動に専念していた――に見せたところ、本物に違いないとの回答を得た。こうして五月末までには、これが本物だという確信が形成されたが、それをすぐに公表するかどうかについては米政権内でも意見が分かれた。フルシチョフが反スターリン的演説を行なったと確証するのはかえってフルシチョフ政権の立場を強めることになるとして、全面公表よりも断片的なリークでソ連・東欧諸国を悩ませるのが得策との考えもあったが、結局、公表論がとられることになった。六月四日の国務省発表後、アメリカの駐ソ大使ボーレンがモスクワで何人かの政治局員と会ったところ、彼らは言葉を濁しつつも、国務省発表を全面否定はしなかった。なお、CIAのスタッフは公表用テキスト作成に当たって、各国共産党に疑惑をまき散らすために、原文にない若干の段落を付け加えたという(29)。ワイナーの本もほぼ同様のことを、より簡略に書いている(30)。また、ギャディスのケナン伝によれば、ケナンはこのテキストの扱いに関して慎重論であり、国務省の発表は彼の意見に反してのことだったという(31)。その他、イスラエルの諜報機関がポーランド経由でテキストを入手し、それをアメリカのCIAに伝えた過程をスパイ小説風に描いた本もある(32)
 以上を総合するなら、細部にはなおいくつかの疑問が残るものの、大筋はほぼ再現できるといえよう。簡単に再確認するなら、三月半ばまでには、『ニューヨーク・タイムズ』の特ダネを含めて多くの情報が人目を引くようになり、四月にはイスラエルの諜報機関がポーランドで入手したテキストがアメリカに伝えられて、五月中の若干の作業――そこには、情報攪乱のための原文にない段落の付加も含まれる――を経て、六月四日の発表に至ったということになる。ここに挙げた一連の文献は佐々木卓也氏に教えていただき、そのうちのグロース著のコピー入手には松嵜英也氏の協力を得た(この補論2は二〇一七年二月に追加したもの)。
 追記。佐瀬昌盛「スターリン批判をめぐる半世紀前の情報戦と日本の無邪気」『中央公論』二〇〇六年一一月号は、秘密報告流出の経過について簡潔にまとめている。同じ論文は一九五九年にモスクワで刊行されたとされる偽書(実際にはミュンヘンの亡命ロシア人組織の手になるもので、内容的には現物との差異はあまり大きくない)に関する情報も含んでいる。この佐瀬論文は私自身は見落としていたが、二〇一八年一〇月のロシア・東欧学会における角田安正報告から知った(二〇一八年一一月)。
 
(二〇〇七年五‐六月執筆、二〇一七年二月および二〇一八年一一月に一部補筆)
 
塩川伸明の研究ノート(http://www7b.biglobe.ne.jp/~shiokawa/notes/)より
 
 

(1)ロシア史・東欧史などを専攻する研究者たちの間では、直接の研究対象に関わるだけに、学会・研究会・雑誌などで記念企画がある程度行なわれたが、それはいわば閉ざされた世界だけのものにとどまったように思われる。ある有力な総合雑誌に企画が持ち込まれたという話を間接的に聞いたことがあるが、結実しなかった。
(2)市野川容孝『社会』岩波書店、二〇〇六年、二四‐二八頁。同書についての私の読書ノート(http://www7b.biglobe.ne.jp/~shiokawa/books/に収録)も参照。
(3)ソ連史の文脈におけるスターリン批判については、和田春樹「スターリン批判・一九五三‐五六」東京大学社会科学研究所編『現代社会主義――その多元的諸相』東京大学出版会、一九七七年、富田武「スターリン批判再考――フルシチョフ改革とソ連社会」『思想』一九八六年一一月号、松戸清裕「スターリン批判とフルシチョフ」『ロシア史研究』第八〇号(二〇〇七年)の三論文が代表的である。スターリン批判と日本のロシア史研究の関係(まさにスターリン批判と同時期にロシア史研究会は発足した)については、塩川伸明「日本におけるロシア史研究の五〇年」『ロシア史研究』第七九号(二〇〇六年)参照。日本知識人の受けとめ方という問題については、まだ研究が乏しいが、さしあたり、小島亮『ハンガリー事件と日本』中公新書、一九八七年、富田武「スターリン批判と日本の左翼知識人」『現代の理論』二〇〇六年秋季号。
(4)大嶽秀夫『新左翼の遺産――ニューレフトからポストモダンへ』東京大学出版会、二〇〇七年、三三頁。同書への全般的な感想については、私の読書ノート(注2と同じサイトに収録)参照。
(5)当該個所には「島・一九九九A・一二一」という出典注が付いている。しかし、当該書(島成郎『ブント私史』批評社)にはそのような個所は見当たらない。そこで、「島・一九九九B」を当たってみると、こちらには確かにそういう記述があることが分かった。次注参照。
(6)島成郎監修『戦後史の証言・ブント』(『ブント〔共産主義者同盟〕の思想』別巻)、批評社、一九九九年、一二一頁。この富岡論文の初出は、『ブント〔共産主義者同盟〕の思想』第五巻(マルクス・レーニン主義)、批評社、一九九四年、一三頁。後注27も参照。
(7)New York Times, 16 March 1956, pp. 1, 6. 同紙は二日後にも続報を載せており、関連して、グルジアで不穏な情勢が生じたらしいことにも触れている。New York Times, 18 March 1956, pp. 1, 22.(ウェルズ・ハンゲンの記事およびソールズベリーの記事)。
(8)『毎日新聞』三月一八日はワシントン発UP電、『朝日新聞』三月一八日はウィーン発ロイター電による報道。このグルジア暴動については、В. А. Козлов. Массовые беспорядки в СССР при Хрущеве и Брежневе. Новосибирск, 1999, Глава 5参照。
(9)松戸、前掲論文、六五頁。
(10)Почему культ личности чужд духу марксимза-ленинизма? //Правда, 28 марта 1956 г., с. 2-3. この論説については、和田、前掲論文、九二‐九四頁参照。
(11)邦訳は、日本国際問題研究所中国部会編『新中国資料集成』第五巻、日本国際問題研究所、一九七一年所収。
(12)アイザック・ドイッチャー『ロシア・中国・西側』TBSブリタニカ、一九七八年、八四、八八頁。なお、この章のはしがき(編集時に編者フレッド・ハリデイが付けたもの)には、フルシチョフの秘密報告は「三月初めには一般に知れ渡った」とある。同右、六六頁。
(13)Борис Николаевский. Борьба за власть в КПСС (К итогам 20-го съезда). //Социалистический вестник, апрель 1956, с. 59; ボリス・ニコラエフスキー「暴露されたスターリン神話」『権力とソヴェト・エリート』みすず書房、一九七〇年、一九六頁(訳文は変更した)。
(14)Борис Николаевский. Сталин и убийство Кирова. (Заметки для будущей истории). //Социалистический вестник, май 1956, с. 91; 「キーロフ殺害」『権力とソヴェト・エリート』八〇頁(これも訳文は変更した)。
(15)六月号の論文は、Борис Николаевский. Хрущев о преступлениях Сталина (Опыт исторического комментария). //Социалистический вестник, июнь 1956, с. 115-118; 「フルシチョフの『秘密演説』」『権力とソヴェト・エリート』一八四‐一九〇頁(邦訳の二五一頁に「七月号に発表」とあるのは「六月号」の誤り)。この間の経緯については、塩川伸明「一九三〇年代ソ連における政策論争に関する一試論――第一七回党大会前後(一)」『社会科学研究』第三二巻第一号(一九八〇年)、四四‐四六、四九‐五〇頁も参照。
(16)この論文は後に、福田歓一『現代政治と民主主義の原理』岩波書店、一九七二年、更に後に、『福田歓一著作集』第七巻、岩波書店、一九九八年に収録された。『現代政治と民主主義の原理』に付けられたノートは、『福田歓一著作集』第八巻、一九九八年に収録。
(17)『福田歓一著作集』第七巻、八一、八四、八五、八七、八八頁など、第八巻、一七五頁。
(18)なお、福田は約一年後に、ハンガリー事件に触れた文章を書いている。「ソヴェトの試練――『ハンガリー』以後」『世界』一九五七年八月号。後に、『現代政治と民主主義の原理』、更に後に、『福田歓一著作集』第七巻に収録。
(19)和田春樹『ある戦後精神の形成』岩波書店、二〇〇六年、二三〇頁。
(20)和田の還暦時の座談会には、大学入学前後までの時期を振り返った言葉として、「ソ連を研究したいということではないのです。それとは別に、ロシア文学に関心を持ち、一九世紀のロシア社会に魅力を感じていたということです」「僕は社会主義については幸徳秋水しか読んでいない」「スターリン批判が起こった時もショックはそんなにないわけですよね」「社会主義とか、ソ連とかいっても、理論的なものがあって、自分の人格と深くかかわっているということではなくて、僕にとって大きい問題は、平和の問題であったのですね」などといった発言がある。「ロシア・ソ連研究の三八年」『社会科学研究』第四九巻第六号、一九九八年、九〇、九二頁。
(21)和田『ある戦後精神の形成』二三四‐二四一頁。
(22)КПСС в резолюциях и решениях съездов, конференций и пленумов ЦК. 9-е изд., т. 9, М., 1986, с. 111-129.この決定については、和田「スターリン批判・一九五三‐五六」、一〇〇‐一〇一頁、富田「スターリン批判再考」八四‐八六頁、松戸、前掲論文、六六頁など参照。
(23)Неопубликованные документы В. И. Ленина // Коммунист, 1956, 9 (июнь), с. 15-26.『コムニスト』誌の奥付では六月二五日に印刷にまわったとされているが、『朝日新聞』『毎日新聞』とも六月三〇日発行と伝えている。米国務省発表の日取りは、『毎日新聞』では六月三〇日、『朝日新聞』では七月一日となっている。
(24)これは直接には米国務省発表の英訳からの重訳だが、ソ連でも『コムニスト』誌に原文が掲載されたことが付記されている(但し、第九号とあるべきところを第八号と誤記している)。
(25)後に大幅改稿の上、「『スターリン批判』における政治の論理」と改題して、『現代政治の思想と行動』下、未来社、一九五七年、増補版(合冊版)、一九六四年、また『丸山眞男集』第六巻、岩波書店、一九九五年に収録。『現代政治の思想と行動』への「追記二」は『丸山眞男集』第七巻、岩波書店、一九九六年、「追記への附記」は第九巻、一九九六年に収録。
(26)丸山『現代政治の思想と行動』増補版、五四四頁、『丸山眞男集』第七巻、一七‐一八頁。
(27)富岡倍雄は初期のブント(共産主義者同盟)の活動家の一人。後に農業経済学者となり、神奈川大学教授をつとめた。一九九八年没。本文で引用した文章は、多巻本のブント関係資料集のうちの一つの巻に彼が寄せた解説(前注6参照)。
(28)その後、何人かの大先輩たちに当たった感触からすると、秘密報告のテキストが「五月ごろから」出まわっていたという富岡回想は、少なくとも「五月」という時期についてはあまり厳密でない可能性が高い。七月以降に、『中央公論』版が回し読みされたという想定(上のD)が当たっているのではないかと思われる。概して言って、一九五〇年代に日本共産党の指導下で革命運動に参加していた人たちにとっては、五五年の六全共の衝撃が大きく、五六年のスターリン批判は、その後にやってきたことになる。他方、共産党と直接には関わっていなかった「進歩派」知識人や学生たちにとっては、フルシチョフ報告よりもハンガリー事件の衝撃の方が大きかったように見える。
(29)Peter Grose, Gentleman Spy: The Life of Allen Dulles, Houghton Mifflin Company, 1994, pp. 419-427.
(30)ティム・ワイナー『CIA秘録』文春文庫、二〇一一年、上、二三〇‐二三一頁。
(31)John Gaddis, George Kennan: An American Life, Penguin Books, 2012, p. 518.
(32)マイケル・バー=ゾウハー、ニシャム・ミシャル『モサド・ファイル――イスラエル最強スパイ列伝』早川書房、二〇一三年、第五章。もっとも、この本のソ連内事情に関する記述は皮相なものにとどまっていて、あまり信頼性が高くない。