富田武氏を悼む
塩川伸明
富田武氏が5月19日に急性骨髄性白血病で亡くなった。享年79歳。元来、強健な体質を持つ氏はおそらく同世代の人たちの中で群を抜いて長生きするだろうと私などは推測していたので、このように早く世を去ってしまうというのは全く想定外だった。以前に、半ば冗談で、もし私が富田氏よりも先に死んだなら彼に葬儀委員長をやってもらいたいという話をしたことがある。そのときの彼の反応は、「どうして俺よりも君の方が先に死ぬんだ〔彼の方が三歳年上〕」と言った後に、「ま、もし成り行きでそういう順番になったなら、引き受けるけれどね」というものだった。これはいかにも彼の個性をよく表わした言葉で、それ以来ずっと、私は彼が私の葬儀委員長をやってくれるものと思っていた。その予想が狂ったことを私は何とも受けとめきれないでいる。
富田氏は10年ほど前から前立腺ガンを患っていたが、これはそれほど深刻なものではなく、悪化を食い止めて長生きすることが可能なように思われていた。ところが、昨年夏に白血病が発覚し、10月のロシア史研究会大会のときには入院中だった。そのときはまだ何とか回復可能ではないかという想定で治療を受けているようだったのだが、その後、どうも治癒は難しそうで、延命を目指す治療を試みるほかないということになったという。それでも、まだしばらくの間は延命が可能だろうと思われていたのが、このように短期間に終末に至ってしまったのには茫然とするほかない。
氏の最後の著作である『共産党の戦後80年――「大衆的前衛党」の矛盾を問う』(人文書院)が私の手もとに届いたのは5月23日のことで、私はその日のうちにかなり長いメールを送った。氏の健康が心配される状況にあることを念頭において、じっくりと読んでからの感想を書くよりも前に、とにかく最低限言っておきたいことを一通り述べたつもりだった。ところが、その翌日に受け取った通知によれば、氏はこのときにはもう世を去っていたとのことで、私のメールを読んでもらうことはできなかった。天を仰いで慨嘆するほかない。
富田氏は極めて多作で、関心も広く、多方面にわたって数多くの著作を出している。広い意味でのソ連史・ロシア史全般(代表的には、『スターリニズムの統治構造』岩波書店、1996年)をはじめとして、日露・日ソ関係史(『戦間期の日ソ関係』岩波書店、2010年など)、抑留問題(『シベリア抑留者たちの戦後』人文書院、2013年、『シベリア抑留』中公新書、2016年、『抑留を生きる力』朝日新聞出版、2022年など)、日本の社会運動史(『歴史としての東大闘争――ぼくたちが闘ったわけ』ちくま新書、2019年など)、日ソ戦争史(『日ソ戦争1945年8月』みすず書房、2020年、『日ソ戦争 南樺太・千島の攻防』みすず書房、2022年など)、ゾルゲ問題(『ゾルゲ工作と日独ソ関係』山川出版社、2024年)、最近のウクライナ戦争への取り組み(フェイスブック上の「ウクライナ戦争・日本情報センター」での連日の発信)、そして上に記した遺著『共産党の戦後80年』など、枚挙にいとまがない。
富田氏は著作や論文を書斎で書くだけでなく、精力的に各地を飛びまわる行動派の学者でもあった。ロシアでの史料調査に関しては、ウクライナ戦争によって中断を余儀なくされるまで毎年2回ずつの訪問を繰り返し、モスクワだけでなく、イルクーツク、ハバロフスク、カラガンダの文書館を訪問していた。また、抑留問題に関しては、当事者および関係者たちを組織して、「シベリア抑留研究会」のリーダーになるなど、研究者であるだけでなく実践者でもあった。このようにどんどん手を広げるのが苦手な私は、氏の仕事に刺激されて、少しずつ後を付いていくばかりだった。
あれこれの点について、富田氏と私の見解が異なることもよくあった。そういう場合、私は遠慮することなく率直な批判を述べ、彼は彼で率直な反論を提起するということで、すがすがしい論争をかわすことができた。日本の知的風土では、率直ですがすがしい論争を繰り広げるのはきわめて難しいことだが、富田氏と私の間ではそれが可能だった。ありがたいことである。
闘病中だったとはいえ、このように早く世を去るとは予期しがたかったため、今でもまだ彼の死が受け入れがたく、どこかで顔を合わせて対話・討論・論争を交わせるのではないかという気がしてならない。私があの世に行って再会を果たすまで、この感覚は続くのかもしれない。
(『ロシア史研究会ニューズレター』138号、2025年7月)