川本隆史編『ケアの社会倫理学』
 
 
     一
 
 最近、「ケア」という言葉を目にする機会が増大しつつあるように思う。系統的に追っているわけではないので、漠然たる感覚にとどまるが、医療とか介護といった日常生活に関わる新聞記事などの中でもよくぶつかるし、他方、社会哲学・思想などに関わるやや抽象的で理論的な文章の中でも「ケアの倫理」という言葉を目にすることが少なくない。
 一つには、少子高齢化が大きな政策問題となり、また従来ケア労働――「労働」という言葉をここでは広義にとり、無償のいわゆる「シャドー・ワーク/アンペイド・ワーク」を含めて使っておく――の多くの部分を割り振られていた女性の社会進出拡大の中で、ジェンダー関係の何らかの意味での再編が問題になっているという状況が関係しているだろう。育児、医療、教育、看護、介護等々、ケアと関わるところの大きい諸領域は、これまで有償無償の女性労働に依拠する度合いが高かったが、それらを「女子供の問題だから、天下国家には関わりない」などといって片づけることができないということを、政治家や官僚たちもようやく感じ始めたようにみえる。経済面では医療産業や福祉産業が大きな位置を占めるようになり、財政の観点からは年金問題が重要なものとなりつつあるといった現実もある。
 こうして実社会において注目される度合いが高まれば、理論・学問の世界もそれを追いかけざるを得ないというのはごく当然のことだろう。だが、ケアの場合、それだけにはとどまらない独特の問題があるように思われる。多くの近代社会理論は、個人主義・合理主義・リベラリズム・自律などの観念を陰に陽に基礎においてきたが、ケアはそれらだけでは捉え尽くせないものをもち、それ故、理論的にきわめてデリケートかつ困難な問題を提起している。ケアを必要とする人たちは、少なくとも十分には自律することができにくい条件をかかえており、それ故、この種の問題を論じるに当たって「理性をもった自律的な個人が合理的な選択に基づいて自由に行動する」という前提から出発することはできず、むしろ近代合理主義やリベラリズムの根底にある観念を問い直すという課題をかかえこまざるをえない。ここには、パターナリズム(父権・干渉・温情主義)を少なくとも完全には退けられない――かといって、野放図にパターナリズムを容認するわけにもいかないし、「よいパターナリズム/悪いパターナリズム」と単純に振り分けることも難しい――という難問が関わってくる(1)。これは編者川本が、収録されている諸論文を引きつつ確認している点である(三八‐三九頁)。おそらくこのような事情が、ケアの問題を実践的にも理論的にもきわめて重要で深刻なテーマとして浮上させているのではないだろうか。
 
     二
 
 本書は編者川本隆史による序論の後、四つの部門に分かれ、各部とも三つずつの章からなっている(その他に、三つのコラムが収録されている)。四つの部門とは、医療、看護、介護、教育であり、はじめの三部では、ケアの現場にコミットしている実践家による論考二本と、当該分野のケアを参与観察している研究者のもの一本が組み合わされている。そして、教育を取り上げた第四部では、教育とケアという大きな問題については類書もあるので、本書では「学校教育における生命倫理教育」という観点に絞り、大学、短期大学、高等学校でそれぞれ教育実践経験をもつ論者による論文が収められている。
 このような組み立て方は戦略的な熟慮に基づくものであり、確かにこうしたテーマにふさわしい。医療、看護、介護、教育の四領域は、ケアに関わる全領域とはいわないまでも、重要性の高い主な領域をとりあげたといえるだろう。また、どの領域にしても「机上の空論」だけでは片づかない問題であるだけに(これは「机上の空論」に偏りがちな私自身の自己批判を込めて書いているつもりである)、実践家による考察と研究者による考察――第四部の場合、各執筆者が研究者でもあり教育実践家でもある――を組み合わせるという行き方も魅力的である。もっとも、多くの論文は、紙数の制約もあり、なるほどこういう問題があるのかと気づかせたところで終わっている観があり、そこから先どのように考えるべきかにまで踏み込んでいないという欲求不満を残すが、これはこのサイズの書物としてはやむをえないだろう。取り上げられている事項が多岐にわたり、相互関連がつかみにくいという印象もなくはない――そのため、以下に書き記す私の感想も、ややまとまりを欠くものとならざるをえない――が、これもこのテーマが持つ広がりの然らしめるところだと思えば納得できる。
 とりあえず、いくつかの論文について簡単な感想をつづり、その後で、特に私の関心を引いたいくつかの論点を取り出して、自分なりの応答を書きとめてみることにしたい。
 まず第一部の主題は医療だが、より具体的には、第一章の石橋論文で子供の医療、第二章の高橋論文で高齢者医療のことが取り上げられている。病というものは一般にケアを必要とするものだし、それが重症であればあるほどその度合いが深刻になるだろうが、ここでは、病の重度よりも患者が子供とか高齢者といった特性を持つ場合に注目していることになる。確かに、成人の場合には当てはまることでも子供や高齢者には当てはまらないことが多いだろう。従って、この二つの層を取り出すことは、成人――重い病気にかかる確率が相対的に低く、医者の診断や指示について理解したり、質問したりすることが相対的にはできやすい――を中心として形づくられたものの見方に反省を迫る意味をもつ。いまや流行語と化した観のある「インフォームド・コンセント」という言葉も――実をいえば成人の患者にとってもなかなか実現しがたい面があるはずだが、それはさておき――子供や老人の場合、実現が一段と困難になるだろう。
 ケアというテーマは個別性と当事者性が問題とならざるをえないので、私自身のことについて簡単に触れておくなら、自分自身の幼児期はもはや忘却の彼方だし、娘たちが小さかった頃はそれなりに大変な経験もあることはあったが、それもだんだん記憶が鮮明性を失いつつある。その一方、親たちを看取ったり(現時点で義母のみ存命)、自分自身も次第に老いに向かいつつあることを自覚する中で、どちらかというと高齢者問題の方に身近なものを感じる。過ぎたことだから軽く考えてしまうのかもしれないが、子供は――深刻な病気や障害をかかえている場合は別として――やがては成長していくものだという期待をもつことができ、その期待感が一時的困難を耐える支えになる。これに対し、高齢の病人は、個々の病気や症状は軽くなることがあるにしても、全体としては健康が衰えていくという趨勢を食い止めることはできない。ちょっとした不調を感じて医院に行くたびに、「要するに加齢が原因ですね。薬である程度軽くなるでしょうが、完治ということはないので、病気と適当につきあってください」などと言われてがっくり来る経験を何度か重ねると、今はまだ軽い個別の不調だが、やがてもっと深刻な病気についてこういうことを言われるようになるのだろうなどと考えて、憂鬱な気分になることがある。若い時期には、病気というものはかかっている最中は辛いにしてもいずれは治るものだという、実のところはそれほど根拠のない楽観論をとることができたのだが、中年も半ば以降にさしかかると、軽重の度合いはともあれ病をかかえて生きていくことの方がむしろ人間の常態ではないかなどということを考えるようになる。そうなると、《健康=正常、病気=異常・逸脱》という図式を疑わねばならないのではないか、これは人間観を大きく変えることにつながるのではないか、などという気もする。
 第二部は看護を主題としている。病に関わるという意味で「医療・看護」という風にひとまとめに呼ばれることの多いこの領域を独立して取り上げた編者の見識には敬意を表したい。実際、ケアという観点から見た場合、医師もさることながら、看護師によるケアというものは非常に大きな位置を占めている。それでいながら、比較的最近まで――これは私自身の反省も込めていうのだが――どちらかというと「医師の補助役」的な位置づけを与えられ、軽視されてきたように思われる。
 第四章の池川論文における「実践知としてのケア」という観点も興味深かったが、私にとっては、第五章の武井論文における「感情労働」という論点が特に強く関心を引いた。これについては後で改めて考えることにし、ここでは末尾の短い個所についての感想を書きとめておく。この武井論文は読んでいて気の重くなるような深刻な状況を詳しく描いているが、最後に、必要なことは「そんなに大それたものではなく、ちょっとしたこと」、即ち「必要とされることを自分が必要としている」という自覚、自分もまた「与える人」ではなく「求める人」だという自覚ではないか、という(一七七頁)。これはおそらく当たっているのだろうが、それまでの個所の重さに比べ、あまりにも簡単に言われているような気がして、一瞬肩すかしを食らったような印象を受けてしまう。しかし、これを「問いの重さに比べて答えが軽すぎる」などといって批判することはできないだろう。
 武井論文の意図を十分汲みとることができないので我田引水になるかもしれないが、これに触発された私の勝手な感想を記してみたい。ここに書かれた例に限らず、問いが重ければ重いほど、文字通りの意味での答えなどあり得ないと感じ、絶望的な感覚に陥り、心身共に疲れ果てるというような経験は、年がら年中は起きないにしても、ある程度の年数生きていれば何度か出くわすことがある。それでも何かのきっかけで気を取り直して、自分を絶望から救いだすときに感じるのは、「人間にできるのはそんなに大それたものではなく、ちょっとしたことだ」という感覚ではないだろうか。どうにも答えを見いだしようのない状況に直面している以上、全面的な解決とかドラマティックな啓示とかはもともと得られようもない。それでも何とかして態勢を立て直し、問題自体は解決しないまでもある程度気が楽になって、少なくとも何もかも投げ出したいというほどの絶望状態からは抜け出せるとするなら、そのきっかけは、見事な回答や啓示ではなく、「ちょっとしたこと」でしかありえない。ただ、きっかけそれ自体は「ちょっとしたこと」だとしても、それがそのような役割を果たすのは、そこにたどり着くまでにそれなりの労苦と苦悩を経験し、そのきっかけを受容する構えが形成されていたからこそではないか、そんなことを考えさせられる。
 第三部の主題である介護は、本書の中でも最も重い問題を考えさせられる。自分の病気や家族の看病は、その重さの度合いを別にすれば、たいていの人が大なり小なり経験することであり、その専門家である医師・看護師ともいろいろな機会に接触をもつことがあって、比較的身近な存在である。これに対し、介護は、身近なところに障害者がいるのでなければ、実の親なり義理の親なりが相当の高齢に達してはじめて経験するのが普通であり、ある年齢層に到達するまでは「他人事」という感覚を拭えない。また育児や看病は――もし特に深刻な事態に至っているのでなければ――「もうしばらく我慢すれば、明るい未来が待っている」という期待を支えにすることができるが、介護はいつ果てるともしれない気苦労の連続だという重さがある。「いつになったらこれが終わるのだろう」と考えることは相手の死を待ち望むことに通じるから、「そんなことを期待してはいけない」と、心に蓋をせねばならない。親が高齢になって介護の問題に直面してからも、その要介護度、また介護する側の事情――その親に何人の子供およびその配偶者がいるか、ジェンダー関係を含んだ家族内役割分担等々――によって各人の負担の度合いは大分異なるが、私自身の場合、正直に言ってこれまでのところ比較的軽い負担ですませることができてきた。だから、こうした問題に本格的に向き合っている人たちの話を聞くと、ただ頭を下げるしかないという感覚を懐かないわけにはいかない。
 第七章の三好論文も、第八章の最首論文も、当事者ならではの迫力に満ちており、安易な論評を受け付けない厳しさがある。三好論文にはところどころ挑発的な言葉づかい――観念的な「人権派」やフェミニストを皮肉ったような表現――があって、読者によっては反撥を覚えるかもしれないし、私も「言いたいことは分かるけれど、もう少し表現をやわらげたらどうだろうか」などと感じるところがある。しかし、三好に言わせれば、そうした反応こそ、「人間の上澄みのような部分をすくっているだけ」の「大学のセンセ」の典型ということになるのだろう(二〇六‐二〇七頁)
 第四部は、先にも触れたとおり、本書の構成としてはやや異質で、教育におけるケアについて論じるのではなく、生命倫理教育に関する教育実践を取り上げている。そうした性格のせいか、私にはやや問題の所在がつかみにくい感じがした。ただ、第一一章の立岩論文は彼が短期大学に勤務していた時期の教育実践のあり方を詳しく伝えていて、教職にある者にとっていろいろと反省を迫る内容のものとなっている(2)
 
     三
 
 以上、いくつかの論文について断片的な感想を書き連ねたが、これ以後は、全体に関わり、かつやや一般的な意味をもつと思われる論点をいくつか取り出して自己流に考えてみたい。
 先ず、ケアという領域においては個別性・当事者性が大きな意味をもつが、そのことをどう考えるかという問題がある(私がこの小文で自分自身のことについて多少触れているのは、この種の問題を考えるにあたってはそのことをカッコに入れるわけにはいかないのではないかと感じるからである)。本書第六章の堀江・中岡論文でも、ケアという営みが文脈・状況に依存することが指摘されている。ということは、文脈を離れた一般論でもってある行為の適・不適を論じるのでは不十分だということである。これは当たり前のような話かもしれない。だが、文脈・状況を適切に踏まえながら、その都度最も適切な対応を見出していくというのは、マニュアルに則って行動するのに比べてずっと難しいことであり、その分、ケア労働を複雑なものにしていることを思えば、単純に「当たり前」といって片づけるわけにはいかない。人の心を打つ献身とみられる行為も、文脈次第では、無用なお節介、自己満足、偽善などと受けとめられることもある。われわれがケアについての話を聞いたり、文章を読んだりしても、ある時は素直に感動し、ある時はむしろ反撥を覚えたりするが、どういう話が前者でどういう話が後者かということはその内容だけで一義的に決まるものではなく、その都度の状況やこちらの虫の居所などによっても左右されるという面があるように思う。
 個別性・文脈依存性の大きさは、抽象化された標準的対応が難しいということにつながるが、これは公正な社会制度の設計にとって非常に大きな難問を突きつける。法哲学者によれば「正義」とは「等しきものには等しい対応を」という原則を意味する(3)。確かに、等しいものに等しくない対応をするのは不公正なことだから、この原則は当然のことのように思える。しかし、よく考えてみるなら、この世の中に完全に等しいものなどはなく、厳密にいえばありとあらゆるものが個々に異なっているはずである。現実には千差万別であるものについて、ある角度から「非本質的」とみなされる側面を捨象し、「本質的」とみなされる側面に着目して「等しい」とみなすという観念操作なしには、「等しきものには等しい対応を」という原則による対応は成立し得ない。そのこと自体は不可避であり、だからといって法をはじめとする社会制度が無意味だということになるわけではない。抽象的な一般的基準がなければ恣意的な対応がなされやすくなるから、公正という観点からは抽象的な一般的基準を立てることは不可欠である。ただ、抽象的な基準にもとづく標準的対応が個々の場合にどの程度有意味か――裏返していえば、「非本質的」として捨象される側面がどこまで軽いものか――はケースによって異なる。個別性・文脈依存性の大きい対象を取り扱うときには、この種の対応は特に難しい問題をかかえこまざるをえなくなる。ケアはまさにそうした領域の典型だろう。
 個別性や文脈依存性が大きな役割を演じることのもうひとつの帰結は、労働条件を標準化・斉一化しにくいということである。近代的工場労働は労働条件をできるだけ標準化することに努め、そこにおける労働者は特定の作業を特定の時間だけ遂行することが要求されてきた。だからこそ、まさしく「商品」として労働力を切り売りすることができたのである。ところが、ケア労働においては、変幻自在な条件のもとで相手に四六時中つきあわねばならないこともあり、ある意味では義務は無限に拡大する可能性がある。無限とまではいかないまでも、労働条件やなすべきことの不確定性は、ケア労働に特殊に重い課題を負わせる要因となっているだろう。
 ケア労働の問題から離れて、個別性・文脈依存性の重要性ということをもう少し広く考えてみるなら、これは学問的認識のあり方という問題にも連なっていくような気がする。そのことを考えさせられたのは、第八章の最首論文にある次の個所を読んだときである。
 
「聞く方、読む方は、抽象の羅列には具体的な例をあげてもらわないとわからないとぼやくし、具体やディテールにこだわると、自分に何の関係があるか、もっと一般的にやってほしいといらいらしてくるのである」(二二六頁)。
 
 ここで最首が言っているのは、彼が障害者へのケアについて語るときに感じるディレンマのことだが、もっと一般化して考えることもできるように思う。他人の書いた文章を読んで、そこに書いてあることがあまりにも抽象的だと、「これは空理空論、砂上の楼閣に過ぎないのではないか」という不満を懐くが、かといってあまりにも具体的な事例に密着していると、「この事例それ自体には私はあまり関心がないので、もう少し一般化してもらわないと、どういう意義があるのか分からない」と感じるということはよくある。自分が書く側にまわっても、個別性・具体性と一般性・抽象性のバランスをどのように取るべきかはいつも悩まされる問題である。
 近代科学のすべてといわないまでもかなりの部分は、一般性・普遍妥当性の追求を主要な課題としてきた。個別具体例を取り上げるときも、それをただそのまま描写するのではなく、むしろ普遍的法則の適用によってそれを説明することこそが科学的方法の成功を意味するとみなされることが多い。もっとも、学問の中には普遍的法則の追求よりも個別事象の詳しい把握に力点をおくタイプの認識もある。大雑把な分け方だが、前者を「サイエンス」、後者をより広い意味での学問という風にでも呼ぶことができるかもしれない(4)。この区分は自然科学と人文社会系の学問、もっと単純にいえば理科と文科という風に対比できなくもないが、詳しく見ていくなら、それだけでは割り切れない。人文社会系の学問も、最近ではサイエンス化の志向が強くなりつつある一方、いわゆる理系の学問の中にも、一般性にとどまらない個別具体例の解明が重要だという領域がある。医学はまさしくその例ではないだろうか。もちろん、高度医療の最先端においては、サイエンスとしての精密化が追求されているだろうが、個々の患者やその患者を診ている現場の医師にとって何より重要なのは、他ならぬその特定の患者の病状がどうなるかであって、一般的傾向や法則ではないはずである。
 この関連で、第二章の高橋論文におけるEBM(Evidence-Based Medicine, 証拠に基づく医療)についての記述が興味深い。それによれば、新薬試験の標準的方法であるランダム化比較試験の三分の二以上は六五歳未満の患者を対象として実施されているという。そうした試験から得られた結論がたとえば七五歳以上の患者――その多くは複数の慢性疾患をかかえ、複数の薬剤を服用している――にどの程度当てはまるかには大きな疑問がある。これに対し、老年医学的総合機能評価の観点からは、客観主義的標準化ではなく、高齢者の最大の特徴である「個人差の大きさ」を考慮し、数十年前から分かっている古い知識と方法に則った医療が有用だという(八五‐九〇頁)
 もちろん、これはEBMの意義を否定するものではない。六五歳未満の患者を対象とした新薬試験の結果を七五歳以上の患者に当てはめるのは、科学的手法としても間違っているのであり、この例をもって科学的手法を退ける論拠とすることはできない。ただ、それでは七五歳以上の患者を対象として新薬試験をすることができるかといえば、そもそも治験に応じる高齢の患者を多数集めることが難しい上に、他の薬の影響を排除するために他の薬を一切使っていないような人に絞ろうとするなら、有意味な人数を集めるのは至難になるだろう。ということは、大量データ収集、条件のコントロール、統計分析などの手法によるサイエンスとしての精密化を適用することが難しいような領域があるということである。そのような領域に関しては、条件の異なる試験結果を無理に適用する擬似サイエンス的方法ではなく、むしろ「数十年前から分かっている古い知識と方法」に頼る方が有意義でありうる。これは卑俗な言い方をするなら勘やコツに依拠した総合的判断ということになる。場合によっては、これは非科学的で恣意的な態度につながる恐れもある。しかし、「科学」と「勘やコツ」を単純に対置するのではなく、科学的手法に基づいた知見を踏まえつつ、そして経験をただ漫然と積むのではなく、丁寧な実践と観察を積み重ねていく中で、より信頼性の高い「勘やコツ」を形成するということもありうるだろう。最新の「サイエンス」的手法の適用が難しい領域においては、こういった「信頼性の高い勘やコツ」の役割が大きいのではないだろうか。
 話が変わるが、歴史学のような分野においても、次第に「サイエンス」的手法の適用が拡大しており、社会科学諸ディシプリンの適用や数量分析が盛んに試みられるようになっている。それにはもちろん大きな意義があり、大量データ収集、条件のコントロール、統計分析、仮説やモデルの構築とその検証ないし反証などの手法によるサイエンスとしての精密化は、知的洗練度という意味では大きな魅力をもっている。こうした手法による研究が増大すると、昔ながらの職人的技法に依拠している研究者は時代遅れとみなされるようになる。しかし、「サイエンス」的手法が適用可能なのはどのような対象についてなのかと考えるなら、その適用範囲には大きな限定がある。斉一的な大量データは得られないが、性質を異にする雑多な関連データならある程度集められるといった領域は、歴史研究ではありふれたものである。これはちょうど、七五歳以上の老人医療を進めようとしても、条件のコントロールされた大量データは六五歳未満の患者についてしか得られないというのと似ている。この場合、サイエンスの観点からは時代遅れとみえるにしても、伝統的な職人的技法に依拠しないわけにはいかない。ここにおいても、たとえばある史料がどの程度信用できるか――これは伝統的歴史学の基礎をなしてきた「史料批判」の問題である――とか、標準化・斉一化の保障されないデータが存在しているときに、それをどのように組み合わせればある程度説得力のある結論を導けるかといった問題について、「勘とコツ」がどうしても必要とされる。もちろん「勘とコツ」は場合によってはいい加減ででたらめなものとなる可能性もあるという点は厳しく自戒しなくてはならないが、それでも、永年にわたる作業の丁寧な積み重ねの中で、「相対的に信頼性の高い勘とコツ」を形成することは不可能ではないし、それを目指して進んでいくほかないだろう。
 おそらく倫理学や法学等といった分野でも、同様のことがいえるのではないだろうか。第六章の堀江・中岡論文の指摘するように、「合法/不法」、「正しい/正しくない」、「正義/不正義」といった区切りは、何らかの「型」としての規範に基づいている。「型」が重要であるのは、一つには個々の判断を恣意的なものとせず普遍化していくにはある種の定型性が必要だからであり、もう一つには、「型」通りの振る舞いが身体に刻みつけられていれば個々の場面でいちいち面倒なことを考えなくても済むという便利さのためでもある(一八七‐一九二頁)。しかし、現実の場面においては、「型」としての規範だけでは片づかない問題が多数あらわれるから、具体的文脈に即した解釈と適用の問題が重要になってくる。堀江・中岡論文のいう「臨床哲学」とはそうした問題に取り組もうとするものではないかと思われる(5)
 本来のテーマから大分離れてしまった。こういう風に「学問的認識」の問題にこだわるというのは、三好の批判する「大学のセンセ」の悪い癖かもしれない。言訳めくが、この項で述べたこと――「勘とコツ」というものは「非科学的」という批判を浴びやすいし、実際問題としても、いい加減ででたらめなものになりやすいという危険性があるが、それでもなお、完全なサイエンス化がありえない以上、注意深い経験と観察の積み重ねを通して「相対的に信頼性の高い勘とコツ」の形成を目指すほかないという事情――は、ケア労働にも共通しているように思われる。それはともあれ、脱線はこのくらいにして、本来の問題に戻ることにしよう。
 
     四
 
 ケアの対象となる病人・障害者・高齢者等々には、重度・深刻度において相当大きなバラつきがあり、どういう例を念頭において考えるかで、話がかなり変わってくる。仮に相対的軽症の事例を念頭において議論を進めるならば、大多数の人がどこかで類似の事例にぶつかった経験があるだろうから、比較的身近なものと感じられ、「これは他人事ではない」と受けとめてもらうことができる(誰だって、かつては幼児だったことがあり、時には病気にかかることがあり、そしてやがては年老いていく)。このような議論の立て方は、多くの人の関心をかき立てる上では有効だが、他面、そうしたありふれた事例ばかりに集中しているなら、問題の深刻さが見失われやすい。いま、重病人を看護している人が、病気の重さについてはあまり詳しく触れずに、苦労談をしたとする。そして、ごく軽い病人の看護経験しかない人がそれを聞いて、「自分も看病の苦労をしたことがあるから、あなたの気持ちはよく分かる」と言ったとしよう。この場合、外見的には共感とコミュニケーションが成り立っているかのようだが、その共感はずいぶんと浅いレヴェルのものにとどまる。「そんなに簡単に分かったなどと言ってほしくない」と反撥されるかもしれない。
 これとは対照的に、非常に重度の事例を念頭において議論を進めるなら、問題の深刻度は高まる。だが、そうなると、多くの人にとっては到底自分のこととしては受けとめられなくなる。他人事だとしてあまり関心を向けないという反応も多いだろうし、一時的に同情してもすぐ忘れるということも大いにありうる。中には真剣に向き合おうという人もいるだろうが、そうした人が真剣であればあるほど、もし自分がそういう場面におかれたら本当に耐え抜けるだろうかという疑問がわき上がり、息苦しくなるかもしれない。そうなると、「そういう経験をしている人たちは非常に立派ですね。ですが、私にはとてもそんな大変なことはできそうにありません」という反応になるかもしれない。私の個人的感想では、本書のうちいくつかの論文を読んでいて、どう答えるべきかに窮して、ある種の重苦しさを感じたことを告白しなくてはならない。
 非常に深刻な事例を引き合いに出した議論というものは、それ程深刻な事態に直面したことのない「普通の」人をたじろがせたり、ひるませたりする力を持っている。と同時に、「こうやって黙らされてしまうのは、どこかおかしいのではないか」という微妙な違和感や、場合によっては秘かな反撥が生じることもありうる。ずいぶんと違った例だが、食事のときに好き嫌いをする子供に対して、親が「アフリカの子供たちは何も食べるものがなくて飢えているんだよ。日本だって、戦時中には食べるものがなくて、みんなひもじい思いをしていたんだ。それなのに、今の子供たちは、これは嫌いだから食べたくないなんていうのは贅沢だ」などと言いきかせる場合を想定してみる。もしその子供がわりと聞き分けのある子なら、そう言われるとぐうの音も出ないと感じるかもしれない。しかし、それと同時に、「僕がアフリカや戦時中の日本じゃなくて、現代日本に生まれたのは僕のせいじゃない。どうして、たまたま豊かな国に生まれたことを責められなきゃいけないの。それに、そういうお母さんやお父さんだって、年がら年中アフリカの子供のことを考えているわけじゃないじゃないか」というような反撥を覚えるかもしれない。
 ここで問題となるのは、自分自身が同質の経験をしたこともなければ、当分しそうにないような困難な事情に関して、人はどこまで、どのように向き合うことができるのか、すべきなのか、ということである。「同じ人間なのだから、無関心でいてはいけない」というのは正論ではある(6)。しかし、「正論」というものは、往々にして押しつけがましいものであり、表立って反論しにくいだけに陰にこもった反撥を生みやすい。それに、困難な事情にあるすべての他者を「同じ人間」と捉えるなら、対象は無限に広がることになるが、ありとあらゆる対象に目を届かせることは実質上不可能である。そこで、現実には、たまたま目にとまった例にだけ反応するというのが通例のパターンだが、それはかえって不公平のもとではないかという疑問もある。たまたまテレビで取り上げられた悲惨な例には救援物資がたくさん送られるが、取り上げられなかった例は放置されたままになる可能性が高い。国際政治でいえば、甚だしい人権侵害のある国々は多いが、それらのすべてが同じように扱われるわけではなく、欧米諸大国がそれに注目して問題化するか否かで世界中の多くの人の対応が変わることになりやすい。だが、そこにおける選別には、実は米国なり西欧諸国なりの特殊利害が作用しているのではないかといった疑問を出すこともできる。
 他者のニーズへの感受性という問題は、イグナティエフがまさしく『ニーズ・オブ・ストレンジャーズ』というタイトルの本で取り上げたものである(7)。表題にいう「ストレンジャーズ」とは「他者」「外国人」その他いろいろな意味に解釈できるが、ともかく自分自身にとってそれほど身近ではない人々のことを念頭におくと考えられる。そうした人々の「ニーズ」は明示的に表明されたり、権利主張されたり、まして遠くの人々にまで伝わってくることは稀だが、それでもそうした「ニーズ」を無視すべきでないとしたら、どのようにしてそれと向かい合い、対応すべきか――これは広い意味での「ケア」の問題ということができる。もっとも、イグナティエフの著作はやや議論が散漫な観があり、著者がどういう風に論を進めようとしているのかが読みとりにくいところがある。彼はこの本ではかなり抽象的な思想史的議論から出発して、川本編著とも重なり合う社会福祉の問題にもときおり言及しているが、その後の彼は、むしろ現代的な国際政治の問題――各種民族紛争や「人道的介入」の問題など――に主たる関心を移しているようである(8)。貧困や重病で苦しんでいる人たちも、内戦で暴力にさらされたり、難民となった人たちも、深刻な「ニーズ」をかかえている「ストレンジャーズ」であり、「ケア」の対象だという風に考えるなら、これらを次々ととりあげる彼の姿勢にはそれなりの一貫性があると言えなくもないが、次から次へといろいろなトピックを論じる際に不可避な飛躍もつきまとっているように思われてならない。
 特に気になるのは、イグナティエフのある時期以降の著作は、「他者」の具体的実例として、内戦とか虐殺といった非常に極端な――そしてまた、世界中のマスコミの注目を引きやすい――事例に関心を集中させる傾向を強めているようにみえる点である。そのような例に関する記述を「先進国」の読者が読むならば、「われわれ」の住む世界と「彼ら」の住む世界の隔絶を意識することになりやすい。「われわれ」は経済的に豊かで、社会秩序が保たれ、民主政治が機能している国に住んでおり、自分自身はその中で中流以上の暮らしをしており、重い病気にかかってもいなければ、障害者や高齢者の介護の直接的責任も負っていない。これに対して、「彼ら」は飢餓と貧困にあえぐ地域や社会秩序が完全に崩壊した地域に住んでいたり、重い病気や障害や高齢に伴う機能障害などに苦しんでいる。このような二分法を前提するなら、両者の間のどうしようもない隔たりが意識されざるを得ない。それでもテレビ報道やルポルタージュなどでそうした事実を目の前に突きつけられるなら、一方では「そのような大変な事柄は自分の手に負えるものではないし、所詮は他人事だから」として目を背ける傾向、他方では、「そういう無関心は共犯に等しい」として、何らかの介入を呼びかける傾向のどちらかに分裂しやすい。後者の立場からすれば前者は許し難い無責任な態度ということになるが、後者もまた、適切な対応をもたらすという保証はなく、むしろ外在的観察に基づいた的はずれな状況認識と不適切な介入になるおそれも大きい。あるいはまた、極度に困難な状況への取り組みは、それ自体困難であるだけに、ヒロイックな自己陶酔とか独善性といった問題を生む可能性もある。こうした問題性を強く意識すれば「下手な介入はしない方がよい」ということになりそうだが、それは結局は現状放置につながるということで、事態は堂々巡りの様相を呈する。しかも、そのような隔絶を強く意識していると、「こちら側」の「われわれ」には何の問題もなく、問題はどこか遠くに住む「彼ら」だけにあるかの幻想にとらわれやすい。イグナティエフ自身がそういう考えを明示しているわけではないが、テレビ・ジャーナリストとして地球の遠くの紛争地に駆けつけていく姿勢の中に、そうした発想が暗黙に忍び込んでいるのではないかという気がしてならない(9)
 やや川本編著から離れてしまったが、ここに述べたことは、ケアの社会倫理を考える上で無視できない問題に関わるように思われる。ケアとは、少なくとも十分には自律しにくいような条件をかかえている人――その人は自らのニーズを明瞭に定式化したり、権利として要求することもなかなかできない――に対する他者の働きかけだとすると、そこにはどうしても「介入」の要素が含まれる。そして「介入」は押しつけ、お節介、パターナリズム、独善性等々の危険性を含む。しかし、ではだからといって「介入」を避けてさえいればよいのかといえば、それは冷淡な無関心・放置につながりやすい。この問題ににわかに明快な回答を与えることはできないが、持続的に考えていく必要があるだろう。
 
     五
 
 本書で初めて知り、関心を引かれた概念として、第五章の武井論文で取り上げられている「感情労働」という言葉がある。この概念は一部の社会学者たちによって注目されているようであり、ホックシールドがその代表であるという。私はホックシールドの著作はまだ読んでいないが、その紹介者である石川准の論文は、本書に収録されているわけではないが内容上武井論文と接点があるので、これもあわせ参照しながら考えてみたい(10)
 武井論文によれば、感情労働とは、「職務の内容として感情が大きな位置を占め、働き手自らが適切な感情状態を保ちつつ、クライエントにある特定の感情を引き出すことが要請される労働」のことであり、「感情労働者は自らの感情を手段として、クライエントの感情を対象に働くのである」という(一六七頁)。看護師の仕事などはその典型といえるだろう。
 看護労働の対象(クライエント)が病人である以上、対象となる人の感情に配慮し、それにふさわしい感情――少なくともその外観――を自ら保つべく努めることが要請されるのは当然なことのようにも思える。自分が病人だったり、その付添人だったりする場合を想定するなら、つっけんどんで気配りのない看護師は願い下げであり、表向きの愛想はどうでもよいとして、とにかく親身になって気を配ってくれる看護師に当たりたいと願うのは自然なことだろう。そのような期待に応えるのが看護師の職業倫理だという一般的了解もあるように思われる。
 しかし、そのような要請が看護師にとっては重圧として作用することが珍しくないことが、武井論文には詳しく描き出されている。「燃えつき=バーンアウト」現象、「思いやりは疲れる」、「共感疲労」、「代理性のトラウマ」等々の記述は、感情労働を立派に成し遂げようとすることに伴う困難性を説得的に示している。しかも、看護師は高度の職業倫理をもつとされているだけに、ハンバーガー・ショップの店員と違い、お仕着せの笑顔ではなく、「本物の笑顔」や「心からの思いやり」が要求される。一方では、専門的職業である以上、「どういう場面ではどういう風に振る舞うべきか」というマニュアル化が不可避だが、他方では、「マニュアル通りに演技するのは不誠実ではないか」という疑惑にもとりつかれる。
 それだけではない。看護師が患者に親切にしても、それは職業上当然の行為だから、見返りとしての感謝を期待してはならない。つまり、感情の互酬的なやりとりができないことを覚悟しなくてはならない(これは、第三章の清水論文がいう互酬性やコミュニケーションがそう簡単には成り立たないことを意味しているように思われる)。また救急現場などでは、次から次へと瀕死の患者が運び込まれ、自動機械になって働いている最中に患者の死を悲しいと感じる余裕などなく、「空きベッドが一つできたとほっとしてしまう現実がある」が、それと同時に、患者の死を悲しめない自分を人非人のように感じてしまう。そして遂には、看護師の自殺率の高さという事実まで示される。このような冷厳な事実をつきつける武井論文は、異様な迫力に満ちている(その後に、「看護に必要な感情は、そんなに大それたものではなく、ちょっとしたこと」だという締めくくりが来ることについては先に触れた)。
 武井と共通性のあるテーマを取り上げた石川准によれば、現代の対人サーヴィス(接客、医療、看護、教育など)に従事する労働者は、客に何ほどか「心」を売らねばならないという(11)。それは表層の演技であってはならないという規範が働くと、適切に振る舞うだけでなく、適切に感じること――つまり「深層演技」――が要請される。それができないと、「不適切な感情を抱く者」という烙印を押され、排除やサンクションや同化圧力にさらされるから、感情労働者は「感情規則」からの逸脱を恐れ、極力従順に同調しようとすることになる。このような条件下におかれた感情労働者の適応方法は、一つには一心不乱に仕事に献身すること、もう一つは自分自身を職務から切り離すことだが、前者は燃え尽きて感情麻痺を起こしてしまう危険があり、後者は「自分は不正直なペテン師だ」という自己嫌悪に陥る危険性にさらされている(12)
 感情労働者が表層ではなく深層で演技しなくてはならない――看護師はハンバーガー・ショップの店員と違う――という指摘は武井論文にもあった。確かに、表層演技と深層演技の区別は重要だが、両者の間にはある種の連続性があるのではないかとも思われる。コンビニのレジ係も、「営業用スマイルだけでなく、心の底からの親切をモットーにしろ」と上司から訓示されるかもしれないし、看護師も「その都度あまり真剣になっていたら身が持たないから、相手に親切と見えるように振る舞うことの方が大事だ」という助言を受けるかもしれない。とすれば、ひとまず双方を包括する広義の概念として感情労働を捉え、その上で、深層演技が要請される度合いが高いほど事態が深刻だと考えることができるのではないだろうか。
 やや別の論点として、石川は客室乗務員とセックス・ワーカーの間にはある種の共通性があると指摘している(13)。そこで主にいわれているのは、接客業務に携わるのは女性であることが多く、そこに性的な色合いが添えられるということだが、この問題はもう少し違う角度からも考えられるように思う。いうまでもなく、「心を売る」感情労働と、「体を売る」セックス・ワーカーとは、それ自体としてみれば非常に異なる職種である。世間一般の評価も、両者の間で大きな隔たりがある。そうした隔たりを念頭におくなら、両者を単純に並列することは当事者から強い反撥を招くだろう。そのことを確認した上で、にもかかわらず両者にある種の共通点があるとしたら、それは、「普通の商品」とは質的に異なったものを売るという点にあるのではないだろうか。「心の底からの奉仕」にせよ、性的サーヴィスにせよ、人格そのものと関わるように感じられるところがあり、そのため、それを売るのは、純粋に外面的な労働力を商品として切り売りするのとは違って、「本来売るべきでないものを売る」という感覚が伴うのではないだろうか。
 もっとも、もし性的サーヴィスというものを自分自身の人格とか内面性とかと切り離して、純粋に一つの商品として扱うことができるなら、それは――事実上の強制とか、労働条件の劣悪さなどといった問題をひとまず別とするなら――他の労働と同質のものとみなすこともできるかもしれない。「性の商品化」の是非をめぐっては種々の議論があり、肯定論(当事者が合意の上で売買しているのならそれでよいではないかという考え)、全面否定論(道徳的な「悪」という間主観的合意が今なおあるはずだとする)、商品化にもいろいろな種類のものがあることに着目する「よりよい商品化」論、「他者であること」に関わる場合には、たとえ合意があっても譲渡してよいとはいえないと説く議論などが交錯している(14)。この論争を錯綜させている一つの要因として、性的サーヴィスを「自己そのもの」から切り離して切り売りすることが可能かどうかが一義的に定められないという点があるのではなかろうか。人により場合によっては、完全に切り離し、割り切ることができるのかもしれず、それならそれでよいのかもしれない。だが、もしどこかしら「本当は売り物じゃないのに」という感覚がつきまとうとするなら、またそれと関連して「体を売る」行為は「心を売る」行為をも伴うとしたら、それは通常の労働とは質的に異なる悲惨さをもつ――また、それを買うのは疚しいことだ――ということになる。
 ケア労働を含む感情労働にしても、もし「営業用スマイル」「優しさの外観」「気配りに満ちた振る舞い」だけを売れば済むというのであれば、たとえそれに相当の努力や心労が伴うにしても、それは通常の労働に伴う努力や心労と大差ないとも考えられる。だが、もしそれにとどまらず「真心」を売らねばならないというプレッシャーが強いなら、問題はより深刻になる。「真心」とは「商品」たりえないという通念が今でも厳然として存在する以上、それを売るということは本質的に自己矛盾をはらみ、精神的に非常にきついことになる。
 もっとも、精神的にきつい労働は他にもあるから、ケア労働だけを特別扱いする必要はないという考えもできるかもしれない。武井もいうように、医療、福祉、教育、宗教などの仕事はしばしば「天職」とされる。「天職」とみなされるからこそ精神的にきついわけだが、それは「立派な仕事」を果たせることに伴う当然の代価とも考えられる。純然たる「商品」として外面的な労働力を切り売りするのは、気楽ではあっても味気なく、やり甲斐の感じにくいことであるのに対し、精神的なきつさを伴うような仕事こそがやり甲斐のあるものではないか。だが、その場合、その仕事の重さが正当に評価され、賃金・労働環境・労働時間などの労働条件や広い意味での社会的評価などによってその「きつさ」が補われるということが不可欠だろう。十分な休暇・休息時間や研修の機会が保障され、疲労からのリフレッシュを可能とする条件が整えられているのでないなら、「やり甲斐があるからこそきつい」などといっても空しい。ところが、ケア労働の場合、往々にしてそうした正当な評価がなされず、リップサーヴィスで「立派な仕事」「聖職」といわれることがあっても、それが現実的な処遇に反映されることがあまりないという点に問題があるのではなかろうか。
 図式的にまとめるなら、純然たる商品として外面的労働力を売るのが古典的資本主義における賃労働者であるとすると、そうでない人は、賃労働者以下の存在(資本主義以前的な奴隷もしくは農奴のような人格的隷属)か、賃労働者以上の存在(資本主義的関係を超えた専門職業人)のどちらかだということになる。このような区分を前提するなら、セックス・ワーカーの場合は、昨今ではかなり実態が変わりつつあるのかもしれないが、それでもどちらかというと前者に近いイメージが強いだろう。他方、ケア労働者の場合は、口先で後者のようにおだてられながら、実質的労働条件において前者に近似するということになるのではないだろうか。
 「聖職」「天職」「専門職」という評価が一応ありながら、それがあまり実質的裏付けをもたず、むしろしばしば「燃え尽きる」まで酷使されているというのは、ある意味で奇妙なことだが、そのようになっていることの大きな要因として、これまでのケア労働の多くが女性に割り当てられ、そして女性の社会的地位の低さと相関して「女性的な」職業の社会的評価が低いという事情があるだろう。こうして、最後の論点としてジェンダー問題につながっていく。
 
     六
 
 ケアの問題は抽象的にいえば性に関わりなく様々な人々に関係するが、現実問題としては、その負担の大きな部分が女性にかかるという意味でジェンダーの問題と深く関わっている。本書でも、ケアの負担が女性に集中しがちであることは、介護の例に即して第九章の春日論文で詳しく示されている。「看護師」という言葉が一般化してから看護職とジェンダーの関係がかえって見えにくくなった観もあるが、依然としてその大半が「看護婦」であることに変わりはない。家庭内でも、家庭外の公共サーヴィスや民間事業でも、ケアを担う人の多数派は女性であり、そのことが負担の特殊な重さおよび固定性という問題とつながっている。
 そこでジェンダーとケアの関係について論じなくてはならないのだが、この問題を全面的に取り上げるのはあまりにも大ごととなり、私の手に余る。そこで、キャロル・ギリガンの提起した「ケアの倫理」との関係でこの問題を考えてみたいというのが、この小文を書き始めた当初の目論見だった。しかし、その問題に関して草稿を書いていくうちに、これは別個のノートとして独立させた方がよいのではないかと思うに至った。かといって、ギリガン論を離れてケアとジェンダーについての考えをここで展開するということもできない。やや尻切れトンボだが、ギリガンに関するノートの参照を乞いながら、この稿を一旦閉じることにしたい。
     *
 とりとめなく、いくつかの論点に関する熟さない私見をつづってきた。まだまだ考えなくてはならない問題がたくさん残っているが、ともかく本書によって刺激されるところがいかに大きいかだけは確認できたのではないかと思う。著者たちの記述から離れた勝手な思いつきを述べた個所も多いが、それが純然たる我田引水に終わっていないなら幸いである。
 
 
(1)ここでは、パターナリズムを単純に退けるわけにはいかないにしても、基本的にはそれは好ましくないものだという理解を前提している。もっとも、一部の法学者の間では、パターナリズムを積極的に評価されるべきものとしたり、あるいは価値中立的な概念として捉え直す議論がなされているようである。私自身はこの議論にあまり通じておらず、ここで深入りすることはできないが、ケアの問題とも関連して改めて考えるべき主題と思われる。パターナリズム肯定論というと驚く人が多いだろうが、あらゆるパターナリズムを一般に肯定するということではなく、ある特定の場合には肯定されうるという議論だとすると、本文で触れた「パターナリズムを少なくとも完全には退けられない」という考えとそれほど大きく隔たってはいないようにも思われる。とりあえず、中村直美「法とパターナリズム」『法哲学年報一九八二(法と強制)』有斐閣、一九八三年、および瀬戸山晃一「現代法におけるパターナリズムの概念――その現代的変遷と法理論的含意」『阪大法学』第四七巻第二号(一九九七年)参照。
(2)立岩については、以前に『私的所有論』(勁草書房、一九九七年)についての読書ノートを書いたことがあり、それ以来注目してきたが、『自由の平等』(岩波書店、二〇〇四年)は、どことなく、かつてほどすんなりとは入ってこないような気がした。それが何に由来するのかは、にわかに判断することができず、とりあえず保留しておきたい。
(3)井上達夫『共生の作法――会話としての正義』創文社、一九八六年参照。
(4)近年、「質的研究」という言葉を時々眼にするようになった。その中身に通じているわけではないが、おそらく、数量的研究を重視するサイエンスの手法だけでは捉えきれない「質的」側面への着目という問題意識に発するものだろう。私自身は最近の動向には通じていないが、かなり古い先駆的業績として、見田宗介の『現代日本の精神構造』弘文堂、一九六五年、第三部「社会心理学的分析の方法」(「数量的データと『質的』データ」および「『質的』なデータ分析の方法論」)に刺激を受けたことがある。
(5)もっとも、私の関心と堀江・中岡の趣旨とは多少かけ離れているかもしれない。本文における私の記述も、堀江・中岡の記述をなぞりながら、多少自己流にアレンジしてある。また堀江・中岡は「今日の大きな問題は、私たちの生活様式や社会の仕組みが大きく変動する中で、それまでの、また現在の『型』が通用しなくなってしまうことである。〔中略〕。それまでの型で上手くいっていたかかわりが効力をなくし、規制の型だけを振り回してしまっているかのような自分に倫理が気づくからである」と書いている(一九〇頁)。そのような側面は確かにあるだろうから、この指摘自体に異議があるわけではない。ただ、このような書き方は、《安定期には型どおりの行動ですべてが上手くいくが、現在のような変動期には型を再考しなければならない》という風にも受け取れる。しかし、「安定期」とされる時期においても、「型」というものはありとあらゆる事態に網羅的に対応できるほど精密にできているわけではなく、その都度の状況・文脈に即した解釈・適用が必要になるはずである。そして、現在を変動期と捉えるのはよいとして、変動期にふさわしい新しい「型」さえ見つければそれでよいということではないのではないか、どのような新しい「型」が見つかっても状況・文脈による適用の問題は消えないのではないか、という風に私には思われる。その意味で、現在が変動期だからということに議論を集中させる発想には多少の違和感がある。
(6)もっとも、そこでいう「同じ人間」とはどういう存在を指すのかを厳密に考えようとするなら、相当な難問になる。だが、ここではそこまで立ち入ることはしないでおく。
(7)マイケル・イグナティエフ『ニーズ・オブ・ストレンジャーズ』風行社、一九九九年。
(8)マイケル・イグナティエフ、『民族はなぜ殺し合うのか』河出書房新社、一九九六年、同『仁義なき戦場――民族紛争と現代人の倫理』毎日新聞社、一九九九年、同『ヴァーチャル・ウォー――戦争とヒューマニズムの間』風行社、二〇〇三年、同『軽い帝国』風行社、二〇〇三年。
(9)現代的な国際政治と関わるイグナティエフの議論については、『ヴァーチャル・ウォー』および『軽い帝国』それぞれについての読書ノートで感想を記した。また、研究ノート「コソヴォ問題と「人道的介入(干渉)」論――日本における国際政治・国際法研究者の言説をめぐって」も参照〔これらのノートは、その後、改訂の上、『民族浄化・人道的介入・新しい冷戦――冷戦後の国際政治』有志舎、二〇一一年に収録した〕。
(10)石川准「感情管理社会の感情言説――作為的でも自然でもないもの」『思想』二〇〇〇年一月号。なお、論の進め方がより抽象的で、武井や石川の議論とはやや性格が異なるような気もするが、渋谷望『魂の労働』青土社、二〇〇三年、第一章、特に二五‐三二頁でも感情労働のことが扱われている。
(11)石川、前掲論文、四一頁。
(12)同右、四二‐四四頁。
(13)同右、四三頁。
(14)膨大な議論があるが、それぞれの立場の代表として、橋爪大三郎「売春のどこがわるい」、瀬地山角「よりよい性の商品化へ向けて」(いずれも江原由美子編『フェミニズムの主張』勁草書房、一九九二年所収)、永田えり子「〈性の商品化〉は道徳的か」、立岩真也「何が〈性の商品化〉に抵抗するのか」(いずれも江原由美子編『性の商品化』勁草書房、一九九五年所収)などを参照。この点について熟さないながらも私見を「現代道徳論の冒険――永田えり子『道徳派フェミニズム宣言』をめぐって」『三田社会学』第三号、一九九八年で提示したことがある。
 
*川本隆史編『ケアの社会倫理学――医療・看護・介護・教育をつなぐ』有斐閣、二〇〇五年
 
(二〇〇六年三‐五月)
 
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