柄谷行人『トランスクリティーク』/『世界共和国へ』/『世界史の構造』
 
 
      一
 
 柄谷行人という人の名前をはじめて聞いてから相当長い年月が経つが、正直に言うと「食わず嫌い」の状態が最近まで続いていた。一つには、おそらくかつての(今となってはもはや「新」ではなくなってしまった)「新左翼」の系譜を引く人だろうという先入観があり、それならおおよそのことは読まなくても見当がつくし、もう飽き飽きした、というような思い込みがあった。ときおり何となく気になることがなかったわけではないが、とりあえず敬して遠ざけておこうという気分が続いていた。
 そんな私が、オヤ意外に面白そうだと思ったきっかけは、冷戦終焉直後の時期に、ある雑誌インタヴューで、彼が次のような発言をしているのを眼にしたことである。
 
「ぼくはよくわからないことが一つあるんですけれども、正直に言うと、僕はスターリン主義とかになんの怨みもないんです。いっさい被害を受けていないわけ。多少被害を与えたことはあるが(笑)。……だから、人が共産党を恨むのがよくわからないわけね(1)」。
 
 ある世代――ごく大まかにいって、一九五〇‐六〇年代くらいの時期に自己形成した人たち――の間では、一時期マルクス主義なり左翼運動なりに惹かれたことがあり、その後、「裏切られた」とか「振り回された」という思いを抱くようになった人が少なくない。そうした思いがルサンチマンとなって、共産党やソ連に対する憎しみの情に結晶しているという例も数多い。私自身、同じ世代に属しているので、そうした感情は理解不能というわけではなく、他人事ではないとも感じるが、いつまでもルサンチマンを引きずっているのは見苦しいのではないかという気がして、「いい加減にしろ」と言いたい気持ちに駆られたりする。常日頃そういう感覚をいだいていたので、柄谷が「僕はスターリン主義とかになんの怨みもないんです」とスッキリ言いきるのに爽快な印象を受けた。かつて何らかの形で左翼運動にコミットした経験を持つ人が、それに幻滅をいだくというのは自然な成り行きだが、誰彼に対する悪口の形でそれを引きずり続けるのはあまり生産的ではない。そうした非生産的な態度が広まっている中で、それと一線を画そうとする姿勢に共感するものを覚えた。
 こうして興味を感じだしたのだが、直ちにその著作を読み出したわけではない。柄谷は多作な人だが、どこからどう手を付けてよいのか分からないという状態がその後も結構長いこと続いた。そういう中で、『世界共和国へ』は新書本という体裁から、わりと読みやすそうに思え、内容的にも私の手の届く範囲にありそうな気がしたので、とりあえず手始めにこれを読んでみたのは二〇一〇年のことである。ちょうどその年に『トランスクリティーク』の文庫版と『世界史の構造』があいついで刊行され、これらがいわば三部作をなしている――柄谷自身の歩みの順序としては、先ず『トランスクリティーク』の初版(二〇〇一年)があり、それを練り直したもののうち簡略版が『世界共和国』(二〇〇六年)、より本格的に論を展開したものが『世界史の構造』(二〇一〇年)となる――ということを知ったので、それらをも読んだのは二〇一一年から一二年にかけてのことである。本業の合間を縫って片手間かつ断続的に読んだため、どこまで精密に読み取れたかはいささか心許ないが、とにかく三冊を通して読むことで、ある程度のイメージが形成されてきた。
 以下では、私の読み取り得た範囲での議論の骨格とそれに対する若干の感想と疑問を書き記す。私は柄谷の他の著作はほとんど読んでおらず(2)、そのため、かなり偏ったイメージになってしまうかもしれないが、とにかくこの三冊が近年の柄谷の代表的な業績だろうという想定の下、これらにしぼって論じてみたい。なお、私の関心が柄谷の関心と全面的に対応しているわけではないことから、柄谷自身の理論構成に密着するのではなく、むしろ我流のまとめ方をすること、また三冊の間の微妙な差異は立ち入らず、基本的に三者をまとめて一体として論じることを、予め断わっておきたい。また、この三部作とりわけ『世界史の構造』については多数の論評が出ているようだが、既存の批評と私の観点をつきあわせるのは、それ自体独立した大作業になってしまうので、ここではそうした問題には一切立ち入らず、もっぱら自己流の観点からの読解に集中する(以下、典拠を示す際には、『トランスクリティーク』をT、『世界共和国へ』をS1、『世界史の構造』をS2と表示する)。
 
     二
 
 三著はそれぞれ構成を異にしているが、敢えて乱暴にまとめるなら、これまでの世界史を独自の視角から再構成し、その上に立って今後の展望を出そうとする試みと言えるだろう。そこで先ず、柄谷流の世界史再構成について考えてみたい(3)
 三著の各所で繰り返し提示されている基本的図式は、交換様式の四分類論である。四つのうち最初の三つは、A互酬(贈与と返礼)、B再分配(略取と再分配)、C商品交換(貨幣と商品)となっている。そして、四番目にDとして、名前の与えられていないもう一つの交換様式(柄谷はこれをXと表示している)があることになっている。この四分類論に立って、ネーション、国家、資本主義、アソシエーションをそれぞれA、B、C、Dと対応させるというのが次のステップである。そして、いわゆる近代社会においては、C(資本)が主導的ではあるものの、それはB(国家)によって支えられており、また互酬原理への希求を幻想的に吸収する装置としてのA(ネーション)も不可欠であるので、結局、資本=ネーション=国家が三位一体のような関係にあるとされる。
 この四元的図式のうち第四のものを後回しにして、最初の三つだけに着目するなら、類似の議論はこれまでにもいくつかあり、比較的分かりやすい。たとえばポラニーの経済人類学や、それを独自に改鋳した岩田昌征の比較経済体制論などがすぐ思い浮かぶ。個々の点では論者ごとに微妙な差異があるとはいえ、とにかく類似の点に着目して三元論的に考えること自体は、わりとありふれた発想ということができる(もっとも、狭義の経済を問題にする場合には、《市場か指令(再分配)か》という二元論が優越しているが、三元論はそうした二元論のもつ視野の狭さを克服しようとする試みといえる)。私自身も、種々の先行業績に学びながら、ある種の三元論的な構図で社会経済体制を捉えようとしてきたから(4)、柄谷の図式のうちのA・B・Cについては特に抵抗感なく、すんなりと受け取ることができる。
 柄谷に特異なのは、これら三つに加えて、第四の原理を想定し、四つの交換様式を論じている点にある。これはこれで興味深い問題提起である。だが、問題は、このDなるものとA・B・Cとが同一平面に並べられるものなのかどうかという点にある。柄谷の記述では、二つの座標軸をもつ平面上で、四者がそれぞれ一つの象限と対応させられるような形になっている。しかし、他面では、この第四の原理は歴史的に実在するものではなく、むしろ理念だという説明も各所でなされている。理念といっても、単なる空想や虚妄ではなく、歴史上いろいろな形で人々を突き動かしてきたし、今後もそれが期待されるという論の運びであり、それはそれで理解できる。だが、歴史的に実在したものと、そうでないものとは本来異なる次元にあるはずであり、それらを同一次元上に平面的に並べることには疑問を覚える。
 むしろ、三角錐のような形で図式化してみてはどうだろうかという思いつきが、読んでいて私の頭に思い浮かんできた。底面の三角形はA・B・Cの三元論とし、現実の様々な社会はどれも三つの原理の何らかの混合だと考えれば、現実界はこの三角形の中を動くことになる。その上で、どのような混合が「よりよいか」を判断するための基準を、この底面と直交する軸で考えると、三角錐の構図ができる(図解参照)。柄谷のいう第四の原理をこのようなものと位置づけるなら、それは最初の三つの原理と同じ平面に並ぶものではない。この軸は、価値判断のために立てられた軸であり、これに沿って高低を判断することができるが、その判断はあくまでも相対的なものであり、どこかで完成するということはない。目標としてのDはいわば無限遠点であり、現実にそこに到達することはありえないが、そこへの接近の度合いを測ることはできる。
 
(図解は略。pdfファイルを参照)。
 
 いま書いたのは私の思いつきだが、柄谷図式をこのように修正することは、柄谷がカントを援用して強調する「統整的理念」と「構成的理念」の区別とも整合するように思われる。「構成的理念」とは理性に基づいて社会を暴力的につくりかえようとするもの(ジャコバン主義)であるのに対し、「統整的理念」とは、「無限に遠いものであろうと、人がそれに近づこうと努めるような場合」を指すとされ(S1一八三頁)、「決して達成されるものではないがゆえに、たえず現状に対する批判としてありつづけ」るとか(S1一八五頁)、「けっして実現されることはないが、われわれがそれに近づこうと努めるような指標としてありつづける」(S2序文のxiii頁)、などと書かれている。この区別はうなずけるが、だとしたら、なおさら、第四原理は、実在する三原理と同じ平面には位置づけられず、それと直交する軸上の無限遠点と表わした方が適切なのではなかろうか。この疑問には、後でまた立ち返ることにしよう。
 さて、巨視的な世界史は、Aが主導的だった氏族的社会、Bが主導的だった社会(これはアジア的・古典古代的・封建的の三種に分かれる)、そしてCが主導的となる資本主義社会という風に区分されるが、資本主義社会については、更にその中での歴史的諸段階が論じられている(S2第四部第一章)。ここで主要な発想源となっているのは宇野経済学(5)の方法だが、宇野弘蔵が重商主義・自由主義・帝国主義という三期の区分を出したのに対し、柄谷は帝国主義的政策と自由主義的政策が交互に支配的となる循環的変化を想定し、重商主義・自由主義・帝国主義・後期資本主義・新自由主義という五期の区分を提示して、宇野理論に一定の修正を施している(まとめとして、S2四一二頁の表1)。
 この修正で重要なのは、ただ単に段階の数が三期(宇野)か五期(柄谷)かという数字の違いではなく、前者が一方向的な発展を想定するのに対し、後者は循環的変化を念頭におくという違いである。宇野段階論は、どれほど明示的かはともかく、帝国主義段階を「資本主義最後の段階」と想定し、その後は社会主義の時代になるはずだとの想定があった。だからこそ、宇野経済学はその理論的精緻性にもかかわらず、「資本主義最後の段階」がこんなにも長引き、社会主義への世界的移行がいつまでも実現しないのはおかしいではないかとの疑問にさらされざるを得ず、そのことが学派の衰微の一因となったように思われる。それとは別だが、一部の論者が使っている「後期資本主義」という言葉づかいも、「前期」に対する「後期」ということだから、「この後はもうない。これで終わり」という含意がある。これに対し、柄谷流の循環論をとるなら、どこかが最後ということはなく、これから後も様々な段階の交代が繰り返される可能性があり、少なくとも理論的には資本主義は永続しうるということになりそうである。もっとも、柄谷自身はそのように明言しているわけではない。この点は将来展望と関わるので、後で改めて立ち返ることにしよう。
 
     三
 
 これまで見てきたように、柄谷は近代社会の基本構造を《資本=ネーション=国家》の三位一体構造と捉えているが、この構造がどのようにして超克されるか――それと表裏をなして、これまでの社会主義の欠陥をどこに見出すか――の探求が彼の主たる課題といえるだろう。超えるべき相手が三位一体構造をなしていることとと対応して、超克の展望も三つの側面から考える必要がある。国家の対内的側面とりわけその支え手としての官僚機構、資本と貨幣、国家の対外的側面(ネーションという範囲)、の三者である。以下、この三つを順次見ていくことにしよう。
 先ず、国家権力および官僚制について。
 ソ連をはじめとする既存の社会主義やその背後にあると想定されたいわゆるマルクス=レーニン主義を批判しようとする際、それらを「国家社会主義」と特徴づけ、そこに最大の問題性を見出す議論は枚挙にいとまがない。その種の既存社会主義批判は一種のステレオタイプをなしているとさえ言える。柄谷も、ある個所では、それに近い発想と見える議論を提示している。たとえば、次のような一節である。
 
「これまで資本主義に対してなされてきた闘争には重大な欠陥があることがわかる。その一つは、資本主義を国家によって抑えようとするものである。それは可能なことではあるが、国家を強力にすることに帰結する。……われわれは国家の自立性について警戒しなければならない。資本主義の揚棄は、それが同時に国家の揚棄をもたらすものでなければ、意味がないのだ」(S2四三一頁)
 
 これ自体は分かりやすい議論だが、これをいうにとどまるなら、「国家の自立性について警戒」しさえすればよいという、安易な精神論にもなりかねない。ソ連を「国家社会主義」として非難する左翼は、古くから数多い。彼らはそれに対置して、「国家主義的でない社会主義」を理想とするが、その「国家主義的でない社会主義」なるものがどのようにして可能となるかを考え抜いていないのが通例である。柄谷の議論が興味深いのは、そこからもう少し踏み出そうとしている点にある。たとえば、彼はロシア革命後に国家が死滅するどころかきわめて強大な国家になったのは、「必ずしもボルシェヴィズム(レーニン主義)のせいだけではない」とし、外敵から革命を守ろうとするなら、それは国家的でなければならない、と指摘している(S1一九六頁)。ここには、レーニンと共産党を「国家主義的」と非難するだけでことたれりとする安易な発想への批判的姿勢が感じられる。
 レーニンだけでなくマルクスも、バクーニンらのアナキストから「国家主義者」として批判されてきた。しかし、柄谷によれば、マルクスは共産主義を「自由なアソシエーション」の実現と考える点では、むしろプルードンに近かった。にもかかわらず、マルクスが政治革命の必要性を唱えてプルードンと対立したのは、マルクスが国家主義者だったからでなく、「資本主義経済が法制度や国家政策によって護られている以上、少なくとも一時的に、それを停止する必要がある、そのために国家権力の掌握が必要である、と考えた」のだという。究極的には国家は消滅するが、短期間の「プロレタリア独裁」が過渡的なものとして許容される、というのがマルクスの展望であり、これは国家の自立性に対する警戒が足りなかったという欠陥をもつが、ともかく彼が国家主義者だったことを意味しない、と柄谷は論じている(S2三六一‐三六三頁)。
 マルクスにせよ、レーニンにせよ、究極的展望に関していえば国家主義者ではなく、国家の死滅を期待していた(レーニンが『国家と革命』で、われわれは目標に関してはアナキストと変わらないと書いていたのは周知のところである(6))。その一方、「一時的」「過渡的」にもせよ「国家権力の掌握」「プロレタリア独裁」が必要だと彼らは考えたのだが、その「一時的」「過渡的」な権力が実際には長期にわたって肥大し続けたというのがその後の歴史だった。とすると、ただ単に彼らを「国家主義者」として批判するだけでは足りず、「一時的」「過渡的」であるはずのものがどうして強大化し続けたのか、それを防ぐにはどうしたらよいかを考えねばならないということになる。
 この問題に関して柄谷が強調しているのは、国家というものは他の国家に対して存在しているのであり、そうした対外的側面を無視して一国内だけで国家を廃棄することはできないという点である。パリ・コミュンにせよ、ソヴェト・ロシアにせよ、外敵に対して自己を防衛しようとするなら、自らを国家として強化せねばならなかった、というわけである。この論点は、一国社会主義の不可能性――裏返していえば、世界革命の必要性――として、かつての「新左翼」が強調したところであり、それだけとってみるなら「古典的」な様相を呈しているように見える。しかし、「世界革命」――もっといえば「世界同時革命」――という言葉は、今となってはいかにも古めかしい極左空論主義を思い起こさせる。柄谷自身も、一方で、国家の廃棄は一国内だけではありえないことを強調しつつ、他方で、「世界同時革命」は非現実的であることを認めているように見える。それに代えて彼が提示しようとしているのが「世界共和国」論ということになるが、これについては後で立ち返ることとして、ここでは、一国内での国家権力の問題に関わるもう一つの論点を取り上げておきたい。
 柄谷によれば、マルクスは国家の集権的な権力を否定しながら、同時に、多数のアソシエーションを総合する「中心」を求めていた。多数のアソシエーションがあるなら、それらを結びつけるために「中心」が必要だというのは当たり前のような話だが、その「中心」なるものが往々にして「周辺」に対する権威的支配をもたらしやすいことを想起するなら、単純に「中心」の必要性を指摘するだけで議論を終わらせるわけにはいかない。ここで問題となるのが、権威と自由の関係である。柄谷はこの問題を、「中心があってはならない」と「中心がなければならない」という二つの命題のアンチノミー(二律背反)と描いている。このアンチノミーを解決するものは、一つの新たなシステムなのだ、というのだが(T二六七‐二六八頁)、ではその「新たなシステム」とは具体的にどういうものかという疑問がわく。
 これに続く個所には、目覚めた少数の指導者(前衛)と大衆という構図は避けられないとした上で、「大事なのは、まるでそのような二元性がないかのように言いつくろうのではなく、それが不可避であることを認めた上で、それが固定化しないようなシステムを考案することである」(T二七〇頁)とあり、関連する注では、「われわれが考えるべきなのは、知識人の指導、代表制、官僚制を不可避的なものとして認めた上で、その位階的固定化を阻止できるようなシステムを見出すことである」とある(T四七六‐四七七頁、注41)。これはレーニン的な前衛党論を諸悪の元凶として批判する一部の傾向から距離をとり、前衛とか官僚とかを全面否定することなく、かといってそれが固定化するのも避けようとする志向と見ることができる。次のような個所も、それを裏付けている。
 
「バクーニンのようなタイプのアナーキストは、一切の権力や中心を否定する。そこには、抑圧から解放された大衆は、おのずから自由連合によって秩序を作り出すだろうという暗黙の仮定がある。しかし、プルードン自身がいったように、決してそうはならない。逆に、それは強力な権力を招来するのだ。また、諸個人の能力差や権力欲がなくなると仮定することには何の根拠もない。むしろ、諸個人の能力差や権力欲が執拗に残ることを前提した上で、そのことが固定した権力や階級を構成しないようなシステムを考えるべきなのだ」(T二七三頁)。
 「マックス・ウェーバーがいったように、官僚制は、分業の発展した社会においては不可避であり、また不可欠である。それをただちに否定することはできない。むしろ、われわれは、アソシエーションや代表制も官僚制をもつことを認めなければならない。そして、諸個人の能力の差異や多様性と権力欲が存在することを認めなければならない。ただ、それらが現実的な権力に固定的に転化しないようにすればいいのである」(T二七五‐二七六頁)。
 
 これらの主張は重要な論点に触れている。自称「反権力」主義者が、実際には既存の権力を嫌っているに過ぎず、自分のまわりに新たな権力構造をつくりあげてしまっている例は、いやというほどたくさんある。それに比べれば、権威と自由の二律背反に眼を向けた上で、それに解決を与えようとする柄谷の試みには、共感できるものがある。だが、彼が「解決する」とか「システムを考案する」「システムを見出す」という場合、それは具体的にどういうことなのかと考えると、あまりはっきりした回答を見出すことはできない。これは解決というよりもむしろその希求、あるいは信仰の類ではないかという気がしてくる。かつての「新左翼」の一部には、一方における前衛党の絶対化(スターリニズム)、他方における前衛党否定論(古典的にはアナキズムだが、一九六〇年代末の流行語でいえば「ノンセクトラディカル」)をともに批判し、前衛党と大衆の二元性は不可避だとしつつ、しかし自分たちは「反スターリニズム」を掲げている以上、その位階制的固定化を阻止できるはずだと考える傾向があった。しかし、実際には、その信念は現実化せず、結果的にはスターリニズム同様の前衛党絶対化へと行き着いた(さかのぼるなら、レーニンやトロツキーも同じように考えていたはずであり、それが意図せざる結果としてスターリニズムを生みだしたのではないか)。この運命をどう避けることができるのかが最大の問題として残る。
 柄谷はこの問題に対してある種の回答らしきものを呈示している。人事におけるくじ引き制の提唱がそれである。能力差を認める以上、選挙による選抜なしでは済まされないが、それが固定的な権力を生まないようにするためには、くじ引きと組み合わせるべきだというのである。たとえば連記投票で三名を選び、その中から代表者をくじで選ぶ。そこでは、最後の段階が偶然性に左右されるため、派閥的な対立や後継者の争いは意味をなくす。くじで当選したものは自らの力を誇示することができず、落選したものも代表者への協力を拒む理由がない、というわけである(T二七六‐二七八頁)
 この発想はたしかに興味深いものであり、ある程度までは現実性もあるかもしれない。実際、陪審員や裁判員は抽選で選ばれる。最近一部で注目されている「熟議民主主義」は、有権者名簿から無作為抽出で選ばれた人たちのうち自発的に参加する人たちによって熟議を組織し、その意見を政治に反映させようとする(但し決定としてではなく、一種の諮問として)。入学試験において実力選抜の要素とくじの要素を組み合わせることは――大学教育学部附属小学校の入学試験をおそらく唯一の例外として――実際に採用されている例は多分ないだろうが、理論的には可能ではないかと思われる。とはいえ、これで本当にうまくいくかどうかは未知数であり、いろいろな疑問もありうる。これまでの実践例もきわめて少ないし、柄谷の叙述もごく短いものであり、一つの思いつきの域を出ないという印象を免れない。
 より大きな疑問は、このように具体的な解決策を提示するのは、カントの用語法で言うなら「構成的理念」になってしまうのではないかという点である。「統整的理念」の観点に立つなら、強いて具体的な解決法ないし処方箋を出すのではなく、ただ単にある方向への接近を目指すという方がスッキリするように思われる。先の引用個所の一つに即していえば、「それら〔諸個人の能力の差異や多様性と権力欲〕が現実的な権力に固定的に転化しないようにすればいいのである」というのではなく、諸個人の能力の差異や多様性と権力欲は否定しがたいし、それらが固定化し、権力化する趨勢も避けがたいが、あたうる限り固定化・権力化を避けようと無限に努力し続けるべきだというのが「統整的理念」ではないだろうか。
 
     四
 
 次に、資本と貨幣について。
 前節の冒頭で、これまで資本主義に対してなされてきた闘争の重大な欠陥の一つとして「資本主義を国家によって抑えようとするもの」を柄谷が挙げていることを引用したが、それと並ぶ「もう一つの欠陥」として挙げられているのは、「社会主義運動が、生産点における労働者の闘争を根底においてきたこと」という点である(S2四三一頁)。というのも、生産点においては、労働者は資本と同じ立場に立ちやすく、政治的・普遍的な闘争に立ち上がるのは困難だからである。むしろ、労働者は消費者でもあるという事実に眼を向けるなら、労働者階級が自由な主体として資本に対抗して活動できる場は流通過程にある、というのが柄谷の主張の一つの柱となっている。より具体的には、消費者=生産者協同組合や地域通貨・信用システムなどの形成によって非資本制的な経済を自ら創りだすことがその目標とされる(S2四三七‐四四〇頁)。もっとも、ここには、「たとえそれによって資本主義を超克できないとしても、資本主義とは異なる経済圏の創出は重要である」という但し書きがついている。協同組合や地域通貨・信用システムの発展は、やがては「資本主義の超克」にまで行き着くのか、それともそこまではいかないが、「資本主義とは異なる経済圏」をいわば部分システムとして創出することでよしとするのか、という疑問がわく。この点については後で立ち返ることにしよう。
 とにかく協同組合の重視という論点が、一つの重要な柱をなしていることは明らかである。これは生産点重視の伝統的なマルクス主義と比べるなら異彩を放っているようにみえる。もっとも、伝統的・正統的マルクス主義という系譜を離れて、より広く様々な社会運動全般の中で考えるなら、協同組合重視という発想はそれ程孤立したものとは言えないだろう。「マルクス主義者は、旧ユーゴスラビアのチトー主義者を例外として、一般に生産者=消費者行動組合を否定しないまでも軽視してきた」とあるが(S2三六八‐三六九頁)、では旧ユーゴスラヴィアの実験――これは「ソ連型社会主義」とは大いに内実を異にするにもかかわらず、結果的にはほぼ時を同じくして退場した――をどう評価するのかという問いが思い浮かぶ。また、「否定しないまでも軽視してきた」とあるが、「軽視」と「重視」の差は程度の問題ではないか、「重視」するつもりだったのがいつの間にか「軽視」になってしまう可能性をどう考えるのか、といった疑問もわく。実際、一九二〇年代のソ連では協同組合を「きわめて重視」し、その発展を通して社会主義に至ろうとする発想も有力だった(代表的論者はブハーリン)。「軽視」では駄目だ、「重視」しなくてはならないというだけでは、こうした歴史に対する有効な批判にならないだろう。
 柄谷はまた、協同組合を重視する一方で、その「限界」にも触れている。「協同組合は、資本が及ばないような領域や消費協同組合としては十分に成立するし、有効でありうる。ただ、それによって資本制企業を圧倒することはありえない」、「協同組合的な企業は、資本制企業の間で、競争に耐えることができない」といった指摘もある(S2三七〇、三七五頁)。
 では、どうしたらよいのか。「国家によって協同組合を育成するのではなく、協同組合のアソシエーションが国家にとってかわるべきだ、とマルクスはいうのだ。とはいえ、法的規制その他、国家による支援がなければ、生産者協同組合が資本制企業に敗れてしまうことは避けがたい。だから、マルクスはプロレタリアートが国家権力を握ることが不可欠だと考えた」(S2三七二頁)。「こうした変革は、個々の企業内での闘争によってではなく、国家的な規模で、法制度を変えることによってしかできないのである」(S2三七五頁)。これは前節で見た国家権力掌握の――少なくとも「一時的」な――肯定と呼応する。
 こうして、国家権力掌握の必要性が指摘されているわけだが、それは「国家によって協同組合的生産を保護育成する」のとは似て非なるものだ、国有化と労働者の共同占有は似ているように見えるが本質的に異なる、と柄谷は力説する。株式会社の協同組合化こそが社会主義であり、国有化はそれとは縁遠いというのである(付け加えるなら、そのような歪曲はエンゲルスに端を発するものだとされ、レーニンやスターリンよりもむしろエンゲルスの国有化論こそが諸悪の元凶だというのが彼の主張のようである)。協同組合と国有化を似て非なるものとし、前者は善、後者は悪と峻別するのは、気持ちの上では分からないではない。だが、柄谷自身、協同組合の全国的発展のためには「国家による支援」が不可欠だと書いていたのは上に見たとおりである。とすると、国家による協同組合「育成」はよくないが、「支援」はよいということになりそうだが、「育成」と「支援」はどうやって区別できるのだろうか。悪名高いソ連の農業集団化にしても、建前としては自発的な協同組合としてのコルホーズ(集団農場)を国家が「支援」して一挙に広めようとする政策だった。「農業の国営化、あるいは集団農場化」と無造作に一括した個所がある(S2三七八頁)が、集団農場は制度的には決して国営ではなく、協同組合という建前になっていた。そんな建前はフィクションに過ぎない、表向き協同組合であっても、実質は国営と大同小異だろうという批判は、結果論的にいえば当たっている。だが、それをいうなら、柄谷のいう「国家による支援」が同様の運命をたどらない保証がどこにあるのかという疑問が出てくる。
 協同組合の重視は、代替貨幣論とつながっている。協同組合的アソシエーションは個々の独立性を保っていなければならず、社会全体を「一工場」のようなものにしてしまってはならない。もし「一工場」になってしまうなら、その内部では「交換」は存在せず、貨幣も存立の余地がないが、独立性を保持した協同組合の間では、それらの関係を取り結ぶ媒体としての貨幣を単純に否定することはできない。こうして貨幣が必須のものとなるが、他方で、貨幣が資本に転化することは防がねばならない。そこで、資本に転化しないような代替通貨、そしてそれにもとづく支払い決済システムや資金調達システムが不可欠だ、ということになる(T四四二‐四四四頁)。
 ここにあるのは、「貨幣はなければならない」と「貨幣はあってはならない」のアンチノミーである(T四四二‐四四五頁)。このアンチノミーは、前節で取り上げた「中心があってはならない」と「中心がなければならない」のアンチノミーと似たところがある。「中心」に関するアンチノミーの指摘が国家社会主義とアナキズムの双方に批判的であることとのアナロジーでいえば、貨幣に関するアンチノミーの指摘は、貨幣廃止を目指した指令型経済と貨幣を永続化させる市場経済の双方への批判と位置づけることができる。
 問題は、このアンチノミーは解決されるかという点にある。柄谷は、ソ連などの現存社会主義は「資本に転化しない貨幣」の創出を目指さなかったと考えているようだが、それは当たらない。レーニンの「一工場」論(T四四三‐四四四頁、S2三七七頁)はあくまでも一時期、観念の世界で構想されたに過ぎず、現実のソ連経済が「一工場」のように運営されたわけではない。実際のソ連経済においては、個々の国有企業は独立採算制の原則に立って運営され、企業間の交換は貨幣に媒介されていた。もっとも、そこにおける「独立採算」の内実をめぐっては膨大な議論があり、「企業の独立性」をめぐっても議論が絶えなかったが、ともかく「一工場」化することはなく、従ってまた貨幣も廃絶されなかった。
 貨幣死滅論を本気で実現しようとする実験は、ロシア革命直後および一九三〇年代初頭に――そして後世の例でいえば、ポルポト期のカンボジアで――ごく短期間試みられた後に、直ちにその非現実性を露呈させ、貨幣存続論が優位を占めたというのが、現存社会主義の歴史である。そこにおける貨幣は、市場経済における貨幣とはその機能を異にし、「受動的な貨幣」などと呼ばれることがある(これは「市場社会主義」を志向する立場から、その「受動性」を不完全性と見なす用語法)。これはある意味では「資本に転化しない貨幣」の試みと見られなくもない。もちろん、実際にはその試みは成功しなかったが、それは単にその課題が意識されなかったからではない。課題が意識されても実際には成功しないということは大いにありうることである。ところが、柄谷は現存社会主義がこうした課題を意識していなかったのように捉えて批判しているが、これは批判として皮相だという印象を免れない。
 
     五
 
 各論的検討の最後として、ネーションについて。
 これまで見てきたように、一つの国の枠内で国家権力を超えようとしても、他の国家に対して自己を防衛する必要がある限り、国家をなくすことはできない。また、協同組合の組織化も「国家の支援」を必要とする以上、国家というものを無視するわけにはいかない。結局、国家権力(その対内的側面)にせよ、資本と貨幣にせよ、それを本当に超えようとするなら、他国との関係という壁にぶつかる。そこから、社会主義革命は一国だけではありえない、それは世界同時革命としてのみ可能だ、という認識が導かれる(S2三七九、四四一‐四四二頁)。
 「世界同時革命」というスローガンは、かつて「新左翼」の一部で盛んにもてはやされたことがある。柄谷もある意味ではその発想を受け継いでいるように見えるところがある。とはいえ、観念の世界でならともかく、現実問題として「世界同時革命」――「主要国」ないし資本主義先進国における同時革命――なるものが可能だというのは、いくら何でも空論的だろう。柄谷もそこまで言っているわけではない。では、どう考えているのか。
 柄谷によれば、一八四八年の革命はまさに世界同時革命だったが、その後、その条件はなくなった。そして一八四八年敗北以降のマルクスは、歴史段階の「飛び越え」に対して非常に慎重になり、「永続革命」という考えを否定するようになった(7)。ところが、トロツキーはマルクスが否定した「永続革命」を引っ張り出し、それがレーニンにも影響した。十月革命時にトロツキーとレーニンはヨーロッパの「世界革命」が続くことを期待していたが、当然ながらそれは起こらなかった。世界革命が起きない以上、革命政権は他国の干渉から自己を防衛するために強力な国家機構を再建せねばならず、党=国家官僚の専制的支配体制がまもなく形成された。その意味で、革命が裏切られたのはスターリンによってではなく、十月革命において既に裏切られている。マルクスが「永続革命」を否定し、歴史的段階の「飛び越え」を否定したことに対する、そうした挑戦(毛沢東を含む)は全般的に失敗に終わった(S2三八六‐三八八頁)。
 これは、それだけとってみればもっともな指摘に見える。マルクス的な発展段階論を前提し、かつ一国的な観点から考えるなら、発展段階の「飛び越え」が不可能だというのは当たり前の話ともいえる。これまでにも、多くの論者がそうした観点からソ連や中国の「後進国革命」はもともとうまく行くはずがなかったのだという批判論を提起しており、これはとりたてて新しい議論ではない。だが、一八四八年のマルクス、一九〇五年のトロツキー、一九一七年のレーニンとトロツキーは、いずれも一国的な枠内で革命を考えていたわけではない。「後進国」における革命が「世界革命」につながることによって「先進国」における社会主義革命に支援されるという期待がそこにはあった(8)。そのような期待が現実的か非現実的かはもちろん別問題であり、今日から見れば非現実的だったという評価が自然である。柄谷によれば一八四八年革命敗北後のマルクスは「飛び越え」と「永続革命」を否定したというが、仮にその主張が正しいとして、それは「飛び越え」=「永続革命」=「世界革命」という図式の放棄というよりも、その図式の実現可能性に関する悲観論を意味するように思われる。そうした観点を突き詰めていうなら、およそ革命は不可能だ――一国における社会主義革命も不可能だし、世界同時革命も非現実的だ――という悲観的見解になるだろう。基本的に同じ展望を共有する人たちが、その展望の実現可能性に関して楽観論と悲観論に分かれる――あるいは同じ人が楽観論と悲観論の間で揺れる――というのはよくあることだが、その分岐は情勢判断に関わる相対的な度合いの問題であって、思考の枠組み自体が違うということではない。そして、一般に革命家というものは高揚期には非現実的な楽観論と期待感に突き動かされるが、低迷期には慎重論ないし悲観論に傾くものだと考えれば、一九世紀のマルクスと二〇世紀初頭のレーニン、トロツキーの間にそれ程決定的な断絶があるとはいえない。
 それはともかく、「永続革命」(「=世界革命」)に関する悲観論ととれる記述をする一方で、柄谷は「世界同時革命」のヴィジョンは消えてしまったわけではないとも説いている。一九六八年の諸運動もある意味では世界同時革命だったし、現代においてもネグリとハートのいう「マルチチュード」の世界同時反乱はそれに当たるという。この意味で、「世界同時革命」の観念は今も残っている。しかし、それははっきりと吟味されたことがない。むしろ、だからこそ神話として機能する。われわれは失敗を繰り返さないために、それを吟味する必要がある、と論が進められる。(S2四四五‐四四六頁)。
 この個所は二通りに解釈することができる。第一の解釈は、「世界同時革命」は現実政治的にいえば挫折するしかないが、その観念は「神話」として生き残り、「インパクト」を永遠に与え続ける、というものである。これはいわば「見果てぬ夢」を目指したシジフォス的な努力をいつまでも繰り返していくほかないということになる。他方、第二の解釈は、これまでの失敗の歴史を吟味するなら、今度こそは成功することができるというものである。これはある種の終末論的展望ということになる。この二つの解釈のうち、どちらが柄谷の本意なのだろうか。
 この点を更に追究するためには、柄谷が世界同時革命について考える上で最も参考になるとしているカントの「世界共和国」論――それへの柄谷の独自な解釈――について検討しなくてはならない。
 カントの永遠平和論はしばしば非現実的な理想論と見なされているが、柄谷によれば、カントのいったことは「自然の狡智」を通して実現されたという。一九世紀末の帝国主義の時代に支配的となったのは大国の覇権争いであり、その結果が第一次大戦だったが、その未曾有の破壊の経験から国際連盟が登場した。その国際連盟は無力で第二次大戦を防ぐことができなかったが、その結果として国際連合が形成された。この国際連合も無力だが、それを嘲笑して無視し続けるなら、世界戦争になるだろう。それは新たに国際連合を形成することにつながるだろう。こうして、カントの見方には、ヘーゲルのリアリズムよりももっと残酷なリアリズムが潜んでいる、と論じられている(S2四五三‐四五五頁)。
 この議論を図式化すると、《諸国家連邦の構想→その無力さの帰結としての世界戦争→国際連盟→その無力さの帰結としての世界戦争→国際連合→その無力さの帰結としての世界戦争→新たな国際連合……》という連鎖になる。これはどこかで「世界共和国」が完成して終わるのではなく、世界戦争の何度もの繰り返しという無限の循環になるかもしれないし、また、その破壊規模が次第にエスカレートするなら、何度目かの世界戦争で人類が滅亡してこのサイクルが閉じられるということになるかもしれない。いずれにせよ、このようなサイクルは「自然の狡智」を意味するかもしれないが、それが「世界共和国」という究極目標にたどり着くという結論を意味するわけではないように思われる。
 柄谷の「世界共和国」論はそれ自体としては抽象度の高い議論だが、同時に、より具体的なレヴェルで、国連を重要な手がかりとする議論も提起されている。もっとも、現にある国連をそのままの形で強めればよいというのではなく、むしろその性格の変化を前提した展望を出そうというのが、彼の考えのようである。複雑で膨大な連合体である国連システムは、第一に軍事、第二に経済、第三に医療・文化・環境などの領域からなるが、第三の領域は第一・第二と違って、歴史的に国際連盟・国際連合に先行している場合が少なくない。つまり、元来は別々に国際的アソシエーションとして生成してきたものが国連に合流することでできあがった。また、この第三領域では、国家組織(ネーション)と非国家組織の区別がない。たとえば世界環境会議に諸国家と並んでNGOが代表として参加しているように、ネーションを越えたものとなっている。このような現実を踏まえ、国連を新たな世界システムにするためには、各国における国家と資本への対抗運動が不可欠だ、と論じられている(S2四六三‐四六四頁)。
 このように論を進めた上で、結びに近い当たりでは、次のように述べられている。
 
「世界同時革命は通常、各国の対抗運動を一斉におこなう蜂起のイメージで語られる。しかし、それはありえないし、ある必要もない。国連を軸にするかぎり、各国におけるどんな対抗運動も、知らぬ間に他と結びつき、漸進的な世界同時的な革命運動として存在することになる」(S2四六四‐四六五頁)。
 
 一斉の蜂起ではなく漸進的な運動という主張は一応分かる。文字通りの「同時革命」=一斉蜂起よりは、その方が現実的だろう。だが、それはベルンシュタインのいうような永遠の運動なのか、それともある種の窮極目標が現世で実現しうると考えているのか、この点が最大の問題である。節を改めて検討しよう。
 
     六
 
 これまでの三つの節では、国家権力と官僚制、貨幣と資本、ネーションという三つの角度から柄谷の議論を追ってきた。どれも興味深い問題提起であると同時に、疑問もつきまとう。柄谷の議論が体系的である以上当然ながら、興味深い主張にせよ疑問点にせよ、三つの角度ごとに別々の話になっているわけではなく、むしろ一つのテーマが形を変えて繰り返されている観がある。そこで、最後に、柄谷の議論に関する最大の疑問をまとめて考えることにしよう。
 これまでも触れてきたように、柄谷は「統整的理念」と「構成的理念」を区別し、前者に自己の拠り所を見出そうとしている。そして、「統整的理念」とは決して現実に達成されるものではなく、ただ徐々にそこに近づけばよいということが各所で指摘されている。としたら、実践的には、無限の改良を試み続けるという意味での改良主義になるのではないかという気がしてくる。第二節で掲げた図において、三角錐OABCは実在領域であるのに対し、Dは無限遠点だとするなら、Dそのものが現実化することはありえず、ただ少しでもDに近づくように試み続けることしかないというのが、一つの自然な解釈のはずである。ところが、柄谷の文章の中には、あたかもDそのものの実現を期するかの記述もあちこちにあり、その点の理解に苦しむ。これは、ある種の革命主義的発想がなお残っているのではないかと感じさせられる。
 『世界史の構造』の本文最後の段落を全文引用してみよう。
 
 「互酬原理にもとづく世界システム、すなわち、世界共和国の実現は容易ではない。交換様式A・B・Cは執拗に存続する。いいかえれば、共同体(ネーション)、国家、資本は執拗に存続する。いかに生産力(人間と自然の関係)が発展しても、人間と人間の関係である交換様式に由来するそのような存在を、完全に解消することはできない。だが、それらが存在するかぎりにおいて、交換様式Dもまた執拗に存続する。それはいかに否定し抑圧しても、否応なく回帰することをやめない。カントがいう「統整的理念」とはそのようなものである」(S2四六五頁)。
 
 この引用文の前段は、交換様式A・B・Cは――従ってまたネーション・国家・資本は――「執拗に存続」し、「完全に解消することはできない」という内容になっている。末尾の「統整的理念」という言葉も、A・B・Cが完全に消滅はしないということを前提しているかに見える。問題は、その間に挟まれている「交換様式Dもまた執拗に存続する」という個所である。これは「交換様式Dへの志向も執拗に存続する」と言い換えてよいのだろうか。もしそう言い換えてよければ、Dそのものが全面的に実現することはないが、それでも、それに近づこうとすればよいという、改良主義的な発想になる。だが、そうではなくて、いつの日かDそのものが実現するはずだという革命主義的な発想であるかのようにも解釈することができる。
 先の引用文の少し前の方には、「早晩、利潤率が一般的に低下する時点で、資本主義は終わる」という個所がある(S2四四一頁(9))。「資本主義は終わる」という言葉は、Cが――そして含意としてはそれに伴ってAやBも――終わりの日を迎えるという終末論的な発想を想起させる。第一節で見たように、柄谷による資本主義の歴史段階論は、資本主義が永続しうるという理論であるかにも見える一方、はっきりそう明言されてはいないという両義性があったが、ここへ来て「資本主義は終わる」と言われると、どうやら「終わり」があると考えているようだという気がしてくる。別の個所には、「シュミットの考えでは、ホッブズ的観点から見れば、国家の揚棄はありえない。だが、それは国家揚棄が不可能だということにはならない、ホッブズのとは別の交換原理によってのみそれが可能だということを、彼は示唆しているのである」とあり(S2四六二頁)、これは「国家揚棄」が現実に可能だという主張であるように見える。こういうわけで、ネーション・国家・資本は執拗に存続し、完全に解消することはできないという展望と、どこかの時点でその解消・超克が実現するという展望とが奇妙に同居しているという印象が生じる。
 より具体的な方策に即していうなら、人事におけるくじ引き制、経済活動における協同組合の拡大と代替通貨の実験、国際面では国連改革(特にNGOの活発化)といった構想が提起されていることはこれまで見てきたとおりだが、これらの方策は、現実的であると同時に改良的だという特徴を持っている。部分的な実験としてであれば、これらの方策を取り入れることは可能であり、現にあれこれの形である程度まで実践されている。だが、それらが部分的な実験にとどまることなく、資本=ネーション=国家に全面的にとって代わることができるかどうかと言えば、未知数というほかない。
 カント流の「統整的理念」という考え方を重視し、既存社会主義の轍を踏むまいとするなら、机上で立てられた全面的解放の理念を現実界に実現しようなどという発想を捨てて、むしろ改良主義に徹してもよいのではないかと思われてくる。ところが、柄谷はそうは考えていないようである。そのことは社会民主主義への辛い評価によく現われている。社会民主主義には資本と国家を揚棄するという展望など全く存在しないとか、資本=ネーション=ステートの外に出るという考えを放棄しているといった指摘が随所で繰り返されている(T四四四、四四七‐四四八、四四九、四五三頁、S2三九七頁など)。社会民主主義が資本=ネーション=ステートを揚棄しないというのはその通りだろう。だが、それは社会民主主義者自身が公然と認めていることであって、そう指摘したからといって何の批判にもならないのではなかろうか。
 「統整的理念」の立場とは、それそのものを現世に実現するというのではなく、ただ無限に近づこうという試みを意味するはずである。だとするなら、社会民主主義も、「揚棄しないから駄目だ」ではなく、「揚棄しない」ことをわきまえた上での一つの努力――前進もあれば後退もある――として評価することができるのではないだろうか。もっとも、一口に「社会民主主義」といっても様々な潮流があって、その内実を一義的に規定することはできないし、ヨーロッパ以外の諸国ではそもそも社会民主主義運動はあまり有力ではないから、社会民主主義に全てが託せるなどというわけではない。ここで問題にしたいのは、社会民主主義それ自体の評価ではなく、柄谷の社会民主主義評価には、どこかしら革命主義的発想の残滓のようなものが感じられるということである。
 柄谷はとりわけ『トランスクリティーク』においてカント由来のアンチノミー(二律背反)という概念を重視しているが、それに倣っていうなら、「改良にとどまるのではたりず、革命をこそ目指さねばならない」という命題と「革命は不可能であり、改良にとどまるほかない」という命題もアンチノミーの関係にあり、これこそ社会変革に関わる最大のアンチノミーといえるのではないだろうか。おそらくこのアンチノミーに解決はないだろう。ただ、とにかくそうした問題の所在を提起した点に柄谷の功績があるとは言えるかもしれない。
 
(二〇一二年三‐四月)
 
*柄谷行人『トランスクリティーク――カントとマルクス』岩波現代文庫、二〇一〇年(単行本初版は二〇〇一年)、同『世界共和国へ――資本=ネーション=国家を超えて』岩波新書、二〇〇六年、同『世界史の構造』岩波書店、二〇一〇年
 

(1)『海燕』一九九三年一二月号三八頁。
(2)小文は別として、一冊の本となっているものでこの三部作以外に読んだのは、『柄谷行人 政治を語る(聞き手・小嵐九八郎)』図書新聞、二〇〇九年だけである。この本は対話調であるため、分かりやすいというメリットがあり、柄谷という人の軌跡を一通り知るには便利だが、あまり本格的に論を展開したという感じのものではない。
(3)『世界史の構造』序文の末尾に、「私がここで書こうとするのは、歴史学者が扱うような世界史ではない。私が目指すのは、複数の基礎的な交換様式の連関を超越論的に解明することである」とある(S2四四頁)。つまり、著者自身、これは通常の意味での「歴史」ではないと明言していることになる。原史料に基づく歴史記述を一次的研究、そうした一次的研究に依拠した記述を二次的研究とするなら、ここで行なわれているのは、いわば三次的研究ということになる(ここで一次・二次・三次というのは、それらの作業の性質の違いに関わり、どれが高級か低級かということとは関わらない)。私自身は、自分の専門のフィールドでは一次的研究、それ以外のフィールドに手を伸ばすときには二次的研究を課題としており、ここで行なわれているような三次的研究をどう受けとめてよいかには戸惑うところがあるが、とにかく通常の意味での歴史研究ではないが、歴史に関する「超越論的解明」ということで理解しておきたい。
(4)塩川伸明『現存した社会主義――リヴァイアサンの素顔』勁草書房、一九九九年、七九‐八八頁、『冷戦終焉20年――何が、どのようにして終わったのか』勁草書房、二〇一〇年、一五六‐一六一頁。前者における三元論はもっぱら経済体制論の枠内での議論だったが、後者ではそれを多少拡張しようと試みた。
(5)マルクス経済学の系譜にあまり馴染みのない人が増えつつあるだろうことを念頭において、簡単に説明するなら、宇野経済学とは宇野弘蔵を創始者とする学派で、一時期日本のマルクス経済学の中で強固な位置を築いた。マルクス経済学のもう一つの有力な学派として講座派という系統があり、歴史学や政治学への影響という点では講座派の方が強力だったが、東京大学の経済学部および社会科学研究所をはじめとする東日本の経済学者の世界では宇野派が講座派を圧倒していたというのが私の記憶である。柄谷は東大経済学部の出身なので、学生時代に宇野経済学を学んだと自ら語っている。私自身は本格的に経済学を学んだわけではないが、若い時期にかじった経済学は宇野経済学だったので、その意味では柄谷の論の運び方に馴染みがある。
(6)『レーニン全集』第二五巻、四七〇‐四七一頁。
(7)ここでいう「飛び越え」論とは、資本主義がまだ発達していない「後進国」が資本主義段階を「飛び越え」て、社会主義へと至るという展望を指し、「永続革命」論とは、「後進国」における革命がブルジョア革命にとどまることなく、社会主義革命へと連続的に発展するという考えを指す。
(8)『世界史の構造』には、レーニンとトロツキーが十月革命時に「世界革命」、とりわけドイツ革命の勃発を予期していたというのは「本当だとは思えない」、という個所があるが(S2四四三‐四四四頁)、これは無理な議論である。確かに、後世の観点から見れば、当時の状況で「世界革命」を期待する方がおかしいだろうが、それは距離を置いた冷静な観察者の視点であり、当時の熱狂の中では、レーニン、トロツキーは本当に世界革命到来を期待していたというのが歴史的現実である。「それは本当だとは思えない」というのは、自説をレーニン、トロツキーと区別するための強弁と響く(ついでにいえば、マルクスのザスーリチ宛て書簡の解釈もかなり強引である)。なお、『世界共和国へ』には、レーニン、トロツキーはヨーロッパの「世界革命」がロシアの後に起こることを期待していたという記述がある(S1一九六頁)。こちらの方がずっと素直な記述である。
(9)これに続く個所には、それは一時的に全社会的な危機をもたらすが、そのとき非資本制経済が広範に存在することがその衝撃を吸収し、脱資本主義化を助けるものとなるだろうとある。これはこれで分からないではない。かつてロシア革命や中国革命のとき、それらの国では、非資本制経済――というよりもむしろ前資本主義経済――が広範に存在していたことが衝撃吸収の役割を果たしたからである。だが、いうまでもなく、それは理想の社会主義社会につながったわけではない。ロシアや中国のような「後進国」ではなく、高度に資本主義の発達した「先進国」で協同組合などによって非資本制経済が広がっていればよいのだというのが柄谷の主張かもしれない。だが、それでうまく行くということが論証されているわけではなく、これは単なる願望の表明に過ぎない。
 
 
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