ギリガン『もうひとつの声』
 
 
     一
 
 本書はいまから二〇年以上前に書かれた作品だが(英語での初版は一九八二年、邦訳は一九八六年刊)、「ケアの倫理(ethic of care)」――「思いやりの道徳」「配慮の倫理」その他様々に訳されることがある――という概念を提出して有名になり、それ以来、多くの人によって取り上げられ、しばしば論争の対象ともされている。一種の「現代の古典」といえるだろう。私の手もとにある英語版は二〇〇〇年刊のものだが、これは第三六刷とある(1)。地味な学術書にしては異例のベスト・セラーかつロング・セラーといえるだろう。もっとも、本書は有名なわりには、その内容の読みとりが難しい面があり、実際、後の論者のギリガン理解にはかなり大きな隔たりがある。私自身はいまから一〇年ほど前に、川本隆史による紹介(2)を通して初めてギリガンの説に接し、強い共感を覚えたが、その後、フェミニストたちの間では、ギリガン説は女性をケアの倫理に縛り付けるものだと受けとめる人が多く、わりと評判が悪いことを知り、この点をどう考えるべきかがずっと気になってきた。本書自体を私が初めて読んだのがいつのことかよく覚えていないが、とにかく後の論争を念頭において読むと、ギリガン自身の意図が確定しにくく、誰の解釈が正しいのかを一概に決めにくいという複雑さを感じた。
 かねて気になっていたこの本を再読し、「ケアの倫理」について考え直してみたいと感じるに至った直接の契機は、最近出た川本隆史編『ケアの社会倫理学』を読んだことにある。川本編著については別に読書ノートを書いたが、この書物では各所でギリガンの議論が取り上げられており(3)、「ケア(思いやり、配慮、世話)」について考える上で、この問題の古典たるギリガンに立ち戻って考え直す必要を痛感したというのが、小文執筆の契機である。
 先に本書が「読みとりにくい」と記したが、書かれていることそれ自体が難解だというわけではない。むしろ、個々の記述は、多くの具体的事例を踏まえているためもあって、明快である。にもかかわらず「読みとりにくい」というのは、個々の具体的な記述を超えた本書全体の含意について、異なった解釈が成り立つ余地があるからである。論者によってどのように解釈が分かれているかは以下で見ていくが、ここでは先ず、どうしてそのように分かれるのかの理由について一つの思いつきを述べてみたい。それは、著者自身の問題意識が後にギリガンを取り上げる人たちの問題意識と異なっており、そのため異なった文脈のなかで論じられたり解釈されたりしてきたのではないかということである。
 後にギリガンおよび「ケアの倫理」について論じる人たちの多くは、ジェンダー論、倫理学、政治理論、法哲学等々といった分野に属する研究者たちだが、ギリガン自身はそうした分野についてそれほど積極的な関心を示してはいない。彼女の専門は発達心理学であり、多くの少女や少年たちについての経験的観察がその議論の基盤をなしている。そうした観察をもとにして、ある種の積極的主張らしきものが示唆されてはいるが、それはジェンダー論、倫理学、政治理論、法哲学等々における様々な議論を直接に念頭において体系的に展開されているわけではない(そもそもギリガンが本書を執筆した頃には、ジェンダー論はまだ今日におけるほど隆盛を極めてはいなかったのではなかろうか)。それらとの接点が本書の中にあることは確かだが、ギリガン自身の主たる関心はあくまでも発達心理学の立場からの経験的観察にあり、「正義」とか「倫理」とか「女性の本質」とかに関わる抽象論が主たる狙いとなっているわけではない(そのことと関係して、後の論者が「ケアの倫理」と「正義/権利の倫理(あるいは論理)」という風に定式化する事柄について、彼女自身は文脈に応じて様々な表現をとっており、一定の用語法や概念体系を提示しているわけではない)。おそらくそのために、ギリガンを読む後の論者たちは、それぞれの立場や関心に応じて異なったものをそこに読み込むという結果になっているのではないかと思われる。
 私自身は、発達心理学、ジェンダー論、倫理学、政治理論、法哲学のどれについても専門的に研究しているわけではないが、少しずつ関心をもってはいる。本来であれば、それらの相互関係を解きほぐし、多様な解釈の関係を立体的に解明するという作業が望まれるところだが、そこまで立ち入る能力も時間的余裕もない。この小文では、先ずギリガンの著作の内容をごく簡単にまとめ、次に彼女の著作が従来どのように読まれてきたかを確認する。そして最後に、ギリガン自身の「真意」は何かという問題はさておいて、「ケアの倫理」という問題提起を今日のわれわれのために生かそうとするなら、どのように考えることができるかという問題について暫定的私見を述べてみたい。
 
     二
 
 先ず、ギリガンの所論をごく簡単に要約するなら、大体次のようなことになるだろう。伝統的な発達心理学においては、子供の心理的成熟は自立性の獲得、個人主義的な権利主張の能力、抽象的基準に基づく正義の判断の能力などの指標に照らして判断されてきた。しかし、そのような指標とは別に、人間関係への文脈的理解、他者への配慮(ケア)などの資質もまた重要な成熟の指標たりうる。後者が従来見落とされてきたのは、それが女性と結びつけられていたからであり、ここには男性中心の発想のバイアスがある。
 印象的な事例が第二章に紹介されている。ハインツという男がいて、その妻が重病であり、妻の命を救うには自分の資力ではとても買えない高価な薬を盗むしかないという想定のもと、ハインツは盗むべきか否かという問いを一一歳の子供たちに提示して、どのような答え方をするかを聞くという面接実験である。ジェイクという男の子は、命はお金よりも尊いからという理由で盗むことを肯定する。その際、ジェイクは法を単純に無視するわけではなく、法律の意義を認めた上で、価値の高低を比較して高いものを低いものより優先するという判断を「数学的な」論理として正当化する。何が正しいかについて社会的コンセンサスがあるはずだと彼は考え、これもその例だという風に、抽象的論理の適用をするわけである。これに対し、エイミーという女の子の答えは直線的ではない。盗んではいけないけれど、妻を死なせてもいけないという状況を前にした戸惑いが見られる。その際、盗んではいけないとする理由は法が禁じるからという形式的理由よりも、盗んだハインツが刑務所に送られるなら妻の病気は一層重くなるかもしれないという人間関係的・文脈的なものである。エイミーは世界を自立した人々からなるというよりも関係性からなると捉え、規則のシステムによってよりは人間関係によって結びつけられていると考える。こうした関係性はしばしばディレンマを生むため、彼女は自分の考えについて問いただされるとうろたえたり、混乱したりする。そのことがジェイクに比べて「成熟していない」と判断される理由ともなる。
 この心理学実験を最初に提起したコールバーグ(ギリガンの師に当たる)の道徳発達段階論は抽象的なルールおよびその適用という思考法の習得が基準となっているため、右の例ではジェイクの方が発達度においてエイミーよりも優れていることになる。しかし、人間関係への洞察と配慮という基準を立てるなら評価は異なってくるはずである。コールバーグが後者を考慮に入れなかったのは女子に多く見られる心的傾向への無理解による、というのがギリガンの批判である。
 こうして、権利ないし正義を中軸とする倫理ないし論理――これがこれまでの男性優位社会において重視されてきた――に対して、「もう一つの声」として「ケアの倫理」の重要性が指摘される。そして、「正義の倫理」と「ケアの倫理」という二つの道徳律は、相補いあって初めて成熟に至るとされる。もっとも、現実の世界では、この二つは同じ重さを付与されているわけではない。ギリガンは、感受性や他人の感情への思いやり(ケア)はあまり市場価値がなく、職業的成功の妨げにさえなることを指摘している(4)。また、女性に見られやすい傾向として競争における達成への不安、成功回避願望があるが(5)、これも個人的能力を発揮して他者に打ち勝つことを高い価値とみなす競争社会では不利な点である。人間としては大事な能力の一つである思いやり・配慮・気配りが競争社会ではむしろマイナスに作用するということは、見方によっては、競争社会批判の論理としても理解することができる。もっとも、ギリガン自身はそこまで踏み込んでいるわけではない。
 関連して、伝統的に女性の「善」とされてきた他者への思いやり(ケア)や感受性が同時に道徳的発達の欠陥として否定的に評価されるという矛盾した状況も指摘されている(6)。これは、後によく使われる言葉を使うなら「ダブル・バインド」状況の指摘ということができよう。一方において女性は他者への思いやりや感受性を身につけねばならないという社会的圧力にさらされているが、他方において、そのような能力を発展させること自体が、伝統的な発達心理学の基準からは未成熟、遅れ、欠陥として評価され、男性より劣位に位置づけられるというわけである。
 ここでギリガンからやや離れるが、権利/正義の言語とニーズ/ケアの言語が対照的な性格をもつという論点はギリガンだけのものではなく、他の論者によって提示される例もあることに触れておきたい。たとえばマイケル・イグナティエフの『ニーズ・オブ・ストレンジャーズ』などにもそうした発想が示されている。「権利の論理」は通常、ある権利を持つ人が自ら権利要求を提出し、それをうけて他の人々が対応するという形で構成される。本人が要求してもいないことを他者がわざわざ用意するのは余計なお世話、パターナリズムであり、本人の自主性の発揮の阻害になるから、こういう順序で話が進むのは当然のことである。ところが、弱者のニーズは当事者によって明晰に定式化されることがあまりないし、具体性の要素が大きいため標準化した対応もしにくい――従って、抽象的正義の基準では測りにくい――という問題がある。ここでは誰かがそのニーズを代弁ないし代表する必要があるが、代弁は往々にしていかがわしいものだという別種の問題にぶつかる。ケアはまた、愛情、帰属感、尊厳などを重要な構成要素とするが、これらはそもそも権利として要求すべきものではない(自分に貨幣支払い・現物支給・サーヴィス提供などがされて然るべきだという権利要求はありふれたものだが、自分を愛してほしいとか尊敬してほしいという欲求を「権利」として主張するわけにはいかない)。このような事情を念頭におくと、権利の論理だけでは処理しきれない問題がケアにはつきまとっていることになる(7)
 
     三
 
 さて、フェミニズムの立場からは、ギリガンの議論は女性を専ら「ケア」に縛り付け、伝統的ジェンダー・ステレオタイプを再生産するものではないかとする批判がかなり有力である。以下、私の知る範囲で日本での論争を簡単に追ってみる(なお、アメリカでもある程度同様の論争があるようである(8))。
 上野千鶴子はギリガンの議論を、かつてのような生物学的性差還元主義とは異なるものと認めた上で、それでも文化と社会の中でつくられるジェンダーを逃れるのは難しいという理由で「女性性」を固定化・本質化する――但し、かつてのようにそれをおとしめる代わりに、むしろ肯定的意義を付与して賞賛する――ものだという風にまとめる。そして、このような「文化本質主義」「ジェンダー本質主義」は、従来の性差観を保存した「保守的な思想」であり、これを受け入れる土壌は「フェミニズムにとって一種の後退戦であり、歴史的な挫折感の産物である」という(9)。こうした批判の前提となっているのは、ギリガンの「ケアの倫理」を専ら女性と結びつけられたものとする理解である。このような上野によるギリガン理解は、野崎綾子や谷口功一にも引き継がれており、広く定着しているかに見える(10)。ジェンダーと軍隊の問題に関して上野と論争をしている中山道子も、ギリガン理解については上野と共通性があり、「〈女性らしさ〉の再評価の試みが、伝統的な女性像を再生産し、結局男女の二元論を克服する試みとしても失敗するのではないか」としている(11)。このように、フェミニスト論者はギリガンに批判的であることが多い。
 もっとも、フェミニストの中にも、それとは異なった受けとめ方をする人たちがいないわけではない。たとえば江原由美子は、「ギリガンの研究を『女性には男性と異なる固有の道徳がある』という主張を行うものとして読むならば、それは疑問が多い主張といえるだろう」という留保を付けながらも、全体としては、「普遍的公正さを原則とする近代法や近代的道徳の言語に対する、フェミニズムの立場からの批判」として肯定的に位置づけている。そこでは、ケアの倫理――江原著では「思いやりの道徳」と訳されている――を女性特有のものとするのではなく、むしろ「人間一般に関する道徳概念」と捉え直すことが前提されている(12)。井上匡子は、ギリガンの議論は本人の意図とは別に「本質主義」と受けとられることが多かったということを紹介した上で、「ケアの倫理の内実は、必ずしも女性だけの役割とされる必然性はなく、むしろ、性別に関係なく重要な意義をもっている」と書いている(13)。また、寺尾美子はジェンダー法学の立場からギリガンの問題提起を肯定的に受けとめている(14)
 フェミニストの多数派がギリガンに対して批判的な態度をとるのは、ギリガンの議論が「ケアの倫理」を女性と固定的に結びつけるものだという受けとめ方があるためである。しかし、「ケアの倫理」を専ら女性と結びつけるのではなく、むしろ超ジェンダー的概念として捉える見方もありうる。いま触れた江原由美子や井上匡子もそうした解釈の方向性を示唆しているし、川本隆史も「彼女〔ギリガン〕は、二つの声の違いがジェンダーの相違に還元できるとは考えなかった」と書いている(15)。井上達夫や斎藤純一も、倫理観と性差の関係について一般化することがギリガンの狙いではなく、ギリガンは二つの倫理を性別に振り分けたのではないとしている(16)。また立岩真也は、ケアを賞賛することへの警戒感がフェミニズムの一部にはあると述べた上で、「ただこの批判は、〔思いやりという〕特性が特定の範疇〔女性〕に不当に割り当てられていることの指摘であって、その特性自体は肯定されてよいのであれば、その担い手を特定し限定すべき〔で〕ないと主張すべきことになる」と指摘している(17)
 いま紹介した議論はどれも短いもので、あまり詳しく展開されていないが、大雑把にまとめていえば、「ケアの倫理」を性差から切り離して理解しようとする方向のものだといえよう。私自身もこの解釈に同調したくなるところがあるが、若干の留保も必要であるように感じる。ギリガンの序文を読み直すと、自分が描いた「異なる声」はテーマによって特徴づけられているのであってジェンダーによるのではないとあり、それに続いて、確かにケアの倫理と女性の結合が経験的に観察されはするものの、それは絶対的なものではないという指摘がある。そして、本書の狙いは性についての一般化ではなく二つの思考様式の差異の解明にあるとも述べられている(18)。一九九三年版に付された「読者への手紙」では、自分の著書が「女性と男性は本当に(本質的に)違うのかとか、どちらがどちらよりも優れているのか」といった文脈で議論されているのを聞くと、「それは私の問題ではない」と感じるとも書いている(19)。ケアの倫理を女性の「本質」とし、ただ単にそれにプラスの価値を付与しただけだという上野らのギリガン理解は、この個所を読む限りでは当たっていないように見える。しかし、ギリガンの実際の叙述の大部分は、ケアの倫理を女性と、権利および正義の論理を男性と結びつける形で書かれているし、書物の副題にはWomen's Development(邦訳書ではやや変形されて「男女の道徳観のちがいと女性のアイデンティティ」)という言葉が含まれている。その意味では、フェミニストの批判も完全に的はずれとは言えない。ギリガン自身に二面性があるのではないかと思われる。おそらく彼女はケアの倫理が女性の「本質」か否かという問い自体にあまり関心がないのだろう。
 ギリガンの叙述に両義性がある以上、これ以上ギリガン解釈それ自体にこだわることにはあまり意味がない。むしろ、ギリガン自身がどう考えているかということから一歩離れて、「ケアの倫理」を超ジェンダー的な概念として捉え直すことができるのではないか、そしてその方が生産的ではないかというのが私の考えである。もし「ケアの倫理」を専ら女性的なものとして提起するなら女性を一定の枠に縛り付けることにつながるというのはフェミニストの指摘する通りだし、また男性をケアの問題から遠ざけてしまうことにもなる。しかし、ギリガン説にそのような危険性があるからといって、「ケアの倫理」という問題提起そのものを葬ってしまうのは、せっかく見出された重要な論点を見失ってしまうことになるのではないだろうか。「女性的な資質」としてではなく、これまで見落とされがちだったある一つの重要な資質ないし行動原理として、「正義/権利の倫理(論理)」だけでは尽くせない「ケアの倫理」に着目することは重要な意味をもつように思う。
 
     四
 
 前項の末尾である種の私見を提示してみたが、これで問題がすべて片づくわけではない。ギリガンおよびその影響下の論者を批判する人たちは、ケアの倫理が女性と固定的に結びつけられがちだということを批判するだけでなく、そもそもケアの倫理を正義の倫理と対比すること自体への批判もしばしば提出しており、その問題をどう考えるかという論点が残るからである。
 たとえば野崎綾子は、ギリガン自身というよりもギリガンの影響を受けた一連の理論家に対する批判の中で、次のような叙述をしている。先ず、「正義や権利というものは、男性的原理であるから女性の解放のために役立たないとして放棄する戦略」はとらないという宣言がある(20)。これはジェンダーの問題とも関係しているが、そこにとどまらず、ケアの倫理の重視は「正義や権利」の放棄につながるのではないかという危惧も示されている。ケアの能力を正義の構想の前提としてとりこむことには問題があるという主張も、そうした発想の延長にある。それはギリガンの影響を受けたケアの理論家が自律の中心性を否定することへの反撥とも関係している。ケアの倫理に影響を受けた関係性重視の考え方は、家族関係は相互の愛情による結びつきにより構築されるという考え方につながるとされ、そうした家族愛のもつ規範性は家族構成員(特に女性)に抑圧的に働くとことが指摘され、「かかる理論は、『愛の原理』の強調が家族構成員に抑圧的に働きうることを軽視しているのではないだろうか」というのが野崎の議論である(21)
 野崎の議論はそれだけとってみれば当たっているが、やや性急であるように思われる。家族愛の強調がとりわけ女性に抑圧的に働きうるという指摘自体は正当だが、ケアを重視すれば必ずそうなると考えるのはいささか短絡的ではないだろうか(22)。関係性重視の発想が「愛情による結びつき」重視と等置されているのも飛躍である。確かに、「『愛の原理』の強調が家族構成員に抑圧的に働きうることを軽視している」ような理論も一部にはあるのかもしれない。しかし、その点を「軽視」することなく、正面から見据えながらケアの倫理と論理を構築する可能性がないかどうかは別個に検討しなければならないはずである。実際、私の知る限り、ケアについて論じる多くの論者は、愛情の強要が抑圧的に働くことを熟知しており、そのことへの警戒心を強く持っている(23)。ケアがそうした危険性を秘めていることの認識は大切だが、だからといってケアを軽視してよいという話になるわけではない。むしろ、ここから先に問題があるのだが、野崎はそれに立ち入ろうとしていない。
 野崎の師に当たる井上達夫は、ギリガンは権利の倫理と配慮の倫理を対置しているが、実は両者は対立するものではなく、むしろ配慮の倫理は権利の倫理を前提しているのだとする(24)。この考えは、共同体論(コミュニタリアニズム)の問題提起を受けとめつつも、あくまでもリベラリズムを基底に据えようという発想の応用として理解することができる。この発想自体には共鳴するものがあるが、いくつかの疑問もある。一つには、井上はギリガンを「共同体論の理論的資源を豊富化する」ものと位置づけているが(25)、これは疑問である。「ケアの倫理」は特定の共同体の文化的伝統の共有を前提にするものではないから、いわゆる共同体論と論理的に結びついているとはいえないだろう。確かに、「権利の倫理」一点張りでは抜け落ちるものがあると指摘する限りで、リベラリズムに対してある種の批判的問題提起をするものではあるだろうが、そのリベラリズム批判は共同体論という観点からのそれと同質のものではないように思われる(26)
 ギリガンは権利の倫理と配慮(ケア)の倫理を対置しているという井上の理解にも問題がある。ギリガンの叙述はあまり整然としておらず、読みとりにくいところがあるが、ときとして二種の倫理を対置するかに見える個所を含みながらも、結論的には、むしろ相互補完こそが望ましい成熟だと考えているように思われる(27)。ケアの倫理を重視すると権利の倫理がないがしろにされるとして、この二つを対置しているのは、むしろ野崎綾子である。野崎がやや性急な対置論に傾くのに対し、井上は両者の結合を説くわけだが、では具体的にどのようにして結合されるのかという道筋を解明しているわけではない。求めるべき方向性の示唆としては共感しうるが、これだけで結論とすることはできないように思われる。
 斎藤純一はケアにおけるジェンダー間の平等/不平等という論点を確認した上で、更にいくつかの論点を加えている。斎藤によれば、近代の社会秩序はケアを家族の内部に私事化し、他者の必要に応じる責任をできるだけ公共化=社会化しない仕方で編成されてきた。そのような近代社会においては、異性愛と小家族を特徴とする特定の家族形態が規範化されてきた。また、ケアを担う人は自分自身が他の誰かに依存せざるを得なくなる――たとえば家庭内で老人の介護に付きっきりの人は雇用労働で生計を立てることが至難であるため、他の家族員の稼得に依存しないわけにはいかない――こと、ケア労働には他の活動様式にない困難や負荷――しばしば昼夜を分かたないハードワーク、身体に関わるゆえのダーティ・ワーク、自らの感情を制御するという高度のスキルが求められる一方、社会的にも経済的にも報われない――こと、他者に対してcarefulであろうとすればするほど自らに対してはcarelessになるというパラドクスを抱え込まざるを得ないこと、等々といった問題点がある。こうした状況を踏まえて、斎藤は「家族」に代わる言葉として「親密圏」の再定義が必要だとする。その際、ケアを求める者と求められる者との間には非対称性があり、一方から他方への干渉が不可避だが、それが支配の関係になるのを防ぐことが重要であるとして、「他者性への責任」(=「責任とケアの倫理」)は他者の「自立」を尊重する「正義の倫理」とは異なる種類の倫理だとする(ここで斎藤はギリガンに言及して、しばしば誤解されるがギリガンはこの二つの倫理を公共的な領域と私的領域に振り分けているわけではないとする)。そして、親密圏は完全に外に開かれたものではありえないが、かといって完全に内閉した空間でもないと結ぶ(28)。斎藤の議論は全体として共感するところが大きい。ただ、やや抽象的な哲学的議論に傾いているため、いわんとするところを今ひとつつかみにくい憾みも残らないではない。
 カナダの理論家、ウィル・キムリッカは『現代政治理論』の中でギリガンによって提起された「ケアの倫理」を取り上げて、かなりの紙数をこの問題に割いている(29)。キムリッカは基本的にリベラリズムの立場に立ちながらも、従来のリベラリズムがそのままで完成されているとは考えずに、様々な方面からの批判への応答を通してリベラリズムを豊富化しようと試みているが、フェミニズムへの応答もその一環をなしている。フェミニズムにあてられている同書第七章のうち、「ケアの倫理」をとりあげた第三節が最も長大であり、私の印象では最も興味深い部分となっている。キムリッカによれば、正義を重視する理論家が抽象的規則を重視するのは正当だが、それは「責任能力のある大人同士の相互行為」を念頭におく場合のことだという但し書きがつく。自律のためには自らの責任範囲を予め知っていることが必要であり、抽象的で文脈によらない規則が必要だが、このことは、正義の論理は文脈を考慮しにくいということを意味する。では、正義は自律した大人同士の関係に適用され、ケアは他者に頼らなければならない人々との関係に適用されるという風に分けて考えればよいかといえば、それだけでは済まない。というのも、幼児・老人・病人へのケアを主に負う人(主に女性)は、相手の予測不可能な要望に対応する責任を引き受けるなら、自分の将来を予想し得なくなってしまう。つまり、「自律」という人間像は、「大人」一般ではなく、ケアの責任を自分は負わずに済ませている人――その責任を女性に任せることで自らは免れている大多数の男性――を前提にしていることになる(30)。このように論を進めるキムリッカはこの章を次のように締めくくる。
 
「われわれは、屈強な自律像や、自律を可能にする責任や正義の概念を放棄せずに、他者に頼らなければならない人々への責任に応えていけるであろうか。答えを出すのはまだ時期尚早である。正義を唱える理論家は、伝統的な公正や責任の概念を定義し直し、優れた理論体系を構築してきた。だが、育児や他者に頼らなければならない人々へのケアというはるか以前から続いてきた根本問題を見落としてきたため、正義を唱える理論家の知的成果は、不確実できわめて危うい基盤の上に立ったままである。性的平等に関する適切な理論を築くには、これらの根本問題と、根本問題を視野から隠蔽してきた伝統的な差別の概念および私的なものの概念に、正面から向きあわなければならない(31)」。
 
 ここでキムリッカは「答えを出すのはまだ時期尚早である」として、問題を未決に残している。安易に回答を出してしまうよりは、難問とディレンマの存在を自覚することの方が深い対応でありうるから、このような誠実な姿勢には共感しうる。ただとにかくここでは解決の方途は示されておらず、問題は読者に投げかけられたままである。
 
     五
 
 以上では、様々な論者がギリガンおよび「ケアの倫理」についてどのように論じてきたかを概観してきた。そこで、私自身はどのように考えるかを、手探りながらも、ある程度まとめることを試みなければならない。
 先ず、正義/権利の論理とケアの倫理とは確かに抵触する面がある。このことははっきり認めないわけにはいかない。ケアとは、本人が明晰な自己主張をすることのできない局面を含み、その場合にはパターナリズムの要素を全面的に排除することはできない(32)。また、身近にケアすべき人をかかえている人は、常時相手に目を配っていなければならないために、自己の生活を自分の目標に沿って設計することができにくく、自律が困難になる。ギリガンの指摘するように「ケアの倫理」を重視する人はしばしば「成功回避願望」を持つとすると、これは個人の能力の最大限の発揮という基準にとってはマイナスに作用する。さらに、ケアにおいては個別性・文脈依存性が大きな役割を果たすが、そのことは、抽象化された一般的基準による「正義」判定を困難なものにしがちである(33)。こうして、ケアを重視して考えていくと正義/権利の論理をある程度犠牲にしなければならない局面が出てくる。そのこと自体は現実問題として不可避だが、単純にそれを前提して、とにかくケアが大事だと考えるなら、権利や自律の契機をないがしろにすることになりかねない。その意味では野崎の危惧は理解できる。
 しかし、では正義/権利/自律の論理一点張りですべてが解決するかというと、そうも考えにくい。樋口陽一は弱者の問題に触れつつ、「強者であろうとする弱者」という擬制の上に人権主体は成り立つのだという(34)。確かに、権利を確保するためには他者の温情に甘えるのではなく、「権利のための闘争」を自ら遂行する「強者」たろうとする姿勢が必要だろう。弱者を「弱者」と決めつけてしまうとますます「弱者」の状態からの脱却が難しくなるから、それらの人をも権利主張のできる「強者」にしていかねばならないのだとする考えには一理ある。だが、すべての弱者がそのような「強者」となることが本当に可能なのかと考えるなら、そこには大きな限界があるといわざるをえない。生まれてまもない乳児、意識不明の重病人、重度の認知症などで判断能力を失った高齢者等の例を念頭におくなら、あらゆる人に「自律」の前提条件が備わっているわけではない。またそれ以外の、大なり小なり自律可能な人間にしても、四六時中理性を働かせて、自己の利害を正確に自己責任で判断できるわけではない。自由・自主性・自己決定の尊重は確かに大事だが、場合によっては、それは無理難題を吹きかけることだったり、あるいは「本人の自己決定を尊重する」と称する周囲の人の責任回避ともなりかねない。
 もうひとつの微妙な問題は、ケアを担うことは辛くて苦しい負担以外の何ものでもないのか、それともそれだけではない面もあるのかという点に関わる。多くの論者は、負担の側面を的確に指摘しており、それはそれで正当な指摘である。しかし――これを指摘するのは、かなりきわどく、微妙なことになるが――ケアへの従事を「やり甲斐のある立派なこと」「誇りの持てる素晴らしいこと」とする言説があることも事実である。そうした言説は、辛い労働を特定の人々に押しつけるためのペテンだという風に言って言えないこともない。だが、それがすべてだと決めつけてしまうのは当事者の実感にそぐわないのではないだろうか。「やり甲斐」と「重い心労」のどちらか一方だけが真実というのではなく、むしろ両者が表裏一体の関係にあるからこそ、一方を単純に切り捨てられないというディレンマに引き裂かれ、問題が一層深刻になるのではなかろうか。
 この問題は、やや話を広げれば、「主婦(ないし主夫)」をめぐる一連の論争とも関係する。この問題は古くから繰り返し論じられながらなかなか明快な合意にたどり着かないが、しばしば提起されるのは、片や、女性を専業主婦に縛り付けることへの批判論、片や、「自分は主婦労働をつまらないものとは思っていない。生き甲斐を感じながら主婦をやっている。それなのに、主婦というものを価値のないものと言ってほしくない」という言説の対抗関係である(35)。おそらく、「やり甲斐」「生き甲斐」の面もあれば「負担」「つまらない」「精神的に疲れる」といった面の双方があるからこそ、いつまでも決着がつかずに同じ議論が繰り返されているのではないだろうか。ついでにいえば、家庭外での労働についても、度合いはともあれ、「やり甲斐」と「つまらない」「疲れる」の両面があるはずである。だからといって、「何をやっても、よい面と悪い面があるのだから、どれも同じ」というお目出度い折衷論が正当化されるわけではない。「どんなことにもよい面と悪い面がある」のは確かだとしても、その度合いは場合によって異なり、ある場合には辛い面が耐え難いまでに高まることがあるだろう。どういう場合にそうなるかは様々な要因によるから一概にはいえないが、少なくとも次の点は確認できるだろう。つまり、各人の個別的事情を無視して特定のカテゴリーの人々に一律に特定の仕事が割り振られるなら、辛い面がより大きくなりがちであり、それを他の人がサポートすることも怠られがちになるということである。だとすると、主婦/主夫業が一般的に「つまらない」ものかどうかということよりも、それが女性だけに一方的かつ固定的に割り当てられ、それが規範化されている――家事・育児・ケアが民間事業や公的サーヴィスに外部化される場合にも、それらの職に従事する人の大多数は女性である――ことにこそ問題があるというべきではないか。男性がそれらを担うことも皆無ではないが、実際の配分が相当アンバランスだということは明らかである(36)。もっとも、それらの配分を完全に平等化する――ありとあらゆる人が、家庭外で収入を得る労働も、家庭内での主婦/主夫業も、地域でのヴォランティア活動も、みな同じ割合で担う――というのは空論めいているが、少なくとも現状の固定性を脱規範化し、もう少し柔軟な再配置を構想することは必要でもあり可能でもあるように思われる。
 やや話が拡大しすぎたかもしれないが、本題に戻って、簡単にまとめてみよう。ケアの倫理と正義/権利の倫理は確かにどちらも必要なものだが、ただそういっただけでは、両者の間に起こりうる矛盾の側面が見失われて、平板な折衷論になってしまう。かといって、矛盾しているからどちらか一方だけをとるべきだということもできない。両者の緊張関係を見据えた上で、何とかして両方を結びつけようと努めるしかないのではないだろうか。その際、重要なのは、ケアが一面で充実感ややり甲斐を伴いつつも他面で強度の心労を伴うものだとするなら、それを特定の人々――具体的には女性――に固定的に割り振るのを避けるということだろう。
 従来の議論の多くは、ケアの倫理は女性と結びついているのかどうか、それは女性の「本質」なのかという風に、専ら女性を焦点化する形で問いが立てられていた。しかし、そういう問いの立て方自体、男性を問いの外におくことで、《男性=無徴(一般)、女性=有徴(特殊)》という暗黙の図式を温存することにつながる。むしろその前提を解体し、男性もまた有徴(特殊)とみなして、男性についての問いを立てる――男性はケアの倫理をもたないのか、それは「自然」なのか、それでよいのか等々――が必要と思われる。もちろん、女性が多様であるように男性もまた多様であって、決して一体ではないから、この問いへの答えは全称命題になるわけではない。ただ、これまでの社会の歴史的経緯から、どちらかといえばケアの倫理を欠いた人が男性には多いという程度のことは言えるだろう。とすれば、これは「女性の問題」ではなく、むしろ男性の問題ではないかと思われる。
 もし誰かが、「女性はせっかくケアの倫理という優れた特質をもっているのだから、権利の論理を追うあまりケアの倫理を捨ててしまわない方がよい」と説くなら、そこにジェンダー・バイアスが含まれており、女性を権利の論理から排除しようとするイデオロギー性があることは明らかである。その限りで、ケアの倫理が一面的に称揚されることに対して一部のフェミニストたちが懸念を示すことは理解できる。だが、「ケアの倫理」の重視はそういう形をとるしかないと決まっているわけではない。ギリガン自身が「ケアの倫理」を女性と結びつけがちだったことがそうした反応を招いてきたという面はあるにしても、むしろそうではなくて、「これまであまりケアの倫理を発達させてこなかった男たちこそ、それを身につけるべく努力すべきだ(但し、それは権利の論理というものを、女性についてであれ男性についてであれ、等閑視してよいということを意味するわけではない)」という形で受けとめることも可能なはずである。そしてそれはフェミニストにも受けいれられる議論ではないだろうか。
 
 
(1)Carol Gilligan, In a Different Voice: Psychological Theory and Women's Development, Harvard University Press, Thirty-sixth printing, 2000(キャロル・ギリガン『もうひとつの声――男女の道徳観のちがいと女性のアイデンティティ』川島書店、一九八六年)。
(2)川本隆史『現代倫理学の冒険』創文社、一九九五年、六六‐七三、二〇二‐二〇五頁。
(3)川本隆史編『ケアの社会倫理学』有斐閣、二〇〇五年。川本の序論をはじめ、第三章の清水論文、第八章の最首論文などでギリガンが言及されている。また第七章の三好論文は、ギリガンに直接言及しているわけではないが、「母性」という形で――但し、「母性は女性だけのものではない」という但し書きがある――同種の問題に触れている。
(4)Gilligan, op. cit., p. 10(邦訳書、一〇頁)。
(5)Ibid., pp. 14-15(邦訳書、一七‐一九頁)
(6)Ibid., p. 18(邦訳書、二五頁)。
(7)マイケル・イグナティエフ『ニーズ・オブ・ストレンジャーズ』風行社、一九九九年、とりわけ日本語版序文、「はじめに」、第一章など。
(8)たとえば、川本『現代倫理学の冒険』七一‐七二頁、マーサ・ミノウ『復讐と赦しのあいだ』信山社、二〇〇三年、一六二‐一六三頁など参照。
(9)上野千鶴子『差異の政治学』岩波書店、二〇〇二年、一二‐一五頁。
(10)野崎綾子『正義・家族・法の構造転換――リベラル・フェミニズムの再定位』勁草書房、二〇〇三年、二三、八二頁、谷口功一「ジェンダー/セクシュアリティの領域における『公共性』へ向けて」『思想』二〇〇四年九月号、一〇六頁。
(11)中山道子「論点としての女性と軍隊」江原由美子編『性・暴力・ネーション』勁草書房、一九九八年、四三‐四四頁。
(12)江原由美子『フェミニズムのパラドックス』勁草書房、二〇〇〇年、一二七‐一三四頁。
(13)井上匡子「フェミニズムと政治理論」川崎修・杉田敦編『現代政治理論』有斐閣、二〇〇六年、二〇五‐二〇六、二一三‐二一四頁。
(14)寺尾美子「ジェンダー法学が切り拓く地平」『ジュリスト』第一二三五号(二〇〇三年一月一=一五日)。
(15)川本『現代倫理学の冒険』六七頁。
(16)井上達夫『現代の貧困』岩波書店、二〇〇一年、一三一‐一三二頁、斎藤純一「依存する他者へのケアをめぐって」『日本政治学会年報二〇〇三/「性」と政治』岩波書店、二〇〇三年、一九三‐一九四頁。
(17)立岩真也『弱くある自由へ』青土社、二〇〇〇年、三五二頁注69。
(18)Gilligan, op. cit., p. 2(邦訳書「はじめに」xii-xiii頁)。
(19)Ibid., p. xiii(邦訳書は旧版に基づいているため、この「読者への手紙」は収録されていない)。
(20)野崎、前掲書、二〇頁。
(21)同右、三六‐三八、一一五‐一一八、一六五頁。
(22)先の引用文にあった「働きうる」という表現は、「働く」という表現と違って、必ずそうなるという強い関連を意味するわけではない。野崎が後者ではなく前者の表現をとったのは、ひょっとしたらそうした意識があったからかもしれない。だが、ではそうでない場合はどうなのかという問題には何も触れられていない。
(23)たとえば、川本編『ケアの社会倫理学』の諸論文(同書への読書ノートも参照)、また立岩、前掲書、斎藤、前掲論文など。
(24)井上達夫、前掲書、一六九‐一七四頁。
(25)同右、一三二頁。
(26)先に触れたイグナティエフの場合、「権利要求に応えるだけでは満たされないようなケアと配慮を求める人びとのニーズ」を重視するが、だからといってコミュニタリアン(共同体論)に与するわけではなく、自分は頑固にリベラルだとも書いている。前掲書、日本語版序文、五‐六頁。もっとも、リベラルなケア論とはどういうものかの詳しい説明があるわけではなく、イグナティエフの議論自体にも疑問の余地がある。ここではただ、「ケアの倫理」という問題と共同体論の関係は一筋縄ではないということを確認するにとどめる。
(27)Gilligan, op. cit., pp. 164-165(邦訳書、二九〇‐二九一頁)。この問題に関するギリガンの考えが揺れているのではないかとする指摘は、W・キムリッカ『現代政治理論』日本経済評論社、二〇〇二年、四二八頁。
(28)斎藤純一、前掲論文。なお、斎藤論文に出てくる「感情労働」という論点について、川本編著についての読書ノートの五も参照。
(29)キムリッカ、前掲書、第七章第三節。なお、キムリッカの別の側面について批判的評価をまじえた試論=私論として、Will Kymlicka and Magda Opalski (eds.), Can Liberal Pluralism Be Exported?: Western Political Theory and Ethnic Relations in Eastern Europeについての読書ノート参照。
(30)キムリッカ、前掲書、四三〇、四三六、四三八‐四三九、四四〇‐四四二頁。
(31)同右、四四二頁。
(32)パターナリズムについて、川本編『ケアの社会倫理学』に関する読書ノート、とりわけその注1参照。
(33)川本編『ケアの社会倫理学』への読書ノートの三を参照。
(34)樋口陽一『憲法と国家』岩波新書、一九九九年、一〇五頁。
(35)かなり古いものだが、基本的な構図は、上野千鶴子編『主婦論争を読む』T・U、勁草書房、一九八二年に整理されている。新しい論点を含む最近の議論として、野川忍「アンペイド・ワーク論の再検討」『ジュリスト』第一二三五号(二〇〇三年一月一=一五日)参照。
(36)いま「主婦/主夫」を家庭内において家事・育児・ケアを担当する人とすると、専業主婦/主夫、第一種兼業主婦/主夫、第二種兼業主婦/主夫、ゼロ主婦/主夫という分類ができる(「第一種兼業主婦/主夫」「第二種兼業主婦/主夫」「ゼロ主婦/主夫」というのは私の造語だが、「第一種兼業農家」(農業を主とする)と「第二種兼業農家」(農業を従とする)の区分にならって、第一種は主婦/主夫業を主とするもの、第二種は主婦/主夫業を従とするものとする。また、家事・育児・ケアにほとんど全く携わらない人を「ゼロ主婦/主夫」とする)。このような分類を前提するなら、本格的統計分析をするまでもなく、大まかな傾向として、女性は専業主婦か第一種兼業主婦が多く、第二種兼業主婦は少なく、ゼロ主婦はほとんど皆無に近いのに対し、男性はゼロ主夫か第二種兼業主夫が多く、第一種兼業主夫は少なく、専業主夫はほとんどいないということになるだろう。
 
*Carol Gilligan, In a Different Voice: Psychological Theory and Women's Development, Harvard University Press, Thirty-sixth printing, 2000(キャロル・ギリガン『もうひとつの声――男女の道徳観のちがいと女性のアイデンティティ』川島書店、一九八六年)。
 
(二〇〇六年三‐五月)
 
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