雑誌『指導と評価』(日本図書文化)に掲載された内容から

 

1.新しい波と教育の揺らぎ

 今の教育現場は,振り子のように揺れている。一昨年は,“絶対評価”という波に乗ろうと多くの学校が,授業における評価のあり方についての研究に励んだ。その結果,日本の各地に生まれてきたのが冷たい授業である。児童・生徒を,より正確に評価しようと,授業中,挙手の数を躍起になってメモする教師。評価の基準と授業内容との照合にばかり力が入れられ,授業の質の向上については一切語られることのない授業研究会。これらは,“保護者への説明責任のため”という名のもとに,評価の研究をすればするほど,陥りやすい傾向である。

 昨年度は,“少人数指導”という波がやってきた。少人数による習熟度別学習が奨励され,結果、日本の各地に生まれてきたのが学校の塾化である。授業では,個人ごとにプリントが与えられ,ただひたすらにドリルを行うクラスと,同じ時間に一人で応用問題を解き続けるクラスが登場した。これらは、人間の能力・学力の差別を日常化してしまう危険性をはらんでいる。少人数授業=習熟度別学習という勘違いも、まかり通っている。

 もちろん,これらはすべての学校で行われているということではない。けれど,日本の学校のあちらこちらで,これらの流れに乗り遅れまいと躍起になっている行政指導や学校があることは否めない事実である。

 それでは、これら教育の流れは、現在の子どもたちの状況と照らし合わせてみるとどうなのであろうか。わたしは、教育現場の最前線にいて、授業における評価のあり方の研究や習熟度別学習が大手を振って行われる一方で、子どもたちの“こころの荒れ”は静かに始まっていると強く感じている。

 その一番の特徴は、現在、児童・生徒の問題行動の要因,そのほとんどすべてが,人間関係トラブルから発生しているという点である。例えば、今、学校の保健室は児童・生徒であふれ返っている。特に、女子の児童・生徒がほとんどである。けがや病気で訪れている生徒は少ない。保健室に訪れる児童・生徒のほとんどすべては、人間関係の悩みに絶えられなくなり、ここに逃げ込んでくるのだ。また、それと対照的に,自分の感情を表に出そうとしない児童・生徒が,教室の片隅に増えてきてもいる。

 人間関係づくりが上手にできなくて、自分勝手に生きることしかできない子どもの登場こそ、今、学校に起きている静かな“こころの荒れ”なのである。そして重要なことは、そのような子ども達から、学ぶことへの逃避が始まっているという点である。

今、学校が作るべき教育の流れは,“子どもと子どもをつなぐそんな教育活動なのだとわたしは確信している。この点を頭に入れていないで、前述した教育の流れに乗ることは,本当の意味において、子ども達の期待や社会の要請に応えきれていない学校作りといっても過言ではないであろう。

2.改革の源泉

 それでは,“子どもと子どもをつなぐ”そんな教育活動は、何を中心に据えて行なっていくべきであろうか。その答えは、『授業(学び)づくり』である。授業の中で、希薄になった人間と人間をつなぐ活動を取り入れること、すなわち「協同の学びづくり」こそが、改革の源泉になり得るのだ。絶対評価や学力向上を授業づくりの中心に据えるのではなく、いかに子どもと子どもをつないだ協同の学びのある授業をつくることができるのかを全教員で意識していくことが大切なのである。今後、各校の校内研修は大変重要なものになってくるであろう。

 

3.校内研修こそ教育改革の起爆剤!

 協同の学びを学校改革の中心に据えて,学校改革に取り組んでいるのが,神奈川県茅ヶ崎市立浜之郷小学校である。三年前,浜之郷小学校に一週間通い,その改革の様子について勉強させていただいた。故大瀬敏昭前校長先生をリーダーとして,全教職員が前向きに取り組まれていた学校改革の姿は,実に感動の連続だった。ここには,日本の公教育で行うべき改革の源泉をしっかり理解して,じっくり取り組んでいるパイオニアたちがいる。この姿から学ばせてもらいながら,本校での実践に取り組んでみた。

(1)       研究主任は学校改革のリーダーとなる

 現在の勤務校に勤めて二年目の昨年度,私は研究主任となった。これまで中学校において重きを置かれていた校務分掌は、教務主任、生徒指導主事、進路指導主事であろう。さらには、部活動の顧問などが、学校の組織づくりで重点に置かれてきた。しかし、これからは、学校として、研修・研究をどうするかというのは、本当に大切な学校経営の柱になってくる。人間関係づくりに悩んでいる現在の子どもたちであるからこそ,授業スタイルを、協同の学びに変えなくてはならないことは前述した。“授業”をもう一度、学校の教育活動の中心に据えなくてはならない。だからこそ、研究主任は、学校改革のリーダーと成り得るわけだ。

(2) 協同の学びのイメージ

 授業を作ったり、観る上で、どんな点に着目するべきなのか、協同の学びのイメージは、校内研修を全教員で行なう上で必ず統一しなくてはならない点である。

ここで、本校の“個と個をつなぐ”というテーマで、協同の学びのある授業づくりについて話し合った授業研究会の事例を、二つ紹介する。

@数学の不得手なMを学びに戻したもの

中学1年に数学の不得手なMがいた。連立方程式の授業で、グループで考えて答えを出そうと,指導者が指示を出した点が話題となった。Mがいる班は,いっこうに話し合いを進めようとしない。班には数学が比較的得意な女子が二名いるため、その二人だけで課題解決が進められているのだ。指導者が「四人でやってみよう。」という指示を出したが、変わりがない。そこで、次に指導者は、この班全員に対して詳しいヒントつきの解説をある程度行った。これにより、これまでMと同じように、わからなくて学びに参加していなかったRが、課題解決に対して少し理解できるようになり、「あ、そうか!」と声をあげた。するとMが、Rに向かって「どうして?」と尋ねたのだ。これにより、Mは学びに戻り、もう一度自分のつまずいている点を、Rに教えてもらうことになった。Rも、自分の理解を確認するために、一生懸命Mに教えている。グループ学習をする際に、指導者は支援のタイミングをどう捉え、その時どのような指示を出すかが、大変重要なのだ。このことは,授業研究会のために撮影したビデオが物語っている。「班でまとめて」という指示により、グループで一つの答えを導きだす作業が始まる。しかし、これによって、RやMの班のように学び合う姿勢が消え、一部の生徒のみの学びになりがちなのである。グループ学習とは、一つの答えを導き出す活動よりも、他の考えと自分の考えの相違を確認するための学習活動という捉え方を持った。

A自分の身体で表現したかった生徒たち

中学1年の国語で「古典に親しむ」という授業を開いてもらった。枕草子や源氏物語、徒然草などの名文の一節を読み合う。たくさんの古典を読むことで、「初めて古典に出会う生徒たちに、古典の持つリズムを体感させたい」という指導者の願いである。指導者が名文の一節を読み、それに続いてクラス全員の生徒が声を合わせて一斉に文を読む。時々、指導者が「ここの文、読んでみたい人?」と言うが、手を挙げるのは,決まった五人の男子だけであった。授業の中ほどで、個と個を結ぶ手だてとして、指導者が考えた「サイン交換」の活動になった。自由に教室を歩き回って二人一組になり、相手に向かって古典の文を読んで、それを聞いたもう片方が、サインをプリントに記入するという活動である。時間いっぱい、生徒が歩き回り活動が行われる。これまでとは表情が全然違う。そしてその後、指導者がもう一度「自分一人で読んでみたい人?」と問うと、半数近くの生徒が手を挙げたのだ。特に女子が多い。

この点が、授業研究会の話の中心になった。なぜ、サイン交換の後に、挙手し発表しようとした生徒が増えたのか。確かなのは、サイン交換の時間で、大きな変化があったのである。実は、一斉の読み合いのときは、声は出して読んではいるものの、自分のペースで読んではいない。ところが、サイン交換の時は、一人ひとりが自分のペースで自分の読みをすることができた。他との交流を通しながら、自分の読みを行うことによって、イメージを自信を持って自分の中に生み出すことができたのであろう。

 

4.子どもの学び合う姿を視点に,全教科の教員が授業を参観する授業研究

本校では、校内研修において、上記のような、授業研究会を数多く開催した。このよう

な話し合いにより、授業の捉え方は確実に変化していく。協同の学びに大切なのは,教師が授業をつくる上での重点を、「どのように知識を上手に伝達するか」から,「どのような工夫で,個と個の学びをつないでいくか」に変えることである。この点は、浜之郷小の校内研究や大瀬校長先生から強く教わった。教師の教授法にのみ、重点がありがちなこれまでの授業研究会から、全教員で生徒の授業における学びがつながる姿を見つけあう授業研究会への転換に力を入れることが、協同の学びを中心に据える校内研修には重要なのである。今では,これまであまり評価されなかった、授業中の発言の少ない生徒にまで、その生徒の思考について思いを馳せる、そんな教師の視点ができつつある。このような教師の姿勢が、生徒に与える影響は大きいに違いない。地味な研究ではあるものの、このような授業研究会を中心にした校内研修の企画・運営によって、教師が変わり、学校が変わり、そして生徒が変わってきている。

 

5.教科を超える

 研究・研修を続けていく中で、「これまでの授業から、協同の学びのある授業へ変えるためのアドバイスが欲しい。」ということを、よく言われる。特に、受検科目の教師から、どうしても一斉指導のスタイルから脱することができないと相談されるのである。そんな時、私は教科の壁を超えることを薦めている。なぜなら、これまで私が観てきた多くの“個と個がつながった授業”を振り返ると、教科の壁を超えている点が多かったからである。

例えば、折り紙を通して、角の二等分線を教えた数学の授業。モーツアルトとベートベ

ンの音楽の違いから、市民革命の背景に迫った社会科の授業。ダンスに合う音楽探しから始まった保健体育の授業。このように、これまでの狭い意味での教科の壁を外した授業において、よく個と個が結び合う授業が成立していたのである。ただ、これらの授業は時間数との兼ね合いもあるので、まずは選択教科から、教科の壁を外す授業を行ってもらうと、個と個がつながるイメージがつきやすいと、アドバイスしている。これからは、選択教科の授業研究会も大いに歓迎するべきなのかもしれない。

 

8.最後に

 こころの教育は、学力向上の根っこの部分なのに、今やあまりにも語られなくなってしまった。前述した本校の授業研究会の事例すべてに、子ども同士を結びつける工夫が出ている。例えば、数学の授業では、数学を苦手としている女子生徒を、最後まで諦めさせなかったのは、同じわからない女子生徒からの援助であったし、それを可能にさせたのは小グループ学習であった。また、国語では、サイン交換というゲーム的要素の導入によって他と交流させることにより、テキストを生き生きと自分のものにする子ども達の様子を、目の当たりに感じることができた。***  (詳細は私のHPをご覧頂けると幸いです。)

これらの授業に共通する点は、柔らかさや温かさが教室に溢れ出ている点である。精神的にも安定する授業は、現代の子ども達が抱える“こころの荒れ”にいかに有効なことか実感した。

 突然のお願いにも快く引き受けて、様々な教育改革・学校改革について自らの考えを教えて語って下さった神奈川県茅ヶ崎市立浜之郷小学校の大瀬前校長先生に、「先生は、どうしてそんなにまで、学校改革に情熱を注げるのですか。」と質問をした。「命をかけているからですよ。」という言葉と笑顔が忘れられない。

協同の学び合いの授業を中心とした授業改革。そこには,子どもと子どもを結びつける,人間関係づくりが加わってくる。こんな授業づくりこそが、日本の教育の中心にならなくてはならない。そして、そんな授業が溢れる学校だけが、子どもの“学びのこころ”に火をつけるのだと信じている。

※大瀬先生が,この一月三日に永眠なされました。大瀬敏昭先生のご冥福を慎んでお祈り申し上げます。

 

 

---

戻る