いのちの授業たより その4

4回にわたってお届けした、この“いのちの授業たより”も、今回で最後となりました。少しでも、今のM中で大切にしていること、教師も生徒もいっしょに、心の耕しを行っていることが伝わったら最高です。

 最後は、国語の授業の感想を掲載します。中学3年生の感想、それは、まずその文量に驚かされます。この生徒達が1年生の時に、この『いのちの授業』がスタートしました。その生徒達の最後の学習での感想です。量だけでなく、その内容にも驚かされると思います。是非、ひとときのお休みの時間にでも構いませんので、目を通してください。

 中学校はたった3年間です。けれど、その3年間で、いかに大きく心の成長がおこなわれるのか、この3年生が証明してくれています。教育は、「今日言ったから、明日変わる」というものではないことも事実です。1日1ミリです。それでも、それが積み重なると、このような、素晴らしい3年生と出逢えたりするのです。

 この素敵な3年生との生活も残すところ、あとちょうど30日です。この生徒達が卒業して、また新しい素敵な3年生と出逢えます。本当の学校はそういう所です。

 

いのちの授業担当  高橋晋作

国語科(授業者:O) 授業題材:電池が切れるまでを読んで

授業者として、生徒たちに送りたいメッセージ

 

今の自分達がどれだけ幸せに生きているか痛感して欲しいです。

いのちの授業実践してみての授業者の感想

 

思った以上に真剣に生きることや死について、向き合ってくれたし、深まりのあるものになってうれしかったです。

授業を受けた生徒の感想

 

      「命が大切だって」ってことは、生まれたから今まで何回も聞いたことだと思う。だけど、本当にわかってるかと言われると、あんまり自信がない。なんでかというと、日常生活の中で友だちや家族に、冗談でも「死ね」とか言ってしまってるから。どんなに「命が大切だ」って言われても、自分は今、幸せだから、なんだかよくわからない人の方が多いと思う。でも、この病院にいる子供達は、すごく苦しんで、苦しんでいる。なのに、自分は幸せに平和で健康に暮らしている。なんで、みんな違うんだとずっと思う。「生きる」とか「死ぬ」とか「命」とか、軽々しく口にしている自分が恥ずかしいと思ったし、最悪だと思った。自分と同じ年の子、あるいは、もっと小さい子達が、今この瞬間に亡くなっていたりするかもしれない。すごく、悲しくて、寂しいと思う。だけど「死」はいつくるかわからない。(自殺以外で)特に、病気の人は、毎日が戦いだと思う。どれだけ自分が幸せなのか、身にしみた。多くの人が苦しんでいる今、もっともっと医学が発達して、どんな病気でも治るような時代が来たらいいと思った。今私は、元気だけど、もしかしたら、病気になったりするかもしれない。その時は、この詩とかを思い出して前向きに生きていきたい。「私が生まれたこと。今生きていること。ぜんぶキセキだと思う。だから、自分を支えてくれた人、助けてくれた人、多くの人に感謝したい。自分の死はいつくるかわからないけど、その時まで、必死に生きたい。だから後悔しないように、今を一生懸命に、生きるぞ!(3年女子)

・ 朝、起きて自分でトイレに行き、ご飯を食べて学校に行く。勉強して友だちと話をして…。こんな生活の繰り返し。これを幸せだと感じたことは、この15年間生きてきて、1度もないと思う。私にとっては、当たり前のことだからだ。命は大切だと思う、けど本当に心からそう思っているのとは別のように感じる。だけど、子ども病院に行っている人たちは、私よりも若くして死んでしまったり、長い期間病気と闘ったりしている。「自分がもしそうなったら」なんて思っても深く考えることはない。だから、何となく自分には関係ないと思う。最近、いじめで自殺したとかいうニュースが増えている。そういったニュースを見ると、命って簡単になくなってしまうんだなと思う。命は本当に電池のようでいつかはなくなる。電池はなくなったら取り替えることができる。でも、命は1度なくなったら、取り替えることはできない。だから大切にしなきゃいけないんだと思う。「死」という言葉を軽軽しく使ってしまうけれど、そんなことを言ってはいけないんだと思った。言葉は人を励ますこともあれば、傷つけるものにだって変わる。言葉の重さってすごいと思った。自分が今こうやって生活していられるのも、たくさんの人が支えてくれているからだと思う。いつでも感謝することを忘れずに、生きている今を大切にしていきたいです。そして、人の気持ちがわかるような思いやりのある人になりたいと思います。(3年女子)

      今まで何気なく言っていた「学校へ行きたくない」「勉強めんどくさい」「死ねたら楽なのに」などという言葉は軽軽しく使ってはいけないと思った。自分より年の下の小さな子ども達は、この詩を見ていると、私なんかよりずっと大人だと思った。こういう子ども達こそ生きなければいけないと思うのに、それは叶わないなんてどうかしていると思う。自分の今までの生活を振り返るのが辛いぐらいだ。普段の生活の中で、友だちが死んでいくなんて事ははまずないとは言いきれないのに、「生きているのは当たり前みたいな態度で、「生まれてきたくて生まれてきたんじゃない」とか、「自分なんてどうせ」とか考えて、自分の可能性を自分でつぶしてしまう人達がいる事が信じられないくらいです。「生きたくても生きられない」すごく悲しい事だし、辛い事だと思う。もし、私が闘病生活を送ることになったら、この詩を書いた子ども達のように前向きに、生きようとか、目標に向かってがんばろうとか、そんなことは絶対にできないと思う。しかし、それはまたぜいたくな事で、せっかくもらった命なんだから精一杯生きようと考えなければいけないと思いました。私は以前、同じ人間は一人もいないんだから、その一人として生きなければいけないという言葉に、「その一人ひとりが何十億といるんだから一人くらい死んだって何も変わらない」と思っていました。でも、この闘病生活を送っている子ども達の両親や友だちの話を見て、「ああ、死んでいい人なんて一人もいないんだ」ということを再確認することができました。この一つ一つの詩を見るたび、一人ひとりが頑張ったんだなあと感動しました。病気と闘って、闘って死んでしまった子ども達の周りの人達は勇気とか、いろんなことを得たんだろうなあと思います。そして、すごく精神的に強くなれたんだろうなあと思った。「命は大切だ」というのはとても簡単だけど、その意味を深く考える機会はあまりないような気がする。すごくいい時間だったと思います。そして、家族や友だちなど、周りの人達に、どれだけ支えられているかを考え直すことができました。いつも迷惑ばかりかけてきたような気がするので、これからの人生でちょくちょく恩返しをしたい思いました。今日のこの国語の授業で、今日から強く生きていこうと思いました。(3年女子)

      自分は何でもできる。したいと思ったこと、しようと思えば何でも…。それが当たり前になっているから。命は大切だとか、精一杯生きたいとかなんてことは、日々あまり想っているわけではないけど、ここの人達は違っていた。何かができることも、親と毎日会えることも、そして生きているそのものが、幸せだと日々想っているんだと思った。辛い生活に耐えられないことだってあるだおうに、みんな病気を体の1部であるかのように生活して、それはいつか消えるものだと信じている。自分よりずっと小さい子たちの詩から言い切れないくらいの想いが伝わってきた。そしてみんな、自分だけでなく他の人にも生きて欲しいと願っている。自殺なんてする人を見るだけで悲しくなるくらいだから。自分より何倍も命の尊さを知っている。この子たちに比べ、自分の生活はどうなのかと考えると、日々生きていることにありがたみなんてあまり感じていなかった。でも、詩や文章を読んでいて、自分がこうして生きているのも何億分の1の中で、自分が選ばれたから。その命…。自分にあるのも奇跡だから。大切にしたいと思う。(3年女子)

      今まで何か嫌なことがあると、すぐに「死ぬー」とか、軽々しく言っていた。でも、この一言がどれだけ重いものかということを改めて感じた。私は学校に行くのがすごく嫌で、人間関係での悩みも常に絶えなくて、もう本当に辛くて嫌だーって、最近すごく思っていたけど、学校に通えることだけで、本当に素晴らしくて、幸せなことなんだなと思った。生きたくても生きられない人、やりたいことがやれない人が、こんなにいることがとてもびっくりした。平凡に生きている自分がとても情けなく思えた。これを書いている今も、辛い治療に一生懸命耐えて、必死に生きようとしている人がいるんだから、自分も負けずに、生きなくちゃいけないとすごく思った。普通に朝起きて、ご飯を食べて学校に行く。授業中寝たかったら寝ることもできる。それって、とにかく幸せな生活なんだなあって思うと、今まで嫌なこととかいっぱいあって、死にたいって思ってしまった自分がすごく小さくて悲しい人間だったな…。これからは普通に生きていることに誇りを持って、前向きな生活をしたいと思う。あと、命をとにかく大切にしたい。命があれば、悩むことも、そこからはいあがることも、何でもできるから、たった一度の人生、たった一つの命を大事にしたいと思う。(3年女子)

      「人の死」というのがあまりにも遠いような存在で、ニュースなどで聞いても、人事のように感じてしまう。「どうせ自分には関係ない。」と。県内で自殺が2件起きたが、それを私達は面白がっている。でも、院内学級の子ども達にとって、「死」というものはあまりにも身近なこと。だからこそ「死」という言葉を使わない。私達は何気なく、当たり前のように「死」という言葉を使ってしまうが、もともとは「死」という言葉は重いもので、軽率に使ってはいけない言葉なのだろう。しかし、私達は、そのことを忘れてしまっている。「明日は…1週間後はいないかもしれない」という状況の中、精一杯生きていっている彼らには頭が上がらない。彼らは、私たちより、強い精神の持ち主である。自分自身のため、親のため、生きたくても「今日」を迎えられなかった世界中の仲間たちのために、私は「今」を精一杯生きていくべきなのではないだろうか。(3年女子)

      これらの中に記載されている子ども達は、いつもいつも死と隣りあわせです。でも、そんなことも感じさせないような、とても前向きな気持ちをみんな持っていて、どこか深く考えさせられることがありました。朝起きて、朝食を食べて、学校に行って…。私達から見れば何の変哲も無い、すごく当たり前のことのように見えるけど、この子達からしてみれば、そんなことがすごく幸せであり、夢のようなことである。そこから、私達は何て幸せなんだろうと思います。人生は人それぞれ全く違います。長生きする人もいれば、病気によってすぐに死んでしまう人もいる…。でも、長生きしたから幸せだとか、長生きしなかったから不幸だということはなくて、本当にささいなことでも、「ああ、幸せだな」と感じられればその人はもう、すごく幸せになれるのだと思います。「生きること…」それは楽しいことばかりでなく、辛いこともたくさんあるけれど、その辛いことも、すべて私達が幸せになるためにあるものなんだと思います。私の人生はこれから先、まだまだ続くけれども、小さなことに幸せだなって感じれるような人間になりたいです。(3年女子)

 

 

 

 

 

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