M中校内研修の1年目の歩み

〜1年目の取り組み〜

研究のまとめは、より子どもが見える形で

 事例研究が主ですので、研究をまとめることには、あまりエネルギーを使いませんでした。研究のまとめに力を入れると、どうしても、本来の授業改革の時間よりも事務的な時間が増えてしまうこと、また、これまでの研究のまとめの形式では、そして文章では、わたし達が行っている授業研究会での充実した話し合いを全て表現しにくいからです。

でも一方で、自分達の研究の履歴を残すという意味で、なんらかの形でまとめをすることは大切だとも感じています。

 そこで、本校では、できる限り、授業研究会で話された話題や、会の様子を文章化し、それを研究のまとめとして、残すことにしました。子どもの姿がはっきりと見えるまとめこそが、教育研究のまとめとして、妥当だと考えたからです。

 次に、そのまとめた資料の一端を掲載します。

 

 

1.      現在の学校教育が抱えている生徒像

ある生徒Sがいる。対人関係を築くのがうまくできずに、学校に来たり、休んだりを繰り返すが、決して学校に行きたくないとは言わない。人と人との悩みに苦しみながらも、「学びたい」という思いが、生徒Sの身体を突き動かしているのである。われわれ教員は、その気持ちにどれだけ心を砕き、子どもを視る目を鍛え上げてきただろうか。そして、どれだけ同僚の教師同士で学び合ってきただろうか。わたし達、M中教員が取り組んだ、1年目の改革は、互いの授業を開き、授業の中で個と個を結ぶにはどうしたらよいのかという、悩み合いであった。取り組み自体は、地味なものかもしれないが、授業の中で個と個が学びあっている姿を検証することにより、教師自身が、緩やかな変革をとげてきた。我々の授業研究では、傍観する参加者はいない。授業者以外は、ひとり一人の生徒の脇に寄り添い、その生徒の学びの様相をしっかり記録することが自然と定着していった。また、授業研究会での話し合いでは、ビデオを使って、授業で起きた出来事に添って、もう一度、その原因を探る話し合いが確立された。その際、固有名詞による話し合いが必然となった。学力向上の前に、授業を変える。授業改革の前に教師を変える。1年目わたし達が行なった改革は、教師改革である。“学び続ける生徒は崩れない”この言葉が、今年度見えてきた一つの結論である。

 

2.分科会の話題から

(1)クラスで浮いているAを支えたもの

テキスト ボックス:  やや多動の傾向があるAは、クラスや学年の中で、煙たがられる存在である。授業中も、関係ないところでの目だった発言が目に付き、授業の中で、A個人の発言の増加が、クラス全体の発言の量の減少を招いていたことが、2回目の分科会で話題になった。Aの発言中、他の生徒の表情がこわばっている事がはっきりみてとれる。Aに指導する必要ということで、話題に終止符がついた。ところが、授業研3回目の秋に同じクラスの授業研があった際、グループ学習をすると、Aの発言は必ずしも他に受け入れられないどころか、話し合いを引っ張ったり、他の意見にAが耳を傾ける面があることがわかった。A個人の指導よりも、小グループで協同の学びをさせることが、Aや他の生徒にとっても、Aが認められる機会が増え、個と個の学びが結ばれる率が高いことが検証された。

 

(2)数学の不得手なMを学びに戻したもの

数学の不得手なMがいる。方程式の授業で、グループで考えて答えを出そうと指導者が指示を出した点が話テキスト ボックス:  題となった。Mがいる班は一向に話し合いを進めようとしない。班の中には数学を比較的得意とする2名の女子生徒がいるため、その2人だけによって課題解決が進められているのだ。数分後指導者が支援をこの班に行なった。数学の苦手なMは、もうこの学びから心が離れている。指導者が「4人でやってみよう。」と、班のやり方を修正する指示を出したが、やはり2人だけの世界から脱却しない。そこで、次に指導者は、この班全員に対して詳しいヒントつきの解説をある程度行なった。これにより、これまでMと同じように、わからなくて学びに参加していなかったRが、課題解決に対して少し理解できるようになり、「あ、そうか!」と声をあげた。するとMが、Rに向かって「どうして?」と尋ねたのだ。これにより、Mは学びに戻り、もう一度自分のつまづいている点を、Rに教えてもらう事になった。Rも、自分の理解を確認するために、一生懸命Mに教えている。グループ学習をする際に、指導者は支援のタイミングをどう捉え、その時どのような支持を出すかが、大変重要なことをビデオのRMが物語っている。もう一つ、この話し合いで話題になったことは、みんなが答えを見つけなくていいのではないかということである。「班でまとめて」という指示により、グループで一つの答えを導きだす作業が始まる。しかし、これによって、RMの班のように学び合う姿勢が消え、一部の生徒のみの学びになってしてしまいがちである。グループ学習とは、一つの答えを導き出す活動よりも、他の考えと自分の考えの相違を確認するための学習活動という捉え方を持った。Mは、決して学びに参加したくなかったのではなく、班の意見を一つにまとめるのに、邪魔にならないようにしていたのだ。Mにも、「何故、ここがこうなるのか?」という思いがある。人それぞれの別々な思いを言えることができたグループなら、指導者が支援をする前から、このグループには学びが成立していたであろう。

 

 (3)自分の身体で表現したかった生徒達

 4回目の授業研では、国語の『古典に親しむ』という授業を開いてもらった。枕草子や源氏物語、徒然草などの名文の一説を、読み合うという授業である。たくさんの古典を読む事で、“初めて古典に出会う生徒達に、古典の持つリズムを体感させたい”という指導者の願いである。まずは、指導者がプリントに書かれてある先の名文の一説を読んで、それに続いてクラス全員の生徒が声を合わせて一斉に文を読むという学習活動が続いた。時々、指導者が「ここの文、読んでみたい人?」と言っても、手をあげるのは決まった5人の生徒ばかりであった。(全員男子)授業の中ほどで、個と個を結ぶ手立てとして、指導者が考えた、サイン交換の活動になった。これは、自由に教室を歩き回って2人1組になり、相手に向かって古典の文を読んで、それを聞いたもう片方が、サインをプリントに記入するという活動である。時間いっぱいに、生徒同士が歩き回り活動が行なわれる。これまで一斉に読みあわせをしていたときの表情とは全然違う。その後、指導者は、もう一度「自分ひとりで読んでみたい人?」と問いてみた。するとどうだろう、一斉の読テキスト ボックス:  み合わせの時には、決まった5人しか手をあげなかったのが、半数近くの生徒が手をあげたのだ。特に女子が多い。この点が、分科会の話の中心になった。なぜ、サイン交換の後に、挙手し発表しようとした生徒が増えたのか。確かなのは、サイン交換の時間で、大きな変化があったのである。実は、一斉の読み合いのときは、声は出して読んではいるものの、自分のペースで読んではいない。そこには、自分の読みを行なえないもどかしさがあったのかもしれない。ところが、サイン交換の時、相手に向かって読んでいるのではあるが、実はこの時に始めて、ひとり一人が自分のペースで自分の読みをすることができたのである。自分の読みを行なうことによって、イメージを自分の中に生み出すことができた。国語で大切なのは、テキストの言葉を体のイメージに自分なりに置き換えることである。その点で、指導者が考えたサイン交換は、ねらいとはやや違ってはいたが、有効に働いていた授業であった。

 

3.最後に

 わたし達、M中教員が行なった、1年目の研修のほんのわずかな部分をご報告させて頂いた。なかなか、レポートで伝えることが難しい面もある。目の前に起きた事例こそに、授業改革の答えがあるからである。事例研修こそが、教員の質を高める。1つの授業を参観して、そこから学ぶことのどれほど多いことか。また、話し合いは、指導のテクニック的なことは、話さない。授業に起きる、予期せぬ出来事から、子どもの表情や思考の変容などが見えてくる。また、中学校では珍しく、1つの授業を全教員が参加し、その授業の研究会を全教員が参加して行なっている。学びのエッセンスは、教科の枠を超えたところにあるからである。わたし達の改革は、まだ始まったばかりであるが、授業を視る視点を変えることができた点は、1年目の大きな成果であった。

 教育の改革は、緩やかでゆっくりでいい。確実に2年目に向かいたい。

 

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