選んだ道を、まっすぐ
かすかに響いた扉の開閉音に、レナは目を覚ました。ゆっくりと体を起こすと、小さい欠伸が口からこぼれた。
まだ夜明けには遠いのだろう。窓から入る微かな光はあるけれど、明りの落とされた室内は、暗闇に落ちている。
耳に届いた小さな寝息に横を向けば、隣にはファリスが眠っている。彼女の寝顔は、起きている時の顔とは別人かと思うほど静かで、美しい。
暗闇に慣れてきた目で、レナは改めて部屋を見回した。山小屋も兼ねているらしい部屋には、大人数が眠れるように多くのベッドが並べられているのに、今はレナとファリスしかいない。
仲間の一人であるガラフは、夕食の後にここ――ケルブの村の長であるケルガーの家へと行ったまま、戻ってきていないようだった。おそらくそのまま彼の家に泊まったのであろう。二人はかつて共に戦った仲間だと言っていたし、昨日は色々と分かったこともあるし、二人には積もる話もあっただろうから。
そこまで記憶を掘り起こしたレナは、先程自分を起こした音が、もう一人の仲間であるバッツがこの宿屋から出て行った音だと、気付いたのだった。
簡単に身支度を整えると、レナは姉を起こさないようしながら宿屋を出た。途端に冷たい空気がまとわりつき、体が震える。レナはむき出しの腕をさすりながら、彼の姿を探して、村の中を歩き始めた。
月に照らされたケルブの村は、とても静かだ。山間にある村だからか、ここの空気はタイクーンを、もう戻れない故郷を思い出させる。
村の北側にある小さな広場になっているところで、レナはようやくバッツの姿を見つけた。彼は地面に寝転んで、星空を眺めているようだった。
「バッツ」
レナが近づいて声をかける。そこで初めて、バッツはレナがそばにいると気付いたらしい。
「レナ?」
起き上がりレナの方を向いたバッツは、その青い目でレナを認めると、申し訳なさそうに頭をかいた。
「わるい、起こしちまったか」
「気にしないで。もう一度寝ることだってできたんだもの」
レナは何でもないことのように返事をして、バッツが立ち上がろうとするのを押し留めた。そして、そのまま隣に腰を下ろし、同じくらいの高さになったバッツの目を覗き込む。
「眠れない?」
「……まあ、ちょっと、な」
そう言葉を濁したバッツに対し、レナは疑問ではなく、確認の意味を込めてたずねた。
「昼間のことが、気になっているのね」
単刀直入に告げて、レナは思い返す。この村に到着した直後に、些細な誤解からバッツはケルガーと勝負をした。その勝負の最後、ケルガーのルパインアタックを破った技をバッツに教えた彼の父親は、この異邦の地で生まれ育ち、三十年前にガラフたちと共にエクスデスと戦った人物だという。
ガラフたちから語られて初めて、バッツはその事実を知ったのだろう。ひどく驚いた顔をしていた事を覚えている。
レナの問いかけに、バッツは一瞬だが確かに目を見張った。そして少し俯いた後、レナの目を避けるように再び空を見上げた。泣き出しそうな、けれど決して泣かない彼の横顔を見つめながら、レナはじっと答えを待った。
二人の間に沈黙が落ちる。穏やかに吹く風だけが、さらさらと草が揺れた音を鳴らしていた。
「どうしてだろう、って思ってさ」
ぽつりと、バッツがつぶやいた。それは、普段は快活な彼が発したと思えないほど、弱弱しい声だった。
「おれ、親父のことは何も知らなかったんだなって」
その言葉に対して、レナは喉までこみあげた台詞をすんでのところで飲み込んだ。バッツが一緒に行くかとたずねたガラフの誘いを、二人の話に水を差すからと断っていたのを思い出したから。
彼の心情を、レナが察することは難しかった。なぜなら、レナの父であるタイクーン王の話は、父本人が語らずとも、昔からの家臣たちがことあるごとに話をしてくれるのを聞いていたからだ。そんなレナの経験は、きっとバッツとは重なり合わない。
「二人で旅をしている間に、色々なことを教わった。旅の知識も、剣の技術も。けど、ずっと一緒にいたのに、親父の昔の話とか、旅をしている理由とか、そういう話は全然しなかったんだ」
消え入るような声音で語られるバッツの話を聞き逃さないように、レナは耳を澄ませる。風の音が、やけに大きく聞こえた。
「小さい頃のことは、正直ぼんやりとしか覚えていないんだけどさ。おふくろは多分、親父のこと知ってたんだと思う。それなら、どうしておれには何も教えてくれなかったんだろう。……どうしておれは何も聞かなかったんだろう」
吐き出された彼の苦悩は、レナではどうやっても正解へたどり着けないものだった。バッツも答えを得られるとは思っていないはずだ。
それでも、レナは思わず口を開いた。
「選んだから、だと思うわ」
はっきりと告げた言葉に、バッツがレナへと顔を向けた。彼の揺れる瞳を正面から受け止めて、レナは話し続ける。
「私たちの目の前にはいつも分かれ道があって、どこに進むか選ばなければならない。選んだことで救われる人がいる。だけど、同時に救われない人も必ず生まれる。選んだことをなかったことにはできない。満足しても、後悔しても。だから人は立ち止まり、迷い、苦しむ。それは悪いことじゃない。けれど、許されないときもある」
そこで一度言葉を切ったレナが、目を細めた。
「バッツのお父様は、きっと、自分が選んだ道をまっすぐに進める人だったんだわ。――あなたも」
レナは、それ以上を口にできなかった。
口を噤み祈るように見つめるレナの横で、バッツは呆然とした様子でレナのことを見つめたまま、動かない。
動きを止めてしまった彼を見ているうちに、言い過ぎたのではないかと不安がだんだんとレナのなかで渦巻いた。
「ごめんなさい。私、バッツのこともほとんど知らないのに、勝手なことばかり言って」
レナがうなだれて謝罪すると、バッツは我に返ったかのように、慌てて首を横に振った。
「そんなことないさ。ありがとう、レナ」
そう言って、バッツは笑った。その笑顔は、ここでバッツに会ってからはじめて見せてくれた笑顔だった。
それを見て微笑んだレナの前で、バッツがいきなり大きな欠伸をした。
「なんか、やっと眠くなってきた」
びっくりして目を丸くしたレナにおどけた調子で言った後、バッツは目元を拭って立ち上がった。
「おれ、宿屋に戻るよ。レナも一緒に戻るか?」
バッツが差し出した手を、レナはやんわりと断った。
「ううん、私はもう少しだけここにいるわ」
「わかった」
バッツはそれ以上聞かずに、じゃあおやすみ、と言って広場を離れていく。その足音が遠くなってから、レナはさっきまでバッツがしていたように、草の上に寝転がった。
雲一つない夜空には、大きな月と無数の星がきらきらと瞬いている。視界いっぱいに広がった煌めきの中心に、レナは右手をかざした。いくつかの輝きは手の中に隠れたが、この細い手に全てが収まりきるはずもない。
「選んだ道を、まっすぐ」
静かにつぶやいて、レナは掲げた手を握りしめた。