ある春の二人の話
朝起きる時間はいつもと変わらない。
『六時半になりました。おはようございます、レオンです。ラジオ番組・ジャンクション。本日も自宅からリモートでお送りいたします。お時間の許す限り、お付き合いください。本日最初の曲は――』
いつも聞いているラジオが、いつもの時間に、最近変わったオープニングで流れ始める。それを聞きながら、身支度をして洗濯機を予約し、カーテンと窓を開けて、朝ごはんを作り始める。
大体できてきたところで、閉めていた廊下のドアが開いて、クラウドが姿を見せた。昨日夜更かししたのか眠たそうだが、これもいつもの時間だ。
「おはよう」
「おはよう。もうすぐ朝ごはんにするぜ」
「和食か?」
「いや、今日はパンだな。トーストにしようと思うけど」
「なら、コーヒー淹れてくれ」
「わかった。今日は早く寝ろよ?」
「そのつもりだ」
会話を終え得て、クラウドが身支度のために再び廊下のほうへと引っ込んでいった。あくびしているらしい背を見送りながら、バッツは食品棚からコーヒーの粉を取り出した。
二人でカフェオレを飲み物に朝食を済ませた後の行動は、若干変わった。
これまではクラウドが食器を洗っている間にバッツは少し休憩していたのだが、今はバッツが食器を洗っている間に、クラウドは部屋にはたきをかけて、彼の部屋の片づけをする。食器洗いが終わるころには片付けが終わっているので、バッツはそのまま掃除機をかけて、その間にクラウドがとっくに回り終わっている洗濯物を干す。
そうして一通り雑事を終わらせた後、残していたコーヒーをアイスカフェオレにして、二人で少し長い休憩をとるのだ。
「今日いい天気だな」
「そうだな、外に出てもあまり寒さを感じなかった」
「このくらいの季節が出掛けるのに丁度いいんだけどな」
「……こういう状況だからな。遠出は諦めてくれ」
「わかってるよ」
そんな風に何気ない話をして過ごしていれば、机の上にアイスカフェオレのマグカップと並んで置いてあったクラウドの携帯がけたたましく鳴り始める。それをすぐに止めたクラウドが、カフェオレを飲み干して立ち上がった。
「行ってくる」
「ああ。行ってらっしゃい」
バッツがソファに座ったまま笑いかけるとクラウドも少し笑い返して。
そうして、彼はマグカップを流し台に置いて、自分の部屋に向かっていった。
今世界で猛威を振るっているウイルスの影響は、もちろんバッツ達にもあった。
まず、バッツのバイト先であるガラフの酒屋は、再開日未定の休業になった。主な販売先である店周辺の飲食店が軒並み休業しているから仕方のないことだった。バッツも、いったんバイトを辞めたことになっている。別のバイトを探そうとしたのだが、クラウドに反対されて、今は専業主夫みたいな状態になっている。年始に体調を崩してしまったこともあって、病気になって重症化したらどうする、と心配するクラウドに、無根拠に大丈夫だといえなかった。
まあ、これまでのバイト代も使いまくったわけではなくある程度貯蓄しているので、しばらくはなんとか節約しながら生活していけたらと思う。
一方のクラウドは、リモートワークというものになった。バッツには仕組みがよくわからなかったが、家にいても仕事ができるらしい。そのための機械やらの導入に時間がかかったらしいが、この騒ぎが大きくなって割とすぐに自宅で仕事をし始めている。 その際に、「仕事中とそれ以外をちゃんと区別したい」という彼の要望で、彼の仕事中はバッツからはなるべく声をかけないことになった。昼食は一緒に食べるから仕方がないが、それ以外の時は基本的に声をかけない。トイレのタイミングもなるべくずれるようにお互いにしているので、彼の仕事中は昼以外は基本鉢合わせすらしない。それで、彼はうまく仕事ができているようだった。
あまり音を立てたら悪いかなと思って、バッツは彼の部屋に近い自分の部屋ではなく、リビングで過ごすようにしている。部屋から持ち出した本を読んで過ごしているが、いつも働いている時間にこうしてのんびりしているのは、どうも手持ち無沙汰で。
「昼飯の準備でも始めようかな……」
ぼんやりとつぶやいて、バッツはクラウドが去ってからそんなに時間がたたないうちに、ソファから立ち上がった。
ガチャリ、ガチャン、と固い音が連続で聞こえて、クラウドはノートパソコンのモニターから顔を離した。そのまま左を向いて壁を――正確にはその向こうにある、音を立てた玄関のほうを少しだけ見て、それから椅子の上で体を伸ばして立ち上がった。集中も切れたので、少し休憩しようと部屋から出る。静まり返った廊下に、昼過ぎのまだ強い日差しが、リビングのドアから差し込んでいた。
このご時世ではあるが、バッツは午後になると、散歩と買い物に出かける。たぶん、夕方ごろには帰ってくるだろう。
本来ならば、なにがあるかわからないので部屋にいて欲しいというのがクラウドの希望だし、実際ステイホームなどといわれ始めた最初の頃はバッツもずっと部屋にいてくれたのだが、毎日のように外に出て動き回っていた彼が何日も部屋にいるのは、思い出したくないほど、よくなかった。なので、主にクラウドから説得する形で、バッツには毎日買い物に行く、ということで外に出てもらうことにした。幸いにも、今のところ例のウイルスをもらってくることもないし、彼もいつもの調子を取り戻してきているようなので、しばらくはこのまま様子を見ようと思っている。
そのうち、状況が好転してくれればいいが、と冷蔵庫から麦茶とおやつを取り出しながらクラウドは思う。バイクに乗れないのはつらいところもあるが、引きもっているのは別に苦ではない。それでもたまに二人で出かけることも好きだったので。
「そういうことができるようになるまで、働けるうちは働かないとな」
彼のいないリビングで食べ終わったおやつを前にひとり呟いて、片づけをして部屋に戻る。少し休みすぎた、と思いながらクラウドは再びノートパソコンに向き直った。少し離れている間に、メールがいくつかと、質問のチャットが飛んできている。それを片付け始めながら、クラウドはゆっくりと仕事に集中していく。
しばらくして、先ほどと同じ音がしたが、その時もクラウドは少し意識をそちらに向けただけで反応しなかった。
スマートフォンの鳴らしたアラームでまた集中が途切れた。終業時刻の十分前。クラウドは手を付けていた仕事に区切りをつけて日報を書く。書き上げた日報を送るころには時間を超えていて、クラウドはノートパソコンを片付けて部屋を出た。
リビングのほうまで行くと、台所にいたバッツが声をかけてくる。
「おかえり」
「ただいま。……おかえり」
「おう、ただいま」
先ほどは声をかけなかった分もお互いに挨拶をする。これもすっかり定番化してきたやり取りだった。
「すぐにメシにしようと思うけどいいか?」
「大丈夫だ。トイレだけ行かせてくれ」
「了解。じゃ、用意しちまうな」
ほどなくして、夕飯になった。今日の夕飯はご飯に味噌汁、鶏肉の照り焼きに野菜炒めと漬物だった。相変わらずのおいしい食事にクラウドが舌鼓を打っていると、バッツから、声がかかった。
「クラウド、ありがとうな」
いきなり感謝の言葉をかけられた意図がわからず、しかしたった今鶏肉を口に含んだばかりだったので、噛みながら目線で問いかける。すると、バッツはクラウドの姿がどう見えたのか少し笑って、
「いや、おれ、クラウドと一緒に暮らしててよかったなあって思ってさ」
としみじみとした様子で語るので、クラウドもしっかりと肉を飲み込んでから答えた。
「俺も、バッツと一緒でよかったと思っている。いつも」
「わかってるよ。おれだってそうさ。そうなんだけど」
そこで、バッツがためらったのか目線を泳がせ、間を持たせたいのか野菜炒めに箸をのばした。それをみて、クラウドもコップに手を伸ばす。
しばらく食事の音だけが続いた。そして、先にすっかり食べ終わったバッツがコップの水を飲んでから、ようやく口を開いた。
「今日、外に出て買い物をしてきてさ。最近はずっとそうなんだけど、外にいる人も少ないし、道を走る車とかも減ってるんだ。いつもの様子を覚えてるから、町がすごく静かで……さみしく感じて」
すでにカーテンが閉まっている窓の、きっとその先をぼんやり眺めながらバッツはぽつぽつと語る。
「おれはこうして、おまえと一緒に暮らしていて、こういうことや、何気ないこと、あいさつの一言でもやり取りできるのが、とてもありがたいことなんだなって、そう思った。
だから、ありがとう。そうちゃんと言葉にしたかったんだ」
「……そうか」
手を止めてバッツの話を聞いていたクラウドは、その話に、一人で暮らしていたころを思い出していた。もし、あのまま今の事態に直面していたらどうなっていただろう? きっとひどいことになっていたと思う。あの頃も今も、きっとクラウドを一番助けてくれているのは目の前の彼で。
「そうだな。俺もきっと、一人だったら駄目になっていただろうな。ありがとう、バッツ」
そうまっすぐ告げれば、バッツは少し照れ臭そうに笑った。
そのあと、残しわずかの食事をクラウドが終えたタイミングで、バッツがもう一度声をかけてきた。
「なあクラウド、今日はおれの部屋で一緒に寝ないか?」
「……そうだな、はやく寝ると言ったしな」
「クラウドはいつも遅いんだって。最近は海外のレースとかもないだろ? なにしてるんだ?」
「……バイト、とか」
「バイト?」
「ゲームだ。今日は行かない」
「そっか。まあ、ほどほどにな」
「ああ。わるいが、明日は起こしてくれ」
「わかった」
そうして頷きあった後、二人揃って手を合わせ「ごちそうさま」とあいさつをした。