宵闇華火
「今度の土曜日、花火見に行こうぜ」
バッツからその言葉が出たのは、陽が落ちても蒸し暑いなか汗だくになって帰宅したクラウドが、バッツが用意してくれていた風呂に入ってさっぱりし、これまたバッツが用意してくれていた夕食の棒棒鶏を一気に掴んで口に入れたところだった。
手元を見るために少し俯いていた顔を上げれば、バッツは蛍光灯の光を浴びてつやつやと輝く炊きたてのご飯の塊を食べるべく、大きく口を開けていた。
二人で囲むこの食卓は朝であればたいていラジオがついているが、夕飯時はテレビもラジオもつけない。だから、そう一言告げたバッツがクラウドの答えを待つように沈黙してしまえば、エアコンの吐息だとか、冷蔵庫の唸り声だとかが、ささやかに主張を始める空間となる。それをかみ砕くように、ご飯を口に入れたバッツと、棒棒鶏を口に入れたままのクラウドの湿った咀嚼音だけが、しばらくの間、二人の間を行き交っている。
口の中に残っていた鶏肉のまろやかなうまみを、ごまだれと一緒に名残惜しく喉へと滑り落としてからようやく、クラウドは疑問を口にした。
「どこに?」
「あっちにでかい川があるだろ。あそこでやる奴」
「本気か?」
バッツが行儀悪く箸で指した方にある川に思い至って、クラウドは思わず問いを重ねた。週末にあの川で行われる花火といえば、全国から人が集まり、テレビ中継まである、とても大規模なものだ。会場はたしか何か所かに別れていたはずだが、観光地も近いため、ものすごい人数が押し寄せるのだと聞いたことがある。
人ごみは苦手だ。中継だってあるのだから、テレビで見ればいいんじゃないのか。
そう思ったけれど声にはせず、クラウドは箸を持ったまま胡乱な目でバッツを見る。それだけで言わなかったことまでしっかりと把握したらしいバッツは、それでも楽しそうな色をその茶色の目から消さないままに「本気だぞ」と答えて、手に持っていた麦茶を一気に呷った。
「ここから近くでやる割には、いままで一度も行ったことなかっただろ?」
バッツの言葉に頷きで返し、クラウドは卵スープを手に取った。確か去年も、テレビ中継なんて――むしろテレビすら一度もつけなかったが、いつか見た戦争映画の大砲のような重低音を、二人この部屋で聞いていたような気がする。
「じいさんが出店の手伝いに行くんだってさ。花火見に行くなら買いに来いって」
「手伝え、じゃないのか」
「そこはおれの必死の抵抗の賜物だぜ」
バッツの言う「じいさん」とは、彼のバイト先である酒屋の店長である。たしかそこそこ老齢のはずだ。手伝いならどちらかと言えば駆り出されるのはバッツの方じゃないかと思ってそのまま口にすれば、にやりと笑って返された。なるほど、手伝わないならせめて利益を落とせと言うわけか。ファリスもいたから危なかったぜーと続けてごちたバッツに、かなりの激戦をしたのだろうと推測する。
そこまでして、俺と行きたいと思ってくれたのだろうか。それは、とてもこそばゆい。
「わかった。土曜日だな」
「おう」
首肯すれば、バッツはニッと笑って頷いた。自然とクラウドの顔もほころぶ。
「おれ、二時までバイトだから、夕方ごろ出かけようぜ」
そのまま何の気なしに告げたであろう予定に、青椒肉絲へと伸ばしていたクラウドの箸がぴたりと止まった。
「……おまえ、大丈夫なのか」
眉根を寄せて問いかける。
バッツのバイトは酒屋である。その酒屋には店頭販売もあるが、どちらかと言えばあの店は配達が主軸の店だ。バッツは店番もしているらしいが、基本的に配達が仕事だと聞いている。店に立ち寄るばかりのクラウドは知らないが、あの店を懇意にしている配達客は多いらしい。
そして、夏は書き入れ時だ。バッツもここ最近いつもより長いシフトに入っていたり、普段なら休みにしている木曜日にバイトに駆り出されていたり、週末にぐったりしていたりするのを目の当たりにしている。ちらりと目線を横へ逸らせば、台所のカウンターを超えた先、冷蔵庫に貼り付けられたカレンダーには、バッツの字で今週も毎日バイトだと記されている。熟考しているうちに思い出したが、確か当の花火大会をやるあたりは、あの酒屋の配達範囲であったはずだ。大イベント当日ともなれば、配達の量は生半可ではないだろう。猛暑の中の体力仕事だ、疲れがたまるであろうことは、想像に難くない。
それでも。
「大丈夫だって! 楽しみだな!」
クラウドの心配など露も気にせずバッツは笑うのだ。
花火にも負けないであろう笑顔が心底嬉しそうだったので、今更やめようとも言いだせず、(まあ、こいつのことだから大丈夫なんだろう)と根拠もない言葉で不安へと誘導しようとする思考を無理矢理納得させて、クラウドは止めていた箸を今度こそ青椒肉絲へと伸ばした。
――これが五日前、週が明けたばかりの月曜日の夜の話だ。
そして今日。
イベント当日だと言うのに、前日きっちり夜更かしをした上に惰眠を貪ったクラウドが、ようやく起きた午後二時半過ぎ。軽く身支度を整えてリビングへと続く扉を開けると、目の前に足が見えた。
(やっぱりこうなるか……)
ソファーの上から覗き込めば、床に伸びているバッツがいた。どうやらエアコンをつけたところで力尽きたようだ。近くにリモコンが転がっている。
疲れているならリビングまで来ないで手前にある自分の部屋で眠ればいいものを、バッツはフローリングの床に体を投げ出して、ぴくりともしない。この夏になって何度か見た光景だ。何度言っても消えないこの姿は、おそらくクラウドが起きた時のためを思っての行動なのだろう。クーラーをいれておくことしかり、姿を見せることしかり。甘やかされてばかりの自分が、情けないと思う。
バッツがなにかとクラウドを甘やかしているのに、同じくらいのことができているだろうか、と考えていると、ふと、脇に転がっていた携帯に目が留まった。わからないことがあればクラウドに聞けるから、とバッツがクラウドと同じ機種に決めた板を摘み上げる。同じ機種なので、この携帯がロックを外さなくてもアラームの鳴動時刻を変更できることを、クラウドは知っている。
慣れた手つきでアプリを開くと、バッツは三十分後には起きるつもりのようだった。早すぎる。あと二時間……いや、三時間ぐらい遅くても平気だろうと、慈悲なく鳴動時間をずらして保存し、元の場所へと戻す。
さて、出発をギリギリにするのであれば、ある程度はクラウドが下調べをしておいた方がいい。その前に、とりあえずバッツの体が冷えすぎないように、なにか掛けるものを用意することから始めよう、クラウドはささやかにその髪を撫でた後、出て来たばかりの扉へと足を向けた。
食事やら下調べやらをしているうちに、三時間が経過したらしい。
何度か寝返りを打ったものの結局一度も目覚めなかったバッツの横で、ゆっくりと買ったまま積んでいたバイク雑誌を読んでいたクラウドはふと顔を上げた。
すると、それを見計らったかのように、バッツのわきに転がしたままだった携帯の画面が光った。機械が得意でないバッツのことだから普通のアラーム音が流れ始めるだろうと思っていたクラウドは、唐突に始まった激しいギターとドラムに、耳を疑った。
(ヘビメタ……だと……?)
思わず手を止めて、咆哮のような歌声が流れ始めた携帯を眺める。よく聞けばなるほど、流れているメロディはバッツが好きなアニメのテーマソングの流れを汲んでいた。どうやら別バージョンのようだ。こんな曲もあるのか。
ギターの泣きが入ったところで、のそり、とバッツの手が動いた。ためらいなく伸びたその手が、がっちりと携帯を掴むと、「チョコボ!」というシャウトを残して音楽が止まる。
「……おはよう」
「おはようクラウド……。あれ?」
身を起こし欠伸をしていたバッツが、目を見開いた。その視線はクラウドを超えた先、壁にかかっている時計に注がれている。
「え? もう六時前!? なんで!?」
「俺がいじった」
「おい」
「今から行ったって花火には間に合う。あんなに早く起きなくてもいいだろう」
「まあ、うん、そうなんだけどさ。近くには出店がいっぱい出るっていうし、色々見たいな思ってたんだって」
「そうか」
「でも、やっぱ長く寝た方が疲れが取れるな。わざわざ肌掛け用意してくれてありがとな、クラウド」
「…………。三十分後のバスに乗るぞ。準備しろ」
「へっ!? わかった、すぐ用意するな」
ぶっきらぼうにクラウドが宣言すると、バッツは慌てた様子で立ち上がった。
財布、携帯、タオル、替えのシャツ、折り畳み傘、ペットボトル、と用意したものをバッツが指さし確認している。その横で、クラウドは下調べの際に印刷した会場周辺地図と一緒に部屋から持ち出してきた小瓶を開けて、中身を一気に呷った。どろりと甘い液体が舌を舐めて流れていくのに顔をしかめる。出来れば飲みたくなかったが、今日ばかりは仕方ない。
それを目聡く見咎めたバッツが首をかしげた。
「クラウドそれ、なに飲んでるんだ?」
「酔い止め」
「え?」
バッツが珍しいものでも見るかのように、目を瞬かせた。
「近くまでバイクで行けばいいだろ?」
「どこに置くんだ」
「じいさんとこまで持ってけば預かってくれるぜ? たぶん」
「見ろ」
クラウドは楽観的なバッツの眼前に、見せつけるように地図を突き出した。
「会場周辺は総じて車両通行禁止だ。出店はどこだ」
「ええと、たしかここらへん」
薄い紙の裏から、バッツが指を置いた位置を見る。会場の近くだが、ここから向かうには川を超える必要がある場所だった。
「外側からぐるりと回っていくのもありだが、同じことを考えている奴ばかりだろうから混むぞ」
「あー……。まあ、そうだな」
「川を渡らないとならないのは同じだが、近くまでバスで一本なんだ。三十分ぐらい俺が耐えればいいだけの話だ」
「わかった」
「おまえこそ、なんで折り畳み傘なんて用意しているんだ。天気も晴れだし、必要ないだろう」
今度はクラウドが、バッツが玄関から持ち出してきた折り畳み傘を指差す。
「そう思うんだけど、今日配達に行った店で昨年だか一昨年だかの大会が、突然のゲリラ豪雨降って中止になった、って話になってさ。ああそう言うこともあるんだな、って思ったから念のため一本だけ」
そう言う理由なら、とクラウドは納得した。
一通り用意したものを、大きめの黒いメッセンジャーバッグに詰めていく。バッツに負担をかけたくなかったクラウドは、荷物持ちとしてそれを引き受けた。バッツはバッツで、チョークバッグに財布と携帯をぽいぽいと投げ込んだ。
「んじゃ、いくか」
「ああ」
リビングのカーテンをざっと閉めたバッツに答えて、クラウドは台所の電気を消した。
バスのタラップを降りた瞬間、むせ返るような熱気がクラウドを包んだ。それは日が落ちても決して落ちることのない気温のせいだけではなく。
「すごい人だな……クラウド平気か?」
「ああ」
頷いたものの、酔い止めを飲んだはずなのに、そして既にバスから降りているのに、ぐらぐらと揺れている感触が残っている気がする。周囲をひしめき合う人の波に流されながら、クラウドは気分転換にと早速ペットボトルの水を飲んだ。胃の形を知らしめるように、冷たい感触が体の中に広がっていく。そうして不快感が洗い流されると、体の中がやけに空っぽになっている気がした。
「バッツ、腹が減った」
「え? 昼飯は?」
「ちゃんと食べた」
それでもバス移動を見越して少し量を減らしたので、足りないと言えば足りないのだった。
「クラウド、じいさんとこ行くまで我慢できるか? たしか焼きそば屋だったから」
「……わかった」
バッツが目的地としている出店は、バスを降りたばかりのこの位置から、大通りを抜けて橋を超えた先にある。少し時間がかかるだろうが仕方がない。とりあえずは道ぞい、人の流れに逆らわずに進めばいいだろうということで歩き始めた二人は、めったにない光景を目の当たりにしていた。
「なるほど、道に陣取って見るんだな。だから通行止めにするのか」
「そうみたいだな」
道路の中央、車道に敷かれた大量のブルーシートが、本当の川のように道路を埋め尽くしている。その上では、このイベントを楽しむ人々が、酒を飲んだり談笑したりして、花火の開始を待ちわびていた。
「早い者勝ちなのか? これ」
「さあな。朝一からブルーシートは置けないだろうし、そうなんじゃないか」
「来年は場所とり参戦してみるか?」
「それは来年考えればいいだろう」
その様子を横に見ながら、二人は広い歩道をひたすら歩いていたが、いざ、橋が見えてきたという段になって、クラウドは脇道へと足を向けた。
「バッツ、こっちだ」
「え?」
「橋は一方通行になってるんだ。ここを渡るには、隣の道にできる列に並ぶ必要がある」
「へえ。――って、すっげえ人なんだけど」
大通りの一つ横、斜めから橋へとつながっている道へ出る。すると、そこには二人と同じく橋を渡ろうとする人々が、道路の先端からクラウドたちのいる位置の近くまでを埋め尽くしていた。
「川でやっているから、橋が花火を見る絶好のスポットなんだ。だから、公平を期すためにこういう形なんだろう」
「これ通るのにどんくらいかかるのかなあ」
「後回しにするか?」
「いや、いい。先に向こうに行っちまいたい」
「そうか」
花火はまだ始まっていない上、終わるまで一時間以上あるはずだから、そこまで急がなくてもいいのではないかと思いながらも、バッツの意志が固そうだと悟ったクラウドは特に問い返すようなことはせずに待機列へと向かった。
列がほとんど動かないまましばらく並んでいると、突然あたりの雑音をかき消し、耳をつんざくような音が一つ、鼓膜を震わせた。
「あ!」
「始まったみたいだな」
反射で空を見上げた二人は、視界を塞ぐビルの向こう、いつの間にかすっかり暗くなっていた夜空に、黄から赤のグラデーションを描いた花の咲く姿が、一部分だけ見えた。それはすぐに散ってしまったが、すぐさま続いた音と共に、大小さまざま、色とりどりの花が開き始める。
「ここからだとよく見えないな」
背伸びをしたバッツがぼやく。打ち上げ場所が近すぎるせいで、ビルに阻まれて花火は先端部分だったり半分だったりと、所々が欠けてしまう。
「橋まで行ければ見えるはずだ。……動くぞ」
花火の音に対抗するように、ホイッスルの音が聞こえる。どうやら移動が始まったようだ。かなりの人数がいたはずの塊が、どんどんと橋へと吸い込まれていく。この様子だと、思ったよりも時間がかからずに橋へとたどり着けそうで、内心焦りを感じていたクラウドは、そっと胸をなでおろした。
そして、ようやく二人が乗り込める番となり、意気揚々と橋に足を踏み入れれば、途端に開けた視界、明かりを落とした川の上に花畑が出現した。
「すげえ」
轟々と砲撃のような音が止まないなかで、小さくバッツが呟くのを、クラウドは確かに聞いた。呆然と右側を見つめるバッツとは逆方向を見ながら応える。
「ああ。ここからだと、どっちもよく見えるな」
「あ、反対側でもやってるのか」
「打ち上げ場所が二つあって、大会中はその二か所からひたすら花火が打ち上がるらしい。この橋はちょうど真ん中になるな」
「へえ」
感心したように見ていた二人の後ろから、「立ち止まらないでください!」と交通整理に駆り出されたのであろう警官が叫ぶ声が聞こえる。ちらと見れば、次の一群がすぐ近くまで来ているようだった。咎められないようにとゆっくり歩きながら、クラウドは取り出した携帯のカメラで、週明けに会社で報告するための写真を何枚か撮った。
そうしてゆっくりと橋を渡りきってしまえば、周囲に並ぶビルの隙間に、花火は再び隠れてしまった。
「なんか、あっという間だったなあ」
「もっと見たければ、両隣の橋が逆方向への一方通行だったはずだ。そうして回れば何度か見ることはできるはずだ」
行くか? と問いかけたクラウドに、バッツは少し考えるそぶりを見せた後、首を横に振った。
「先にじいさんのところ行こうぜ。ここからなら道分かるからさ」
「わかった。案内してくれ」
「了解」
橋を渡り終えて三々五々に別れる人波の中、バッツは「こっちだ」と、慣れた足取りで歩き出した。
花火が咲き続ける川に並行して通る道を、数分ほど歩いただろうか。
道端に並んでいる出店のなかにあった「やきそば」と書かれたのぼりの隣に、見知ったピンクブロンドの少女がたたずむのを認めたバッツが、大声を上げた。
「レナ! 遊びに来たぜ」
「いらっしゃい、バッツ。クラウドも」
振り返ったレナが、豪奢な花火とはまた違う、柔らかく開く花のような微笑みを浮かべた。
「やきそば、おひとついいかしら?」
「二つくれるか?」
「ふふ、ありがとう」
ある程度決まったやり取りをしていると、レナたちとは別にこの店を手伝っているのだろう青年が、出来立ての焼きそばを二つ、プラスチック容器に入れた。レナがそれに割り箸を挟み、バッツへと差し出した。
「はい、二つで八百円ね」
「千円でいいか? で、じいさんは?」
「シドとお酒の買い出しに行っちゃったわ。でも、もうすぐ戻ってくると思うわ。――おつり二百円、確認してね」
「大丈夫だ、ありがとな。いつ戻ってくるか、わかるか?」
「焼きそばを食べているうちに戻ってくるんじゃないかしら。裏で食べていていいから、ゆっくりしていてね」
好意を有難く受け取って、クラウドたちは出店の後ろ、マンションの駐車場スペースになっている場所へと滑り込んだ。そこにはレジャー用の折りたたみ椅子がいくつか設置されていて、バッツのバイト仲間であるファリスと、店長の孫娘であるクルル、そしてその級友のミドがそこに座っていた。
「バッツ! クラウドもこんばんは!」
「こんばんは」
「おう、邪魔するぜ」
朗らかにあいさつをして、バッツが空いている椅子に腰を下ろす。それに続いてクラウドが椅子に座れば、隣になったファリスが、ほのかに赤くなった顔ににやにやと笑みを浮かべながら、クラウドに缶ビールを差し出してきた。
「おーう、来たな色男。一杯どうだ? 今日はバイクじゃねえんだろ?」
「断る」
「なんだ、おれの酒が飲めねえってのか」
「服薬中だ」
「はあ? あーなるほど」
怪訝な顔は一瞬だけ。彼女はすぐにクラウドの事情を察して笑みを取り戻す。
「へたれめ」
バッツでさえめったに勝てない彼女との舌戦を開始する気はないので、口を噤む。賢明な判断をしたはずのクラウドに笑みを深めながらも、ファリスは持っていた缶ビールを自分の口へと運んだ。
その様子に安堵して焼きそばをかきこみ始めたクラウドの横では、はちきれんばかりに焼きそばをほおばったバッツには、クルルたちが話しかけているようだった。
「そんな慌てなくたって、花火あと一時間くらいやるよ?」
「あー、うん、まあ、そうなんだけどさ。っと、そう言えば、今日オニオンもいないんだな。一緒じゃないのか?」
「オニオンはね、ティナおねえちゃんたちといるよ」
「へえ、すみにおけないな、あいつも」
「ヴァンもいたよ」
「そうなのか」
そりゃ残念だな、とバッツが笑うのに合わせて、クラウドも苦笑する。ここにいない少年、クルルの同級生であるオニオンは、彼の家の近所に住んでいるティナという少女に絶賛片思い中だった。何度かアプローチをかけているらしいが、ティナ本人が恋愛感情に疎いのと、同じく近所に住んでいて、二人となにかと行動を共にするヴァンという青年のマイペースに巻き込まれて、なかなか進展しないというのが、ここにいる皆の共通認識だ。今日もせっかくの一大イベントだと言うのに、どうやら結果はいつもと同じところに着地しそうだ。けれど、ティナと一緒になってうわついているであろうオニオンと、どこかのんびりしているティナの二人だけよりも、いつもマイペースだが案外しっかりもしているヴァンが一緒の方が、この人ごみの中であれば安心かもしれない。
「バッツ」
話が途切れたタイミングを見計らってか、低く声がかかった。振り返るとそこに、バッツのバイト先の店長、ガラフの姿があった。
「すまんの、買い出しに行ったら入れ違いになったようじゃな」
「メシ食ってたし問題ないぜ。で、じいさん」
「せっかちな奴じゃの。ほれ、約束のブツじゃ。なくすでないぞ」
「わかってる。ありがとな、じいさん」
大仰に笑いながら、ガラフが手に持っていいたなにかをバッツの手の中に落とした。クラウドがその正体を確かめる前に、彼はそれを隠すように握ってしまう。
「なんだ?」
「行けばわかるぜ」
バッツは立ち上がって容器を片付けると、とっとと出店を離れ歩き出していく。慌てて追いつつ、振り返り軽く会釈をすれば、二人を見ていた面々が手を振ったり頭を下げたりと、思い思いの返事をしてくれていた。それを見届けてから、クラウドはバッツを追いかける。
気づけば先程から鳴り続けていたはずの花火の音が消えていた。たしか、花火は数分ごとに別の演目になるのだと調べた時に書いてあったから、ちょうど切り替わるタイミングなのだろう。
それでもがやがやと人の細波が消えない中を、クラウドはバッツを追って歩き続けた。
バッツが足を止めたのは、なんの変哲もないマンションのふもとだった。
「ここだ」
バッツは、クラウドが白いタイルの壁に埋め込まれたビル名を読む前に、その手を引いて堂々と中に入っていく。
「おい、勝手に入っていいのか」
「大丈夫。許可もらってるから。ほら」
バッツは慣れた手つきで、入口を閉ざすガラスの扉の横に設置されたロックに鍵を差し込んだ。どうやらその鍵が、先程バッツがガラフから預かったもののようだった。
バッツが手をひねると同時に、ガラスの扉が開く。すると、それを待っていたかのように大きい音が響き、ビル全体が震えた。どうやら、花火大会が次の演目に入ったようだ。
「こっちだ」
大音声を気にすることなくバッツが向かったのはエレベーターだった。ちょうど一階に止まっていたそれに乗り込むと、バッツは躊躇うことなく最上階のボタンを押した。ぐっと押し付けるような重みがかかると同時に、箱が上へ向けて動き出す。
巨人がこの建物に拳を打ち付けてでもいるような、音と振動が止むことなく続いている中を、狭いエレベーターが昇っていく。上へ向かえば向かうほど、音も振動も強くなっていくような心地がする。
不意に、湿った感触がクラウドの手を掴んだ。震えている。ちらりと横目で見ると、バッツは期待と不安の入り混じった表情で、階数表示が増えていく様を見つめていた。気づかれないように視線を戻したクラウドは、微かに震えるその手を、しっかりと握り返した。
そうしているうちに、軽い音と圧迫感を残してエレベーターが止まった。扉が開くと同時に外へ出たバッツは、すぐ隣にあった扉を開いた。その先には階段があって、クラウドはバッツにつれられるままに、上へと向かって進んでいく。
一階分――そんなに長くない距離を進んだ先、階段の終着点には入口と同じ鉄扉があった。
「屋上?」
「そう。――開いたぜ」
繋がっていないバッツの手元から、カチャリというあっけない音がやけに大きく耳に届く。そして。
開け放たれた扉の向こうで、暗闇とは言い難い都会の夜空を埋め尽くさんとばかりに、轟音と共に大輪の花々が咲き乱れた。
「すごいな」
「な。ここ、じいさんの知り合いの人のビルでさ。ちょっとだけなら大丈夫、って立ち入りの許可をもらったんだ。で、見るなら千発以上打ち上げられる最初の方がいいって言われててさ」
「急いでいたのは、それが理由か」
「うん。なんかクラウドも焦らせちまったみたいで、ごめん」
「別にいい。確かに、めったに体験できないことだしな」
「よかった。なあ、もう少しあっちに行くか?」
「いや、ここでいい」
屋上の入口で立ち止まったまま、二人は視界に収まりきらないほどに次々と煌めく花火を見ていた。
「綺麗だな。本当に来た甲斐があった」
花火に目を奪われたままそう呟いたバッツの、かすかに開いた唇を、ちらちらと光を反射して輝く目を、クラウドはいつのまにか花火の存在を忘れたように、じっとみつめていた。
この花火を見せるために、バッツは最初に話を切り出してきたあの日から駆けまわっていたのだろう。彼の好意に応えたいと衝動が湧きあがる。それは、花火の発射音につられるままに破裂して、繋がったままだったバッツの手を思い切り引いた。
「へっ? ――ッ」
突然手を引かれたバッツが、重心が崩れた体制のままクラウドを見た。その瞬間を狙いすまして、クラウドは顔を寄せて目を閉じた。
甲高い音が高く遠く飛んでいくと同時に、少し詰めた吐息が重なる。目を閉じて数秒。全身に弾ける音と共に、瞼を通り越えて咲く花火が眩しい。
かき消されそうな小さな音を残して、クラウドはようやく唇を離す。目を開くと、ずっと見開いたままだっただろう大きな瞳の中で、自分がふっと表情を緩ませたのが見えた。そのまま見つめていると、花火の光のせいでなく、バッツの顔が赤く染まっていった。
「どでかい花火を打ち込まれた気分だ」
「それはよかった」
「いきなりすぎんだろ、クラウド……」
空気の抜けた風船のように、バッツがその場にしゃがみ込んだ。片手で覆われた顔は熟した林檎のように、すっかり赤く染まっている。それがとても嬉しくて、クラウドは思わず笑い声を零した。
「なあ、クラウド」
なにかを決意したのか、バッツがすっくと立ち上がった。そして、今度は彼から、顔を近づけてきた。クラウドはそれ拒むことなく受け入れる。空いていた手を腰に回せば、バッツが脇から差し込んできた腕が、クラウドを引き寄せた。跳ねる音は心臓だろうかそれとも花火だろうか。両方だろう、とちらりと思う。
顔を離して見詰め合えば、ちかちかと花火に輝く顔が、どちらともなく綻ぶ。
そんな二人を祝福するかのように、鳴りやまない花火が、途切れることなく宵闇に咲き乱れ続けていた。