君を起こさないように

 ただいま、と声をかけて玄関をくぐるも、家の中は静まりかえったままだった。
 首をかしげながらバッツは靴を放るように脱いで、すぐにまずいと気がついて靴を直した。キッチンへ向かう途中でクラウドの部屋の前を通る時、声をかけようか少し迷って、けれど結局声はかけずにそのまま素通りする。バイト帰りに買ってきた食品を片づけたかったのもあれば、クラウドが寝ているなら起こしたくないと思ったのだ。そんな考えが、リビングへと続く扉を開いたところでバッツの動きを止めた。
 黒い革張りのソファのはしっこに、見慣れた金髪の、それが少し乱れたままの後頭部が見える。
(クラウド)
 声をかけなかったのは、起きているには深く俯きすぎていることに気づいたからだ。バッツの帰還にも反応しなかった彼は、たぶん、間違いなく、眠っている。
 がさがさとうるさい買い物袋を持ったまま近くに行っては起こしてしまうので、バッツはまずキッチンへと向かった。すぐにしまっておかないとならない食材だけ取り急ぎ冷蔵庫へと放り込む。なんとなしにみた流しに空っぽのお皿が水に浸かっているのを見て相好を崩す。ちゃんとおいていったメモを見てくれたようだ。
 残りは全部後回しにして、バッツは一度キッチンを出て洗面所に向い手洗いとうがいをする。水の音は意外と大きく響くから、今日はキッチンではしない。そして、自分の部屋に立ち寄り、しまってあった薄手の掛布団を引っ張り出した。淡い黄色地に大きなチョコボの顔が描かれているもので、夏の間をずっと共にしていたものだ。それを抱えてバッツはリビングへと引き返した。
 今度はまっすぐクラウドの元へ向かい、こっそりと彼の正面に座り込む。
 つんつんの髪はクラウドの顔を隠さない。力の抜けた穏やかな表情に、バッツは自分の表情が緩むのを感じる。少し視線を下げれば、スラックス姿の彼の膝には開いたままのバイク雑誌があった。なるほど、読んでいるうちに眠ってしまったのだろう。
 バッツは雑誌の上に乗っていたクラウドの手を恭しく手に取った。そこから伝わる彼のぬくもりに少し鼓動を早くしながら、もう片方の手で雑誌を抜く。クラウドを起こさないように、雑誌を折らないように。慎重に行動したかいあってか、クラウドは静かな寝息をたてたままだ。
(疲れてるのかな……)
 まるで起きる気配のない彼に、バッツは顔を曇らせた。最近クラウドは帰りが遅い。朝起きるのも遅くなってきている。食事も少し量が減っている。クラウドが体調を崩さないようにと色々頑張っているつもりだけど、うまくいっているのかが分からなくて少し怖い。
 離しがたかった手をようやくほどいたバッツは、ゆっくりと毛布をクラウドへ掛けてやった。わずかに彼の表情がゆるんだ気がした。それを欲だと自分を戒める。けれど耐えられずに、バッツはのぞき込んでいた彼の頬へと手を伸ばした。触れるか触れないかのところで手を止める。伸ばした指を阻むように、吹き込んでいた風が彼の体をなでたことに気づいたからだ。
 最近は風も寒くなってきた。窓はいつから開いていたんだろう。日が落ちるのも早くなったから、閉めないと寒くなってしまう。
 バッツはすぐに立ち上がり窓へと向かった。少し覗いた空は、傾き始めた太陽に連れられてだんだんと色を変えつつある。再び吹き込もうとした風を遮断するように、からからと鳴るサッシの音を体で受け止めながら、バッツは窓を閉じた。振り向いたがクラウドの姿はやっぱり動いていない。
(さて、どうしよう)
 バッツは考え込んだ。彼の寝姿を見る前までは、クラウドとたわいない会話でもしながら夕飯の準備をするつもりだったのだけれど、クラウドがここで寝ているなら、夕飯の準備すら彼を起こしそうだからしたくない。かといって、自分の部屋やここで本を読む気分でもない。出かけるのなんてもっと違う。それよりも、やりたいことがひとつだけある。
(少しくらいなら、いいよな)
 誰にも聞かれない言い訳を心の中でして、バッツはいそいそと毛布の中、クラウドの隣へと潜り込んだ。途端に彼のぬくもりに包まれて、やっぱりここにいたいなあ、とどうしようもなく思った。
 その心のままバッツはクラウドにもう少しだけすり寄ると、祈るように目を閉じた。

2014-11-10
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