風が凪ぐ場所
やかましく鳴り響く携帯のアラーム音に、クラウドの意識が浮き上がった。
耳障りなその音を止めようと、サイドボードへ手を伸ばす。しかし、たどり着いた手はあるはずの感触に当たらない。そこでようやく、鳴り続いている電子音がいつもとは違う位置から耳に届いていることに気が付いた。クラウドは力の入らない腕でうつ伏せになっていた体を起こして、音源の方へと顔を向けた。ろくに光がさしていない部屋の中で目を凝らすと、ベッドから離れた位置、入口の横にある机の上で携帯が震えている。
半分寝ぼけたまま、クラウドはベッドから降りて机へと足を向けた。数歩もかからずたどり着き、アラームを止める。表示されている時刻は六時十二分。いつもの起床時間よりも一時間以上早い。なぜこんなに早く目覚ましをかけたのだったかとぼんやりと考えた疑問に、やっと回転を始めた頭が答えを思い出した。
今日はバッツと遠くまで出かけるのだ。だから早く起きた。起こそうかと言ってくれたバッツの申し出を断った手前、確実に起きるためにここに携帯を置いたのだ。
欠伸を一つして、携帯を再び机の上に戻した。とりあえずトイレへ行ってから、顔を洗おう。ぼんやりとしたまま部屋の扉を開けると、生暖かい空気がクラウドの体へとまとわりついた。最近は毎日のごとく熱帯夜のため、冷房の効かない廊下は部屋との温度差がそれなりにある。
トイレの扉を開く前に、クラウドはふと顔を左へと向けた。廊下とリビングダイニングを仕切る扉の向こうから、光が漏れている。
バッツはもう起きていて、あれこれと用意をしているのだろう。
軽く支度を済ませてリビングダイニングへと続く扉を開いたクラウドは、足を踏み入れてすぐに右を向いた。視線の先にあるキッチンに、予想通りバッツがいた。
「おはよう」
「おはようクラウド」
普段と変わらない声で返された挨拶を聞いて、クラウドは拍子抜けしたような、安堵したような心持ちになった。すでに鍋へと目線を落としているバッツは、そんなクラウドの様子に気づいていない。クラウドもバッツから視線を外して、ダイニングに置かれたテーブルへと向かった。椅子に座ると、テーブルの端に置かれたラジオから落ち着いた男の声が聞こえてくる。
『六時半になりました。おはようございます、レオンです。バラムスタジオからお送りするラジオ番組・ジャンクション。お時間の許す限り、お付き合いください。本日最初の曲は――』
紹介と共に始まった曲を聞き流しながら、クラウドは食卓に用意されていたカフェオレを口に含んだ。テーブルにはすでにサラダとオムレツが置いてあり、朝食の準備がほぼできている。じゃあバッツは何を作っているんだと思い、カップを持ったままキッチンへと視線を向けた。すると、クラウドの動きに気付いたらしいバッツが、ああ、と言って箸を持った手を持ち上げた。箸の先には魚の切り身が挟まれている。
「これは昼飯。向こうにコンビニなんてないからさ」
バッツの言葉に、そういえばそうだったかもしれない、とクラウドはまだ完全には覚めていない頭で考える。改めて見れば、カウンターの上には卵焼きや唐揚げが入れられたプラスチック容器がいくつか置かれていた。
カフェオレを飲んだからか、クラウドの腹が小さく鳴って空腹を訴えた。だが、バッツが座らなければ食べられない。
「バッツ、飯を食いたい」
「さっきトースター動かしたから、もうちょい待ってろ」
子供に言い聞かせるような声音で言われた台詞に、クラウドは仕方ないとばかりに頷いた。キッチンから視線を外すと、座っている位置の関係上、リビングが目に入る。中央に置かれている折り畳み式のテーブルの上には、今日持っていく荷物がいくつか置かれている。雑巾にごみ袋、マッチ、線香。花は現地の花屋に頼んであると言っていた。小さい酒瓶は、バッツがバイトをしている酒屋で手に入れたものだ。なんでも、酒屋の主人から持っていけと渡されたらしい。
「そうだ、頼みたいことがあるんだけど」
掛けられた声にクラウドが視線をキッチンへと戻すと、バッツがきまりが悪そうに頬をかいていた。
「今日の『チョコボ☆アドベンチャー』、録画してくれないか?」
どうもレコーダーの使い方がおぼえられなくて、と付け加えたバッツに、クラウドは一言で答えた。
「してある」
「……へ?」
「お前がそう言うと思って、昨日しておいた」
クラウドがにべもなく告げると、バッツはきょとんと眼を瞬かせた後、明るい笑顔を見せた。
「ありがとな、クラウド」
今日初めて見たバッツの笑顔に、クラウドも少しだけ表情を緩める。そこに、ちょうどいいタイミングで、オーブントースターが終了音を響かせた。
焼きたてのパンを乗せた皿をテーブルへと持ってきたバッツが、クラウドの向かい側の席へ座った。いただきますと同時に告げて、食事が始まる。トーストにバターを塗りながら、クラウドはバッツに話しかけた。
「飯を食い終わったら、レンタカーを取りに行ってくる」
「わかった。車借りたら連絡くれよな」
「ああ」
バッツの返答に頷いて、クラウドはトーストをかじった。静かになった食卓に、ラジオが『今日は全国的にいい天気が続くでしょう』と告げた。
高速と一般道を車で走って四時間強。目的地である山奥の小さな寺院へとたどり着いたころには、太陽はすでに空高く輝いていた。入口の近くに申し訳程度に作られた駐車場に車を停める。クラウドが外へと出ると、熱気が全身に降り注いだ。高地だから涼しいとバッツは言うが、冷房の効いていた車内と比べるとどうしても暑い。さっそく浮かんだ汗を、手でぬぐった。
先に車から降りていたバッツは、花束と細かい荷物を持って、寺院へと向かっている。クラウドはラゲージから残りの荷物を取り出すと、バッツを追って歩き出した。
小さな寺院の本堂を二人で参拝した後、道具をいくつか借りて、奥にある小さな墓地へと移動する。迷いなく進むバッツの後ろを、クラウドは追い越さないようについていく。一歩進むたびに敷かれた砂利が大きな音を立てた。季節柄人が来る場所であるはずだが、ここは人の気配はまるでなく、とても静かだった。この辺りは陸の孤島みたいなところなんだ、とバッツが言っていたのを思い出す。
一際大きな足音を立てて、バッツの動きが止まった。クラウドも歩みを止めた。そこには他の墓と同じか、それより少し小さい墓石が立っている。
――バッツの両親の墓だ。
うっすらと記憶にある花や線香が朽ちたまま残っており、墓石もその周辺も少し汚れている。自分たちしか訪れる人がいないのだから、こうなっているのは予測していた。
バッツはしばらく墓とその周辺を無言で見つめた後、クラウドの方へと振り返った。柔らかいまなざしをしていた。
「じゃ、始めるか。クラウド、掃き掃除頼むな」
頷いて、クラウドは借りてきた箒を手に取った。指示されるままに、周辺の掃除をする。蝉の声と、箒がこすれる音が大きく聞こえた。ちらりとバッツを見ると、彼は墓石を雑巾で丁寧に拭いていた。
クラウドが初めてここを訪れた時も、バッツは同じような顔をして墓を掃除していたことを思い出す。彼の浮かべた表情に、クラウドは思わずもっと頻繁に来るようにするかとバッツに聞いた。すると、父親と各地を巡っていたときも一人で旅暮らししていたときもほとんど戻ってこなかったからいいんだ、と彼は答えた。バッツの中の大事な部分を踏みにじるような気がしたから、今住んでいるところの近くに移すか、とは聞けなかった。
首にかけたタオルで汗をぬぐいながら、しばらく無言で掃き掃除をしていると、バッツから声がかかった。
「クラウド、水分取らないとぶっ倒れるぞ」
顔をあげると、いつの間にか近くに来ていたバッツが、スポーツドリンクのペットボトルを差し出してきていた。ありがたく受け取って、クラウドは中身を煽った。勢いよく飲んで、自分がいかに消耗しているかを知る。バッツを見れば、同じスポーツドリンクを飲んでいるが、表情には余裕があった。デスクワークのクラウドと違い、普段からバイトで体を動かしているからだろう。
小休憩を挟みつつ掃除を終わらせたころには、真上にあった太陽が少し傾き、雲も浮かぶ位置を変えていた。
綺麗になった墓石を入れ替えられた花が飾っている。開けると持って帰れなくなるから、と申し訳なさそうに言って、バッツが持ってきた酒瓶と和菓子をそのまま墓前に供えた。バッツは次にロウソクに火をつけ、線香の束をそこへかざした。白い煙が立ち上がる。燃え移った炎を手で消したバッツが、クラウドに線香を半分差し出してきた。クラウドが無言で受け取ると、バッツは墓石の前へかがみこんだ。
手を合わせているバッツの背中が、いつもより少し小さく見えた。前にも経験したはずなのに、動かない時間を長く感じる。物心ついたころにはすでに父親はおらず、近しい人間を失ったことのない自分では、彼の祈りを知ることはできないのだろう。それでも知りたいと思ってしまうのは、欲深いことなのかもしれない。
そんなことを考えていたクラウドの前で、バッツが顔をあげた。そのまま立ち上がった彼は、無言のまま墓前を空けた。そこに入れ替わる形で進み、クラウドは墓前にかがみこむ。線香を供えて、手を合わせた。
一度も会ったことのないバッツの両親に、クラウドが話せることは多くない。だから、思い浮かんだ日常の報告とささやかな決意を言葉にした。
祈りを終え、立ち上がったクラウドが振り返る前に、砂利の音が響いた。音のした方を向けば、クラウドに並ぶ形でバッツが墓石の前に立っていた。
「親父、おふくろ。また来るよ」
墓石に刻まれた名前を見下ろして、バッツが呟いた。俯いている彼の頬を、水滴が流れて落ちた。
それが汗なのか涙なのかを知りたくなくて、クラウドは自分の首にかけていたタオルで、予告もせずにバッツの顔を覆った。
「うぐっ」
バッツから洩れたうめき声を気にせずに、そのままがしがしと彼の顔を拭いていく。
「クラウド痛い、痛いって」
最初のうちはなすがままになっていたバッツが、そう言ってタオルを持つクラウドの腕を掴んだ。クラウドが手を下ろすと、眉尻を下げたバッツの顔が現れる。力の抜けたクラウドの腕から、バッツは手を離さなかった。
「大丈夫だよ」
静かで強い声が、クラウドの耳を打った。こちらを真っ直ぐ見てきたバッツを、クラウドも視線をそらさずに見つめ返した。しっかりと腕を掴んだまま、バッツは反対の手でクラウドの顔に触れてきた。熱い手がクラウドの顔を撫で、目元に浮かんでいたらしい水滴を拭っていった。
「大丈夫だよ。……そりゃ、悲しかったり悔やんでたりすることもあるさ。けど、今はクラウドが一緒にいるから。な?」
バッツの髪が、少しだけ強く吹いた風に揺れた。
「帰ろう、クラウド」
そう言って笑ったバッツに、クラウドは小さく「ああ」と頷いた。