バレンタイン小話
さっきまで台所を満たしていたチョコのにおいが薄まり、代わりにバッツの目の前にある鍋からのにおいが覆い始めた頃。
「おうバッツ、おまえ一人でメシの準備か?」
耳に届いた声に青年が振り返ると、台所の入口に寄りかかって、バイト仲間であるファリスがこちらを見ていた。バッツはああ、と軽く頷いて視線を鍋に戻す。
「レナとクルルはあっちでブラウニーのラッピング作業してるぜ。ああ言うのはおれは無理だし」
そういってバッツが指した方向からは、レナとクルルがやりとりしている声が聞こえてくる。ファリスもそちらを一瞥し、あーおれもあれは駄目だな、とつぶやいた。しかし彼女がそのまま立ち去る様子もないので、バッツは疑問に思っていたことを問いかけた。
「おまえこそ、店番どうしたんだよ」
「じーさん帰ってきたから任せてきた」
そう言って視線をバッツの方へ戻したファリスが、台所に備え付けられているテーブルの隅にのっていた紙袋に気づいた。
「なんだこれ?」
「ああ、レナとクルルにチョコレートをもらったんだ。明日はバレンタインって言う奴なんだってな。おれ、知らなかったよ」
告げたバッツの声音が思ったよりも沈んでいたことにファリスは気付く。よく観察すれば、立ち姿もなんとなくしぼんでいるように見える。しかし、そんな彼の心情をわざわざ慮る性格ではないファリスは、正面から切り込んだ。
「何かあったのか?」
「えーと」
そこで言葉を切り、彼は口をつぐんだ。その横顔は何かを考え込んでいるようだったが、それを聞き出す前に、バッツがばっとファリスの方を向いた。
「そうだ。そういえばファリスはチョコくれないのか?」
「ぁあ?」
ドスの利いた声でファリスが唸るが、バッツは気にすることなくファリスを見続けている。しばらく沈黙が続いた後、根負けしたのはファリスだった。
深い深いため息を一つつくと、彼女はガサゴソと着ていたジャケットのポケットを探り、何かを取り出し放り投げる。
「ほらよ」
バッツは曲線を描いて落ちてくる小さな物体を、お玉を持っていない手で受け取った。握った手を広げてみると、そこにあったのはチョコ色の背景にでかでかと書かれた五円玉の絵。
「ちょ、これ、五円チョコ!」
「十分だろ」
にべもない彼女の言葉に、まあファリスだしなつまみばっかり買う奴だし――と考えたところで、バッツは彼女が普段はチョコなんて買わない奴だと言うことを思い出した。とすると、
(このチョコ、もしかしたらわざわざ買ってくれたんじゃないか?)
そう思い至って、バッツは思わず苦笑する。
「ありがとな、ファリス」
礼を言うと、彼女は一つ舌打ちをしてバッツから顔を逸らす。だけど、それだけでは隠せないほど、その顔が赤くなっていた。