St. Valentine's Eve
二月十二日夜。
夕飯の用意が終わったテーブルを見て、バッツは一つ頷いた。
「これでよし、と」
今日の献立は鮭のムニエルに温野菜のサラダ、コンソメスープ。小鉢は昨日からの余りのものもあるが、デザートがケーキなので、おおむね洋食のメニューである。コップに水を注いでいると、部屋着に着替えたクラウドが彼の自室から出てきた。
「ちょうどよかった。呼ぼうかと思ってたんだ。飯にしようぜ」
「ああ」
クラウドの返事を聞きながら、バッツはすっかり定位置になったキッチン近くの椅子へ座る。クラウドも向かいの席へと腰を下ろし、こちらへと顔を向け――その目がバッツから少し右にそれた。
「どした?」
変なものをキッチンに置いていただろうか、とバッツはクラウドの視線を追ってキッチンの方へと体をひねった。その目に留まったのは、キッチンカウンターの上に乗せられているケーキだ。
「デザート、気になるのか?」
カウンターの上にある黒い塊は、甘いものがそんなに得意なわけじゃないクラウドが見たら、それなりの量に見えるのだろうか。最近は回数が減ったが、食事のたびに作る量が多いと言われているバッツは、今日も同じことを言われたら別に全部今日食べなきゃいけないわけじゃない、と言い訳するつもりで身構えた。しかし、クラウドが告げた言葉はバッツの予想とは違うものだった。
「チョコレートケーキ、か。お前が作ったのか?」
特に不満な様子もなく淡々とつぶやかれた台詞に拍子抜けしながら、バッツは答える。
「そう。ブラウニーっていうんだ。試作品で悪いけど」
「試作品?」
何の気なしにこぼした単語に、クラウドが眉をひそめた。これはちゃんと説明しないと不機嫌になるサインだ。彼が変な想像をする前に、とバッツは慌てて試作品と言った訳を口に乗せる。
「クルルから明日一緒に作ってくれって頼まれてさ。失敗するとまずいから確認で作ったんだ。ちゃんと味見してあるし、大丈夫だぞ」
「……そうか」
バッツの説明で納得したらしいクラウドは、興味をなくしたのかそれだけ言って視線を食卓へ戻した。文句を言われなかったことにほっとしたバッツは、明日の夕飯について、クラウドへ伝えなければならないことがあったのを思い出す。
「そうそう、明日ついでに向こうで飯を食べてくることになってるんだ。クラウドもどうかって言われたんだけど、来るか?」
あっちでも飯作るのはおれだけどな、と付け加えたが、彼は黙考した後、首を横に振った。
「いい。帰りに『のばら』に寄ってくる」
『のばら』というのはクラウドが昔から通っている定食屋の名前だ。今もバッツのバイトが遅くなったり夕飯を作れない時があったりすると、クラウドはそこで食事をするのが常だった。バッツも何度か足を運んだことがあるが、そこの店主であるフリオニールが作る食事はとてもおいしくて、(クラウドには内緒だが)バッツは内心ライバル意識を持っている。ただ、おそらくこちらへ配慮してくれただろう彼の答えに言葉を返すのは申し訳なかったので、頷いて了承の意を示す。
「わかった。悪いな」
「気にしなくていい」
話は終わりだと言わんばかりに、クラウドが箸を手に取った。顔が逸れたその時、彼が安心したような、あるいは少し後悔したかのような不思議な表情を見せたような気がして、バッツはわずかに眉をひそめた。
「バッツ?」
「あ、ああ、悪い。早く食べないと冷めちゃうもんな」
動かないことを怪訝に思ったらしいクラウドの呼ぶ声に我に返り、バッツも慌てて箸を持つ。改めて見たクラウドの表情は特にいつもと変わりなくて、気のせいだったかとバッツは思い直した。
そのあとはいつもと同じような食事風景で、デザートに出したブラウニーも、クラウドの口に合わないことはなかったようだった。
バッツがバイトをしている酒屋は裏にある一軒家とつながっており、その一軒家には店主であるガラフと彼の孫娘であるクルルが住んでいる。
その家に今、チョコレートのにおいが充満していた。
「はー、疲れた」
作業がひと段落ついたバッツは、ダイニングにあったソファに座り、痛くなった腕をさすりながら大きく息をついた。どうせクルルが家で食べるためのおやつを作る手伝いなんだろう、と甘く見ていたのがよくなかった。
(まさかこんなに大量に作るとは……)
そう思いながら台所に目を向ける。そこに設えられたテーブルには、焼きあがったブラウニーの塊がケーキクーラーに二個乗っており、粗熱を取っている状態だった。加えて、オーブンでは現在進行形でブラウニーが二つ焼かれている。さらにキッチンには、オーブンに入れるために準備を済ませた塊四個分の生地が残っていた。これだけの量を作るのであれば、なるほど手伝いがいるわけだとバッツは深く納得する。
「学校で配るのもあるけど、商店街のみんなにも配ったりするからね。ありがとバッツ、手伝ってくれて」
調理に使った器具を洗い終わったらしいクルルが、そう言ってこちらへ麦茶の入ったコップを差し出してきた。ありがたく受け取って一気に飲み干す。
「商店街に配るって、なんかイベントでもあるのか?」
コップを返しながらクルルに聞くと、少女がきょとんとした様子で言葉を返してきた。
「え? バッツ何言ってるの。明日は」
「こんにちは」
二人の会話に割り込んで、柔らかな声音がかぶさった。そろって振り向けば、桃色の髪の女性が大きな紙袋を手に立っているのが見えた。
「レナ」
「おねえちゃん、こんにちは」
クルルのあいさつに言葉を返しながら、レナが部屋の中へ入ってきた。彼女はクーラーが乗っているテーブルのところで足を止め、空いたスペースに持っていた紙袋の中身を次々と広げていく。
「クルル、これくらいで大丈夫かしら?」
レナの問いかけにテーブルを見たクルルが満足そうにうなずいた。
「うん、大丈夫だと思う! ありがとう、おねえちゃん!」
バッツはそのやり取りを聞きながら、自分もテーブルの横へと向かった。包装紙、リボン、ビニール袋、シールと色とりどりのラッピング用品が山のようにテーブルに積みあがっている。全体的にハート柄が多く、色はピンクや赤色の割合が多い。もしかしなくても、今作っているブラウニーを小分けにして梱包する為のものだろう。こういうものにあまり縁のないバッツが、なんとなく一つを摘み上げてまじまじと見つめていると、後ろからレナの声がした。
「バレンタイン用のよ。明日が本番ですものね」
「ばれんたいん?」
レナの口から、聞いたことのない単語が出た。バッツが首をかしげると、レナがバレンタインっていうのはね、と口を開く。
「明日、二月十四日に、女性が男性にチョコレートを送る日なの。意中の男性に贈る本命チョコと、いつもお世話になっている方に送る義理チョコ、の二種類に大別されるのかしら。もともとはバレンタインっていう人の命日らしいけれどね」
「そうそう。バッツ、知らなかったの?」
「知らなかった……」
レナとクルルの言葉を知識として脳裏に刻み込む。そのとき、ふいに思い浮かんだのは、クラウドのことだった。昨日、ブラウニーを見ていた姿や声、あの不思議な表情が、バレンタインという言葉とともに、湯せんしたチョコレートのように溶けていく。
「そういうことかあああ!」
思わず大きく叫んで、バッツはテーブルのふちに手を置いたまま屈みこんだ。
つまり、単純に、クラウドは知っていたのだ。
そんでもって、クラウドのあの顔は、ブラウニーを見て期待しただとか、ただのデザートなのかとか、こいつは知らないとか、バレンタインのことを言うべきだろうかとか、飯を食べに行ってこの話題になると気まずいんじゃないかとか、たぶんそういうことがごちゃ混ぜになった表情だったのだ。
(うわぁ、おれ、なんか申し訳ないことしたんじゃないか? っていうか言ってくれればよかったのに!)
「バッツ?」
「どうしたの?」
つらつらと考え続けていたバッツの頭上から、突然の行動にびっくりしたレナとクルルの問いかけが降ってくる。はっと顔をあげると、じっとこちらを見つめる二対の瞳とかち合って、バッツは慌てて取り繕った。
「いや、大丈夫、なんでもない」
「ほんとに?」
クルルの追撃に焦りながらなんでもないからと重ねると、渋々といった様子ではあったものの、彼女もそれ以上聞いてこなかった。ほっと胸をなでおろしたバッツの横で、話を変えるためか、レナがまだ手に持っていた紙袋を探り出す。
「そうだわ、今のうちに。……はい、これ」
言葉とともに取り出した小さいピンク色の箱を、レナがバッツへと差し出した。色とりどりのリボンで飾られたそれを、目を瞬かせながら見ているだけのバッツに、レナが続けた。
「さっき説明したでしょう? 義理チョコよ。いつもありがとう、バッツ」
バッツは感謝の言葉を返してチョコを受け取った。それを見ていたクルルが、私もある、と手をあげた。
「部屋に置いてあるのとってくるから、ちょっと待ってて!」
そうしてキッチンから出て行ったクルルの後姿を見届けたレナが、もう一度紙袋に手を入れた。
「クルルがいないうちに、もう一つ渡しておくわ」
一緒に持って帰ってね、と渡された小さな紙袋の中には、先ほどもらったものと同じ箱が、もう一つ入っている。もらったチョコレートをその紙袋に入れ直しているバッツの耳に、密やかなレナの声が届いた。
「恋人さんによろしくね」
そして。
(なんか、入りづらい……)
住み慣れたマンションの、いつもの部屋の玄関前で、バッツは先ほどからずっと立ち尽くしていた。すっかり夜も更けているためにとても寒いのだが、ベランダから光が漏れているのを見ると、ドアノブに手をかけるのを躊躇ってしまう。
(どうしよう。どう話しかければいいだろうなあ)
知らなかったことを謝ればいいのか、教えてくれなかったことに文句を付ければいいのか。バレンタインは用意をした方がいいのか、しなくていいのか。どう話をしても彼の機嫌を損ねそうな気がして、動くに動けない。
何度目かのため息をついたそのとき、なんの前触れもなくドアが開いた。
びくりと体を震わせたバッツの目の前に、きれいな瞳が映り込む。
「いつまでそこに立ってるんだ」
扉に手をかけたままこちらを見ているクラウドは、呆れたような声音をのぞけばいつもの彼だ。昨日の会話や今の様子から、バッツがすでにバレンタインのことを知りえたことをわかっているだろうに、とバッツはどう反応していいのかがますますわからなくなる。
思わず視線を逸らしたバッツの耳を、クラウドがついたため息が揺らした。
「早く入れ。寒い」
「ああ、うん、ただいま……」
うながされるままに扉をくぐり中に入る。明りの下に入ったバッツの姿を見たクラウドが、ちらりとバッツの右手を見た。その先にあるのは、手に提げていた紙袋だ。
「ああ、これ、今日レナたちからもらったやつで」
「そうか」
目線の高さに持ち上げてそう説明すると、クラウドは興味なさげに頷いて、さっさとリビングの方へ進んでしまった。追いかける形で、バッツも部屋へ向かう。動揺しているからか、うまく話がつなげられない。ともあれ声をかけて、そのあとのことはその時に考えよう、と決めた。
「あ、あのさクラウド」
「受け取れ」
「へ?」
何とか話しかけようと声をあげたバッツだったが、さえぎられる形で目の前に何かを突き出された。呆然と手に取ったそれは、綺麗にラッピングされた、チョコボ型の、
「チョコ?」
「ああ」
「でも、バレンタインって、女性が男性にチョコ贈る日じゃないのか?」
「この国だと女性が男性にチョコレートを贈るイベントだが、男女の愛の誓いの日とする国もあるらしい」
だから俺から送っても構わないだろう、とクラウドはぶっきらぼうに言って、こちらから少し目線をそらした。よくよく見れば、普段はあまり色が乗らない顔に薄く朱がさしている。それに気づいたバッツの中で、うれしい、とかおどろいた、とかいくつもの感情がぐるぐると渦を巻いて、もどかしさに全身が熱くなってくる。耐えられなくなりそうになった瞬間、この思いを伝えられる言葉がひらめき、バッツは感情のままにクラウドに飛びついた。勢いが付き過ぎたのかクラウドがよろけたが、構うことなく回した腕に思いっきり力を込めた。
「ありがとうクラウド!」
彼の耳元で叫ぶように声をあげると「うるさい」と言われたが、抱き付くなとは言われなかったのでそのままの体勢でバッツは言葉をつなげた。
「なあなあ、食べていい?」
「明日にしろ。まだバレンタインになってない」
クラウドの言葉に時計を見ると、短針は上の方にあったが、確かに日付をまたぐにはまだ少し早い。いつもなら風呂に入っている時間だ。
(ん? 風呂?)
「やば、もうこんな時間じゃんか! 風呂の用意するからちょっと待っててな」
ばっとクラウドから離れると、チョコレートをテーブルに置いて、着替えて風呂の用意をしようと踵を返す。そのまま浴室へと向かおうとしたその背中に、バッツ、と声がかかった。
「ホワイトデーは三倍返し」
「え、なにそれ」
またしても聞いたことのない単語が出てきて、バッツは振り返る。バッツの目線がきっちりともどってきたことを確認したクラウドが、ゆっくりと口を開いた。
「バレンタインにもらったチョコのお返しは、一月後にあるホワイトデーにすることになっていて、そのときに返すものはもらったものの三倍、ということになっている」
クラウドの説明を聞いて、バッツは考える。なぜ三倍なのかはわからないが、クラウドからもらってばかりでないのはいいことだ。値段だろうが気持ちだろうが関係ない。いま感じている嬉しさの全部を返したい。そう思った。
「わかった。三倍と言わず十倍ぐらいにして返すからな!」
力強く宣言すると、クラウドはわずかに目を見開き――目を伏せて綺麗に笑った。