それは砂漠に零れる水のように

 お湯を浴びて出てきたバッツに、クラウドは冷蔵庫という箱から透明の円柱状の物体を投げてよこした。ペットボトルというそうだ。受け取ると、火照った手に痛みにも似た冷たさを感じた。
 ペットボトルを顔や首に当てて涼を取っているバッツに、きちんと体を拭けと言葉を残して、クラウドは入れ違いに浴室へと向かって行った。小さくなっていく背中に、見えないと知りながらもぞんざいに頷き、ベッドへと向かう。首にかけたタオルで荒っぽく髪を拭きながらバッツが腰掛けると、体が深く沈み込む。熱を持った皮膚に白く冷たいシーツが気持ちいい。手の甲でなでると、なめらかな感触がした。
 その手をゆったりと持ち上げて、汗をかき始めたペットボトルの蓋をひねる。力を入れすぎたのか、軽い音を立てて容器がへこんだ。けれど、そこから水が漏れることはない。へこんだ箇所はそのままに、バッツはペットボトルをあおった。口元から体の中へ、冷たい水が通っていく感覚がはっきりとわかる。喉の鳴る音に重なるように、遠くからクラウドがお湯を浴びる音が聞こえ始めた。
 半分ほどを一気に飲み干し、バッツはゆっくりと部屋の中を見回した。この場所は、ホテルという宿泊施設だという。部屋の一つ一つに入浴施設がついてるなんてすごい贅沢だなと言ったら、クラウドの世界では、全てではないが入浴施設は部屋ごとについているものらしい。窓が開いていないのに風を感じると思ったら、エアコンという名前の機械で部屋の中の温かさを整えているのだという。
 凄い技術だと、遭遇する度に思い知らされる。絶え間なく風を送る機械や、手作業では作ることの叶わない均一に織られた布、火の番をすることなく温度が一定に保たれ続けるお湯とそれが大量に放出される器具、雪も氷もないのに物を冷やし続ける箱。そして、ほとんど水の重さしか感じない、薄い薄い保存容器。
 バッツの世界ではよほど革命的な出来事が起こらない限り、生まれないもの。
 透明なペットボトルの表面に、おぼろげに老人と少年の姿が浮かび上がった。この経験を伝えたら、どんなに顔を輝かせて詳しい話を聞かせろと言ってくるだろう。そして、どうすれば実現するのかと、また寝食も惜しんで研究をするのだろう。
 だから、忘れるんだろう。ここでおれが経験したことすべて。
 いろんな世界がいびつにくっついたこの地を旅していくうちに、少しずつ自分の中に芽生えていた結論に、そうして今日も水をやる。熱が退いた体には深く根の張った考えが特に絡みついて、どこか軋むような気がした。
「風邪をひく」
 ぼんやりとしてたら、いつの間にかクラウドが戻ってきていた。バッツが反応を返す前に、ためらいのない速度ですぐ目の前まで近づいてきた彼に、ペットボトルを取られた。移動していくペットボトルを間抜けな表情で追いかけるバッツの視線の先で、クラウドが蓋の開いたままだったそれに口を付けた。
 わずかにぺしゃんこになってしまった淡い金色の髪を。いつもは白い肌に熱が通りほんのりと赤みを帯びた様を。喉仏の忙しない動きをぼんやりと見上げる。
 忘れたくないなあ。
「バッツ?」
 反応に乏しいバッツに、クラウドが怪訝な声を出した。バッツはなんでもないと言うように、だらしなく笑って手を伸ばした。水が欲しいのだと考えたらしいクラウドが、ほとんど中身の残っていないペットボトルを差し出してくる。しかし、バッツの手は透明の容器に占領されている手を通り越えて、彼の手首を掴んだ。そして、クラウドに身構える隙を与えずに腕を引き、傾ぎ近づいた彼の体に手を回して力を込める。密着する体の温かさに、小さく息が漏れた。
 忘れたくない。
 腕にこもった感情に、気づいたのだろうか。クラウドもバッツの背に片腕を回してきた。すっかり乾いた背中を撫でる湿った熱が、先程浴びたお湯よりも気持ちいい。ぬくい温度をもっと感じたくて、バッツは近くなったクラウドの胸元に額を寄せた。すると、気づかぬうちに膝裏に回されていたもう一本の腕に足を掬い上げられ、バッツの体が浮いた。その瞬間ぎくりと身を強張らせたが、すぐに逆らうのを止めて力を抜く。
 腕だけでバッツの全体重を支えたクラウドはベッドの上に乗りあげると、壊れ物を扱うように、ゆっくりとバッツの全身をシーツに横たわらせた。バッツが背中に柔らかい感触を感じると同時に、クラウドが覆いかぶさってくる。自身を縫いとめるような重さに陶酔しながら、バッツはクラウドの背中を撫でるだけになっていた腕に、もう一度力を込めた。
 不意に、ベッドの片隅にペットボトルが落ちている姿が、バッツの目に留まった。中に残っていた水が零れている。それは、シーツの色を僅かに変えて、しかしすぐに消えていく。
 目にしてしまった光景を見なかったことにしたくて、バッツは逃げるようにまぶたを閉じた。

2014-07-15
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