「大和6低号墳出土鉄テイの素材は直接法による鉄 」                            明石雅夫 大和6号墳出土鉄テイ素材の製錬法についての従来の研究  五世紀中葉から後半に築造したと考えられているウワナベ古墳の陪塚とされている 大和6号墳は、多数の鉄器とともに872枚の大小鉄テイが出土したことで著名である。  大和6号墳出土鉄テイ素材の製錬法について最初に科学的調査を行った窪田蔵郎氏 は、顕微鏡観察で多数の非金属介在物を認めたことから、大和6号墳出土鉄テイ素材は 直接法(鉱石を比較的低温で還元し、一段階で直接に金属の鉄を作る古代の鉄製錬 法)による鉄とした。(1)  大和6号墳出土鉄テイ7点を調査した久野雄一郎氏は、小重量の小型鉄テイの成分が一 枚ずつ違っていることから、大和6号墳出土鉄テイ素材は直接法による鉄とした。(2)  久野氏が調査した鉄テイと全く同じ大和6号墳出土鉄テイ7点を調査した佐々木稔氏 は、鉄テイ中にガラス質珪酸塩が介在物として存在することから、大和6号墳出土鉄テイ 素材は炒鋼法(鉱石を高温で還元して炭素の多い溶融した銑鉄を作る製錬工程と、溶 融した銑鉄の多すぎる炭素を脱炭して鋼を作る精錬工程の二段階をとる現代の製鋼法 に類似した間接法の一種で漢の時代に中国で開発された製鋼法)による鋼とした。 (3) 大和6号墳出土鉄テイ素材の製錬法について科学的調査を行った事例は以上の 3例であるが、東潮氏は佐々木氏の説を採用し、大和6号墳出土鉄テイの素材は炒鋼法 による鋼とした。(4)東潮氏の論文発表以後、大和6号墳出土鉄テイの素材は炒鋼法 による鋼という説がほぼ定説となり、現在に至っている。  大和6号墳出土鉄テイ素材の製錬法についての従来の研究の問題点  窪田・久野・佐々木三氏の説にはそれぞれ問題がある。  窪田氏は非金属介在物の多少を論じながら、比較対照する基準を明示していない。 比較する基準を現代の鋼にとり、全ての古代の鉄鋼は製錬法の如何に拘わらず非金属 介在物が多いとして、製錬法の差による非金属介在物量の差を無視した論文(3)の 存在が示すように、比較する基準無しに多少を論ずるのはナンセンスである。  久野氏は小重量の小型鉄テイの成分が一枚ずつ違っていることを根拠に判定したが、 「久野氏が組成を調査した鉄テイは僅か7枚に過ぎない。大和6号墳出土鉄テイは872 枚の多数である。未調査の鉄テイ中に久野氏が組成を調査した鉄テイと同一組成の鉄テイが 多数あるかも知れぬ。」という批判に反論することができない。  佐々木氏は、鉄テイ中にガラス質珪酸塩が介在物として存在することを理由として大 和6号墳出土鉄テイ素材は炒鋼法による鋼としたが、その根拠は、銑鉄を脱炭精錬する 際に貝灰漆喰(貝灰・苦汁・木灰・粘土・砂などの混合物)に近い組成の造滓材を使 用したと仮定すれば、ガラス質珪酸塩の化学組成を無理なく説明することができると いう仮説に基づく(5)。(傍点筆者) 炒鋼法による鋼に非金属介在物としてガラス 質珪酸塩が存在することは、佐々木氏の仮説の示すとおり真実であろう。しかし、炒 鋼法による鋼にガラス質珪酸塩が存在することが真実であったとしても、ガラス質珪 酸塩が存在する鉄や鋼が全て炒鋼法によって作られたと決め付ける佐々木氏の説には 論理に飛躍がある。直接製鉄法やたたら製鉄法(高炭素の銑鉄と中炭素の鋼や低炭素 の鉄が同時にできるわが国独特の製鉄法)による鉄や鋼にもガラス質珪酸塩が存在す るかも知れないからである。従って、直接法やたたら法による鉄や鋼にはガラス質珪 酸塩が存在しないということを証明した後でなければ、ガラス質珪酸塩が存在する鉄 や鋼を全て炒鋼法によって作られたと決め付けることはできない筈である。にも拘ら ず、直接法やたたら法による鉄や鋼にはガラス質珪酸塩が存在しないということを証 明もせずに、ガラス質珪酸塩が存在する鉄や鋼を全て炒鋼法によって作られたと決め 付ける佐々木氏の説は、耳にタコができるほど中学校の数学で教えられた「逆は必ず しも真実ではない。」という教訓を無視しており、到底認めることはできない。論理 に飛躍があるという理由はここにある。  中性子放射化分析による大和6号墳出土鉄テイ素材製錬法の吟味  大和6号墳出土鉄テイ3枚について国立歴史民俗博物館が中性子放射化分析(不純物 元素の微量分析法として極めて優れた方法で、この方法より優れた結果が期待される 微量元素分析法としては、唯一和歌山の毒入りカレー事件で成果を挙げたSPrinng 8 による放射光分析があるが、放射光分析法による鉄中の不純物の分析技術は、残念な がらまだ確立されていない。)を行った。(6)  国立歴史民俗博館では、大和6号墳出土鉄テイ3枚からそれぞれ5・7g、3・15 g、0・70gの試料を採取した。5・7gの試料から6箇所、3・15gの試料か ら4箇所、0・70gの試料から2箇所で中性子放射化分析を行なったが、分析値が 示されたのみで、結果の 解析は行われていなかった。  今回その分析結果を筆者が解析した(7)。解析法ならびに解析結果の詳細は、近く 発行される『たたら研究』第43号に「大和6号墳出土鉄テイの素材製錬法について」の 表題で掲載される予定なので、ここでは解析結果の大要を示すにとどめる。  炒鋼法の場合は、製錬・精錬の二つの工程で、それぞれ溶融した銑鉄の状態を経由 する、溶融した銑鉄中では不純物元素のうちの親鉄・親銅元素は完全に均一に分散す る筈であり、冷却して凝固させたときに多少の凝固偏析が生じたとしても、そのバラ ツキは分析誤差の範囲からそう大きくズレないであろう。この溶融した銑鉄の状態を 経由した場合凝固した後の鉄中の親鉄・親銅不純物元素はほぼ完全に均一に分散する という仮定は、大和6号墳出土鉄テイ3枚と同時に国立歴史民俗博館が中性子放射化分 析を行なった朝鮮半島南部及び日本で出土した鋳造品(溶融した銑鉄を鋳型につぎ込 み冷却凝固して作られた)の分析値を解析した結果で、正しいことが証明されてい る。  然しながら、大和6号墳出土鉄テイ3枚から採取された試料の中性子放射化分析結果 は、親鉄・親銅元素の分布に信じられないほど大きなバラツキがあることを示した。 即ち、たった5・7g、3・15g、0・70gの試料(体積に換算すればそれぞれ 0・72、0・40、0・089立方センチメートルに過ぎない微小鉄片)から採取 した複数のサンプル間で、親鉄・親銅元素の分布に信じられないほど大きなバラツキ があることはが明らかとなった。この事実は大和6号墳出土鉄テイの素材は製造工程中 で溶融した銑鉄の状態を経ていないこと、即ち炒鋼法による鋼を素材としていないこ とを示している。大和6号墳が作られた時には、まだたたら製鉄法はできていないか ら炒鋼法による鋼でないとすれば、直接製鉄法による鉄を素材としたと考える外ない という結論に達した。(7)  五世紀中葉から後半頃の中国・朝鮮半島の鉄製錬技術の状況  中国でも極めて古い時代には直接製鉄法で鉄製錬が行われたかもしれないが、かな り早くから高能率で大量生産が可能な銑鉄の製造が開始され、漢代には銑鉄の過剰な 炭素を脱炭して鋼を作る炒鋼法も開発されていた(8)。  魏志東夷伝弁辰の条に「国出鉄」と記された頃には朝鮮半島南部で直接法による鉄 製錬が行われていたと考えられるが、北部では漢の進出と共に中国の間接製鋼法が伝 播している。三〜四世紀の百済石帳里A区遺跡には間接法の製鉄炉が認められている し(9)、五世紀代の福泉洞古墳から出土した鉄テイの素材は炒鋼法による鋼と判定さ れている(10)。従って、古い直接法から能率がよく大量生産が可能な間接法への 製鉄法の転換は、朝鮮半島全域で、四世紀後半乃至五世紀前半には完了していたと考 えられる。  従って、能率が良く大量生産が可能な間接法が盛行していた五世紀中葉から後半頃 には、直接法が残存していたとしても特殊な目的での極めて限定された生産が行われ たにすぎないであろう。  我が国古代の鉄生産に関する従来の説  明治二九年今泉嘉一郎氏が古代は直接製鉄法によって製鉄が行われたと述べている が、明治・大正から昭和初期にかけて冶金関係の学者技術者数人が古代の製鉄法は直 接製鉄法であったと述べている。(11)  考古学の分野では大正六年中山平次郎氏が鉄滓の散布地の存在を根拠として、先史 原史時代の中間期(現在の弥生時代)に九州北部で鉄生産が行われていたと述べたの が最初であろう(12)。  以後、多くの人々が弥生時代あるいは古墳時代の初期に鉄製錬が行われたとする説 を述べている(13)。(以後これらの説を鉄国産説という。)  一方、森浩一氏は大和6号墳出土鉄テイの形と大きさが古代の著名な鉄産地であった 新羅の主要古墳から出土した鉄素材に近似していることを根拠に大和6号墳出土鉄テイ は朝鮮半島からの輸入品と推測し(14)、岡崎敬氏の報じた壱岐ハルノツジ・カラ カミ遺跡出土の鉄遺物(15)も考慮した上で、弥生時代は勿論四・五世紀になって も列島内の鉄器の殆どは朝鮮半島からの輸入品または輸入した素材を列島内鍛冶加工 したものとし、(国内で鉄製錬がおこなわれたとしても、その量は取るに足らない微 少量)六世紀以降鉄の国産に努力したが、国内の鉄需要を国産の鉄で賄い得たのは八 世紀中頃乃至九世紀以降とした(16)。(以後この説を鉄輸入説という。)  当初鉄滓の散布地の存在や石器の消滅というような間接証拠しか示し得なかった鉄 国産説は、賀川光夫氏による大分県の弥生時代の製鉄址発見(17)という直接証拠 を入手し、さらに九州の下前原から出土した弥生時代の鉄滓を製錬滓とした湊秀夫氏 ・佐々木稔氏による報告(18)という決定的な直説証拠が示されるに及んで勢いを 増し、鉄テイ国産説が唱えられるなど一時は鉄輸入説を圧倒するほどであった(19)。 しかし、大分県下の弥生時代の製鉄址が鍛冶炉とするのが妥当とされ(2〇)、 下前原の鉄滓も鍛冶滓に訂正されるにいたって(21)、国産説はその勢いを失った。  鉄国産説が勢いを失うにつれ重みをました鉄輸入説は、6世紀後半にならなければ 鉄生産遺跡は確認し得ないという自然科学者を中心とする意見を追い風にして鉄国産 説を圧倒し、鉄国産説は気息奄々ようやく命脈を保っているというのが今日の状況で あろう。  鉄輸入説は、古代の国内鉄生産を完全に否定しているのではなく、国内鉄生産が あったとしても極めて小量だったとしているに過ぎない。また6世紀後半以降でなけ れば鉄生産遺跡を確認できないという自然科学者の意見は、6世紀前半以前の鉄生産 の存在を否定しているわけでは無く、ただ単に確認できないといっているに過ぎな い。  然しながら、今日では6世紀前半以前には我が国で鉄が生産されていなかったと理 解している歴史学者・考古学者はかなり多い。  近畿・中国の地方政権連合が、当時鉄の輸入権・配布権を掌握していた北九州の政 権を制圧したことから、近畿・中国の地方政権連合の中核であった初期ヤマト王権が 鉄の輸入権・配布権を掌握した。このことが、近畿の一地方政権であった初期ヤマト 王権がやがて列島の大部分を支配する大和政権に成長する主要因となったという説が 唱えられている(22)のも、このような状況を踏まえてのことと考えられる。  大和6号墳出土鉄テイの素材製錬法が直接製鉄法であったとしたら  大和6号墳出土鉄テイは朝鮮半島からの輸入品という説が従来の定説であった(12 ・14)。製造元としては中国産という説もあるが、これも朝鮮半島経由で輸入した と考えられている(1・3)。  然しながら先に述べたように、大和6号墳が築造された当時、朝鮮半島の鉄生産技 術は古い直接製鉄法から新しい間接製鉄法への転換が既に完了し、炒鋼法が行われて いたとされている。  中国ではより早くから炒鋼法が開発されていた。  とすれば、大和6号墳を築造したヤマトの王者は、効率の良い炒鋼法に転換してし まった朝鮮半島から、既に廃れてしまった古い直接製鉄法でつくられた鉄素材を用い た鉄テイを、どうやって輸入したのだろうろうか。  廃れてしまった古い直接製鉄法でつくられた鉄を素材とした鉄テイを安く買い集め、 大和6号墳に大量に埋納したとでもいうのだろうか。  列島全域はまだ支配していなかったにせよ、かなりの領域を支配し権威を誇ってい たと思われるヤマト王権の王者ともあろう者が、そのような馬鹿なことをする筈はな い。  とすれば、当時のヤマト王権の王者は、直接製鉄法によって相当量の鉄を製錬し得 る技術集団を既に支配していたと考えるほかはなく、大和6号墳に埋納された(鋳造 品を除く)鉄器や鉄テイはこれらの技術集団によって生産されたと考えられる。  五世紀に近畿でこれほど大量の鉄生産が行われていたとしたら、弥生時代は勿論四 ・五世紀になっても列島内の鉄器の殆どは朝鮮半島からの輸入品または輸入した素材 を列島内鍛冶加工したもので、国内で鉄製錬がおこなわれたとしてもその量は取るに 足らない少量であり、六世紀以降鉄の国産に努力したが国内の鉄需要を国産の鉄で賄 い得たのは八世紀中頃乃至九世紀以降とした鉄輸入説は、大幅な修正を迫られる。  さらに、鉄輸入説の優勢を踏まえて展開された鉄輸入権・配布権掌握を主要因とす る大和政権成立説はその根拠を失ってしまうから、日本の初期国家成立の歴史を考え 直す必要が生ずる。  大和6号墳出土鉄テイの素材製錬法が直接製鉄法であったとした場合の影響は、我が 国の古代国家成立の経緯に影響するほど大きいもので、大和6号墳出土鉄テイの素材製 錬法を炒鋼法としていた従来の定説が完全に瓦解するとか、ガラス質珪酸塩介在物に 存在する鉄器を根拠に炒鋼法を主張する説が誤りであるという程度の小さな問題に留 まらない。  今後なさねばならないこと  大和6号墳出土鉄テイの素材製錬法が直接製鉄法であったとするならば、これほど大 きな影響が生ずるのであるから、大和6号墳出土鉄テイの素材製錬法が直接製鉄法であ るという説の真偽を早急に確認しなければならない。  国立歴史民俗博物館によって中性子放射化分析が行なわれ直接製鉄法による鉄素材 を使用したと判定された3枚の大和6号墳出土鉄テイと、佐々木稔氏が調査してガラス 質珪酸塩介在物を認め炒鋼法による鋼を素材としたと判定した大和6号墳出土鉄テイ7 枚とは、同じ大和6号墳から出土した鉄テイではあるが、それぞれ無関係な別の鉄テイで ある。従って前者を直接製鉄法による鉄を素材として使用したと判定し、後者を炒鋼 法による鋼を素材として使用したと判定しても不思議ではない。  不思議ではないが、同時期に同じ大和6号墳に埋納された鉄テイに、直接製鉄法によ る鉄を素材として使用したものと炒鋼法による鋼を素材としたものの二種類が存在す ることは不自然である。  この不自然さを開明するためには、国立歴史民俗博物館によって中性子放射化分析 が行なわれ直接製鉄法による鉄素材使用したと判定された3枚の大和6号墳出土鉄テイ に対しガラス質珪酸塩介在物が存在するか否かを調査することと、佐々木稔氏が調査 してガラス質珪酸塩介在物を認め炒鋼法による鋼を素材としたと判定した大和6号墳 出土鉄テイ土7枚に中性子放射化分析を行い、大和6号墳出土鉄テイの素材鉄の製錬法が 直接法による鉄であるのか、それとも炒鋼法による鋼であるのかを決定することが先 ず最初の仕事であろう。  このクロスチェックで大和6号墳出土鉄テイの素材の製錬法が直接製鉄法であったと 確認されたならば、次になすべきことは、韓国で出土した鉄遺物の素材製錬法が何時 の時期から直接製鉄法による鉄から炒鋼法による鋼に転換したのかを中性子放射化分 析で正確に決定することであろう。  韓国の考古学界では、直接製鉄法から間接製鋼法への転換時期は既に決定済みであ ろうが、従来の直接製鉄法と間接製鋼法との判別法には多くの問題が存在しているの で、中性子放射化分析で再確認の必要がある。  これらの調査で大和6号墳出土鉄テイの素材の製錬法が直接製鉄法であったと確認さ れ、大和6号墳築造の当時の朝鮮半島南部の製鉄が既に間接法に転換を終わっていた ことが明らかになった暁には、従来の鉄輸入説は大幅な修正が必要とされる。  また従来の鉄輸入説優勢を踏まえて展開された鉄輸入権・配布権掌握を主要因とす る大和政権成立説は再検討が要求される。これらの修正・再検討が、従来の経緯に囚 われることなく、着実に実施されたならば、日本国家成立の初期の歴史がより明らか になるであろう。  また、製鉄炉址を確認できなければ製鉄の遺跡とは認めないと主張し続けてきた自 然科学者たちも、「国出鉄」と史書に明記されていながら直接製鉄法と考えられる朝 鮮半島南部の製鉄遺跡が未だに発見されていない事実を改めて直視するならば、直接 製鉄法の製鉄遺跡確認のためには、製鉄炉址確認を製鉄遺跡確認の必須条件とした従 来の基準の修正が必要なことを認めざるを得まい。鉄に関心を持つ考古学関係者は、 今後製鉄遺跡確認の基準を再検討した上で、六世紀前半以前の我が国の製鉄遺跡の発 見に努めなければならない。  {参考文献} (1) 窪田蔵郎「宇和奈邊陵墓参考地高塚大和6号墳(円墳)出土鉄テイの金属的考古学    的調査」『書陵部紀要』第29輯、1960 (2) 久野雄一郎「奈良市高塚古墳(大和6号墳)出土鉄テイ七点の金属学的調査報告―    金材料としての鉄テイの品質」『橿原考古学研究所論集』七吉川弘文館、1984 (3) 佐々木稔「大和6号墳鉄テイ中の非金属介在物の組成」『考古学論攷』12,1987 (4)東潮「鉄テイの基礎的研究」『考古学論攷』12、1987 (5) 佐々木稔「再び古代の炒鋼法について」『たたら研究』27,1985 (6)「日本・韓国の鉄生産技術〈調査編1〉」『国立歴史民俗博物館研究報告』58、   「日本・韓国の鉄生産技術〈調査編2〉」『国立歴史民俗博物館研究報告』59、   第一法規出版、1996   「日本・韓国の鉄生産技術〈調査編〉補遺」『国立歴史民俗博物館研究報告』66、 第一法規出版、1996 (7)明石雅夫「大和6号墳出土の鉄tei の素材製錬法について」『たたら研究』43, 2003 (8)車伝仁「中国各時代の製鉄の変遷とその背景」『ふえらむ』6―7、鉄鋼協会、 2001 (9)孫明助「韓国古代の鉄生産―新羅・百済・加耶」『古代東アジアにおける倭と加 耶』 2002 大沢正己「古代東アジアにおける倭と加耶の交流」『古代東アジアにおける倭 と加耶』2002 (10) 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