私は九州王朝・倭国を「もうひとつの伽耶」としてきた。
とするとき、『百済本記』が伝える五三一年の倭国の「天皇、太子、皇子」の死に引き続き、五三二年に金官伽耶が滅亡したことは、倭国の後ろ盾を失ったとき金官伽耶は滅ぶほかなかったというわけだ。
つまり伽耶系王朝は、倭国と金官伽耶において相次いで絶え、倭国では百済系の豊前王朝の継体が筑紫王朝の倭の五王亡き後、代わって覇を唱えることとなったのだ。
七世紀に入ると中国に誕生した唐は、隋の高句麗征伐を引き継いだが、それは遅々として進まなかった。
このとき半島の新羅が高句麗と百済に攻められ苦戦していたが、窮余の一策として唐を半島戦争に誘ったことによって、半島はさらなる激動の波に呑まれて行くのである。
まず百済が六六〇年に姿を消し、六六八年にはさしもの高句麗もやはり唐と新羅の前に屈するのである。
この百済と高句麗の滅亡の間に倭国が百済残党と組んで百済復興を目論んだ戦いが、世に言う六六三年の白村江の戦いで、戦局は一方的な唐の勝利に終わった。
『旧唐書』は壊滅する倭国軍を「煙焔、天に漲り、海水皆赤し、賊衆、大いに潰ゆ」と記し、『日本書紀』は擁立された百済王・余豊璋は高句麗に逃亡したと伝える。
この白村江の敗戦について、通説は今も大和朝廷の外交政策の失敗程度の扱い、九州王朝・倭国の滅亡の機縁となったとは書かなかった。
それは悠久の昔からこの国は大和朝廷の支配下にあったとする、後の『日本書紀』の大和一元史観に拠ったもので、倭国は大和朝廷のかつてのまたの名となり、これまでの歴史観はこのイデオロギー史観に目隠しされ、歴史家を先頭にして我々を一三〇〇年にわたり大きく欺いてきた。
唐は六六〇年に百済を破ると熊津都督府以下、馬韓、東明、金漣、徳安に五都督府を設置し、百済に占領体制を確立した。そのときその百済復興を目指し、その唐に挑んで白村江で敗れた倭国が、唐から何のお咎めもなかった風に『日本書紀』は装ったが、それは事実としてはおかしい。
実際、天智紀に唯一登場する太宰府の筑紫都督府は、倭国もまた唐による占領下に入ったことを如実に示す言葉以外でない。
それは白村江の敗戦の翌六六四年の五月十七日、百済にあった唐の鎮将・劉仁願は朝散大夫・郭務宗を倭に派遣し、翌六六五年十一月に司馬法聡を派遣し、境部連石積らを筑紫都督府に送ってきたと『日本書紀』はこう記す。
十一月の丁巳の朔乙丑に、百済の鎮将劉仁願は、熊津都督府熊山県令上柱国司司馬法
聡等を遣して、大山下境部連石積等を筑紫都督府に送る。(岩波『日本書紀』より)本邦における都督府跡を伝えるのは、この太宰府の筑紫都督府だけで、大和にそれがあったとは聞かない。このことは倭国は大和朝廷のかつてのまたの名ではなく、九州王朝でしかなかったことを何よりも示すものであろう。この都督府について古田武彦が倭の五王が南朝の宋や梁から与えられた都督の名残りを伝えるとしたが、それはかつてはそうあったとしても、百済の都督府が唐制であったように、白村江の敗戦の結果、唐の旗が敗戦国・倭国の太宰府に翻ったのは当然である。その後、唐使・郭務宗を中心に、倭国解体政策は進められたが、唐の急変を告げる吐蕃の反乱の拡大があり、やむなく郭務宗が帰唐する六七二年五月三十日まで倭国は八年間唐の占領下にあり、倭国権力機構の解体が公然と計られたと思われる。
伽耶王系の倭国本朝が五三一年の「天皇・太子・皇子」の死に伴って、翌五三二年に金官伽耶の伽耶王朝が倒れたなら、六六〇年の百済滅亡に次いで、その百済王系を戴く倭国は、ここに解体を余儀なくされたのである。
この敗戦、占領という国辱を隠す思想は、第二次世界大戦後の日本の降伏とアメリカによる占領という事実を、終戦とぼかす思想が戦後に横行したが、遠くはここに淵源する思想なのである。
そこにまた倭国を大和朝廷のまたの名ととぼけ、歴史の興亡をなかったごとく繋ごうとする『日本書紀』もまた生まれたのである。
第二次大戦の連合軍による日本占領の本部は、首都東京の皇居前の現在の第一生命ビルにあった。
もし天皇制廃止が占領方針であったなら連合国軍総司令官マッカーサーは皇居を躊躇することなく占拠したにちがいない。
しかし天皇制擁護の方針を国策として打ち出したアメリカの意向もあって、連合軍司令部(GHQ)は、皇居前の第一生命ビルを占拠し、皇居を睥睨するに止めたのである。唐が倭国の太宰府に筑紫都督府を置いたことは、唐が倭国解体を目的とする占領政策に入ったことを示すもので、それが百済に於いては五つも設置されたに関わらず、倭国に一つしかないのは、倭を百済の片割れ程度にしか唐は評価していなかったのかも知れない。
倭はそのとき筑紫の太宰府を表玄関に、奥座敷の豊前に天子がいる政治体制にあったが、斉明天皇が朝鮮出兵を前に豊前から筑後の朝倉宮に移ったことは、それまで都のあった豊前の飛鳥に、飛鳥留守司がこのときから置かれていたのかも知れない。
その倭王はかつては伽耶王系を誇ったが、豊前にあっては応神天皇の頃より百済王系を尊び、磐井の乱における継体の勝利によって倭国は百済王系が、天孫王朝の伽耶王系の流れをを完全に駆逐したのである。
なぜ倭国が他国にちがいない百済復興に国運を賭け、新羅はともかく大国・唐と白村江の戦いに挑むほかなかったかは、この時の倭王にとって百済は母国そのものであったことに関わる。
当然、唐の倭国解体政策は倭国の百済派の駆逐に走った。
天智が大和を捨て六六七年に近江に走ったと『日本書紀』は書くが、これは豊前の大倭を捨て近江大津に逃亡したことを告げるもので、百済王系の天智は九州にいる限りもはや即位の機会はなく、手配の手を恐れてのことであった。
ここに邇邇芸命の天孫降臨以来、幾変遷しつつ六百年近く続いた九州王朝・倭国は天智において九州を見限り、近畿の近江大津に新天地を求めるほかなかったのである。
天智を百済に赴いた余豊璋ともその弟の余豊勇とする見解が生まれる理由であろう。
しかし、白村江の敗戦は唐・新羅 対 倭・百済残党の対立で、この海戦は唐対倭の間で行われたが、倭の全軍が唐と対決したわけではなかったらしい。中小路駿逸はそれについて、かつて「白江戦と日本文学史」の中で、和漢及び朝鮮の白村江の戦いの文章を突き合わせ、白江村の戦いにおいて戦ったのは中軍の四百艘で、前軍及び後軍の六百艘は拱手傍観し、倭軍は好戦派と和戦派に分かれていたとし、その和戦派とおぼしき倭国が戦いの八年前の六五四年に唐の高宗に琥珀と瑪瑙を献じたので、高宗は「王の国は新羅と接近せり、新羅、素より高麗、百済の侵すところと為る。若し危急有らば、王、宜しく兵を遣はして之を救へ」と書を下したという「唐会要九九倭国」の文献を披露した。
もしこれが豊前王朝の使いであれば、これは孝徳天皇(大王)の遣使となり、この唐・新羅との親交路線こそが、この前年、百済派の天智と孝徳の和解しがたい対立へ発展し、天皇を豊前の長柄豊碕宮へ残し、皇祖母、皇后と共に天智が飛鳥河辺行宮へ戻った理由は明らかとなり、辻褄が合うのである。つまり豊前にあっては、百済主戦派は天皇から見放されるほど、路線対立はきわどいものであったことがわかるのだ。
そうした中で孝徳の死、これは自然死ではなかったかも知れない。
そして斉明の重祖となり主戦派が復活し、百済救援軍の派遣が強引に進められたものの、いざ会戦となると主戦派に批判的な勢力は六割近くもあった事実が、それを証明したのである。
それを中小路駿逸は、かつて文献を渉漁したあげく、「奇妙だ」とこう分析した。
戦闘の経過の、どこが奇妙だと言うのであるか。
喪失したと認めらる倭の船の数が、全体の数にくらべて少なすぎる。――要はこの一点である。
千艘の船がいた。その中軍が突撃した。四〇〇艘が焚かれた。将軍一人が戦死し、降るものがあり、そして戦闘は終わった。ならば、あとの六〇〇艘はどうしていたのか。
どうなったのか。(中略)
浮かびあがる状況は一つであるように考えられる。
千艘の船のうちには、中軍の突撃に先立ってある程度戦い、利あらずして退き、そののち中軍の突撃に際しては行動を共にせず、中軍が敵に挟撃されて炎上壊滅するに際しては、これを援護もせず、唐の船隊を外方から襲いもせず、拱手傍観してこれを〃見殺し〃にした船隊がいた。その数は六〇〇艘である。――と。(「白江戦と日本文学史」より) かつてこの一文を引いて私は、この拱手傍観した後軍についてあれこれ書いたが、大和朝廷の前身としての豊前王朝の発見と、磐井の乱後の倭国の実権の推移を踏まえて言うなら、この戦いで唐・新羅との裏取引をしたのは豊前王朝の反主流派というより、おそらく倭の五王を補佐し、その血統が絶えた後は筑後勢力の中心に位置することとなった「藤は錦に次ぐ」と噂された藤氏の一統ではなかったか。いわば白村江の戦いは、藤氏であるかつての磐井の残党が新羅と謀って、百済派主戦派を煽って唐軍の前面に押し出し、手を貸す事なくこれを全滅さす謀略ではなかったか。
それゆえ、百済残党と倭人のよる州柔城を新羅軍が落としたとき、新羅の文武王が降った倭人に「未だ嘗て、交搆せず、但、好を通じ、和を講じ、聘問し交通するのみ、何の故に今日百済と悪を同じくし、以て我が国を謀るや」(『三国史記』)として、主戦派と共に半島に従軍するやむなきに至った者に、かつてから倭国は新羅と親しかったと説き、これを即時釈放し帰国させたことは、この戦いの裏での政治的駆け引きを暗示するに十分である。私はこの中心に天武が居たと今は幻視している。このことが敗戦後の倭軍の帰国がスムースにいった理由であろう。
しかし唐の占領政策による倭国権力機構の解体は、百済派はもとより、和戦派のかつての伽耶派にも及んだのである。その伽耶派は今は新羅派となったが、半島で六六八年に高句麗が唐・新羅軍の前に屈すると、残る新羅に対し唐は半島への野心をあらわにし、六七〇年となると新羅と対立し、戦火を交えるまでに半島情勢は再び緊迫した。
この唐の半島政策の変更は、倭国にあって唐の占領政策に不満な和戦派を新羅が糾合し、新羅・倭連合をひそかに生み出すと同時に、唐は昨日の敵は今日の友というわけで、百済派の近江の天智政権との関係修復に入る新たな段階を迎えた。これは息を詰め逼塞していた百済派の意気を大いに上げることとなったが、天智の病勢はもはや遺憾ともしがたいまでに進行していた。こうして歴史はまた天智崩御と共にまた大きな回り舞台として壬申の乱をもつこととなったのである。
この大乱を前後して日本古代史の舞台は九州から近畿へと移るのである。(H一五.四.二五)
※ 郭務宗の宗にはりっしんべんがつきます。