役君小角と「白鳳」年号
関口 昌春
いわゆる「九州王朝」説をとる人も、通説でも、西暦七〇一年から始まる《天皇の朝廷》に関しては、年号も(それ以後)連綿と続くし、安定した政権であるとの認識が一般的である。はたしてそうであろうか?
この政権の祖父の代は〈天智〉や〈天武〉である。その二人の天皇とも、〈孝徳〉の朝廷が年号[大化と白雉]を発布したことは知っていたはずなのに、二人とも無年号で過ごしてきたとされる。もっとも〈天武〉紀には「朱鳥」という年号を発布したと記されているが、すでに〈天武〉は発病してから二カ月も経過していたし、年号であるのに「アカミトリ」などと読ませたり、「よりて宮を名付けて飛鳥浄御原宮という」と注釈した因果関係も支離滅裂だし、とても〈天武〉が発布したものとは考えられない。さらに問題を複雑にするのは、〈天武〉紀というものの、その長兄である漢皇子の生存が推定される。『古事記』序文で太安万侶は〈赤い旗を輝かせて、華夏に凱旋し〉〈その政道は黄帝にまさり、その徳は周の文王にもまさった〉と称賛している。これはただ単なる美化とは考えられない。漢の高祖を意識した《赤い旗》にしろ、「華夏」という用字にしろ、周の文王との対比にしろ、その血筋にそのように称される何かがあったのである。
しかし、安万侶にそれほど称賛され、しかも十五年も《治天下》したにもかかわらず、その間、年号はついに発布しなかった。いっぽう「九州年号」は、その間、〈白鳳・朱雀〉が連続し、〈天武・治天下〉以外のどこかで、別の王権が機能していたのである。〈持統〉の治世になっても、那須国造碑に象徴的に示されるように、則天武后の
武周の年号「永昌」が(一地方では)使われていた。
そもそも年号というものは、きわめて政治的なものであり、たとえば新羅は五三六年から独自の年号を用いていたが、六四八年の入唐使者がそれを問責され、六五〇年から唐の永徽の年号を用いるようになった。日本列島においては、「治天下」とはいうものの、その範囲は限定されており、それぞれの治世のもとに、独自の年号が使われていたらしい。
現在、遺存する「白鳳」年号は四つ(あるいは五つ)ある。発布順に、
@六四九年[己酉]を元年とする【藤氏家伝に関する】もの
A六五一年[辛亥]を元年とする【役小角に関する】もの
B六六一年[辛酉]を元年とする【いわゆる九州年号】
C六七二・六七三年を元年とする【壬申の乱に関係する】もの
である。このうち@の白鳳は、「白鳳五年」から始まって、(その)十二年、十三年、十四年に記事を載せ、その後は「摂政六年」、(その)七年とつづく。ただ『書紀』との照合のなかで、最初の「白鳳五年」については「白雉五年」との混同が見られるようで、記事内容からすると「白鳳六年」となる可能性が高い。しかし「白鳳年号」の存続を十四年としていることは注目される【後述する】。
Aの白鳳については、『扶桑略記』に引用された『役公伝』に出てくるもので、二つの年次が記されている。
T 藤原宮御宇天皇代・白鳳四十七年丁酉歳二月十日
U 白鳳五十六年十二月廿五日
これから逆算される元年は、六五一年辛亥となる。Tの「丁酉歳」は六九七年であり、〈持統〉の最終年である。『書紀』は(なぜか)それを隠蔽しているが、この年の二月十六日に珂瑠(かる)=のちの〈文武〉は立太子したらしい。したがってTの日付は、その直前のものとなる。
またUは慶雲三年丙午[七〇六]年に当たり、〈文武〉死去の前年である。すなわち役君小角なる人物は、なぜか〈文武〉の即位・退位と密接に関係している。【ただし、Uの「白鳳五十六年」は「五十年」の誤記とも考えられる。後述する】
Bの白鳳は、いわゆる「九州年号」の終末期に当たるもので、〈聖武〉が神亀元年[七二四]の詔報で「白鳳以来・朱雀以前」と述べている白鳳であると考えられる。
【この白鳳は、じつに二十三年間も続いていた】
Cの白鳳は、いわゆる《壬申の乱》に関係するもので、その元年を壬申年に取るものと、その翌年の癸酉年に取るものと、二つの系列がある。これは、実際に〈天武〉【わたしの推測では漢皇子】が発布したが、『書紀』の大義名分のもとに隠蔽されたのか、それ以前の「白鳳」に釣られて、流布したのか分からない。この〈壬申または癸酉〉元年の白鳳を記録しているものには、『扶桑略記』や『愚管抄』や『麗気記私抄』(や神代獅子由来や田島薬師寺縁起)などがあるが、「朱雀」との混乱が見られるものもある。
今回、とくに取り上げるのは【役小角に関する】白鳳で、この人物の動向を伝える古記録はじつに多彩で、重要な内容を含んでいる。もっとも一般的な【役小角】像は『日本霊異記』で、それによれば、 ……役小角は幼少のころから博学で、三宝を信仰していた。その後、仙人となることを願望し、四十 歳を過ぎてから修行をかさね、ついに鬼神をも自在に使役できるようになった。そして吉野郡の金峰山から金剛山脈の葛城山まで橋を架けろと言ったので、鬼神らは困り果てた。〈文武〉の世に、葛城の一言主の大神が讒言して、「役小角は謀って天皇(の位)を傾けようとしている」と訴えたので、天皇は使者を派遣して捕らえようとしたが、その験力によって容易には捕らえられなかった。 そこでまずその母を捕らえたので、役小角も母を赦免してもらうため出頭した。そして伊豆の島に流されたが、海上に浮かんでは走り、飛べば鳳(おおとり)のようで、昼は皇命にしたがって島にいるが、夜には富士山に飛びのぼって修行したという。そして島にいること三年におよび、大宝元 年に許されて、仙人となって天に飛び去った。のちに道照法師が入唐し、帰路に新羅の山中で法華経を講義したとき、倭語で質問するものがあるので、「誰か」と問うと、「役の優婆塞」と答えた ので、姿を求めたが見失ったという。……
このあとに、その一言主の大神は、役小角に呪縛されて《今の世になっても》自由を奪われたままでいる、とある。この《今の世》がいつまでなのか分からないが、催眠術のようなものをかけて金縛りにしたのであろうか。
ここで問題点は、「天皇(の位)を傾けようとした」ことである。これが『三宝絵詞中』では「国王を傾けようとした」とある。また『本朝神仙伝』では「まさに謀反をせんとす」とある。いずれも重大な事態を予測している。ただ単なる役小角の《呪力》だけでは、そんな大それたことはできない。するとバックとなる賀茂役公や高賀茂朝臣の血筋とか・ひきいる勢力などがクローズアップされてくる。
この問題をさらに発展させ、具体的にしているのが『扶桑略記』である。ここでは、一言主の大神が【王宮】に『役の優婆塞は皇位を傾けようとはかっている……』と讒言したとある。ここまでは他書と大同小異だが、白鳳五十六年【換算すると慶雲三年】には勅使を島に派遣して、行者を刀で殺そうとしたら、その刀に文が浮かび上がったので、移し取ったら「富慈明神」の表文だったという。驚いて持ち帰り、天裁を待つと、天皇は博士を呼んでその表文を説かしめたところ、「天皇可慎宗」と読めたので、これは「大賢聖なり」と死罪を赦免したという。
ここで問題点としては、一つには白鳳【五十六】年という年次である。後文に「大宝元年辛丑正月一日を以て、母子ともに大唐にわたり去る」とあることから、この出来事は前年[七〇〇年]である可能性が高い。そうすれば月日の流れも整合的だ。『日本霊異記』のストーリーとも合致する。したがって正しくは「白鳳五十年」であったと考えられる。
もう一つの大問題は、刀に浮かび上がった「天皇可慎宗」の真意である。周知のように、翌年から年号[大宝]がスタートする。六九七年から始まった〈文武〉体制は、七〇〇年までは(いわば)準備期間であった。『続日本紀』においても、大宝元年正月一日をもって、「文物の儀、ここにおいて(始めて)備われり」としている。
つまり前年の役君小角の「天皇可慎宗」という表文を得て、めでたく【正式に】即位できた印象がつよい。この大宝元年は、〈文武〉にとってもめでたい年であった。『続紀』は元年条の末尾に「是年、夫人・藤原氏、皇子を誕す」と【付け足しのごとく】記すが、これを生んだ(藤原)宮子の母は、賀茂比賣とも呼ばれ、大納言・賀茂小黒麻呂の娘であった。時に、宮子の父の藤原不比等は四十三歳、大納言であった。
役君小角が、この賀茂氏の系図とどのようにつながっているのか不明な点が多いが、賀茂氏・加茂氏・鴨氏などの先祖伝承をたどれば、『古事記』に特記された「迦毛の大御神」まで行きつく。すなわち、大国主神と(胸形の奥ツ宮に坐す)タキリ毘賣とのあいだにできたアヂスキタカヒコネ神が(のちに)尊称されて「迦毛の大御神」と呼ばれ_hDF`K□メ低X継タo'ゥ□adeQfM_h なおこの年には、のちに〈聖武〉の妻となる光明子も生まれている。同い年の夫婦であるが、こちらは父が藤原不比等であり、四十三歳のときの娘であった。なお不比等は、これより二十年以上前に蘇我ムラジコの娘と結婚していて、すでに武智麻呂は二十二歳、房前は二十一歳になっていた。
それはともかく、この〈文武〉の諡は「天之真宗豊祖父」と言うらしい。「らしい」というのは、即位時点から「天之真宗豊祖父」と呼ばれていた可能性も無視できないからである。
役君小角の表文には「天皇可慎宗」とあった。〈文武〉の諡は「天之真宗」であり、微妙な類似がある。「慎」と「真」の違いを調べると、
「慎」−−心が欠けめなくすみずみまでゆきとどくこと。
「真」−−まこと。欠けめなく充実した状態。
とある。この二つの字にはそれほどの違いは見いだせない。むしろ問題は「宗」にあると考えられる。「宗」には、いろいろな意味がある(学研・漢和大字典による)。
@みたまや。先祖をまつる所。「宗廟」
A一族の中心となる本家。「本宗」「宗家」
B同じ祖先から出た一族。「同宗(同姓の族)」
C氏族団結の中心。「宗法」
〈文武〉は〈天武〉の孫とされる。この〈天武〉が漢皇子だとすると、〈文武〉は『古事記』の大義名分からすれば傍流になる恐れがある。のちに〈天武〉系の天皇が、皇室系譜から除外されることになるが、その危険性を〈天智〉系の母を持つことによって(なんとか)回避している印象もぬぐえない。もともと〈文武〉の即位は、〈持統〉からの禅譲である。「持統」という言葉には、百八十年前の「継体」と同じような意味合いが含まれている。つまり、その前の天皇が《異質》なので、再度、本来の系統を継ぐ意味がある。
〈文武〉の祖父は(おそらく)漢皇子だった。だから本来は「真宗」ではなかったのだ。つまり〈天智〉が定めたという「不改常典」が正常に機能していたら、すんなり後継に決まったはずなのだ。それが(『懐風藻』に記されているように)紛糾したということは、〈文武〉には《不改常典で定めた大義名分がなかった》ということである。
しかし、〈持統〉の執念によって、なにがなんでも譲位された身になってみれば、それなりの大義名分の付与が欲しかった。それを与えてくれたのが「迦毛大神」の本宗を継ぐ(と思われる)役君小角であった。
「天皇可慎宗」とは、どのような意味だろうか。「可」には「可・否」の用法があるように、「よろしい。さしつかえないさま。……してよろしいと認めることば」の意がある。すなわち〈文武〉より一段高い立場から、〈文武〉が「慎宗=真宗」を継いでよろしい、と認可していることばである。それを裏付けるのが、天皇家にはそれまで年号がなかったのに、「役君=役公」の立脚する政権には(少なくとも五十年にわたって)白鳳という年号が続いていたのである。
そして、【役小角に関する】白鳳年号よりも二年早く、【藤原氏に関する】白鳳がスタートしていたのである。もちろん【藤原氏に関する】白鳳といっても、それがダイレクトに鎌足に関係していたと考えることもできない。『藤氏家伝』を見れば分かるように、鎌足は《どこかの王権から》一五〇〇〇戸もの封戸をもらっていたのである。けして与える立場ではなかった。
しかし、二年違いで発布された「白鳳」という年号に関係する藤原氏と賀茂[役公]氏は、鎌足の死後十数年をへて、藤原不比等と賀茂比賣との婚姻という、いわば《白鳳の合体》を実現するのである。これは当時としては画期的なできごとであったはずだ。
《国ツ神》系の賀茂氏と、《天孫族》系の藤原氏とが結合し、その娘を、次期天皇と目されていたカル皇子【あるいはすでに即位していた〈文武〉】に嫁がせたのである。
このあと問題になる、母を宮子とする〈聖武〉の立場は、別に述べたいと思うが、のちの高賀茂朝臣氏だと言われる役小角と、賀茂比賣を母とする宮子と、その夫である〈文武〉との関係は、以上のような複雑な様相を呈している。
なお役小角を王宮に讒言したとされる一言主の大神は、『古事記』〈雄略〉条によると、天皇が葛城山に登ったときに遭遇し、大御刀や弓矢をはじめ、お伴の者の衣服を脱がせて、拝礼して献上した、とある。一言主の大神は、おそらく葛城氏が祭祀する神で、当時としても『古事記』に特記されるほど勢力を維持していたらしい。
その神が、二〇〇年以上を経た七世紀末に、賀茂氏と対立することとなったが、勢力に衰えをみせた葛城氏は、賀茂氏に太刀打ちできなかったらしい。もっともこれは仏法の経験を説く説話であるから、氏族対氏族の一般論に発展させることはできないかもしれない。それはともかく葛城氏も、その本貫の地において、長いこと、勢力を維持してきたのである。
『扶桑略記』には、役君小角の伝記として『役公伝』が引用されている。いっぽう、同時代の朝廷の重臣として任用されていた藤原不比等には、『淡海公伝』という伝記があったと伝えられている。どちらも「公」と尊称され、おそらく長文の伝記だったと推測される。残念ながら『淡海公伝』は現伝せず、『二中歴』に少し引用があるだけである。
さて「白鳳」という年号であるが、『扶桑略記』の筆者の注によると、合わせて十四年続いていたという認識があったらしい。したがって役小角の事件に関する「白鳳四十七年」や「白鳳五十六年」などに疑問を表明している。これは当然のことで、それほど長く一つの年号が続くことは異常である。しかし『役公伝』にそう書いてあったから、そのまま記したらしい。
ここで筆者の白鳳年号に関する認識が問題となるが、十四年続いた白鳳年号は二つある。一つは『藤氏家伝』の白鳳で、もう一つは〈壬申の乱〉に関係した白鳳である。 『藤氏家伝』の「白鳳」元年は、六四九年己酉【『書紀』では大化五年】十四年は、六六二年壬戌【『書紀』では中大兄皇子の称制二年】〈壬申の乱〉に関係した「白鳳」元年は、 六七二年壬申【壬申の乱の年】十四年は、六八五年乙酉【『書紀』では〈天武〉死去の前年】 『市民の古代』第J集によれば、「白鳳十四年(乙)酉」または「白鳳十三年(甲)申」の表記をした縁起や由緒が【数例】見られる。したがって壬申年を元年とする白鳳があったことは疑いない。問題は、その発布が乱の前か・後か、である。
『書紀』によれば、乱は六月に勃発、七月には終焉している。〈天武〉(あるいは漢皇子)が年号を発布したとしたら、八月以降となる。ところが現伝する縁起や由緒には、
「白鳳壬申春正月三日…」−−−−−福岡県(福地神社縁起)
「白鳳元年壬申三月十五日鎮座」−−群馬県(咲前神社縁起)
「白鳳元年壬申春二月四日」−−−−大阪府(箕面山秘密縁起)
「白鳳元壬申春依宣下」−−−−−−鹿児島県(開聞古事縁起)
「白鳳元壬申年三月任僧正」−−−−鹿児島県(開聞古事縁起)
などがあり、乱の以前から「白鳳」年号がスタートしていた可能性が高い。すると大友皇子が発布したのを(乱の後)そのまま盗用したのか、別人(漢皇子ではなく大海人皇子)が発布したのか、などの疑念が浮かび上がってくる。
すなわち〈天武〉紀の二重性を解明するには、「白鳳」だけでなく「朱鳥」とセットの問題として考えなくてはならない。また《九州年号》にある「白鳳」は、六六一年辛酉から六八三年癸未まで【二十三年間】続いていた。この間に、白村江の敗戦もあり、甲子の革令もあり、壬申の乱もあった。それらの事件に関係なく【九州年号】白鳳は続いていたのである。
この【九州年号】に関する論考は、すでに「古代の風」37・38・40号、および「古代史の海」2号に発表してあるが、百済の王権に関係していた可能性がつよい。そもそも『書紀』にはめ込まれた時間軸【六六一年辛酉を日本国の建国とする】が、朝鮮半島・百済の滅亡の翌年に設定されている。この前年に百済が滅亡したのは(あくまで)運命のいたずらと言うほかないが、その不運を(時をのがさず)自分の政治に利用し、甲子革令を遂行したのが〈天智〉であった。しかし〈天智〉はまだ即位していないから、その背後になんらかの(隠された)権力機構が存在していた可能性は否定できない。
それを逆説的に裏付けるのが、『書紀』に記された藤原鎌足の動向ではないか。鎌足は、この甲子革令の年をさかのぼること十年、白雉五年[六五四]に、 ……紫冠を以て中臣鎌足連に授く。封増すこと若干戸。…… と記されてから、〈斉明〉紀には記事はなく、なんと六六四年【中大兄皇子の称制四年】に、 ……中臣内臣、沙門智祥を遣わして、物を郭務宗に賜う。…… と記されるまで、『書紀』からは消えていた。そもそも中大兄皇子の片腕として、その政権の一翼を担っていたら、こんなことはありえない。この二つの記事からだけでも、不思議は見え透いている。まず封戸が「若干戸」とは何か。そして「中臣内臣」とは何か。これは『書紀』の編者が分かっていないためではなく、どちらも分かっていながら書けなかったと考えられる。このときの郭務宗への応対については、『海外国記』という書物に詳しく記されているので、その解析が不可欠であるが、そのなかに「日本
鎮西筑紫大将軍」とあるのが注目される。【別に詳しく述べたい】
『三国史記』新羅本紀によれば、文武王十年[六七〇]十二月、 ……倭国は国号を日本と改めた。(彼らは)自ら日の出るところに近いと言って(それを国の)名と した。…… とある。『海外国記』の記事によれば、牒書を大唐の客に渡したのは、『書紀』では中大兄皇太子の称制四年【『藤氏家伝』では摂政三年】である。すなわち新羅に遣わした使者が、国名の変更を告げるよりも六年早く、牒書に「日本」と記していたことになる。
そもそも甲子革令の年【六六四年=中大兄皇太子の称制四年】に「天皇」とあるのを、中大兄皇太子に読み取ることが《まちがいのもと》なのだ。このあとはみな「皇太子」と記している。したがってこの「天皇」とは中大兄ではない。それと一連の記事となるのが、同年に記された「中臣内臣」の記事である。この記事の前段にあるのが、 ……宣発遣郭務宗等勅。…… という分かりにくい文章である。岩波の大系本では「郭務宗等を発て遣わす勅を宣す」というように取っているが、これでは唐の客人を派遣することになってしまう。
「発遣」とは使者などを送り出すことであり、《郭務宗らを応対する使者を派遣する》意だと考えられる。そこで【その意を受けて】内臣である鎌足が、沙門・智祥を派遣し、郭務宗に物を賜与したのである。すなわちこの「勅」も中大兄とは関係ない。
さかのぼれば中国の正史『梁書』には、日本列島の東の方に「扶桑」という国があったと伝えていた。漢詩集『懐風藻』も、もともとは『懐扶桑』、すなわち扶桑(国)を懐かしむ意ではなかったか。その国が発展して、六世紀半ばころ「日本」となった。その日本国の将軍であったのが「中臣内臣」=鎌足であろう。その臨終の際に、「生きては軍国に務なし」と語ったという。そして「大樹将軍」の褒め言葉をもらったという。
【ここでも岩波の大系本では「大樹将軍之辞賞」を「大樹将軍の賞を辞す」というように読み下しているが、漢文として成り立たない】
白村江の戦いで《前将軍》としてもっともはなばなしい戦果を上げたのは、(新羅を攻略した)上毛野君の稚子であった。いっぽう大樹将軍として総指揮をとったらしい中臣(内臣)鎌足も、かつての扶桑国の中心人物だった。すると日本という国の成り立ちも明らかになってくる。『旧唐書』には、
@日本国は倭国の別種である。
Aその国は、日の昇るところにあるので日本と名付けた。
Bあるいは、倭国はその名が美しくないことを嫌って日本と改めたという。
Cあるいは、日本はもと小国で倭国の地を併せたという。
とある。すなわち、甲子の革令を発した「天皇」は、《旧日本》の主権者である。そ
れが誰であるかは分からない。しかしその後、【七世紀の】どの天皇も年号を発布できなかったのは事実である。
( 著作権は著者所有。 2003/11/18投稿分 )