中国・朝鮮に対する侵略と植民地支配の中で行われた日本国家の戦争犯罪―糾弾シリーズB
●中華人民共和国・国家公文書局は、8月12日から連日、日本の中国侵略と、東北部(旧満州)に対する不法強占支配下で行なわれてきた、日本国家による、おぞましい戦争犯罪の歴史的事実を、膨大な未公開文書の開示を通して明らかにしている。また同時に、黒龍江省、吉林省等の地方政府や、瀋陽市など地方行政機関の公文書館の資料開示を通して、中国民衆に対する、日本国による覆いがたい非人道的―非人倫的犯罪行為の詳細な実態を明らかにしている。
●それは、日本人戦犯に対する尋問調書、戦犯に対する裁判記録、また何よりも、関東軍司令部をはじめとする日本の軍部と占領下行政組織が、敗亡の過程で焼却し切れなかったり、破棄したものの、そっくり残っていた無数の事実資料に基ずくものばかりである。
『中国侵略日本人戦犯供述書選』第8回
日本人戦犯・上園福夫の供述書を公開 2015年08月20日
▲国家公文書局はは18日、公式サイトで『中国侵略日本人戦犯供述書選』(八)−日本人戦犯・上園福夫の供述書を公開した。
上園福夫の1954年8月17日の供述書によると、上園は1920年、鹿児島県生まれ。1939年に中国侵略戦争に参加し、1945年8月に捕虜になった。重要な犯罪行為は次の通り。
1939年7月、山西省安邑県で通訳らと一緒に、農民2人を「梯子に縛り付け水を飲ませ腹を叩き」、「更にムチで殴打し、最後には農民の両手の親指だけを縛って吊し上げ、再び殴打」した。「そのあげく2人の被害者を衛兵所の営倉の中に放り込み、一晩中吊し上げたまま放置し殺害した」。
1940年9月、山西省平陸県の刺殺訓練で「兵士約40人で農民10人を殺害した」。「私は1人の農民を駈足刺突にて刺殺」した。
1942年12月、山東半島のある村で、約48歳の女性を見つけた。ほかの兵士1人が「日本刀で女性のひざと太ももあたりを突っつき、むりやりに陰部を開かせ暴行した。このとき、私は室内にあった長さ約1メートルのコーリャンのわらを取り出し、陰部に突き刺し20数回かき回した」。女性はその後大量の失血で死亡した。
1943年4月、河南省臨淇付近で、「高粱畑に避難していた農民1人を逮捕し」、周りの人に命令を下し「農民の鼻をつまみ灰を口の中に押し込み、窒息させ殺害した」。
1944年11月、商河西南部のある村で、憲兵と一緒に農民3人を逮捕し、穴の中に火をたき「交互に突き落とし火あぶりの拷問を行い、これを何十回と繰り返して殺害した」。1944年6月から1945年4月まで、山東省済南で、「済南難民街に誘拐し監禁していた中国人女性に対して15回強姦した」。
1945年6月、山東省海陽県のある村で、「銃を突きつけ強迫し、35歳位の女性1人を2回強姦した」。
『中国侵略日本人戦犯供述書選』第9回
日本人戦犯・下坂清の供述書を公開 2015年08月20日
▲国家公文書局は19日、『中国侵略日本人戦犯供述書選』(九)日本人戦犯・下坂清を公式ウェブサイトで公開した。
1954年10月9日の供述書によると、下坂は1919年に広島県で生れた。1940年に中国侵略戦争に加わり、1945年8月に捕虜になった。重要な罪行には以下のものがある。
1940年5月4日、湖北省随県で「平和住民婦人約三〇歳位一名及子供男性七歳位一名、四歳位一名計三名を奥一室に監禁し扉を閉め藁を前に積みあげ、私はそれにマッチを放火し」「母子三名を焼殺しました」。
1940年5月、随県で仲間が捕虜3名を日本刀の試し斬りで殺害した。1940年5月、湖北省棗陽県で仲間2人が「中国人民婦人二〇歳位一名を輪姦し、後、一人が[「家屋にあった竹槍で其の婦人の陰部を三〇センチメートル程突き刺し虐殺した」。1940年6月、湖北省荊門県で仲間が平和居民七名を逮捕せしめ「後手に縛り一軒の家屋に監禁し、家屋内に藁を積み放火し」「七名の中国人民を集体焼殺しました」。
1941年8月、湖北省江陵県で農民一名を捕え「六寸の小刀をもって胸部を連続三回突き刺し惨殺しました」。
『中国侵略日本人戦犯供述書選』第10回
日本人戦犯・中尾邦広の供述書を公開 2015年08月21日
▲国家公文書局は20日、『中国侵略日本人戦犯供述書選』(十)日本人戦犯・中尾邦広を公式ウェブサイトで公開した。
1954年7月、10月の供述によると、中尾邦広は1921年に生まれ、原籍日本山口県。1940年中国侵略戦争に参加、1945年8月捕虜となった。重要な罪行には以下のものがある。
1940年4月10日、湖北省黄岡県において「抗日軍人捕虜二名年齢二〇〜二二才男子を虐殺することを命じた」。一名は炊事勤務兵に「刀で斬首殺害させました」、ほかの一名を複数の兵は「同時に銃剣で刺突し、穴の中に突き落し」「私は…死んでいない刺突された一名の抗日軍人を上から土を掛け円匙で叩き足で踏みつけ虐殺しました」。1940年10月〜11月、湖北省荊門県において「中国人民を實的射撃訓練の為」兵同士と共に「中国人民三名を射撃しました」「私は…軽機関銃、小銃で五〜六名の中国人民に十五発を射撃し一名の中国人民を軽機関銃で射殺しました」。
1942年6月、湖北省江陵県において、仲間は「中国人民一名男子三〇才を逮捕し、帯剣で刺殺させ以後腿の肉を切取り、天婦羅にし、小隊全員約四〇名(私を含む)に喰はせました」。1942年7月、湖北省当陽県において、部下は「付近通行中の中国婦人二名を逮捕し」「強姦を行いました。更に福岡は中国婦人の陰部に梨を入れ」「中国婦人は非常に苦しんでいました」。
吉林省公文書館 旧日本軍731部隊の人体実験を示す証拠を公開 2014年04月28日
▲延吉憲兵隊の「ソ連のスパイ・李基洙の扱いに関する報告」。朝鮮人・李基洙の経歴や逮捕された状況、延吉憲兵隊が李基洙をハルビン憲兵隊に移送したことなどを記録している。
第二次世界大戦期の大日本帝国陸軍に存在した研究機関731部隊は、国際公約に違反し、細菌兵器の研究、製造を秘密裏に行っていた。同部隊が行っていた生体実験や生体解剖の残虐さは、ドイツで行われたユダヤ人虐殺の象徴アウシュヴィッツ強制収容所を超える。
関連公文書が言及している「特別移送」とは、関東軍の憲兵隊などが、法廷での審理もせずに捕らえた捕虜やスパイ容疑者を731部隊に移送し、人体実験を行ったことを指す。
吉林?案(公文書)館には、「特別移送」に関する文書約200点が保管されている。公文書は、約277人に言及し、そのほとんどが中国人だ。今回、同館が公開した公文書4点は、その一部で、延吉憲兵隊や新京憲兵隊、孫呉憲兵隊が、李基洙、李文剛、王国財、姜栄泉などを731部隊に特別移送したことを記録している。
各地の憲兵隊の報告文書の右上には、関東軍の司令部「軍司二課」や「特別移送」などと書かれた印鑑が押されている。関東憲兵隊が出した「特別移送」関連の指令は、全て関東軍第二課に回されていたことからも「特別移送」の実際の組織者や指揮者は関東軍で、実行者が関東憲兵隊だったことが分かる。
旧日本軍は細菌兵器の研究、製造を終始「極秘」扱いしていたため、同文書は、関東軍憲兵隊と731部隊が共に犯した大罪を証明する、貴重な記録と言える。
731部隊に移送された捕虜などのうち、生還した捕虜がいることを示す証拠はこれまでに見つかっていないため、同館の「特別移送」関連の公文書は、731部が犯した悪行の動かぬ証拠となる。
瀋陽市公文書館 中国侵略日本軍戦犯11人の判決書を初公開 2015年08月20日
瀋陽市公文書館は19日、中国侵略日本人戦犯11人に対する軍事法廷の判決書を初公開した。日本人戦犯3人の瀋陽見学に関する資料、日本軍の捕虜となったオーストラリア人に関する資料も公表した。新華網が伝えた。
瀋陽市公文書館の馬鳳雲副館長によると、今回公開された資料は1946年から1948年までに国民政府主席東北行轅の戦犯軍事法廷判決書原本で、木村亀登、水本匡、根本英和、中村信男ら中国侵略日本人戦犯11人に関する計8件だ。「彼らは中国人民に対して拷問、殺人、掠奪、財産破壊などの重大な罪を犯し、1946年から1947年に軍事法廷で死刑や懲役の判決を下された」。
今回公開された資料には斉藤美夫、富永順太郎、成野宏が釈放後に瀋陽などを見学した資料、計6件も含まれる。三人は新中国成立後最後に釈放された戦犯で、1964年3月5〜11日に瀋陽で工場、共同墓地、清昭陵などを見学した。第2次大戦中に日本軍の捕虜となったオーストラリア人に関する資料も同時に公開された。
馬氏によると、今回公開された資料には捕虜の家族がオーストラリア赤十字を通じて奉天捕虜収容所で身内を捜した電文、日本軍が奉天で拘禁する自国捕虜の資産賠償問題に関するオーストラリアの関係政府の電文、死亡した捕虜の墓の処理のため専門の人員を派遣するオーストラリア政府の公文書などが含まれる。今回の資料は計204ページで、いずれも初公開だ。
吉林省公文書館 新発見の日本軍文書慰安婦が、日本政府の行為だった 2014年01月10日
1935年に東条英機が関東憲兵隊司令部に発した「極秘」の「関東憲兵隊冬季治安粛清計画」(1月7日撮影)。長春、ハルビンなどの都市および周辺で残存抗日武装人員を捕え、食糧、道路、武器の補給ルートを遮断することが主な内容だ。吉林省公文書館はこのほど、中国侵略関連の日本軍文書を公開した。
吉林省公文書館が新たに掘り起こした中国侵略関連の日本軍文書は、日本軍による戦時中の慰安婦強制連行が日本政府の行為だったことをはっきりと示している。新華網が伝えた。
吉林省公文書館が今回掘り起こし、整理した慰安婦問題関連の32件の書類は「憲兵月報」「南京周辺地区『治安回復状況』に関する報告」などで、慰安婦を強制連行し、奴隷的に酷使し、虐待した日本軍の狂暴な行為を詳細に暴露するものだ。
1938年2月28日の「南京周辺地区『治安回復状況』に関する報告」は南京周辺の下関、鎮江など9地区7カ所に慰安婦を設置した状況、現地駐留の兵士の人数、慰安所の慰安婦の人数、慰安婦が相手をした日本兵の人数、日本軍の慰安所利用状況を記録。これによると、この地区では最多で慰安婦1人が兵士267人に「利用」され、最小でも慰安婦1人が日本軍将兵71人の相手をしなければならなかった。文書は慰安婦の構成も記録しており、ある慰安所では朝鮮人慰安婦が36人いた。
「文書の記載から見て、当時日本軍は慰安婦に対して非常にむごく、慰安婦をひどい目に遭わせ、虐待することが日常茶飯事だった」と、吉林省公文書館「慰安婦」課題チーム長の王放氏は指摘。
「憲兵月報」には「鉄道工場の日本兵1名が酒に酔った後に軍の慰安所で慰安婦に暴力を振るい、器物を損壊した」との記録がある。「郵政検閲月報」によると、中国の庶民、日本の軍人および家族が家族や友人に宛てた手紙にも日本軍が慰安婦を奴隷的に酷使した犯罪行為の記録が大量にある。
▲中国侵略日本軍兵士が撮影した「慰安婦」の写真
王氏は「日本の政界、学界の一部右翼は慰安婦の強制連行、調達は国や軍の行為ではなく、民間業者の自発的行為だったと弁解し続けてきた。だが新たに見つかった文書から、日本軍による慰安婦強制連行が国の行為だったことを示す証拠が大量に見つかった」と語った。
1945年3月27日から4月19日までの「経済部、満洲中央銀行、奉天、牡丹江、鞍山支店及び日本大使館等の領事館経費、旅費、慰安婦調達資金等についての書簡・電報」には、満州中央銀行鞍山支店が関東軍第四課の承認を経て、軍用公費として日本軍の慰安婦調達専用資金の振替を行った記録がある。同様の形式の慰安婦経費振替は他の電話記録にも多くある。
吉林省公文書館の尹懐館長によると、同館は現在10万巻(冊)以上の関東軍の文書(うち9割が日本語)を保管。関東軍が中国東北部を統治していた1931年から1945年までの様々な事項が記録されている。
尹館長によると、中国侵略日本軍が自ら作成したこれらの文書は日本による中国侵略の歴史の最も真の記録だ。吉林省公文書館は昨年から日本語文書の翻訳、読み解く作業を進め、日本軍による中国侵略の罪証を大量に発見した。
<参考サイト>
☆民衆闘争報道/吉見義明教授の講演記録<3>(
奈良 2013年5月26日)
☆民衆闘争報道/吉見義明教授の講演記録<2>( 奈良 2013年5月26日)
☆民衆闘争報道/吉見義明教授の講演記録<1>( 奈良 2013年5月26日)
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