韓国民衆言論 統一ニュース <張成沢判決文を、どう読むのか>2013年12月17日付)
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「チャン・ソンテク(張成沢) 判決文」をどの様に読むのか(その2)
チョン・チャンヒヨン(鄭昌鉉)韓国・国民大学教授)
2004年から2年間の、‘革命化’の過程を経て
労働党の核心部署である組織指導部第1副部長として、外部から‘事実上のナンバー2’と言う評価を得たチャン・ソンテクが、政治局決定書で言及した‘打撃’を受けたのは、2004年始めだった。‘権力欲に依る分派行為’と言う理由だった。
2004年2月、チャン・ソンテクが管掌した部署の、党副部長の息子の結婚式が発端だった。結婚式に参席した或る幹部の運転技師(運転手)が飲酒運転事故を起こし、事故の経緯を調査した中で、この結婚式が豪華に進められた事実と、チェ・ヨンス人民保安相など高位幹部達が、チャン・ソンテクに‘列を作った’事が露見したと言う。事実、高位幹部の飲酒運転は、平素であれば、そのまま見過ごす事だが時期が悪かった。キム・ジョンイル(金正日)国防委員長が、‘絶対に飲酒運転はするな’と言う指示が下された状況だった為だ。
2003年6月16日、キム・ヨンスン(金容淳―訳注・日本にも馴染みの外交官、)対南担当秘書(書記)が、運転手の飲酒運転で交通事故が起こり、10月26日死亡するや、キム・ジョンイル委員長がこの様な指示を下したのだ。
この事件を契機として、リ・ジェカン、当時、組織指導部第一副部長の主導でチャン・ソンテクと彼の側近達に対する検閲がなされ。結婚式に参席した複数の幹部達が解任、解職された。
チャン・ソンテクは、私生活とともに、2002年10月北韓使節団18名中の一員として南韓に来た時の行動と発言で、集中批判されたものと伝えられる。
‘爆弾酒’(訳注―南朝鮮では、洋酒やビール、焼酎などを混ぜ合わせた酒を言う)の過飲、それに因る失敗、北韓経済に対する悲観的発言などが、俎板に上った。ソウルに来た時、‘ルームサロン’(訳注―歓楽街の飲み屋?)に行ったと言う説もあるが、可能性は大きくない。
2005年、チョン・ドンヨン(当時、南韓・統一部長官)がピョンヤンを訪問し、キム・ジョンイル(金正日)国防委員長に会った時、チャン・ソンテクの安否を問うや、キム・ジョンイル国防委員長は、‘南側に行って爆弾酒も覚え、体調が悪く休むことになった’とし、チャン・ソンテクのソウル(での)行跡が、北韓内部でも問題となっている事を示唆した。
特に、‘分派行為’で批判されたのは、2003年頃、パク・ボンジュ (当時内閣総理)が、ピョンヤン市光復街建設工事に資材を優先供給せよと指示した時、担当者らが‘チャン・ソンテク副部長の承認がなければならない’と報告した事が直接的な契機となったと言う。チャン・ソンテクは、職位から解任されたあと、キム・イルソン(金日成)高級党学校で自己批判をし、‘革命化’の過程を経験したと伝えられる。
2年間の‘革命化’(訳注−再教育?)以後、再び‘乗勝長駆(勝った勢いで駆け抜ける)’
2006年1月末、キム・ジョンイル国防委員長が、党中央委員会で開催した陰暦の正月宴会に、チャン・ソンテクは再び姿を現した。チャン・ソンテクは、労働党首都建設部第一副部長として復権して、ピョンヤン市再建設事業で成果を出し、翌年、党行政部長に昇進した。2008年8月、キム・ジョンイル委員長が脳出血で倒れた後には、(チャン・ソンテクの)夫人であるキム・ギョンヒ(金敬姫)と一緒に、政治的地位が更に高まり、2009年4月には最高人民会議で、国防委員として選出された。
2009年11月北韓は、電撃的に‘貨幣交換’(貨幣改革)を断行した。パク・ナムギ・党財政計画部長のワーク(仕事)と言うのが一般的な評価だった。
2003年パク・ボンジュが総理に任命されるが、党と軍部の牽制で力が落ち始めた2005年、国家計画委員長から退いたパク・ナムギは、党計画財政部長として復帰し、‘市場縮小’と計画経済強化の為に貨幣交換を実施した事で評価された。
一方、社会主義経済管理改善措置を主導したパク・ボンジュ総理は、2007年4月解任されスンチョン(順天) ビナロン連合企業所支配人に左遷された。
しかし、既存貨幣と新貨幣を、100対1の比率で取り替える貨幣交換が実施された後、ピョンヤンの場合、大多数の商店が門を閉めたし、産品の価格が新たに告示されず、流通市場が混乱に落ち込んだ。混乱を収拾する為に乗り出したのは、キム・ギョンヒ(金敬姫)、当時党軽工業部長だった。
“2009年12月中旬、キム・ギョンヒ(金敬姫)部長は、ピョンヤンから高級乗用車に乗り、北に向かった。ロシア風の毛皮帽子を深く目深く被ったキム部長は、ピョンアンド(平安道)を経てチャカンド(慈江道)、ハムギョンド(゙矢坡.
)など地方を巡礼しながら、貨幣交換以後現れた副作用と、民心を探った。
ピョンヤンを離れるに先立って、彼女はキム・ジョンイル国防委員長と単独で会い、長時間対話を交わした。地方暗行を終え帰って来たキム・ギョンヒ(金敬姫)部長は、貨幣交換後発生した経済混乱を収拾する後続措置などをキム・ジョンイル委員長に報告した。貨幣交換を主導したパク・ナムギ財政計画部長と国家計画委員会の一部幹部の虚偽報告と不適切な処身(行動)も挙論された。
キム・ギョンヒ部長が前面に出て、商店が再び門を開いた。禁止されていた市場での物品の取引が一部許容された。”
(上記は)2010年3月中国を訪問した時、チャン・ソンテク行政部長ラインに近い、或る中国貿易業者が伝えてくれた話だ。
キム・ギョンヒ(金敬姫)部長の報告に続いて、リ・ジェカン第一副部長の主導で、組織指導部の検閲が進められた。リ・ジェカンが書いたと知られる《革命隊伍の純潔性を強化して行く日々に》では、パク・ナムギ(朴南基)党財政計画部長に対し、“社会主義経済建設阻止し、資本主義経済方式を引き入れようとしたが首根っこを抑えられた。”とし、2009年11月の貨幣計画も、やはりキム・ジョンイル委員長が具体的な方向と方法を提示したのにパク・ナムギがこれを無視し混乱が引き起こされたと主張した。
パク・ナムギ部長は、2010年1月‘労働党本部党 大論争’で“南朝鮮式経済の受容が、資本主義制度に復帰する事が出来る最も速やかな道だと考え、市場経済を導入しようとした。”と自白したと言う。国家安全保衛部特別軍事裁判所は、2010年3月‘永遠の逆賊、パク・ナムギを処刑する’と宣告し、宣告直後パク・ナムギは、リ・テイル計画財政部副部長と一緒に、カンゴン(姜健)軍官学校で銃殺されたものと伝えられる。
しかし判決文では、“2009年、永遠の逆賊パク・ナムギ奴をそそのかし、数千億ウオンの我が(国の)金を乱発しながら、途方もない経済的混乱が起こるようにして、民心を混乱させる様に背後操作した張本人も、即ちチャン・ソンテクだ。”とし、貨幣改革に因る混乱の背後にチャン・ソンテクを指さした。いまでは、事実の当否を確認するのは難しい。
偶然であるかは分からないが、2004年のチャン・ソンテク検閲と、2009年のパク・ナムギ検閲を主導したリ・ジェガン組織指導部第一副部長は、2010年6月2日、交通事故で死亡した。当時、国内(南朝鮮)の言論媒体らは、キム・ジョンイル委員長と一緒に、軍部隊芸術宣伝隊の公演観覧に行ったリ・ジェガンが、深夜に交通事故に遭ったと言う点で、いろんな疑惑を提起した。リ・ジェカンの死にチャン・ソンテクが介入していると言う噂が、北韓内部に広まっていると言う説まで報道された。やはり確認されていない内容だ。
国防委員に選出され、海外資本の誘致に介入
リ・ジェガン死亡後、5日後である6月7日、最高人民会議第12期3次会議でチャン・ソンテクは、国防委員会委員として昇進してから、1年余ぶりに国防委員会副委員長に昇進した。ただし、パク・ナムギの失脚以後、経済政策の主導権はキム・ギョンヒ(金敬姫)部長に移った。
最高人民会議第12期3次会議で、新任総理にキム・イルソン主席の書記室長(秘書室長)出身のチェ・ヨンリムが起用され、2ヶ月後の2010年8月、パク・ボンジュは党軽工業部第一副部長に復帰した。当時国内(南朝鮮)言論達は、パク・ボンジュがチャン・ソンテクの側近だと報道したが、彼の復権は、キム・ギョンヒ部長の推薦で成し遂げられた。実際に2007年のパク・ボンジュ総理の失脚には、パク・ナムギの他にチャン・ソンテクの息が作用したと言う説が有力だ。
2009年国防委員に選出された後、チャン・ソンテクは、本格的に海外資本誘致に介入し始めたものと見える。この時から、朝鮮大豊国際グループが浮上し始めた。
2009年9月始め、キム・ジョンイル委員長は、貿易省と対外事業機関の主要幹部達が集まった席で、“米国を始めとする西欧資本誘致に力を注がなければならない”とし、対外貿易拡大と海外資本誘致を促し、その後、対外貿易機関に対する整理作業も進められた。
国防委員会がまず出た。国防委員会は2006年、香港に本社を置いて設立された多国籍投資会社−大豊グループを拡大し、海外投資誘致に乗り出した。
2010年1月20日、ヤンカクド(羊角島)国際ホテルで開かれた、朝鮮大豊国際投資グループ理事会1次会議では、大豊グループの理事長としてキム・ヤンゴン、朝鮮アジア太平洋平和委員会委員長(国防委員会参事兼労働党統一戦線部長)。常任副理事長兼総裁に、在中国同胞・パク・チョルスが選出された。理事会は、国防委員会、内閣、財政省、関係部署、朝鮮アジア太平洋平和委員会、朝鮮大豊国際投資グループ代表など7名で構成された。
理事長はキム・ヤンゴン部長だったが、後ろにはチャン・ソンテクがいた。大豊グループは、1年に100億ドル、10年に1000億ドルの海外資本を誘致し、社会基盤施設建設に投資すると言う遠大な計画を発表した。
しかし、大豊グループに対し内閣経済官僚達は、批判的だった。計画の現実性に疑問が提起され、内閣の対外事業とも重複した為だった。大豊グループに対する批判的報告書が、相次ぎ提出された。当時大豊グループに対する‘調査報告書’を提出した北側の或る関係者は、“調査して見ると、パク・チョルスの大豊グループは、香港に本社を置いたペーパーカンパニーで、資本金もほとんどなかったし、投資誘致能力も疑問視された”と語った。
2010年7月、北韓内閣は全員会議を開き、外資誘致専担機構として、「朝鮮合営投資委員会」を結成した。
外資誘致と合営・合作など、外国と関連された凡ゆる事業を統一的に指導する事を使命とする北韓の国家的中央指導機関だった。委員長には数ヶ月前、スイスから帰国したリ・スヨン−前ジュネーブ北韓代表部大使が担当した。その年の12月、朝鮮合営投資委代表団は、北京で中国商務部と、ラソン(?先)特区とアムロクガン( 鴨麹])の島であるファングムピョン(黄金坪)開発などの為の了解覚書(Mou)を締結するなど目に見える成果を出した。
しかし2011年1月、国家経済開発10ヵ年戦略計画が、内閣の決定として発表されたが、国家経済開発戦略計画に属する主要対象を全的に引き受け、実行する機関としては、朝鮮合営投資委でなく朝鮮大豊国際投資グループが選定された。正常な措置ではなかった。
結果的に、数ヶ月が未だ過ぎない内に、間違った決定だったと言う事が露見した。下半期から北韓言論媒体から大豊グループに対する言及がなくなり、次の年始め、大豊グループは朝鮮合営投資委に吸収された。
チャン・ソンテク判決文には、“(チャン・ソンテクが)偉大な将軍(キム・ジョンイル)が最高人民会議の第10期第1次会議で打ち立てた新しい国家機構体系を無視し、内閣所属の検閲監督機関を、身内徒輩の下に所属させたのであり、委員会、省、中央機関と道,市、郡級機関を、出したり無くしたりと言う問題。貿易また外貨稼ぎの単位と在外機構を組織する問題、生活費の適用問題(?―訳注)を始めとして、内閣で受け持ってきた一切の機構事業と関連した全ての問題を手中に掌握し、自分の勝手に、思うがままにする事で、内閣が経済司令部としての機能と役割を満足に(思い通リに)する事が出来ない様にした”と書かれている。
2010年にあった内閣傘下の朝鮮合営投資委と、国防委員会傘下の大豊グループの両立と葛藤問題に対し、チャン・ソンテクに責任を転嫁したものと見える。 (訳 柴野貞夫 2014年12月11日)
その3に続く)
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