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 キム・ヨンボム著「日本主義者の夢」プルンヨクサ社出版、日本語訳30

―朝鮮人による司馬遼太郎の歴史観批判―

 

 

‘東シルクロード’があったのか
 

 (原文241p〜247)

日本の昔の都市、奈良に行って見たら、中国と西域間のシルクロード(絹織物の道)が、いつのまにか、その場所(奈良)までつながっていた。唐国の首都長安(いまの西安)から東側へ延長される東シルクロードの終着地が、即ち奈良と言うのだ。奈良県で作られた英文広報用パンフレットには、長安を起点として西側にはローマまで、東側には奈良まで続く、シルクロードの幾つかのルートが鮮明に描かれている。

 

そのシルクロード地図の片側には、こんな文句が書かれている。

 

“奈良は日本最初の国際的な都市だった。我々はこの伝統を大事にし、文化と学術交流を通して、シルクロード沿線とその他の諸国家との友好関係を積極的に増進しようと努力している。”

 

東京駐在外国特派員達と会った柿本善也県知事は、シルクロードを集中的に研究し、昔に、既に‘国際的’である都市だった奈良を、‘国際化’した都市に発展させ様と言う夢に満ちていた。彼は、奈良の‘国際化’を何度も力を込めて強調した。以後、その‘国際化’の一環として、1988年には奈良で‘奈良―シルクロード博覧会’が開かれ、これを契機に、翌年には‘シルクロード博覧会記念国際交流財団’と‘シルクロード学研究センター’が設立された。その財団と研究施設を通して、シルクロード東端の奈良は、シルクロード学の中心地として浮き彫りされ、また古代文明の‘果て’にあった奈良が、今はシルクロードの新しい‘中心’にあると言う印象を外国人に植え付けた。

奈良、‘東シルクロード’の終点

 

長安から中央アジアを経て、ペルシャ、シリア、或いはローマまでのびて行く12000kmの長大な‘絹織物’交通路、それだけがシルクロードであると私は思っていた。だから‘奈良=東シルクロードの終点’と言う説には、本当に疑問となる他はない。一体全体、どんな発想から‘東シルクロード’と言う概念が生まれ出て、また奈良が、その‘絹織物路’の終着地となったのか?こんな場合、韓半島が中国文明の伝達で占める位置はどの程度なのか?

 

橿原考古学研究所付属博物館の泉森皎館長の講演を聴いている間にも、こんな疑問は消えなかった。

 

“我々日本人、特に昔の都市・奈良に暮らしている人の立場で見る時、シルクロード西側の終着点が中央アジアから西アジアへ、さらにもっと進んで、地中海沿岸のローマまで拡大されるとすれば、西安を起点として東側へ広がった文化伝播と貿易ルートは、東シルクロードと呼ぶ事が出来る。中国唐国時代、日本との文化交流を考えれば、東側の終着点は平城京(いまの奈良)となる。”

 

奈良は西に大阪、北側に京都を至近距離に置いている古代日本の政治・文化の中心地だった。特に7世紀末から、8世紀ほとんど終わりまで続いた古代日本の、<奈良時代>(696794)、その内、新しい都城―平城京(710794)を中心に繁栄した天平時代は、大陸文化の影響を多く受けながらも、日本独自の燦爛たる古代文化を発展させたものとして、日本の史家達は評価する。

 

当時中国では、隋国に続いて新たに建国した唐国(618~906)が、勢いある時期を謳歌していたので、古代日本は直ぐ、この唐国の中央集権的国家体制と政治体制をモデルとして、律令国家と言う日本歴史上はじめて、国家らしい体制を備えた国家を7世紀中盤誕生させた。奈良時代の古代日本は、唐文化の国際的性格とその時代の国家的色彩を融合した独自の文化をつくり、天平文化として花咲かせたと言う。したがって、日本の史家達は、天平文化の開花と隆盛は唐国との外交的、文化的、交流を通して可能だったと語る。

 

唐国との交流は、古代日本が海を渡り大陸へ派遣した外交使節団である遣唐使が主導担当したものと伝えられている。7世紀から9世紀まで264年の間、古代日本が唐国に送った遣唐使は全部で14回、8世紀だけで8回にもなる。遣唐使の規模は、概して100名から250名、或る時は500名を越える事もあったと言う。4隻の帆船に乗り、荒海を渡った遣唐使の一行の中には、留学生と留学僧達も含まれていた。即ち彼等が漢訳の仏教典を始めとして、留学関係典籍など各種書籍と唐国の発展した制度と文化を、日本に投入する大陸文化の伝播者の役割を遂行した。無論この時投入されたものは、制度と文化だけではなかった。遣唐使が帰国する道には唐国の仏教僧らとインドのバラモン僧、ペルシャ人と、その上、安南(ベトナム)人達も同乗し日本を訪ねた。

 

しかし、古代日本の遣唐使派遣は定期的なものではなかった。なお且つ、使節団の交流は殆ど一方的に、日本から唐国に行くだけのやり方だった。これは、日本の史家達も指摘している。したがって、日本の遣唐使が通よった海の道を、‘東シルクロード’と呼ぶことが出来るだろうか?

 

西域に通じる本来のシルクロードが、文化伝達ルートの役割も遂行したことは事実であるが、何だかんだ言っても、シルクロードは‘絹織物路’と言う意味が意味する文字そのまま、貿易交通路だった。貿易交通路であれば、政府の公式使節団とは別途で、商人達が行き交わなければならない。1980年、日本の

NHKTVが放映して視聴者達に大きな感動を与えたドキュメンタリーシリーズを見ると、その漠々たるタクラマカン砂漠地帯を過ぎる隊商の駱駝行列が出てくる。‘絹織物路’は、そのように異域の人びとが買いたがる珍しい品物をラクダにのせて、移動した道だった。

よみがえる古代日本人の大陸関係認識 


奈良まで繋がると言う‘東シルクロード’は、果たしてそんな商業的な、常設の海上交通路だったのか?それは、専門的な歴史研究家が詳しく解明する事項であるが、これと関連して、8世紀まで日本商船の大陸往来の当否に疑問を提起している日本の史家・鈴木靖民(スズキ・ヤスタミ)の意見に注目する必要がある。

 

“当時、朝廷以外(の人)に依る渡唐は、ほとんど考える事は難しかった。日・唐間に來往する商船が出現し始めたのは、9世紀中葉の承和(日本天皇の年号。834847)年間からだった。”

 

そうであっても、泉森皎館長は、‘東シルクロード’が存在したと主張する。彼が明らかにした‘東シルクロード’は二つの系統だ。一つは、揚子江下流の揚州から海を渡り、奈良に直接連結されるルートで、他の一つは渤海湾と韓半島沿岸を経由し日本に連結されるルートだ。また彼は、奈良を‘東シルクロード’の終着点と見る証拠として、古代日本の寶物倉庫である奈良の正倉院に保管されている貴重な文化財の中に、唐国から伝達されたものが多く、特にペルシャ・シリアなど西域の影響を受けた寶物がずいぶんあると言う点を挙げた。

泉森皎館長の講演を興味深く傾聴した外国特派員達の質問が溢れ出た。

 

“奈良が、‘東シルクロード’の終着点と言う主張は、国際的に学術的に公認された概念であるのか?”

“公認されたものではない。個人的に研究した結果、‘東シルクロード’があったものと考えている

泉森は、‘個人的な考え’と言ったが、彼の主張は、既に奈良県民には一般化された概念だ。東大寺とともに奈良の代表的な仏教寺院の中の一つと目される薬師寺のお坊さん達までも、奈良に、唐国と西域の影響が多く刻まれているとし、‘奈良=東シルクロードの終点’論を一生懸命に広報するほどだった。

 

そうであれば、新羅の文化伝播はどのように位置付けなければならないのか

 

新羅と日本は、8世紀、常にほとんど12年間隔で、ある時は、一年に二回づつ、使節団を交流しなかったか?しかもその交流は、相互的なものではないか?正倉院の新羅関係文書を検討した或る歴史学者は、新羅との交易品の中には、唐国・南海(東南アジア・インドなど)・ペルシャなどの物品があったし、日本に売った事も書いていないと指摘した。こんな物品は、それ以前の7世紀から日本に伝わったりしたが、それらは元来、新羅の遣唐使が唐国から貰った物と、新羅の商船が唐国の沿岸都市を回りながら集めたものを、日本が輸入したものだと言う。

 

8世紀後半の新羅は、農業・手工業の発展に伴って、商業活動が活発となり、特に卓越した朝鮮技術を背景として、東アジア貿易圏で主導的地位を占めていた。

その点に対しては日本の史家らも認めている。

この様に見れば、新羅が天平文化に与えた影響は、決して過少評価されてはならない。当時新羅は、唐国との交流に関する限り、日本よりずっと優位にあったし、新羅―唐の関係は日本―新羅の関係よりもっと緊密だった。新羅の遣唐使は、日本より大きい序列位を待遇されたのであり、その為に新羅―日本―唐国間の言い争いが広がったと言う話もある。

 

この様に、新羅が東アジア貿易圏を統治し、唐国から持ち込んだ珍しい物品を日本に再輸出するほどだったのであれば、‘東シルクロード’の終点は、むしろ奈良ではなく慶州(新羅の都)ではないのか。

しかし、私は強いて、慶州から長安へ続く‘東シルクロード’があったと主張したくはない。唯、奈良の人びとが‘東シルクロード’の存在を強調する動機の裏面に、大陸(唐国)との直接交流を前面に押し立てる事で、日本が昔日にも‘大陸文明の中心と連結線を持っていた’と、言いたい心理的傾向が潜在されていないかと言う点を、指摘したいだけだ。

 

大陸文化との直接交流を強調すればするほど、相対的に新羅−日本間の頻繁な文化交流の比重は低下される。これは、韓半島を経て伝わった大陸文化を‘経過文化’程度に心に刻んで置こうとする、一部日本人の韓半島認識とも脈を通じる。奈良の‘東シルクロード’存在論は、遠い昔日の新羅人達と‘小中華’を競った古代日本人の大陸関係認識が、現代版としてよみがえったものではないかと言う印象を漂わす。(続く)

今までの全訳文は、下記でご覧になれます)

 「日本主義者の夢」 キム・ヨンボム著 翻訳特集



(訳者解説)

「日本主義者の夢」連続翻訳を再開するにあたって

この著は、「戦争が出来る国作り」をめざす、第2次安倍政権が、日本が引き起こしたアジア諸民族に対する侵略戦争を、 "日本の自存自衛(日本が存在して行く為の自衛)と、アジアの平和の為のものだった“と主張して正当化する、日本国粋主義思想の歴史的背景の核心をえぐりだしている。それは同時に、われわれに、<在特>、<維新の会>など、日本の新たな装いを持った‘日本的ファシズム’の歴史的遺伝子を解明するヒントを与えてくれる。

この著を通して“誇るべき日本人として正体性(アイデンテイテイ)と矜持心(自慢)を呼び覚まそう”と、国民に呼びかける安倍の言葉の出所は、殆どすべて、日露戦争を「祖国防衛戦争」と評価し、アジア諸民族への侵略行為を正当化し、‘明治の栄光’を称賛した司馬遼太郎の著作にある事もあきらかになるであろう。

我々は、読者諸氏に改めて、この著の既訳文を読まれん事を願うものである。http://www.shibano-jijiken.com/NIHON%20O%20MIRU%20JIJITOKUSHU%20SR%20TOP.htm


●日本帝国主義のアジア侵略を、徹頭徹尾正当化した司馬史観

この著作の翻訳開始に当たって、当時(2010年1月)、我々時事研究会は、以下の様に指摘した。(この指摘は、安倍右翼政権の登場によって、益々今日のすがたを予見する事驚くばかりである。)

[江華島事件」から始まる、明治日本の朝鮮侵略の歴史への美化や忘却が、日本民衆の中に国家主義の復活と増幅を加速させている危険、その中で、「明治と言う時代」と、その「英雄達」をたたえる「国民作家」・司馬遼太郎の責任は重い。

1910年の、「朝鮮併合」と称する日本国家による朝鮮民族への暴力支配から、100年が経過した今もなお、日本帝国主義が朝鮮民族にもたらした災禍への精算は、(日本国家としての)歴史的罪科への謝罪も賠償責任の履行に於いても、放置されたままだ。

それどころか今、朝鮮・中国諸民族の犠牲の上に展開された、帝国主義列強の国家(資本家の)利益をめぐる暴力衝突としての日清・日露戦争を、司馬遼太郎の歴史小説の歴史観に沿って、日本の近代化へ貢献した祖国防衛戦争であると「評価」し「正当化」する試みが、大衆的プロパガンダとして展開されていることを、座視するわけにはいかない。

日本放送協会(NHK)による、3年にまたがる‘スペッシャルドラマ‘「坂の上の雲」は、司馬遼太郎の原作に沿って、彼の国粋主義的歴史観、彼の朝鮮の歴史に対する無知、彼の歴史の偽造の濫造の数々を、忠実に再現しようとしている。これは、販売実績1800万部を持つと言う「国民作家・司馬遼太郎」の、歴史的事実と思わせる「歴史文学」と、その根底にある、日本帝国主義創世期(明治)を正当化する歴史観を利用して映像化し、国民の国家主義的国粋的統合に収斂しようとする、今日の支配勢力の動きに他ならない。

日本的ファシズム(安倍自民、維新、在特)は、「アジア侵略の正当化とアジア蔑視の歴史」を「母」として生まれてきた。

この映像と、それに触発された司馬文学の読書を通して、歴史的事実をろくに研究することもなく、司馬の歴史文学が「歴史」だと勘違いする無数の司馬愛読者たちや国家主義者たちは、日本の歴史の罪を合理化し、日本民族の「優越性」と「自立できない朝鮮」と言う朝鮮民族に対する蔑視に満足感をおぼえているのである。当の司馬もまた、自分の「歴史小説」を、ある講演会で「フィクションではない。すべて事実を描いている。」と主張したのであるから、司馬が選択した「歴史的事実」しか知らない読者は、それが「事実のすべて」と理解すると言う訳だ。

今再び「映像」を契機に脚光を浴びた司馬の「歴史文学」は、その根底にある国家主義思想や、一国と世界にかかわる生産関係の中に、民族と人間の歴史発展の過程を捉えることが出来ず、歴史学で、もはや破綻している国家主義者の侵略正当化論でもある「アジア停滞論」「朝鮮停滞論」に固執した歴史観で支配されている。特に、朝鮮については、彼の紀行文や対談集、歴史小説での記述で、朝鮮を「自立できない国。自立しても生きることの出来ない国」と罵倒する。

その「停滞した社会」を「近代化に成功した日本」によって改革すると言う植民地合理化論、この福沢諭吉や伊藤博文とともに共有する司馬遼太郎の思想は、多くの日本の札付きの極右学者と国粋主義者を勇気付け、鼓舞している。

「在特会」や「救う会」等の極右団体による朝鮮人蔑視の思想や、在日朝鮮人襲撃、(朝鮮)共和国を狙う核武装論を公然と主張させる土壌を準備させている。

●「司馬の著作」と「司馬史観」を、「国粋主義・排外主義教育の歴史教科書」とした、藤岡一派と安倍政権

どこでどう間違ったか、一時は日本共産党に籍があったと自称する、現「新しい歴史教科書を作る会」会長・藤岡信勝(拓殖大学教授)は、「南京虐殺も、日本軍の従軍慰安婦も存在しなかった。」「大東亜戦争は自存自衛の正しい戦争であった。」と主張する歴史の捏造者であるが、「‘坂の上の雲’の時代と歴史の教訓」と題する文で、「近代日本が近隣のアジア諸国に対する凶暴な侵略者であったかのような、歪んだ歴史教育を学校で刷り込まれた世代にとって、初めて自国のまともな自画像を手にすることが出来た。『坂の上の雲』を読んで、初めてリアルなイメージをともなった歴史の全体像を描くことが出来るようになった。」と、司馬に感謝し、それを賞賛するのである。

藤岡は、司馬の歴史小説から、「日本の本当の歴史を知った。歴史の全体像を描けた。」と言うのだ。

かれは、司馬の歴史観からヒントをもらい、「自由主義史観」なるもので、国家主義的史観による歴史の偽造と歪曲に精を出している。

拓殖大学長の渡辺利夫は、「新脱亜論」(文春新書)で、「日本の歴史を知ったのは、司馬遼太郎の‘坂の上の雲’からだ。・・国力と軍事力において圧倒的に劣勢であった日清・日露戦役の日本が、勝利したのは何故か、指導者の徹底的に怜悧な状況認識と果敢な戦略にあったと見て間違いない。日本は、日英同盟や日米同盟、つまり英・米のアングロサクソンの海洋覇権国家と結んでいた時代に孝福を手にし、中国ロシアと言った大陸国家への関与を深めたときが不幸な時代であった。今こそ、睦宗光よ出でよ。」と叫び、日本は直ちに集団的自衛権を持つべしと、中国と朝鮮に対する軍事的威嚇の必要性を主張している。

アジアの諸民族に塗炭の災禍をもたらした時代の始まりを「幸せな時代」という渡辺の主張は、司馬の歴史観の行き着く先を示している。司馬が「栄光の明治の英雄」と描き、渡辺がそれを鵜呑みにする睦宗光とは、日清戦争後も“日本が朝鮮に残ってほしい”と言う“要請文”の原案を、朝鮮政府が要請しているかのように偽作した、姦計と偽計を企んだ張本人である。司馬は、その歴史小説で、この事実に目もくれない。事実に当たらずに記述し、或いは事実を都合よく選別し、歴史的事実と思わせる記述をして、歴史の偽造を至る所でおこなっている。

NHKは、『坂の上の雲』の視聴者むけ宣伝文句で、司馬歴史小説の役割を次の様に位置付ける。

「『坂の上の雲』は、国民一人ひとりが少年のような希望を持って、国の近代化に取り組み、そして存亡をかけて、日露戦争を戦った「少年の国・明冶」の物語です。・・・この作品にこめられたメッセージは、日本がこれから向かうべき道を考える上で大きなヒントを与えてくれるに違いない。」と。

●日本の朝鮮支配を、“朝鮮民族が近代化を行う能力が欠除していたから”と正当化。べトナムが大国の支配をゆるしたのは、“ベトナム人自身の責任”と帝国主義を擁護する司馬遼太郎は、日本的ファシズムの理論的支えとなっている。

司馬の歴史観に沿って、明冶天皇制政府による、遅れてやってきた日本帝国主義の侵略的膨張主義に基づく「日露戦争」を、「国家の近代化と存亡をかけた(正義の)戦争と,何はばかることなく賞賛し、東北アジアと朝鮮の植民地支配を正当化し、それを現実世界に生かせと、民衆を扇動する日本放送協会は、司馬を国民作家と仰ぐ日本の民衆の脳髄に靖国/遊就館の展示説明にも負けない、歴史の歪曲を植えつけようと企んでいるのだ。いや、それと同じくらい、司馬の歴史小説を当たり前のように受け入れてきた日本の民衆の国家主義的土壌に対してこそ、まず、警告しなければならないのだ。

司馬遼太郎の、根底的歴史観、民衆の戦いに対するぞっとするほどの否定的思想を示す例として、次の文章を抜粋する。

「大国は確かによくない。しかし、それ以上によくないのは、こういう環境に自分を追い込んでしまったベトナム人自身であるということを世界中の人類が、人類の名において彼らに鞭を打たねばならない。」(司馬遼太郎 「人間の集団について−ベトナムから考える」−中公文庫)

1940年の日本帝国主義軍隊よる仏領インドシナの占領が、日本天皇制国家による「大東亜共栄圏」を建前とした侵略行為であったことは明白な歴史的事実である。司馬の文章には、この事への、一つの言及もない。日本占領軍によるその後のインドシナ独立運動への弾圧、日本占領下のベトナム民衆200万の餓死者に対する戦争責任への、司馬の自国国家批判も無い。そして、日本軍敗走後のフランス帝国主義支配からの独立闘争をへて、なおアメリカ帝国主義の介入に対し戦い続ける帝国主義被抑圧民族への、如何なる歴史的言及も無い。日本と欧米帝国主義国家と戦ったベトナム民衆にたいする許しがたい冒涜の文章と言うべきであろう。悪いのは植民地支配した列強ではなく、それを受け入れた、後れたアジアの民衆の側だーと言うわけだ。

ベトナム民族にたいしても、日本よる「朝鮮の併合」が、「朝鮮半島と言う地勢的条件と近代化を行う能力の無い朝鮮民族」の側にあるとの自説を、至るところで披瀝する司馬の思想が貫かれている。

これを、アジア蔑視、自国民族優越主義(人種主義)―国家主義といわなくて何と言うのであろう。司馬の歴史観と思想が、日本の国粋主義者の拠り所となっていることは明らかである。]

以下は、「日本主義者の夢」原著(朝鮮語)・卷頭の<著書の紹介>文である。

プルンヨクサ(出版社)による <著書の紹介>

この、1999年に刊行されたキム・ヨンボムの「日本主義の夢」は、21世紀を目前にした転換期の四つ角で、政治・軍事の大国化を追求する日本国粋主義者たちの正体と、彼らの主張する、日本アジア主義の危険性を深層的に解剖した本だ。

帝国主義・明治―昭和時代の、大陸侵略思想の歴史的軌跡を概観し、この「現代版復活の動き」に、思想的栄養分を提供した国粋主義的な人気作家・司馬遼太郎の歴史観・文明観を集中的に暴き出した。

‘明治の栄光’を叫ぶ日本国粋主義者達の全体に光を当てた本だ。

日本の最高の人気作家・司馬遼太郎から、挺身隊の記録削除を主張した(新しい歴史教科書を作る会の)藤岡信勝まで、日本列島の地層に敷き詰められている認識の根を探し出す。

日本の国民作家と呼ばれた司馬遼太郎は、歴史小説を通して日本人の‘自負心’を目覚めさせてやっただけではなく、日本の優越主義を絶やすことなく注入した。

著者(キム・ヨンボム)は、彼(司馬遼太郎)が、近代化に成功した日本と、停滞した韓国の植民地化を対比させながら、どのように韓国を貶(おとし)めたのかを見せてくれる。

著者は、妄言の解読法と独島領有権問題、平和憲法の改憲の動き等に対する対応方案を模索しながら、‘彼らの狭量な民族主義的試みが、むしろ孤立を自ら招くもの’と、警告する。

日本社会の保守化を背景として、復活している日本帝国主義の性格を指し示した本だ。国粋主義者たちの正体と彼らの主張する日本アジア主義の危険性を解剖するのに多くの紙面を割愛した。

ここで、日本主義と言うのは、198090年代、顕著に海外侵略と膨張主義を指向し、‘明治の自慢’と‘明治の栄光’だけを指標としようとする人々を言う。

代表的な国粋主義者は、人気作家・司馬遼太郎である。明治の合理主義精神とリアリズムを讃揚する彼の史観は、日本政府の公式文書にまで引用される位、莫大な影響力を及ぼしている。

朝鮮は、朱子学を土台とする停滞した国だったと言うのが司馬の史観だ。著者は、国粋主義者達の間違った史観を、条目ごとに批判する。