(韓国・民衆言論 チャムセサン 2008年3月19日付)
李承晩大統領の銅像建立の主張は、国民と歴史に対する冒涜行為
キム・マンシク
○ イ・スンマン大統領の銅像建立の主張
除隊軍人の団体である、国民行動本部(本部長、大領=大佐・ソ・ジョンカム)は、2008年3月6日朝鮮日報に、‘イ・スンマン、建国大統領の銅像を新たに建てましょう’と、広告をしたが、次のような主張をした。
1. イ・スンマン大統領は、大韓民国を、自由民主主義と市場経済の国家理念の上に打ち立てた、新しい偉大な民族指導者でした。
2. 農地改革、教育改革、韓米同盟構築など、イ・スンマン大統領の業績があったために、パク・チョンヒ大統領の近代化が成功することができたのです。
3. 昨年韓国銀行は、高額券にイ・スンマン大統領に代わり、キム・ク(1919年中国上海に臨時政府を立てた独立運動家・・訳注)、甲師任堂(朝鮮中期の女流書家・・訳注)の顔をいれることにしました。
4. 建国60周年にあたる今年、イ・スンマン博士の銅像をソウルの真ん中に立てなければなりません。
○ イ・スンマン大統領の銅像が撤去された背景
しかし、6・25戦争で全国土が破壊され、国民達が生活難に苦しんでいる中で、イ大統領は独裁をするにも、奸臣たちが、ソウル・ナムサンに大規模に床を大理石で敷き詰め、巨大な銅像を建てたとき、国民達の怨声が、どれだけひどかったのか知っているのか?訊ねて見たい。
どんなにか我慢できなくて、1960年4・19学生革命時、イ・スンマン(李承晩)の銅像が撤去されたのか。
したがって、独裁者イ・スンマンとパク・チョンヒの銅像建立と国立墓地埋葬も駄目な理由を、われわれすべてが調べてみよう。過去の歴史を正確に分からなければ間違った判断をすることと為るからだ。
○ 独裁者イ・スンマン(李承晩)大統領は、自由民主主義を蹂躙した。
1948年9月10日国会で、親日反民族行為者処罰法を作り、反民族特別委員会で親日派を拘束し始めるが、イ・スンマン大統領は親日派らと手を握って権力賭博にはまり、武装決察が反民特委を襲撃して親日派を解放することとするなど、親日派清算を徹底的に妨害した結果、歴史の正義を通す事が出来ず親日派の世相となるのを見ると、歴史意識と社会正義が麻痺された国を作ったため、歴史の反逆者となった。
そんな結果、親日派であるパク・チョンヒ(朴正熙)少将などが、銃剣で政権を強奪することと為ったのであり、1920年代初、発行した朝鮮日報(社長・親日派、パン・ウンモ)と東亜日報(社長・親日派、キム・ソンス)、1965年発行した中央日報(社長・親日派、ホン・ジンギ)など三大守旧新聞は、軍事独裁を褒めたたえ寄生するかと思うと、キム・デジュン(金大中)政府時からは、民主平和改革政府を、嘘と詭弁と扇動宣伝で欠点だけ載せたように、ハンナラ党とチョ・チュン・トンなどの親日と軍事独裁守旧勢力と言う、アムトンオリを後世に相続させ我が国の発展を妨げている。
それだけでなく、1952年避難首都であるプサンで、間接選挙制大統領選挙に自信がないので、国民が選ぶ大統領直選制を通過させようとバスで国会の会議に参席しに行く野党議員を、共産党偽装活動家と言う口実で拘束し、警察と白骨団と、タッポル集団の民族自決団等の幽霊団体らが国会を包囲した中で大統領直選制改憲案を通過させた。
これでも足りず、国会は1954年、初代大統領だけ、終身大統領をするように再任制限を廃止する憲法改定案を可決したが、一人が不足なのに、四捨五入と言う数学公式を導入し出鱈目に可決した。
またこれでも足りず、1960年3・15正・副統領選挙時、官権介入などの不正選挙が甚だしく、4・19学生革命時、警察の銃弾に数百名が死に、数千名が負傷を負ったのに、歴史の反逆者である永久の独裁者が、どうして国立墓地に埋められるのか。
○ 独裁者パク・チョンヒ(朴正熙)大統領は、自由民主主義を殺した
更には、パク・チョンヒ前大統領は“麦峠”(その年の麦が収穫されるまで、穀物が尽きる時期を生きるために乗り切る、越えにくい峠の意。即ち命を乗り切る峠を指している。−訳者注)を取り除いたと言うが、それ一つで彼の数多い罪を洗うことは出来ない。
1. 満州軍官学校と日本陸軍士官学校卒業後、日本軍将校になるが1945年8・15解放後、光復軍に入隊した後帰国し陸士二期で卒業するが、日本天皇を褒めたたえ日本殖民支配に寄生した親日派だ。
2. 1948年、チョンナムヨス(全南麗水)とスンチョンで南労党(南朝鮮労働党)共産軍反乱時、パク・チョンヒ少領は最も高い階級であったし、死刑求刑時、軍部内の南労党党員達の名前をぶちまけて軍部内南労党組織表まで描き提出した功労と、満州軍の先輩達の救命運動で減刑されたので、数日後釈放され復職したが、共産主義思想犯として軍事反乱に参加する程に、目的のため手段と方法を選ばないことを見せてくれた。
3. 1961年5月16日パク・チョンヒ少将等が、クーデターを引き起こすとすぐ、米国がパク・チョンヒの思想を調べ回ったと言う情報により、米国の認定をうけるため、チョ・ヨンス民族日報社長を革命裁判に回付し朝総連系から不法資金を受けて北韓傀儡集団が指向する目的遂行に積極活躍したと言う罪を作り、1961年12月22日32歳の歳で、憤怒やるせないことに、死刑とした。
それだけでなく、保導連盟関係者と、革新政党関係者の左派イデオロギーに染まった知識人社会人団体と労組指導者など4千余名の社会不満勢力と左翼活動協力者らを逮捕拘束した。
このようにパク・チョンヒは、(自らの)パルゲギ(“アカ”共産主義者)経歴を洗濯する(洗い流す)為、赤狩りをした。
4、チャン・ミョン(張勉)民主政権が経済開発五カ年計画を発表しようとする瞬間、パク・チョンヒ少将などがクーデターを引き起こさなければ、韓・日会談で植民地賠償金を韓国側が18億ドル、日本側が12億ドル主張したので中間の妥協で15億ドルを受け、自由と人権を享有し“麦峠”をより一層越えることができた。その当時は国内と国際経済規模が小さく、15億ドルは大きな資金だった。例えば、1964年我が国の輸出は1億ドルだったのだから。
そうであるが、パク・チョンヒ軍事政権は韓・日会談でわずか無償3億ドルを受けると、米国が願わない(頼んだわけではないのに、の意か?−訳者注)ベトナム戦争に自ら進んで乗り出し、越南(ベトナム)特需で10億ドル稼ぎ、麦峠を取り除いたと国民を洗脳させたが、ベトナム戦争で国軍戦死者五千名以上と傷痍軍人一万六千名以上が発生し、枯れ葉剤で苦しむ人々を誰が責任を引き受けると言うのか。
5、永久執権のため、空前絶後の維新体制をつくり、緊急措置1号から9号まで公布して、国民達を檻の中に閉じ込めておいて、言論、出版、集会、示威、結社等の自由を剥奪し、自由民主主義を取り除いてしまった歴史の反逆者となった。
そんな結果、民主化人士達と大学生達が拘束と拷問などで苦痛を受け、甚だしくは、でっち上げられた“人民革命党事件”に関連したと死刑の宣告を受けた8名は、1975年4月8日大法廷で上告棄却され、次の日明け方六時死刑執行されたのだが、上告棄却されてから20時間しか経っていなかった。
拷問の事実が暴露されるまで、恐ろしいことに、遺族の同意なく火葬されてしまったので、法院と裁判官は、あってもないのと一緒だった。
6、共和党財政委員長が政府建設ごとに、10%収金し、パク大統領に上納し共和党政治資金として使い、野党の一部政治人と、あちらこちらにばら撒き、蜜を食べた口の聞けない人と、サクラ(同じ穴のムジナ)、ボスサクラも作ったし、中央情報部儀典課長が彩紅使となり酒色も約束し、組織暴力団の頭目として、不正腐敗のボスとなった。
7、1963年大統領選挙時からパク・チョンヒを当選させる為、地域感情と地域葛藤の地域主義を作った結果、現在も国民がずたずたに裂かれて、国民和合は大変で地域葛藤と地域主義が継続する。
8、内閣責任制のチャン・ミョン(張勉)総理が、1960年8月23日国会の任命同意を受けたのだが、パク・少将らは、1961年5月16日9ヶ月もならないのに無能腐敗して、銃剣をもって現れ、甚だしいのは、陸士8期の中心として1961年9月10日からクーデター謀議をしたのだが、どうして18日で無能腐敗した政府になることが出来るのか。
パク・チョンヒ少将などが権力に至り嘘で国民を扇動した証拠だ。そうであるから、パク・チョンヒ少将らは、民主政権を銃剣で強奪するだけでなく言論、出版、集会、示威、結社などの自由と人権を踏みにじり自由民主主義を殺し歴史の方向を逆に行き、歴史の正義と社会正義を取り除いてしまう為に歴史の反逆者達だ。追従者たちも歴史の反逆者である逆賊である。
○ 独裁者達が国立墓地に埋葬されたのは正義が無い証拠だ
したがって、独裁者らが国立墓地に埋葬されたのは、歴史の正義と社会正義が全て殺されてしまった証拠だ。そうであるから、一日も早く独裁者らを国立墓地から追放することこそ、忘れてしまった正義を蘇えらせることが出来る。
独裁者らが国立墓地にいる限り、追従者らが国立墓地に集まって大手を振ることとなり、国民は間違った理解をする為に、あらかじめ広報した後、個人墓地に移転する様にしなければならない。ナムサン(南山)に立ったイ・スンマン(李承晩)大統領の銅像も撤去したのであり、どうして独裁者を国立墓地に埋葬したままに出来るのか。
(訳者 柴野貞夫)
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