(韓国・チャムセサン 2007年11月20日付)
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韓国軍、1950年に無実の済州島民218名を“集団銃殺”
イム・ジハン記者
韓国戦争(朝鮮戦争― 訳注)勃発直後、戦闘が無かったチェジュ(済州)地域で予備検束者218名が日帝時代弾薬庫として使っていた洞窟で、韓国軍・海兵隊によって集団銃殺されたのが明らかになった。
「真実・和解の為の過去史整理委員会」(過去史整理委)は、去る13日、第58次全員委員会・会議で、韓国戦争時期に不法的に成し遂げられた民間人集団犠牲事件である“済州予備検束事件(ソサロルム)”に対して真実究明決定を下した。
過去史整理委は、韓国戦争勃発直後、警察に予備検束された218名が1950年7月16〜20日、8月20日の2度にかけてチェジュ(済州)島、南チェジュ(済州)郡・テジョン(大火)面、サンモ(相貌)里 (現、西帰浦市 大火邑 相貌里)のソサロルム(下記訳注 1・参照)に位置した日帝時代弾薬庫として使った洞窟で海兵隊司令部モスルポ部隊の第5中隊第2小隊員、また第3隊隊員によって集団銃殺された事実が究明されたと明らかにされた。
1950・6・25.内務部治安局‘予備検束’指示・・・予備検束者のDCBA、4等級で分類、DC級は、2度に亘ってソサロルムの弾薬庫で大部分銃殺
発表によれば、1950年6月25日済州島警察局は、内務部治安局の通牒を受けて管轄する警察署で要視察人、また不純分子など、予備検束対象の住民たちを一斉に拘禁するのを指示したし、これに従って、モスルポ警察署管内の予備拘束者たちは、寺のサツマイモ倉庫、ハンリムの漁業組合の倉庫、ムルン支署の倉庫に拘禁されて、モスルポ警察署は、予備検束者たちを等級別に分類して、名簿を作成した。
全体のDCBAの、4等級で分類された予備検束者のなかで、BA級は釈放または拘禁されて、残りDC級は1950年7月16日と、8月20日ごろ2回に亘って海兵隊に送致されたのが確認された。
当時ムスルポ警察署の報告によれば、管内総てで344名を予備検束しDC級252名を送致したのを把握された。この中の一部は釈放されたが、大部分銃殺されたのを見るとき、警察の等級分類が銃殺の重要な判断基準として作用したものと見える。海兵隊に送致された予備検束者たちは、2回に亘って集団銃殺されたことが明らかにされた。
1次の銃殺は、海兵隊ムスルポ部隊によって1950年7月16日〜20日ごろに執行された。モスルポ海兵隊員たちは、銃殺場所であるソサロルム弾薬庫の場にあらかじめ到着して、待機したあとトラックに載せられてきた民間人達を洞窟の入り口に一人ずつ引張って行き、銃殺を執行した。
続いて1950年8月20日、モスルポ駐屯海兵隊の第3大隊隊員たちは、警察から引き継いで受けた予備検束者たちを、軍トラックを利用し、1次銃殺の時と同じ場所であるソサロルム弾薬庫に引張って行き、予備拘束者たちを銃殺したことが明らかとなった。
1950年警察予備検束者を不法に・・・・はなはだしく恣意的に従って分類 海兵隊、戒厳関連法令でも、布告無視・・不法「集団銃殺」勝手な行為
事件の発端となった警察の予備検束は、解放後廃止されて政府でも公式的に施行されない制度だった。しかし、1950年6月25日韓国戦争が勃発するやいなや、チェジュ地域警察は、内務部治安局の指示に従って、どんな法令や規定でも根拠がないまま、予備検束を不法に実施した。
予備検束の犠牲者達大部分は、チェジュ4・3事件(訳注2)や左翼活動と直接関連が無いのにも拘らず、警察の一方的基準に沿って分類されたし、特に誣告や密告、警察との不和、個人的感情揉め事で予備拘束された場合も多かった。銃殺を執行した海兵隊司令部(チェジュ地区戒厳司令部)は、政府の公式的な戒厳令の宣布以前に、不法的に戒厳令を宣布して予備検束者の拘束や、釈放に最終権限を行使したことを把握した。
さらに、海兵隊司令部は予備検束者の処理過程で、戒厳関連の法令や布告などを、全く適用しないまま、犠牲者たちを不法に集団銃殺したことを明らかにした。
過去史整理委“戦時、非武装の民間人保護、不当命令拒否権”法、制度準備を勧告
過去史整理委は、事件と関連して予備検束の実施また関連者の集団処刑がもつ全国性、重大性、そして軍、指揮命令系統を勘案するとき、イ・スンマン(李承晩)大統領と当時国防部長官は、予備検束と銃殺を指示したり、報告を受けた可能性が大きく、最小の内容を認知したり黙認したことを判断されたと報告した。
キム・ドンチュン 過去史整理委常任委員は、“チェジュ予備検束事件の実態が国家の公式文書を基礎として、初めて究明されたものとして、今後、韓国戦争勃発直後の国民報道連盟事件や、予備検束事件の真実究明に重要な契機となるもの”だと、意義を留めた。
パク・ヨンチャン・チェジュ予備検束連合遺族会会長は、“52年前、屍を納めようとしたが、国軍と警察の妨害を受けて6年が過ぎた後、やっと遺骸を収めて、ペク・ジョイルの墓を作った。”て“5・16後、当時政府によって、遺族会と墓域を解体せよという圧力を受けることもしたが、遅くなっても、真実が究明され相当にうれしく、有難く思う”と語った。
過去史整理委は、“チェジュ予備検束事件(ソサロルム)”の真実が究明されることによって、国家の公式謝罪と、被害に対して実質的に保障することが出来る方案、慰霊事業の支援、戸籍訂正を初めとした名誉回復措置などを、積極的に講ずることを勧告した。
また、再発防止のために公式記録に掲載して、警察と軍人を対象として人権教育の実施と、戦時非武装の民間人の保護、不当な命令を拒否することが出来る権利の為の法と制度を準備することを勧告した。
過去史整理委の今回の調査は、チェジュ島全域で発生した予備検束事件のなかの、南チェジュ郡テジョン面ソアロルム一帯で、発生した民間人集団犠牲事件に限定した。過去史整理委は、チェジュシ(済州市)地域とソクイポシ(西帰浦市)地域で発生した、予備検束事件に対する結果は、おって調査し、発表する計画だ。
(訳注1)日本帝国主義の植民地支配時代、現在のチェジュ国際空港は、アルトル飛行場と呼んでいたが、飛行場周辺には、飛行機格納庫や、弾薬庫などバンカーなど、日帝の地下坑道陣地、が多数あった。ソアロム地下坑道陣地と呼ばれていた。
(訳注2)チェジュ島4・3事件は、当サイト世界を見る→世界の新聞から→「済州島4・3事件」(米軍政と韓国軍警による虐殺)を参照。
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