(韓国・民衆言論・チャムセサン 国際記事 2010年4月15日)http://www.newscham.net/news/view.php?board=news&id=48236&page=1&category1=38
インドネシア政治運動の歴史
インドネシア進歩運動の昨日と今日
キム・ビョンギ(オーストラリア通信員)
1965年10月インドネシア軍部は、‘インドネシア共産党’(PKI)と同調者に対する大虐殺を始めた。1966年3月までに、50万名以上が殺害された。虐殺以後、PKIの活動は徹底して禁止されたし、あらゆる歴史教科書からPKIは完全に消えた。
30余年を経た1996年、PKIの政治的遺産を継承する‘民衆民主党’(PRD)の旗幟が湧き上がった。社会主義を指向し反資本主義と反新自由主義を前面に押し立て、民衆の階級的利益を共にする政党だ。
オーストラリア‘革命的社会主義党’(RSP)の招請で、民衆民主党政治委員会(KPRM−PRD)代表であるジェリー・アリエン(Zely Ariane)は、いま全国巡回講演会をしている。アリエンは、1992年PRD学生運動組織で活動したし、2001年PRDに加入した。シドニー講演は、4月8日RSP本部で開かれた。
ナス-ア-コム(Nas−A−Kom)
オランダから独立を争取した民族指導者‘スカルノ’(Sukamo、1901〜1970)は1945年から1967まで22年の間大統領職を遂行した。彼の統治哲学は、インドネシア語でナス・ア・コム(Nas−A−Kom)として知られている。民族主義(Nasionalisme)、宗教(Agama)、共産主義(komunisme)を意味する合成語だ。
安定的な政治基盤を目的として、スカルノは、軍部(民族主義)、イスラム教(宗教)、共産主義勢力(PKI)すべてを閣僚に任命し、政治的パートナーとして包容した。1960年代PKIは広範囲な基層大衆の支持、300万の党員(中国、ソ連に続いて3番目)、20%の得票率、数十人の国会議員たちが所属している無視できない政治勢力だった。
1965年10月1日、クーデターの試みに連座した6名の軍将軍たちが暗殺された。軍部の実勢、スハルトは、そのクーデターを謀る目標が“PKIの政権掌握とインドネシアの共産化”と言う事実無根の黒色宣伝を浴びせ付け、イスラム勢力の傍観/共助の中でPKIを大々的に攻撃し、大虐殺で終止符を打った。
新体制(New Order)
‘虐殺の功績’で、1967年大統領に就任し、1998年まで30年越えるまで独裁政治を振り回した‘スハルト’(Suharto・1921〜2008)は、韓国のパク・チョンヒ(朴正煕)と似たざまだ。
(スハルトは)日本のインドネシア占領時期には、日本が組織した保安部隊員として活動したし、‘新体制’(New Order)と言う軍事独裁政治で、大衆の政治参加を暴力的に抑圧した。冷戦時期、進歩運動を抹殺する強力な反共政策のお陰で、西側世界から全幅の経済支援を受け、‘産業化’の基盤を固めた。
1980年代、スハルトの鉄拳政治に対決し、闘争して成長して来た民衆/学生勢力が、1996年PRDを創党した。‘国家転覆陰謀罪’で、女性労働運動家Dina Sariをはじめとする指導級人士らが拘束された。
1998年‘アジア経済危機’で触発された大衆の激しい抵抗で、スハルトの新体制は崩壊し、PRD指導者らは釈放された。
PRDの創党
保守執権勢力の不正腐敗と、族閥政治根絶、1965年大虐殺の真相調査、親民衆政策などを主張するPRDの組織の大衆基盤は、都市貧民連合(SRMI)、全国農民連合(STN)、全国労働者闘争戦線(FNPBI)、全国民主学生同盟(LMND)などだ。
2007年PRDは、2009年議会選挙の対応方式の差で、分裂が始まった。多数派は、7月に‘全国解放闘争’(PAPERNAS)、少数派は11月に、‘民衆民主政治委員会’(KPRM−PRD)をそれぞれ結成した。
インドネシアの複雑な政党登録法で、独自的な選挙参加が不可能となるや、PAPERNAS指導者たちはブルジョア政党である‘スタ―改革党’(PBR)、‘民主一新党’(PDP)と選挙連帯を模索した。
イスラム法を絶対支持するPBRは、保守的な地主階級を基盤とするイスラム政党だ。PDPは、メガワティー前大統領の‘インドネシア民主闘争党’(PDI−P)から分裂して、メガワディー政府で長官を務めた、IMFの忠犬であると同時に百万長者であるスカディの指導下にあった政党だ。
対案政党に向かった新しい始まり
PAPERNASは、PBR、PDP党が反新自由主義、反軍事主義、反不正・腐敗要求を受け入れる事も出来ると主張し、選挙連帯を推し進め、KPRM―PRDは、議会主義、機会主義である右傾化路線だと強力に批判し、選挙不参加を主張した。
PAPERNAS代表指導者Dita Sariが2009年選挙時、PRDを脱党、支配勢力の保守政党である‘Golkar’党支持宣言は、インドネシアと海外の進歩陣営に大きな衝撃であったが、少数派の‘右傾化路線’批判が正当であった事を明らかに立証している。
2010年3月、PRDは第7次総会で、新しい政治路線を決議した。初代大統領スカルノの5大政治理念−民族主義、国際主義、民主主義、社会主義、宗教−を支持する‘社会大衆政党’として再出発する事を宣言した。
KPRM−PRDは、‘変革的社会主義政党’建設を目標に、インドネシア人口の絶対多数である、都市貧民、非正規職労働者(労働者の80パーセント)、農民、女性、学生、社会運動家などとの緊密な結合、マルクス主義に基盤を置いた組織化に焦点を合わせている。
(訳 柴野貞夫 2010年4月19日)
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