(韓国 民衆言論 ハンギョレ 国際記事 2010・1・16)
http://www.hani.co.kr/arti/international/america/399425.html
米国の貪欲が育てた‘悲運のハイチ’
(米国の)軍事介入・占領が貧困を呼んできた。
△写真―ヒラリー・クリントン米国国務長官が16日、西欧の高位指導者中、もっとも先にハイチを訪ね、ルネプレパル・ハイチ大統領とポルトフランス空港で記者会見をしている。ポルトフランス/AFPヨンハップニュース
国連人道主義業務調整局(UNOCHA)のエリザベス・ビル代弁人は、16日ハイチ地震は国連が経験した最悪の地震だと語った。ハイチの貧民層の子供たちが食べる‘泥クッキー’と、地震発生後大統領が、二日間も姿をくらました事件に示される、ハイチの貧困と政府機能の麻痺のためだ。
米州大陸では、米国に続く二番目の共和国として1804年独立したハイチが、独立闘争史とは似つかわしくなく、代表的に‘失敗した国家’ に転落した原因は、西欧列強の貪欲な侵奪、特に20世紀以後、軍事介入と占領を、繰り返し行った米国の政策の為と指摘される。独立以後、34回のクーデターを経験したハイチは、最近ではハリケーン被害まで反復されると言う、環境災難まで重なり、政治・社会・経済のインフラは、事実上崩壊した。
黒人奴隷達の国家と言う理由で国家承認を拒否した米国は、19世紀末から介入へ政策を変え、1888年米海兵隊が軍部反乱を支援した。米国は1915年、結局ハイチを占領し1934年まで統治した。第2次世界大戦以後、ハイチが経験した惨状は更に残酷だった。
1957年から1971年まで、‘パパ・ドク’と呼ばれたフランソア・デュバリエ大統領の独裁冶下で3万名が殺害された。彼の死後にも19歳の息子である‘ベイビー・ドク’、ジャン・クロード・デュバリエが世襲し、父親の恐怖政治を引き続けて行った。
ハイチに軍事・経済的支援をした米国は、結局1986年レイガン行政府時代の時期、ベイビー・ドクに下野させた。
1990年大統領に選出されたジャンベルトゥラン・アリスディドゥは、数ヵ月後亡命に就いた。この渦中で1500名が殺害された。米国へボートに乗って行く大規模亡命事態が繰り広げられ、米国政府が封鎖令を出す事もした。
結局、米国の主導下に多国籍軍が派遣され、軍事政府を放逐しアリスティドゥをまた復位させた。1年後である2004年、また軍事クーデターが起こり首都に進撃するが、米国はアリスディドゥの失脚を黙認した。ビル・クリントンの時期、復位させたアリスディドゥを、ジョージ・ブッシュ政権は拒絶したのだ。
こんな政治混乱のなかで、2度のハリケーンが強打し、それぞれ1200名,3000名が死ぬ、連続の大災難に苦しめられた。2008年にも一ヶ月だけで4回のハリケーンで、ハイチ国土の全域を廃墟に変えた。これは山林の98%が濫伐され、地表層が剥け出た環境破壊で更に悪化された。穀物価が世界的に急騰した食糧危機が酷くなり、ハイチ住民達は、大統領宮に乱入する激烈な示威を展開した。
<ワシントンポスト>は、“ハイチに対しては、持続的で十分な親善政策の歴史がなかった。”と言うポールパーマー駐ハイチ副大使を引用し、米国が救護に腕をまくって乗りだす今回の地震が、ハイチの新しい機会となることが出来るだろうと指摘した。(チョン・ウイギル記者)
(訳 柴野貞夫 2010年1月18日)
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