(韓国―プロレタリア・ネットワークニュース 2009年10月1日付)
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1979年・釜馬抗争から30年、労働貧民の都市蜂起を想起せよ
キム・ウオン(ハンネ 研究委員)
[労働者の歴史の大流] 今月の労働者の歴史
釜馬事態、暴動、階級戦そして民乱
YH女性労働者たちの、新民党・党舎籠城(訳者・注1)と共に、維新体制(パクチョンヒ軍事独裁)崩壊を触発させた決定打は、その年10月のプサン(釜山)とマサン(馬山)での大規模示威だった。しかし当時、プサンとマサン地域で起こった一連の大衆示威は、よく‘釜馬事態’と呼んで歪曲されてきた。当時の新聞等の記事は、“大学生などの示威で、18日0時を期してプサンに非常戒厳令、不純分子の軽挙妄動”、“暴動に近い放火、破壊の二日間、私製銃器の背後に組織勢力がある様”、“公共建物破壊など、18〜19の二日間の騒擾”と記録した。しかし、背後説と違って、抗争を観察した米大使館の報告書を見ると、‘示威の基本的な原因は、経済的なものだ。階級戦の様相を備えている。’と、記録している。さらに、中央政府部長であるキム・ジェキュさえ、プサンとマサンでの大規模示威を、‘民乱’だとさえ指称している。
プサン、マサンの二つの地域で、最初の日の夜間示威から、示威主動者は、所謂‘遊撃隊’と呼ばれる20代初半の若い人々だった。証言者達に依れば、プサンでは“17日まで、最後まで闘争した人々はサービス労働に従事する労働者、ルンペン、貧民、労働者”であったし、マサンの場合でも、“先頭に立って示威隊を率いたのは、ちんぴらヤクザ達だった。抗争の指導者は彼等”だった。特に、1979年当時、マサンの居住形態は、韓国戦争(朝鮮戦争―訳注)時期にも破壊されなかった伝統的都市形態だった為、裏通りが発達されていたし、示威が拡散される事に有利な条件だった。
プサンとマサンで、大規模示威が発生する以前の1970年代末、韓国経済は、資本蓄積の内的矛盾が第2次オイルショックと言う、世界資本主義体制の危機と結合され、深刻な危機に落ち込んだ。特に、重化学工業の過剰重複投資は、韓国経済を深刻な危機に追い込んで行き、結局国際通貨の救済金融とともに、1979年4月緊縮等を骨子とした‘経済安定化政策’、即ち、韓国最初の‘新自由主義政策’を受容するようになった。
しかし、安定化政策は、中小企業らの倒産をあおぎ立て、不渡り率が世上最高値に立ち上り、なおさら貧しい都市下層民達を、さらに貧しくした。特に、プサンの場合、1979年に入ると同時に不渡り率が全国の2.4倍、ソウルの3倍に達し、9月、当時24個の業態が休・廃業状態であったし、6千余名が失業状態であった。マサンもやはり、9月当時、24個の業体が休・廃業したし、5千〜6千余名が失業状態だった。
しかし、暮らしが苦しいと、大衆が直ちに立ち上ったのでないならば、4日間プサンとマサンでの大規模示威は、どんな意味なのか?
プサン示威の基層主導性:食堂従業員、工員、靴磨き
まず、プサン地域の場合、初期の闘争はプサン大学・学生達が主導したが、夜間示威になると示威隊は、ホワイトカラー、労働者、商人、商店従業員、高校生達が参加した。17日には、都市ルンペン、接客業店労働者、零細商人、半失業状態の自由労働者、無職者らが示威を主導した。当時、プサン市警報告書でも、デモの特異な様相として“20歳前後の不良気質の者 大学生 大きな加勢(食堂従業員、工員、靴磨き等)、市民達の拍手/飲料水供給など、デモ学生に同調鼓舞”と指摘している。実際、16日22時、抗争での学生の比率は5%に過ぎなかった。
闘争の様相と関連、16日午後、学生中心の示威は防御主体であったが、夜になってから、示威は次第に攻撃的に変わり、具体的な目標物を定めて順番に破壊、放火する様相で展開された。16日夜、示威隊は言論機関一箇所、派出所11箇所を攻撃し、特に6時以後には公権力の道庁、警察署、税務署などに対する放火、攻撃が成し遂げられた。
8時40分頃には、500余名の示威群集が、レンガ・石ころでナンポ(南浦)派出所を破壊し、後を追いかけてきた巡察車、作戦車を全焼させた。また、16~17日二日間、襲撃を受けた言論機関は、プサン文化放送、韓国放送公社・プサン放送局、プサン日報社などだったが、16日午後5時40分、言論の取材車両が最初に攻撃の対象となった後、言論社に対して学生、市民達の石が、矢のように飛び込んだし、“何をしに来たのか”と言う罵声が加えられた。
これ等機関に対する攻撃は、漠然とした憤怒だと言う事より、維新体制の下で言論機関が見せてくれた歪曲報道等に対するそれなりの判断に根拠、選別的な基準によるものだった。
また、プサン示威で共通的に発見された事実は、第一に、示威隊によって道庁、警察署、税務署、放送局、新聞社など公共機関が破壊されたと言う事実だ。17日、夜間に示威隊は言論社3箇所、キョンナム(慶南)道庁と中部税務署、警察署2ヶ所、派出所10箇所を攻撃した。
第二に、示威群集が、夜間に‘遊撃隊’の様に群れを作って行き来しながら、主に公共施設を一つ一つずつ破壊したと言う点だ。闘争議題と闘争様式にあって、公権力、言論、失業、租税などが、多様に定義された。示威の様相も派出所と警察車放火、派出所・言論機関・官公署攻撃、官公署、税務署、言論社に対する投石など、以前の街路示威と根本的に異なる姿だった。
馬山:“殺せ”、“灯を消せ”、“良く食べて、良く生きろ“
マサン(馬山)地域で、闘争も、キョンナム(慶南)大200余名の学生達の闘争から出発したが、最初から、単純な示威の次元を脱け出る蜂起の道へ前進した。更に、闘争で学生達の比重がプサンより脆弱で、大部分、料食業店の職員、群小業態の従業員等が中心だった。特に、労働者が退勤する道の要所だった自由市場、3・15義挙塔で交通が停止され、徒歩で家に帰らねばならない状況は、乗客たちを自然に示威に合流させた。
具体的な資料を見れば、10月18日の連行者の中で、全体の297名中、学生は40名に過ぎず、工員73名、勤労者8名、その他男子63名、無職男子25名だったし、同じ日、令状申請者の名簿を見ても、全体41名の中で、工員、従業員、無職など都市下層民の数字が21名に至ることはやはり、これを証明させてくれる。
当時の証言を見ると、“そのときの示威隊を率いた人々は、学生達ではなかった。どこで手に入れたのか、棍棒を振り回しながら声を張り上げ、派出所のガラス窓を全て叩いて破壊し、火をつけてしまう人々は、ゴロツキたちであったし、10代の印刷所と鉄工所と自動車整備工場の見習い工であったし、靴磨き、飲み屋のウェイター等であった。”と記録されている。
特に、闘争の強度で、マサンでの闘争は激烈だった。公共機関に対する破壊、放火は、まさに下からの大衆蜂起と言う事が出来る程だった。当時日刊新聞では、“今回の騒擾の特徴は、単純な示威では無い、暴動に近い騒擾であったし、放火破壊などが恣行され、火炎瓶、角材等が使用されたのだ。”と、記録されている。
端的な例を挙げれば、共和党舎と警察?派出所に対する攻撃を挙げる事が出来る。警察署攻撃の中で、最も劇的なことは、北マサン派出所(午後11時30分)と、フェィウォン洞派出所(午後9時)に対する攻撃だった。特に、北マサン派出所の放火は、独裁を象徴する建物だった為に、一層激烈だった。示威隊は北マサン派出所が火災が起こる時に、“殺せ!”と言いながら、大きな叫び声を上げたし、フェウォン派出所の場合、派出所に火柱が上がるや喚声を上げ、界隈の住民達もどっと集まってきて、見物した。
特に、示威隊が身分を隠す為に市内の消灯を強制し、示威がさらに激烈になったが、当時の証言を見れば“・・・”火を消せ!”電灯を消さない道端の家には、石つぶてが飛んで行った。火を消さない車は、特に自家用車は、直ぐヘッドライトを足で蹴り壊してしまい、暗黒天地に変え、誰も人の顔を分らない様にした。初めてマサン(馬山)は、独裁の公権力が参ってしまう自由の解放空間となったのであり、人々は、これ以上、独裁権力を恐ろしがらなくなった・・・“と記録されている。
ともに、マサンで最も際立った事実は、‘富裕層’に対する公然たる攻撃だったが、示威隊は、トンソン洞にある国会議員、パク・チョンキュの家へ押しかけ、“パク・チョンキュの畜生野郎、死ね!”と叫びながら、2階建ての豪華住宅に石を投げつけめちゃめちゃにしたし、10月18日夕方、8時頃、プリン市場(馬山市富林洞―訳注)商店街の大型衣料販売センターのシャッターを、数名の青年達が激烈に足蹴にした。その理由は、この商店らは、多くの財産を持った富裕層の所有であった為だった。さらに、道路周辺のシャンデリアがつけられた高級住宅、高層建物に猛烈に石を投げ、窓ガラスを破壊することもした。
それ以外にも示威隊は、マサン市庁正面にある税務署に向って、“付加価値税を撤廃せよ”、“付加税をなくせ”“良く食べて、良く生きろ(頑張れ)”と叫びながら、石を投げた。これは、一種の租税抵抗であったが、プマ(釜馬)抗争の主要原因の中で、一つは税金の過重な徴収だった。付加税の確定申告の締め切り日である10月25日を数日控えていた時点で、こんな一連の不満は、税務署の攻撃、示威隊に対する市場商人らの支援と言う形態で表れたのだ。
1979年、そして2009年:プマ(釜山・馬山)抗争から30年
韓国社会で、抗争は、輝かしい闘争の歴史を記憶することもするが、漸次時間が過ぎて行き、その時代の有様が行き過ぎのように単純化されたり、別の解釈の可能性が遮断される事もある。
たびたび、マンウォル(望月)洞の新墓地で、(悲しみを)感じやすく、言語で表現するのが難しい感情や、87年6月の(民主化)抗争が、特定した方式で解釈されて専有されるのを眺めるのは、こころが重い。
或る場合、むしろ、‘抗争’と言う事件の重さが、抗争などを自由に考えることが出来ないとか、抗争を化石化させれば、むしろ使わないか心配で、どうかと思ったりする。
無論、あらゆる歴史の書き取り、特に、大衆運動を歴史叙述化すると言うのは、現在時点で特定した政治的企画の下で、話を再構成すると言うことだ。互いに、別の歴史に対する話が競合して、大衆の中で意味を確保する‘言語と意味の戦場’だ。
79年、プサンとマサンで労働貧民達が主導した大規模示威も、同じ事だ。再び、化石化される事もある抗争に代わり、あくまで労働貧民達の‘都市蜂起’だと言う言葉を、私が使う理由もその為であるのだ。
(訳 柴野貞夫2009年10月4日)
(訳注1)YH事件は、かつら輸出企業体であるYH貿易の女性勤労者達が、会社廃業措置に抗議し、野党である新民党の党舎で、籠城示威を繰り広げた事件だ。労働者の生存権の保証を要求するこの闘いは、1979年8月9日から、8月11日の間展開され、パク・チョンヒ軍事独裁政権を揺るがす政治問題に発展し、1000名の国家警察を動員し、女性労働者1名が死亡、数百名の負傷者を出した。この事件は、プサン、マサン抗争に象徴される韓国独裁政権〔第4共和制〕を崩壊に導く、韓国労働民衆の全国的戦いの導火線となった。
30年後の今、2009年に、李明博ハンナラ政権下で、双龍自動車労働者数千名の、生存権を掛けた工場占拠闘争に対する、特殊警察による殺人的弾圧が遂行された。これは、30年前を髣髴とさせる。韓国労働運動への国家権力の直接介入として、軍事独裁であれ、議会制民主主義国家権力であれ、資本家階級国家の暴力的本質には、代わりが無い事を示している。
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