(韓国週刊誌・ハンギョレ21 2009年5月15日第760号)
http://h21.hani.co.kr/arti/world/world_general/24959.html
チョン・インファン記者
ヒマラヤ山麓で聞こえる、平和決裂の音
既存政治権―毛主義(マオイズム)勢力、葛藤の末、総理辞任で危機迎えたネパールの民主主義
良く言う。‘民主主義は、血を食らって育つ’と。10年余の血に染まった内戦でも、不足なのか?その間流された血が満ち溢れるだろうに、ネパールの民主主義は、容易ではない。カトマンズの空気がまた、重くなっている。
ネパール最大の政治勢力であるマオ主義共産党指導者、プシュパ・カマルダハル、‘プラチャンダ同志’として呼ばれる彼が、5月4日、総理職を電撃辞任した。就任してから9ヶ月余経った後のことだ。彼が辞任のカードを取り出した理由は、明らかだ。
先に、去る5月3日、プラチャンダ総理が率いるネパール政府は、ルクマンクドゥ・カタワル陸軍参謀総長を‘命令不服従’を理由として解任した。しかし、ラムパラン・ヤタブ大統領が、わずかの時間でカタワル総長に‘現職を維持せよ’と通報した。議会での間接選挙で選ばれた大統領が、国民が直接選んだ多数党の出身総理の決定を覆したものだ。プラチャンダ総理としては、そのまま、見過ごす事は出来ない問題だった。
制憲議会選挙で圧勝した、マオ(毛)主義政党
△写真 就任9ヶ月目を迎えたマオ主義共産党指導者、プシュパ・カマルダハル(プラチャンダ)総理が、5月4日、自身の執務室で電撃辞任を明らかにしている。プラチャンダ総理の辞任でネパール政局が混乱の渦に飲まれている。
《写真・REUTERS/DEEPA SHRESTHA》
振り返って見よう。
ネパールで銃声が次第に途絶えて行ったのは、去る2006年11月に結んだ、‘包括的平和協定’の御蔭だ。1996年2月に始まったネパールマオ主義者達の‘人民の戦争’は、10年余の歳月のあと、その様に幕を下ろした。
政治圏に進出したマオ主義者達は、世論の支持の中で、王政打破と共和国創立に拍車を加えた。2008年4月、制憲議会選挙はその分水嶺だった。過半数の議席を確保する事は失敗したが、圧倒的に第一党となったマオ主義共産党は、連立政府の構成を主導した。第2党であるネパール国民会議党が、最後まで連立参加を拒否し難航を経た後、議会で投票を通して、プラチャンダ総理を首班とする政府を出帆させた。共和国が宣布されて、キャネンドゥラ国王は廃位させられた。‘平和’が遠くない様子に見えた。
しかし、そうではなかった。血の内戦を踏み越えて、平和と和合の未来へ行く道は、遠くて険しかった。最初に、既存政府軍とマオ主義反軍と言う‘二つの軍隊’の統合問題が遅々として進まない。二つ目に、長期間持続された軍事的対置の過程で、徴発された土地を原住人に取り戻す問題も決着をつける事が出来ないままだ。三つ目に、過渡的憲法によって、2010年5月までに準備しなければならない新しい憲法は、草案さえ作り出す事が出来なかった。
平和協定の背筋を成すこれ等争点が、以前と変わらないので、ネパールの平和はその基盤が脆弱(ぜいじゃく)である他はなかった。ついに、平和協定の締結当時から、先鋭な論議の対象だった軍統合問題で破裂してしまった。
ネパール内戦の一つの当事者だったマオ主義叛軍、いわゆる‘人民解放軍’出身者は、1万9000余名として知られている。彼等は平和協定によって、現在ネパール各地に設置された国連キャンプに分散収容されている。マオ主義陣営では、当初、来る7月までに、彼らを正規軍に編入させると言う計画を立て、制憲議会での、軍統合特別委員会まで、別々に処理して置いた状態だ。しかし、特委に参加した国民会議党の微温的(優柔不断)態度のために、統合の基本原則さえ用意出来ない。
ここに、既存軍部とマオ主義陣営間の年を越した反目が、問題を大きくした。
軍首脳部の反対で、軍統合計画が遅々として進まず
△写真 トゥクマンクドゥ・カタワル、ネパール陸軍参謀総長が、去る4月24日首都カトマンズで開かれた‘民主主義の日’行事に参席した。カタワル参謀総長は、政府軍とマオ主義叛軍を統合すると言う(プラチャンダ首相の)命令に、“洗脳された者たちと一緒に軍服を着る事は出来ない”とし、頑強に言い張っている。
《写真REUTERS/GOPAL CHITURAKAR》
最初、軍統合問題は、軍部改革の一環として推進された。マオ主義者を含んだ共和派では、これを通して、‘過去清算’は無論、王党派中心に包まれた、腐敗したネパール軍部を改革できると信じた。しかし、長期間撃ち合いをして来た人民解放軍と、同じ軍服を着る事を軍部が喜ぶ訳がなかった。
特に、(既存軍部は、この軍統合問題が、)内戦の期間に繰り広げた軍部の、各種人権蹂躙に対する真相調査の動きに連結される事を、極度に警戒している。
プラチャンダ総理の軍統合指示に、カタワル参謀総長を含んだ軍首脳部は、“マオ主義叛軍出身者らは、政治的に洗脳されているため、正規軍に統合させる事は出来ない。”とし、マオ主義陣営の政治的躍進を警戒してきた既存政治圏も、これに積極同調している。
「国民会議党」は無論、連立のパートナーである「マルクス・レーニン主義共産党」さえ、カタワル参謀総長の解任に対し、“マオ主義者達が一方的に解任決定を下した。”と非難したことも、こんな現実を産み出した原因だ。
しかし、カタワル参謀総長が、この間見せてきた行動は、解任の名分となるのに十分と見える。
“(カタワル参謀総長は)軍に対する文民の優位と言う、民主主議の原則を徹底して無視してきた。”と、インド日刊紙<トヒンドゥ>は、5月4日付社説でこの様に指摘した。実際、カタワル参謀総長は、政府の許可もなく、一方的に新兵を募集し一線に配置するかと思えば、将軍級8名の任期を勝手に延長した。
はじめから、彼は、マオ主義者達との平和協定に露骨的な反感を剥き出した。最近では、彼がクーデターを謀議していると言う物騒な噂まで広まっていたところだった。
プラチャンダ総理は、5月4日ネパール全域に放送された辞任演説で、“(カタワル参謀総長の解任を無効化した)ヤダブー大統領の決定は、新生民主主義と最初の一歩を切った平和体制に対する、重大な挑発”であるとし、“軍に対する文民優位の原則が崩壊したのであり、これを決して座視しないもの”だと、述べた。
示威禁止令が下されても、次の日から首都カトマンズ中心街で、赤い旗識を押したてた、マオ主義者共産党支持者達の大規模街頭示威が始められた。一部示威隊は、大統領執務室付近に押し寄せ、座り込み示威を繰り広げた。この過程で、人権運動家を含む60余名が警察に逮捕された。
5月7日には、500余名の女性示威隊が、カタワル参謀長の即刻解任を要求し、大統領執務室に向った鎮圧警察と衝突する事もした。
示威は継続されている。
制憲議会選挙で、マオ主義陣営が権力に近付いたが、ネパール人たちの生活は、さほど向上してはいない。選挙直後から極端な暴力事態は減少したが、各地で多様な流血衝突が止まないなど、治安は相変わらずめちゃくちゃだ。警察は治安確保能力がなく、軍は民主化を受け入れていない。毎日10時間を越えて停電される状況も変わることは無い。物価は暴騰し、石油は不足する。
プラチャンタ総理は辞任演説で、“政府が敵対勢力に囲まれ、独立的な機能を遂行する事が出来ていない”と、強調するが、ネパール軍民らがマオ主義共産党にかけた希望の火種も、次第にしぼんでいく姿だった。マオ主義共産党としては、あれこれ‘勝負手’を打つ他はない機会だった。
プラチャンタ総理の辞任で、ネパールの連立(政府)は崩壊した。ヤタブ大統領は、5月4日、25の主要政党に、5日間に新しい連立政府を構成せよと通報したが、現実的に不可能であろうと言う点はヤタブー大統領も良く知っているところだ。即座に、5月5日、マルクス・レーニン主義共産党が提案した諸政党の会合が、マオ主義陣営の反対で消し飛んだ。連立の構成が難しいならば、権力の空白が広がる他はない。
こう言う場合、ヤタブー大統領は、すぐる年と同じで、憲法によって議会で、多数決で総理を選出せよと命ずる他は無い。しかし、これさえ容易でないことだ。マオ主義陣営では、すでに‘実力阻止’を公言したためだ。
一年後には、憲政中断事態の可能性も
脆弱ではあったが、マオ主義共産党主導の連立政府は、新生共和国・ネパールの、唯一つの対案だった。制憲議会の最大政党であるマオ主義陣営の参加しないときに、機能を果たす事ができる政府を構成する事はできない。大体、局面が長くなれば、新しい憲法成案の作業も遅くなる他は無い。比較的、過渡憲法が、限定2010年5月という時限を越えれば、‘権力空白’を越え、‘憲政中断’事態までひろがることとなる。
国民会議党をはじめとする既存の政治圏では、“マオ主義者達が専制主義国家を作ろうとする”と、主張するが、本当に憂慮しなければ為らない事は、“国家の機能自体が停止される状況”だと言う指摘が出ている事もこの為だ。ネパールの試練だ。
(訳 柴野貞夫2009年5月16日)
参考[当サイト]
☆ 80 民主主義の花、ネパールは胸がジーンとする!! (韓国・ハンギョレ21週刊誌第709号 2008年5月9日付け)
☆ 102 ネパール共産党(毛沢東主義派)は、毛沢東主義を忘れたのか (韓国・ハンギョレ21 2008年8月13日付け)
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